Episode.17 Are You Ready?

 太陽が地上に顔を見せ、夜の不気味さがすっかり一掃されたような午前7時。

 シンは木に寄りかかったまま、なかなか止まらない血に眉をひそめていた。


 吹く風は生ぬるい初夏のものとはちがって、湿った暑さを感じさせるようになった。

 その暑さが、汗が重力に従うのを促進しているだけでなく、腹部の鈍痛をも促しているようにも思え、ひどくわずらわしいと感じる。


 人里離れたある森の中。

 木々のざわめきなどほとんどなく、平和を体現したような場所がそこにあった。

 しかし、血のついた地面が至る場所に見受けられる。そのため、確実にここで、非日常的な何かが起こったと推測できた。


 そっと息を吐き出し、空に視線を向ける。近くの大木から鳥が飛び立つのをちょうど見止めながら、腹部の鈍痛にも同様に意識を持っていった。

 もうそろそろ治ってほしいところだが、一向にその気配を見せないところがなんとも優しくない現実なことだ。

 唯一の救いは、なんとか意識の保てる状態になったことだろうか。


 気を失ってから起きるまで、どれだけの時が経ったのかわからない。しかし、確かに身体は以前より言うことを利くようになったと感じる。


 実感しながら、シンは一人の女性を思い出していた。


 ゆるく巻かれた茶色の髪の毛、気の強そうな黒い猫目。どれをとっても平凡の域を越えないにもかかわらず、確実なシックスセンスを持っている人間――椎名ちはる。

 そんな彼女に興味があり、自身のお気に入りであることは今も変わらない。けれども、ここのところちはるの元には向かえない日々が続いていた。


 実はこの数週間、彼は毎晩吸血鬼に狙われていた。

 どこにいても見張られているような感覚から抜け出せず、常に気を張っていなければならなかった。その犯人がクリードの手先であることに間違いはないが、そんな状態でちはるの元に行くわけにはいかず、そうこうしているうちにこんなにも時間が経ってしまったというわけだ。


 もしその吸血鬼とやらにちはるの存在が露わになってしまったら、彼女はいとも容易たやすく奴らの餌食えじきになってしまうだろう。

 自身のお気に入りを他の吸血鬼にくれてやるつもりもなければ、彼女を危険にさらすつもりもなかった。

 それは別に、彼女のことがという意味ではない。どちらかと言えばそう、自分のお気に入りのオモチャを取られたくないという、子供じみた感覚に似ている。


「チッ、止まんねぇ」


 未だ自身の腹から流れる血に、舌打ちをひとつ。傷がなかなかふさがらない――彼にとって、これが苛立ちの原因だった。

 通常であればすぐに塞がるはずの傷も、連日の戦闘から身を守るために飲まず食わずの毎日を続けていれば、当然、回復するはずもない。

 何より、人間食でも空腹は満たされるが、人間食はあくまで人間食、

 だからこそ、吸血鬼の主食である血を摂取できていない、ただそれだけで、吸血鬼の性質である「傷の回復速度向上」が、上手く機能していないのは当然だった。


 自分の血を飲んでも良いのだが、さすがに砂と混ざり合った血を飲む気にはならない。結局、なす術なし、といったところか。

 ここからもう少し先にある小屋は自分の住処であり、そこに行くことができたらと思うが、意識が朦朧もうろうとしている今、あまり動ける状態ではなかった。

 しかし、身体は動くことを望んでいるのも事実で。


 ああ、血が足りない。

 喉が渇く、欲しい、血が、欲しい。


 先の戦いで自身の欲が刺激されたらしいのか、身体が血を渇望している。

 理性があるうちに血を飲みに行かなければ、理性を完全に失った化け物になってしまう。

 もちろん、それが本来の吸血鬼の姿であることは否めない事実だが、そうでないことが自分の中の誇りであり、そしてでもあった。


 チッ、と再度舌打ちをかます。

 治りかけているが、血が不足していて回復力も弱い。吸血しないことには、傷がどうにもならないのだが、身体が動かない状態では、これまたどうにもならないことも理解していた。


「早く治さねぇとまずいんだがな……」


 クリード。奴をどうにかしなければならない。が、純血種であり上位に位置するクリードと、まともに殺り合うのは難しかった。

 シンも力は持っているが、なにぶん自分とクリードではが違い過ぎる。もどかしいとは思うが、こればっかりは生まれ持ったものであり仕方がないことだった。


 瞬間、ふと森に入り込んだ何者かの気配を敏感に感じ取った。


 敵か、ただの迷い子か。


 慎重に判断しようと、その気配の感覚を探る。その存在の揺れ動く気配を捉え、集中しようと目を閉じた。

 浸透させるように気配を感じ取れば、どうやら敵とは少々異なるように感じられ、思わず戸惑ってしまう。


 殺気もなければ、戦う者特有のすきのなさもない。むしろ、隙だらけと言っても過言でなかった。

 これなら安心できるか。そう思って、少し気をゆるめる。

 が、意識がはっきりしていないことは重々承知なため、気配の探知力もそう宛てにはできないだろう。


「くそ、これで吸血鬼だったら咬んでやる」


 まぁ、人間でも咬むけどさ。


 そう呟いて、ふらふらしながら気配の元へと動いて行く。生い茂る草を踏みつぶし、そびえ立つ木々に寄りかかりながら、その足を懸命に働かせた。

 脚は、まるで己のものでないかのように言うことをきかないが、最大限の力を注げばなんとか動く。むしろ、なんとか動く、という事実を確認できたことに、感謝さえしたいところである。


 瞬間、ぴちゃんと水の音がした。そして、ばしゃばしゃと勢い良く、水面に何かがしきりにぶちあたっているような音が聞こえる。

 長らく聞いていない水の音は、シンの心の隙間に入り込み、少しの安心感を誘った。


 そう言えばこの先に泉があった。シンは思い出す。

 澄んだ色をした神秘的な泉。自身もそこは大好きだった。

 さて、水浴びをしているのは人間か吸血鬼か――はたまた天界から迷い込んだ天使か。


 泉のある場所は開けており、空が見渡せる場所にある。ばしゃばしゃ。どんどん水遊びのような音は近付いてきた。

 それと同時に自身の腹部も、静止時より強い痛みをともなっていく。

 が、気にしてはならないと自分をふるい立たせた。


 手前までやってきたシンは、気配の大元に意識を持っていく。人間なら咬む、吸血鬼でも咬む。とにもかくにも血をもらっていくぜ。

 そんな思いで、視界に入れたその姿。水浴びをしている存在に視線をやった彼は、けれどもすぐに言葉を失うしかなかった。


 白いワンピース、桃色の淡いカーディガン。ふわりとなびくそのワンピースが、まるで天使の羽のよう。膝を折って腰を下げたまま、手を泉の中に突っ込んでぴちゃぴちゃと水面を揺らしている。

 遊びのほどこされた茶色い髪の毛が風に舞い、さらされたうなじにつばを飲んだ。

 おもっていたより大きく聞こえたその音が、新鮮なものであると同時にどこか変な色を与えてくる。


 知っているだった。

 しかし、見知らぬ人間がそこにいるかのような、変な感覚さえ覚えてしまった。

 名前も顔もその存在をも、きちんと認識しているというのに、まるで自分の知らない存在のようで。


 ――だれだ。そう問いかけたくなったのは、どうしてだろうか。

 しばらくして、ようやく脳がその存在をきちんと呑み込む。そうすれば瞬間的に、体中で何かが駆け巡った。


「……ちぃ」


 ぽつり。気付かれない程度に、その人物の名前を小さくこぼす。

 そう、ちはる。その人物は、興味の対象であり、お気に入りのちはるだった。


 特別パッチリしているというわけではないが、アイメイクで適度に強調された目許は強気な印象を与える。頬のあたりの、人工的な桃色も、いまはとても魅力的に思えた。

 うるおいあるグロスが誘うように濡れているのを見ると、簡単にそこに気を取られてしまう。白いワンピースからさらけ出された生足が、気になって仕方がない。澄んだような肌が太陽の光に触れ、いっそう輝きを増しているように感じた。


 ふと、沸き上がる感情。

 この感情のなまえ、いったい何だっただろうか。


「欲しい、な」


 落とされたテノール。確かな色をもったそれは、確実に世界に生み落とされた。

 何の迷いもなく、何のけがれもなく、赤子のように放たれたそれは、純粋なままシンの心の中にすとんと入り込んでいく。


 つむいでみてから、シンは笑った。苦笑にも似たその笑みは、自嘲じちょうのようなものを含んでいる。

 お気に入りではあるが、まさか自分がそんな感情を抱くとは思えない――そんな思いが、シンの中を駆け巡っていた。

 ましてや、父と同じような末路を辿る引き金となるべくそれを、抱いて良いものか。


 いや、これは単純な食欲か? 自分に問いかける。

 血を渇望しているのは確かだ。ならば、お気に入りであるちはるに強い感情を抱くのは当然のことだろう。なんら不自然ではないし、当たり前の現象としか言いようがない。

 でも、――そう、でも。自分でもわかっていることだった。これがただの食欲から来るような感情ではないことに。そんなものではないと、気が付いている。


 そこまで考えて再度、ちはるに視線をやった。

 彼女は足を水に浸けて、ぶらぶらとそれを揺らしている。そのたびに鳴る水音が、やはりシンの安心感を誘った。ぐっと手を上げて体を伸ばし、目をつむって肌を撫でる風を堪能している姿に、微笑ましくも思う。

 そんな彼女の様子に目を細め、ドクンドクンと反応し始めた心臓部分に、シンはそっと手を当てた。その感覚を抱きしめ、意識を向ける。


 どくん、どくん。

 高鳴る心臓部分、熱い想い。体全体が、心臓になってしまったかのようだ。


 どくん、どくん。

 抑えきれないほどに、強い衝動。自分が何者なのかさえ、見失ってしまいそうな。


「……欲しい」


 その言葉は、確かな意志をもって世界に生まれ落ちた。


 今までそんな感情で「欲しい」なんて、思ったことはなかった。食欲でない「欲しい」など、感じることはなかった。

 だが、今はどうだ。

 確かに「欲しい」と思う。確かに彼女を望んでいる。もっともっと激しく、彼女のことを「欲しい」と思っている。


 体中が熱くなる。本能が叫ぶ。抑えきれない熱い想いが、自分の意思を離れて暴れ出そうとしているみたいだ。

 彼女を思えば思うほどに、「欲しい」と思わせる、思わせてくる。湧き上がるのは、破壊衝動にも似た強い鼓動で。その感情を野放しにした瞬間、狂ってしまいそうだと、直感的に思った。


 ――欲しい。

 その血? その体? もちろんそれもあるだろう。けれど、そんなものでなく。


「……参ったな」


 この感情が、ただの求血本能からくるものでも、ただの「お気に入り」に向けるものでもないからだ。

 言うまでもない性的本能。セクシャリティが湧き起こす、愛情の類い。

 痛んでいたはずの腹部は、途端に感覚をなくしたかのように痛みを感じなくなった。まるで、彼女の存在に体全体が麻痺しているようだ。なんて、くさい考えも存外間違いではない。


 触れたい。今すぐ触れたい。

 抱き締めて口付けて血を吸ってその体を抱いて、そしていっそぐちゃぐちゃに壊してしまえたら――。


 そう思って、シンはハッとした。

 血が不足していて、どうも思考がだ。このままでは彼女を傷付けるだけの結果しか生み出さない。自分がしたいのは、きっとそういうことではないのだ。

 いや、したいのだろう。壊してしまいたいほどの激情がいま、暴れ出していることは理解している。

 しかし、それは自分の思うところとはちがう。自分の理想とかけ離れているからこそ、制御する必要のあるものなのだ。


 本能と理想がかみ合わないことはとうに分かっている。だからこそ、自分はであることを最大限に利用し、コントロールを試みているのだから。


 シンはそっと息を吐き出した。そうして自分の気持ちを落ちつかせようとしている。激しく壊してしまいたい感情を抑えるように、手に力を込めて握りしめれば、少しだけ心がいだような気がした。

 そして、ふっと笑みをこぼす。このまま知らぬフリをして立ち去るなんて、今の自分にはできそうになかった。

 暴れ出しているのは何も性的本能だけでなく、吸血本能もあるのだが。


 それでもただ単純に、彼女の声を聞きたいと思ったのだ。その声で、名前を呼んで欲しいと。


「はは、お嬢さん、俺に会いに来てくれたのかい」

「っ!」


 突然の声に、前かがみになって水とたわむれていたちはるの、小さな肩が揺れた。驚いたように目を見開いて、シンの方を振り向く。

 何でここに――そうつなげるはずだった唇は開いたままで。とたんに彼女の身体が、泉の方へと傾いた。


「え……、」

「は」


 彼女の姿がスローモーションで動いていく。どこに向かって――その先を認識するまでもなく、動作は至ってシンプルに重力に従い行われていく。

 驚愕したのは当の本人よりむしろ、シンの方だったかもしれない。


「ひゃっ……」


 息を呑み込むだけの彼女の悲鳴を、シンは目を見開いて口をぽかんと開けたまま、呆然と聞く。

 そしてちはるはと言うと。恐怖に染まった悲鳴をその場に残し――泉の方へと落ちて行くのだった。


「、ちはる!」


 少なからず動揺したシンが、ハッとして動き出す。

 呆然としている場合ではない。苦々しい表情を浮かべ、彼女に向かって駆け出そうと地を蹴る。そこで初めて腹部の痛みを認識し、感覚が戻ってきたように思った。

 が、それでもなお言うことのきかないもどかしい体。上手くいかない苛立ちに舌打ちをひとつ。

 けれども、身体にむちを打ち、彼女の身体が水面に打たれる前に、なんとかして素早い動きで抱きしめた。


 バシャーン!

 森の中にとどろいた音と、彩る大きな水しぶき。驚いた鳥が、ばさばさと羽音を立てながら空に飛び立っていく。そして森の中を風が駆け抜け、一斉に揺れる草が波をみせた。


 すべてが、動き出す。静から動へ。見えるものすべてが、胎動を始めたかのように騒ぎ出す。

 それは、これから始まる2人の物語の、本当の始まりを告げていた。

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