Episode.14 My Emotion is Little Mermaid
日も落ちて暗くなった外とは真反対に、ワインレッドが
吸血鬼と食事をして、買い物をして……なんだか不思議な一日だった。
今なお、不思議な感覚がふわふわと自分を取り巻いて、なんだかココロとカラダが切り離されたようにさえ思えてくる。
シンは普段、森の奥にある小屋に滞在しているらしい。木々が
元々若い男が住んでいたのか、服も良いものが残されており、雑貨類にも困ることはない。が、電気や水道は届いていないため、お風呂は人間の家で入るしかないということだった。
なんとも不思議なその生活に、人の世とはまたちがう世界を知る。
これまでずっと、標的とした女性の風呂を借りていたというが、そんな彼からは確かに、すこし甘い匂いがしなくもない。
けれど、それは女性の残り香などではなく、吸血鬼独特の誘い香ではないかと思う。
ザーッとシャワーの音が飛び出すのを耳にしながら、ちはるはこの状況を「奇妙なものだ」と改めて認識していた。
家の中に吸血鬼がいて入浴中、それも異性にあたる存在。そういったものを家の中に上げていることも、そのような仲になっていることも、すべてが奇妙で仕方がない。
あれだけ恐れていた吸血鬼。
それなのに、今のちはるは彼が自分と同じ「人間」であるかのような接し方をしている。
初めて彼が吸血鬼なのだと聞いたときに感じた、根底から命を揺らがされるようなあの恐怖は、もはやどこにも存在しない。
言わば「殺人鬼」と時間を共にしているようなものだ――いつ殺人衝動が起こるかわからない凶悪な殺人鬼と。
もし仮に吸血されれば、人間としての「椎名ちはる」は死ぬ。彼とともに過ごすということは、文字通り、常に死ととなり合わせということにほかならない。
それなのに、すっかり恐怖をなくしてしまっている。一緒にいることが当たり前であるかのような感覚さえ抱いている。
これがもし、シンにコントロールされた感覚ならば、それはそれで恐ろしいものだと思わざるをえない。
それくらい、彼という存在に対する恐怖が無いというのは、とても不思議なものだった。
それはシンが持ち合わせている独特の人間らしさが原因なのかもしれない。
「吸血鬼、かぁ」
彼の自分への興味が薄れてしまったら、きっと殺されてしまうのだろう。確実にそのときは来る、という
きっと、いつか殺される。魂から根こそぎ
それが怖いと思う反面、実感がわかないというのも本当だった。
「準血種になるってことかな」
吸血鬼に咬まれた人間は、人間のときの記憶を引き継いだまま「吸血鬼」になる。そのようにして生まれてきた吸血鬼を、一般的に「準血種」と呼ぶ――
準血種は、自分を咬んで吸血鬼にした者を主として、絶対的な忠誠を誓うという。
ということは、主人に逆らうことなく従順であるということ。主人の
そこまで考えてハッとする。
「それって、私が咬まれたらシンに忠誠を誓うってこと!?」
絶対、嫌だ!
シンがあのような性格なのだ。何を命令されてしまうのか、何を要求されてしまうのか。考えただけでも恐ろしい。
ぶるりと震えを感じながら、ちはるは脳内を整理しようと試みた。
「ほんと、複雑すぎて覚えられないわ」
ベッドに横たわり、ゴロゴロと体を転がした。毛布に手足が触れた瞬間、ちはるは引っ張って抱きしめるようにそれを掴む。
ふわふわとしたそれはずいぶんと気持ちが良く、眠気を誘った。
わたがしの中を泳いでいるような生あたたかくやさしい雰囲気に、そっとまぶたを閉じていく。ゆらゆらと桃色の中をさ迷っているような感覚に押し倒されながら、意識を遠くに追いやる。
まるでちがう世界に飛んで行こうとしているみたいだ。
そう感じると同時にギシリとベッドが悲鳴を上げた気がしたが、気にならない程度に意識が遠のいていた。
「なんだよ、誘ってんのか」
そのとき――突然、耳元で妖艶なテノールが聞こえた。
うれしそうな色を含んだそれは、ちはるの意識をふっ、と現世に戻していく。ビクリと肩を揺らして閉じかけた
そうすれば声の主――シンはおかしそうに笑みを浮かべ、その手をいやらしく動かしてちはるの頭を撫でた。そしてその手は、未だ脳が正常に動作していないちはるの体を伝うように、下へ下へと下がっていく。
「え……、あ」
シンは馬乗りで、ちはるの身体をなぞるようにして
「、ちょっと!」
ハッとして
このままやられるわけにはいかない、流されることもあってはならない――ようやく動き出した脳は彼女に正しい予想を与え、正しい判断をさせた。
ちなみに今日はブラウスにショーパン。直接身体に触れやすい格好だ。
だからなのだろうか。背中あたりに手が落ちれば、ゾワリとした感覚に襲われた。
瞬間、意識が覚めるような感覚とともに、ちはるの唇からちいさく声が漏れた。
同時に、シンの手がピタリと動きをやめる。
が、ちはるの意識は自分から漏れた”声”にいっており、シンの動きが止まったことには幸か不幸か全く気が付いていなかった。自分が出した、今まで聞いたことのないような声に、強く羞恥心を感じてしまっていたのだ。
一気に頬に熱を集めて、どうしようもなく泣きたい感覚を味わう。なんだ、なんだ、なんだ。そんな言葉が頭をかすめながらも、必死に先ほどの声を記憶から
経験したことのない感覚、自分のものでないような声――どれも自分には未知で。
「おいおい、感じたって?」
感じる……?
シンの言葉を脳内復唱し、その「感じる」とやらの意味を考える。
ゾワリ、と体を駆け巡る何かに、おもわず強く反応してしまった。抵抗できないような――意識を根こそぎそいつに持っていかれるような気がしたのだ。
だが、「感じる」とは。ちはるはグルグルとその意味について思考する。
「お嬢さん、もしかして処女?」
「わ、えっ、な、なに聞いてんの!」
ぶわっと顔をリンゴにしたちはる。その顔が、「はい、そうです」と言っているようなものだ。
それを見たシンは「ははっ」と愉快な感情を乗せて笑った。うれしそうということはない。単純に、面白がっている声だ。
ちはるは即座に気持ちを切り替え、「
なぜなら、彼は上半身裸なのだ。
「ばかっ!」
真っ赤なまま、その顔を横に逸らす。意識したらこんな近い距離では余計に、ただ視界に入れることさえできなかったのだ。ましてや”男性の裸”に直接触れるなど、経験のない彼女にできるはずもなかった。
そうこうしていると、首元にツーと何かが伝う。ひゃあっと声を出せば、彼女の頭上でクツクツと笑う声が聞こえた。明らかに犯人はシンである。
あまりの恥ずかしさに泣きそうな顔をし始めたちはるを見て、彼が口を開いた。
「あー、泣くなよ。まぁ、俺の下でこのまま鳴いて欲しがってくれるってんなら、いくらでも歓迎するけどね」
「うるさい、万年発情男め!」
「オトコなんざ、みんなそんなもんさ。それに、オンナだって変わんねーだろ」
ま、いーや。そう言ってちはるの上から降りてベッドに腰掛けたシンを確認し、ちはるも体を起こした。彼を意識しないようにしてベッドから降りる。
そうして、気持ちの切り替えのタイミングにちょうどいいと、先ほど買ったティラミスを持ってこようとドアに手をかけた瞬間、「そう言えば」とシンが話し始めた。
「吸血鬼がこの街に増えてるみてぇだな」
「え」
増えている?
ちはるが聞き返すとシンは両手を組んで、それにおでこを乗せるような形で目を伏せた。そこにはいつもの飄々とした雰囲気とはちがった真剣な眼差しがあり、何かを考えているシンが目に映った。
なぜだか、心臓がドキリと反応した。ばかみたいに跳ねあがったそれがちょっとだけ憎らしくて、ふいっと顔を逸らす。ごまかすようにしてなされたそれは、幸いにも彼の視界には入らなかった。
ちはるは足早にその場を去る。
冷蔵庫からティラミスとモンブラン、そして食器棚からお皿を取り出し、ケーキを乗っけてから部屋に戻った。テーブル上にやさしく置いて、食欲に導かれた
「やっぱ美味そうだな」
顔を
モンブランが食べたかったちはるは、買い物途中にケーキ屋に立ち寄った。もちろん、自分だけが食べるわけにもいかず、ふと目についたティラミスをシンのために買ったのが。
「どうぞ」
ティラミスを差し出せば、彼の顔にニヤニヤとした嫌な笑みが浮かぶ。
おもわず眉を寄せたちはるだったが、ケーキに目を輝かせた純粋な喜びの表情を思い出し、口を開いた。
「ティラミス、好きなの?」
「ティラミスの意味、知ってるか」
質問を質問で返され、ちはるは不機嫌になる。
そんな彼女の様子にくつくつと笑って、シンはティラミスの乗った皿を自分に引き寄せた。その一挙一動を眺めながら、ちはるは
「ある国の言葉でな。私を元気にして、って意味らしい」
「ふーん。なんだかかわいらしいわね」
「ははっ、まあな。だが、その訳の由来ってのがな、“私を持ち上げて”って意味だからなんだ」
「上に?」
「そ。つまり」
そこまで言うとシンは立ち上がって、ベッドから少し離れた位置のちはるに近付いた。隻眼の紅色が彼女を鋭く捕らえる。視線に
すっかり見つめ合う状態になってしまった二人。シンは逃げ出せない彼女の様子をしっかりと認識したまま、髪の毛をやさしく
「私を天国につれてって――私をイかせてって意味になるのさ」
「!」
その言葉に、ちはるのおさまっていたはずの頬の熱が一気に戻ってきた。シンは笑みを灯したまま、「だから好きだぜ」と告げる。
私をイかせて。なるほど、そのような意味なら彼が好きなのも無理はない――顔を赤くしながらも、冷静な分析思考がちはるを襲った。
「ま、そんなわけでさ。ティラミス渡されると、期待に応えないわけにはいかねーだろ」
追い打ちをかけるようなシンのセリフに、ちはるは恥ずかしくてたまらなくなる。「じゃあ、私がティラミス食べるわ!」ごまかすようにして、シンから避けるように後ろに一歩下がった。
残念そうに肩を竦めたシンを睨み、ちはるは真っ赤な顔のまま方向転換。キッチンへと姿を消してしまった。そんな様子が楽しくて、シンはいつになく優しい眼差しを、彼女が去って行ったその空間に向ける。
そして、愉しそうにすこし大きめの声を出した。
「ちぃ、レモンティーくれよ」
ドア一枚に
彼女らしいと思うが、先ほどのことを未だ「恥ずかしい」と思う姿が、なんとも
「他の誰でもない、アンタが作ったレモンティーが飲みたいんだけどね」
そう告げれば、ドアの向こうから息を呑む音が聞こえた。
きっと、これ以上ないくらいに染めた頬をさらに赤くし、こちらを睨んでいるのだろう。シンは彼女の様子をそう予想し、くつくつと笑みをこぼす。
暇つぶしをするのも悪くはない。
扉が
「面倒くさいからお断りよ!」
「おいおい、動けばダイエットになるぜ。余計な肉は落とした方が良いだろ。ま、オンナは肉付きが良い方が魅力的だがな。それでも内臓脂肪がついたらちょっとまずいだろ」
「あなた、いつも一言二言多いのよっ」
「ほら、抱きしめたときに女特有の柔らかさがねーと、男を相手にしてる気になっちまう。あいにく俺に男を抱く趣味はなくてね。だからまぁ、あまり痩せられるのも困るってやつなんだが、だからといってあまりに抱き心地が良すぎるのも、豚を相手にしてるみてぇで気味が悪ぃだろ」
「あなたに抱きしめられる予定はないわ!」
怒ったようにキッチンから部屋に帰ってきて、牛乳の入ったコップをテーブルに叩きつけたちはる。その顔は、やはり言うまでもなく赤いもので。
その表情にシンは満足そうに目を細めた後、その腕を引っ張って彼女の体を自身の胸に押しつけた。そう、抱きしめたのだ。
「な、なにす……っ!」
驚愕でうまく言葉が出ないのか、パニックになっているのか。ちはるのセリフは見事、あいまいなままでせき止められた。
シンを突き飛ばすことさえ、今は思考にないらしい。
「愉しませてくれよ。俺もアンタを、最高に愉しませてやるからさ」
妖艶に浮かべられた笑み。上目遣いに睨み上げた先に見えたその表情に、イライラは募るばかり。
だが、それと同時に沸き上がる、言いようのない高揚感は、ちはるを惑わせるには十分だった。
欠ける月、満ちる心。惑わせては消える、
――この後、数秒経ってからシンに蹴りが入ったのは言うまでもない。
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