Episode.12 You Think This is Your Daily Life, Right?

 すっかり日も昇り、そろそろ昼食の準備をしなければならない時間となった。時が経つのはなかなか早いものだ。

 掃除機を片付けるためにコンセントのコードをまとめているちはるは、考えるように視線を空中に投げた。


 ああ、人間は考えことをするとき、どこか視線を宙にさ迷わせる傾向がある――なんてシンが密かに思っていたことは、もちろん彼女が知るよしもない。

 未だシンも居着いてしまっている状態だが、ああ言えばこう言うで言うことを聞く気のない彼のこと。追い出そうとして素直にそれを聞き入れてくれるわけがなかった。

 

 というわけで、諦めの気持ちを抱えたまま、ランチ用の簡単なメニューに思考を巡らせる。

 色々思うところはあるが、吸血鬼という存在に対して好奇心がないわけではないのだ。


「焼き魚でもしようかな」


 呟いたちはるに、「じゃあ鮭にしようぜ」とちゃっかり注文してくれたシン。

 本日何杯目かのコーヒーを優雅に飲んでいる彼を見ながら図々しいと思う一方で、「吸血鬼って人間食も食べるのね」と素直な疑問をこぼした。


「ま、普通は食べねぇけどな」

「ふつう……」


 簡単に呟かれた「普通」という言葉。つまり、本来吸血鬼は人間食など食べないのだろう。

 実際、我々の知っている吸血鬼の設定でも、人間食を食べるという説は聞かない。吸血鬼の食事とは、血液だと聞いているから。


 となると、こうして人間食を口にしようとしているシンは、どうやら吸血鬼の中でも特殊らしかった。シンを見て「一般的な吸血鬼がこうである」と思わないほうが良いのかもしれない。


「……複雑なのね」


 ちはるの言葉に、シンは薄く笑う。


「でもさ、仮に俺が人間食を食べられないなら、俺はアンタを食ってるだろうよ」


 ハッとした。それもそうだと、背中を駆け巡った少しの恐怖とともに、静かに納得する。


 人間食で食事をり、食欲を満たさなければ、確かに彼はちはるを襲っているだろう。

 理性はある方だ、と告げていたシンだが、それでも彼は紛うことなき吸血鬼。本能にしかと忠実である存在なのだ。

 いくら理性があるとは言っても、空腹を抑えることは難しい。つまり、大好物である血を、求めないはずない。

 であれば、シンがちはるを襲い血を吸おうとしても、なんら不思議ではないのだ。あまりに馴染みすぎていて忘れそうだが、彼は“吸血鬼”なのだから。


「そう、ね。人間でさえ食欲を抑えることは難しいもの。美味しい、と感じる心がある限り、それを求めてしまうのは当然のことだと思う。だからこそ、人間の料理を美味しいと思うあなたのその感覚が、主食とされる血とどのように差別化されるのか、興味がある」


 人間でも欲望を抑えることは難しい。

 その人間よりも本能的である吸血鬼。その吸血鬼が本来、血を飲むことのみを食事として認識する存在なのだとしたら。

 特殊とはいえ、彼も吸血鬼。この人間食でどれほど食欲が満たされるものなのか、疑問が浮かんで当然だろう。


「少なくとも、いま鮭を食べたいと思うほどには、俺の味覚は他の吸血鬼に比べて贅沢だと思うぜ」

「……鮭を食べたいって欲求があるくらいだから、その欲求が満たされれば、おのずと食欲そのものもっていうのはわかるんだけど」


 なんだかしっくりこないのよね、とちはるはいぶかしげに呟いた。

 

「まぁ確かに、本来吸血鬼は血しか食わない。そういう純血主義で舌の貧相なお堅い連中からすれば、人間食はゴミみてぇなもんだろうぜ。美味しくないって点でな」

「虫を食べる異文化に触れて、私には無理だと思う感覚に似てるのかしら」

「さてね。まぁ、少なくともお気に入りだから食べるってのが吸血鬼の本能だからさ。吸血鬼に懐かれたら、アンタもすぐにこっちの仲間入りってわけ」

「好かれないようにしなくちゃいけないわね」


 やだわ、と嫌悪感丸出しにちはるが眉をひそめれば、シンは「ははっ」と声を出して笑う。それはいつもの皮肉なものでなく、純粋に彼女の言葉を楽しんでいるようだった。


「俺もアンタが吸血鬼になるなんて、心の底からお断りだね」

「あら、どうして」


 吸血鬼は、それにとってのお気に入りを、自身と同じ吸血鬼にする。吸血鬼本人であるシンから教わったものだ。

 シンにとってのお気に入りは、彼が公言しているように、この目の前にいるちはるに他ならない。

 となれば、シンはちはるを吸血鬼にしたいのではないか。


「そんなの、当然だろ。アンタだからこそ、俺は興味を持ったんだからさ」

「!」


 そう、ちはるが人間であるからこそ、彼女に興味を持ったのだ。彼女が人間でなくなってしまったら、「おもしろい人間である椎名ちはる」が消え失せたことになる。

 あくまで彼女が吸血鬼でないからこそ興味を抱いたのであり、彼女を吸血鬼にしてしまうのは彼の本意ではなかった。


「人間ってのは面白いもんだな。アンタに出会って改めてそう思うぜ。その点で、お嬢さんの存在は俺を惹き付けてやまない」


 それを聞いたちはるは目を見開いてほんの一瞬固まった後、何も言わないまま立ち上がり、キッチンへ向かおうと一歩を踏み出した。

 シンはその様子をじっと見つめて、ふ、と小さく笑みをこぼす。


「なぁ」

「、なに」


 ちはるの返事に、シンは持っていたコーヒーカップをテーブルの上にそっと置いた。その一連の動作を眺め終わり、ゆっくりとちはるは彼の顔に視線を向ける。


 そっと重なり合う視線。

 自分を真っ直ぐに見つめるその眼差しに、彼女はひどくめまいを覚えたのだった。


 口元に浮かべられたシンの余裕が、ちはるに訳のわからない感情を起こさせる。

 それは恐怖感か、焦燥感か、高揚感か、はたまた想い慕う恋慕れんぼの情か。

 いや、最後はありえないとしても、何かドキドキさせるような感情が、確かに彼女の中を駆け巡っていた。


「くくっ、顔」

「え」

「赤くなってる」


 言われてハッとした。いつの間にやら頬に熱が集まってしまっていたらしい。

 そいつを隠すようにしてシンから視線を逸らすも、そんな彼女の様子にまたシンは笑うばかり。

 あふれ出てくる羞恥心しゅうちしんに、ちはるの頬はさらに熱を帯びていった。


「ほ、ほっといて!」

「お嬢さんも初心うぶなもんだ。ま、そういうところはかわいいと思うぜ」

「、はっ?」

「くくっ、気が強くて頭が回る、おまけに感情的になるどころか冷静に状況にあわせて対応さえしてくる。ビジネスパーソンとしちゃ優秀だが、女としての可愛げがない」

「ちょっと、」

「落ち着け。俺が言いたいのは、そういう可愛げのない女にしちゃ、押さえるところ押さえてるじゃねーかってこと。アンタのこと褒めてんだぜ」

「よ、よけいなお世話です!」

「いやなに、俺のお気に入りはちゃんと俺にかわいいと思わせてくれる存在なんだと思ってな。良い拾い物をしたって、ちょっと感動しちゃってるわけ」

「バカじゃないの」

「冗談」


 くくっと喉で笑うシンに、心底嫌そうな目をする。

 素直になれないことも、気が強いことも、自分が一番わかっている。本当ならあわてふためいて、誰かに助けを求めて泣き叫んだっておかしくない。

 そんな状況下にあるにもかかわらず、好奇心と訳のわからない冷静さに背中を押され、結局こうしてと時間を共にしているあたり、「可愛げがない」という彼の言葉もよくよく理解できた。


「俺、上に立つのは好きじゃないもんでね。ついでに言うと、面倒なこともゴメンだ」


 だから――。そのシンの言葉が何を示しているのか、ちはるがきちんと理解したかはわからない。聞き終えたちはるはそっと彼から視線を外し、そそくさキッチンに向かって行ったのだった。


 その背中にまた笑って、彼はそっと瞼を閉じる。


「……気が強いオンナ、俺は嫌いじゃないんだけどな」


 肩を竦めたシンは、伏せ目がちにテーブルの上を見つめる。

 空になったコーヒーカップ。かちゃかちゃと聴覚の隅っこで音がする。それを意識の端で捉えながら、そっと息を吐き出した。


 そして、昨晩の出来事に記憶を呼び戻す。


 砂塵さじんの舞う様子、そいつがもたらす匂い。戦闘時独特の鋭い空気、殺気に満ちた視線。

 戦闘というものが好きである彼にとって、昨日のそれはなかなかにして面白いものだった。

 しかし同時に、いつもより危険であったことも事実だった。


 クリードの手先が山ほどいることは、痛いほど知っている。これまでだって幾度となく狙われてきたのだ。それこそクリード本人だけでなく、手先、いわゆる下僕にあたる者にさえも。

 が、注目すべきは使用されていた道具にあった。

 まさか「吸血刀きゅうけつとう」、つまり「死神刀しにがみがたな」が持ち出されているとは。

 柄にもなく、今回はいつもより大きな危機感と焦燥感を抱いてしまった。神経をすり減らしたとさえ思う。

 余裕でいられたのは、相手――イオンが、まだ15歳程度の幼い少年だったからだろう。


 一方で、イオンのまとう空気は見た目の若さに反して、百戦錬磨を感じさせるもの。息の詰まる時間だったようにも思えた。

 だからこそ、死神刀という、吸血鬼を完全消滅させることのできるあの凶器に、少しも気が抜けないと思わされたのだ。

 例えシンの実力が、明らかにイオンのそれを上回っていたとしても。


 死神刀は、クリードも住まう吸血鬼の森に、100年に1回現れる13本の刀のこと。森の奥にある怪しげな洞窟の中に、輝く宝石とともに登場すると言われている。

 おきて破りや、血にそむいた者、さらには貴族に対し不敬を働いた吸血鬼に、処刑の意味で使われる――吸血鬼を消滅させるための道具。

 貴族にしか与えられないもので、13ある貴族のグループが、それぞれ1本ずつ吸血鬼の長からさずかるのだ。


 クリードは貴族の吸血鬼。死神刀を持っているのは当たり前のこと。

 けれども、その死神刀の出てくる時期が、まさか「今」だとは思わなかったのだ。これこそが、完全にシンの焦燥感と危機感を煽っていた。


 1体の吸血鬼を消滅させた瞬間、刀も消滅する。それはまるで刀が吸血鬼の魂を吸い取ったかのようだと、昔誰かが言っていたか。

 だが、この刀は消滅後、100年の周期をもって再びこの地上に現れるもの。死神刀によって消滅した吸血鬼とはちがって、よみがえる不死の刀だ。


 100年経って甦る本物の不死――それが何度も繰り返され、今に至る。

 そう、100年。だが、しかし。


「まだ20年しか経ってないってのになぁ。刀もせっかちなもんだぜ」


 そう、最後の死神刀が消え去ってから、まだ「20年」しか経っていないのだ。100年を周期にしているその規則性に、明らかに反している。

 今までこんなことはなかった。

 例え吸血鬼の間でどのように大きな戦争が勃発ぼっぱつしたとしても、100年の周期を守り、不死を主張していたのだから。


「これは、何かありそうだな」


 どこかの貴族同士が、権力争いでも始めたか。はたまた女関係で何かあったか。自分の奴隷にどこかの貴族が手を出されたか。一揆いっきにも似た、謀反むほんでもあったか。

 思い当たる節はあるも、どれも周期が乱れるような理由にはなりえない。原因にするにはどれもまだ薄かった。


 何かとんでもないことが起こっているのかもしれない。

 吸血鬼の暮らしからは少々離れているとはいえ、それでも情報収集はちょこちょこと欠かさず行っているはずだが。どうやら知らないうちに何か始まったらしい。


 いや、それとも。


「本格的に俺を狩る、ってか」


 クリードの下僕にはイオンを含めて選りすぐりの、本当に力のある吸血鬼が数人いる。その吸血鬼がそれぞれ小隊を持ち、活動しているという。

 彼らに対抗するにはまだまだ力をつける必要がある。シンがいくら余裕を見せているとは言っても、クリードたちは決して油断などできない相手なのだから。


 これからまた一悶着ひともんちゃくありそうだ。そう思いながら、ため息を吐く。

 だからと言って焦る必要もない。

 戦うことは好きだが、先ほどちはるに述べた『面倒なことは好きじゃない』という言葉通りの意味は、性質として持っているから。


「ご飯、できたわよ」


 ドアが開き、ちはるがそれを手に持ちながら部屋に入ってきた。

 思考を一旦いったん中断。「うまそうな匂いだな」と呟いて、鮭や粉吹きイモ、瑞々しい白ご飯にお味噌汁など、テーブルに置かれた料理に視線を向けていった。


「吸血鬼とご飯だなんて、なんだか笑っちゃう」

「はは、貴重な体験だろ。なんなら今後もその体験が続くよう、一緒に住んでやろうか」

「遠慮させてもらうわ。吸血鬼の世話をするほど暇じゃないの」

「俺の世話はいらないぜ。俺がアンタを護衛してやるくらいのもんさ」

「素敵なナイトね」

「乗り気になったか?」

「面倒なことは嫌いなんでしょう?」

「ははっ、確かにこれは面倒だ!」


 笑ったシンに、ちはるも小さく笑った。

 心地よく感じたのだ。このやり取りが、どことなく。


 そう感じていると、シンの隻眼がちはるに向いて、二人は視線を交差させた。

 自然となくなる笑み。異様な空気に包まれる。そしてもっと、もっとその瞳に見つめられたいと――。

 そこまで思って、ちはるは頭をガツンと鈍器で殴られたかのような感覚と共に、ハッと意識を取り戻した。

 なんてことを思っていたのだ。自分を恥ずかしく思う。


「っ、食べるわよ」

「……ああ」


 適当に視線を逸らし、何事もなかったかのようにごまかす形で、ちはるは食事の方に意識を向けた。シンもそれに関して何を言うつもりもないらしい。彼も何も言わなかった。

 それに安心しながらちはるは鮭のムニエルを口にする。その様子を見計らったかのように、シンが口を開いた。


「うまいな」

「えっ」


 思わず、びっくりしたような声が出る。そのことに恥ずかしいと感じるまでもなく、どうしたらいいかわからないような感覚に襲われてしまった。

 少し混乱しているのだろう。収拾のつかない頭では、上手い切り返しがなかなか生まれてこない。


「うまいよ、アンタの料理」

「あ、そうかな」

「ん」

「だ、だったら、よかった」


 ようやく返した言葉は、なんともお粗末なもの。それでも、言葉を返せたことに心底安心せずにはいられない。

 彼女はほっとしたように粉吹きイモに箸を持っていくのだった。

 言われて初めて味というものに意識がいったのだから、当然の反応だろう。味という味が感じられない程度に、彼女は動揺していたのだから。


 ご飯に視線を集中させているちはるに、そっとシンが視線を向けた。そして、彼女が食事をしているその一挙一動を、じっと見つめる。彼女は一切、その視線には気が付いていない。シンにとってはそれで良かった。

 見つめて、見つめて、見つめる。そして、口を開きかけて――何も言わないまま閉じたのだった。

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