Episode.11 Forever
浮上する意識、それは起床の合図。
せっかくの休みだからと、ちはるの頭は頑なに起きることを避けた。
まだ布団の中にいたい。そんな気持ちが、ちはるの心を
今日は、そんな
そうして二度寝という最高のひとときへの幕開け――になるはずだった。
ピンポーン。大きな音が室内に鳴り響く。
時計を見れば9時前。一般的な起床時間よりはずいぶん遅いが、他人の家を訪問するにはまだまだ非常識な時間。
こんなに朝早く、一体だれかしら。
眠気に耐えながら素早くベッドから降り、少しの暑さに窓を開けてから、玄関モニターで人物を確認する。
そこで得た情報――シルクハット、サングラス、裸にコート。
「……」
玄関へは行かず応答もしないまま、ちはるは見て見ぬフリ、聞いて聞かぬフリをした。私は何も見ていないし聞いてもいない。
無言で洗面所に向かい、クレンジングフォームを手に乗せる。肌というのは傷つきやすく、そっと撫でるような、やさしい手つきで洗顔しなければならない。
そんなわけで、お肌についても悩みだす20歳。ぬるま湯で洗い流し終えたちはるは、近くに置いたフェイスタオルを顔に置くようにして水を拭いた。さっぱりした感じがして、いよいよ朝という気がする。
「あー、すっきり」
そうして、化粧をしに鏡に向かう。
時間が経たないうちにスキンローションでケア。さらに、ミルクローションやクリームで確実に保湿していく。しっかり肌になじませたらベースは完了。
そして、次は服だ。適当にクローゼットをあさりながら、今日のコーディネートを考える。脳内で色んな組み合わせを模索しつつ、結局、真っ黒いパフスリーブのブラウスに、デニムのショートパンツという、ラフな格好に落ち着いた。
そうしてカチューシャを装備し鏡と向き合えば、マジックタイムに突入だ。
ピンポーン。聞こえた音を軽く無視して、下地を塗る。
ピンポーン。もひとつ無視して、ファンデーション。
ピンポーン。またまた無視して、アイメイク。
ピンポーン。もいちど無視して、チーク&リップ。
「へぇ、女ってのは朝から大変なもんだな。それにしても、良い具合に化けてる。アンタ、化粧の才能あるんじゃねぇの」
さすがに無視はできなかった。
「なんでいるのよ!」
叫んだちはるの気持ちは分かる。先ほど玄関モニターで確認したとき、まさにこのセリフの主――シンの姿が見えたからこそ、ドアを開けなかったのだ。
なのに、だ。どうしてその“シン”が窓の枠に腰かけながら、その長い足を嫌味のように見せつけているのだろうか。なぜ、室内に当たり前のようにいる。
ガタンと音を立ててイスから立ち上がったちはるに、彼は愉快そうな様子でけらけらと笑うだけ。
反応が予想通りだったからなのか、それとも彼女の反応が大げさで面白かったのか。どちらにせよ、その笑いがちはるにとって腹立たしいものであることに変わりはない。
が、すぐに彼のその
窓枠にかけていた腰を起こし、彼はサングラスを顔から外す。そこから現れたのは、今まで見たこともないような真面目な顔。端正な顔立ちは相変わらずだが、いつもは馬鹿にしたように上げられている口角が、すこしの
紅い隻眼がちはるを捉え、その紅色が細められた瞬間――ちはるは息をするのを忘れた。
「おめかしはお済みですか。それでは、きれいになったお嬢さんを、俺がエスコートして差し上げましょう。さぁ、お手をどうぞ、レディ」
「っ!」
それはさながら貴族令嬢に
かぶっていたシルクハットのてっぺんを、左手で掴んで胸元に。もう片方の右手は、お腹の上に丁寧に置かれている。
相変わらず、裸の上に真っ白いコートを羽織っているが、それさえも一瞬、黒い
しばらく、見とれてしまっていたが、シルクハットを鼻が隠れる位置まで上げたシンが、上目づかいで見上げてきた瞬間、ようやく彼女の意識が戻った。
「っな、何しにきたのよ! どうして勝手に入ってきてるのっ」
叫んだ声は窓から外に飛び出していく。近所迷惑も含め、あ、と思うも、止められない程度にこの男には言いたいことがあった。
これぞまさに不法侵入。どこのだれともわからないような人間を、家にあげるような趣味はない。
平気でその常識を破ってきたシンに、どうにもならない感情をぶつけた。
いや、もはや人間でさえないのだが。
「窓開けてたのはアンタだろ」
「だからって、勝手に他人の部屋に入るなんて信じられないわ! 本当に最悪な人ね」
「おっと。
「……みぞおちパンチなら、満面の笑み付きでプレゼントするわよ」
「そりゃお断りだね。残念、今はアンタからのプレゼントってのは、遠慮しておくことにするさ」
「あら、賢明な判断ね」
そんなやり取りを繰り広げて、ちはるはため息をついた。
最悪な人ね、という言葉に対する「俺は吸血鬼だ」という主張の、なんと屁理屈なことか。
そうは思うが、いくらか時間を共にしたとは言え吸血鬼なのだから、喧嘩を売るのはやめたほうがいいと分かっている。
とは言っても。
シンの持つ雰囲気は、どこかクリードが持っていた吸血鬼独特のものとは異なり、なんだか少しだけ親しみやすく思えるから、ちはるはついつい以前感じた恐怖を過去に置き去りにしてしまうのだが。
「で。吸血鬼様が朝っぱらからお出かけだなんて。太陽の光が苦手なんでしょう。灰にならないか心配だわ」
「心配してくれるとは、明日は雨かな」
「失礼ね。私の部屋で灰になられでもしたら、おそうじが大変でしょ」
「おっと、心配はいらないさ。俺はアンタにこの想いが届かなかったことを悔やみながら、切なさのうちに泡になって溶けることにするぜ」
「あら、意外にロマンチック」
「男も夢があった方が良いだろ」
笑うシンをちはるは
それに、シンがそのような考えを本気で持っているわけでないともわかっている。だから、このようなただの言葉遊びに意味はない。
ちはるは背を向けてキッチンに向かう。朝食の準備をするらしい。
「それにな。灰になるってのは伝説だけで実際はちがうのさ」
背中に声がかかった。どうやら詳しい「吸血鬼の生態」とやらを説明してくれるらしい。
それを聞こうと聴覚を
「へぇ、そうなの」
「そ。ついでに言えば、首を切り落とす、心臓に
言い捨てのような感じになったが、特にシン自身も重要視していないため、深く言及する必要はないと判断してのこと。
ベッドに腰掛けたシンは、その頭側にある小さな本立てに目をやった。
『血の
最後はハッピーエンドのようで、「二人の恋は今、永遠になる。血の晩餐、ここに完結!」という
――永遠、ね。小さく呟いて、ちはるを向いた。
「この本、好きなのか」
「もう何回読んだか忘れちゃったけど、私は好きよ。良いお話だと思うわ」
パン、コーヒー、野菜を準備して、テーブルの上に並べていく。
「例えば?」
聞かれて、ちはるは戸惑った。
彼女の中で吸血鬼というのは、このように、本の中のイメージでしかない。
実際に吸血鬼がいるのだと知ったいま、安易に吸血鬼のことを語るのはもちろん、ましてや吸血鬼である張本人に語るというのは、ためらわれる気がした。
とは言え、話自体は非常に魅力的である。
敵同士が恋に落ち、傷つけあいながら結ばれていく。互いが互い、自身の感情に気付かないフリをしながらも、惹かれ合っていく。
まるで運命だとでもいうように、そうなることが当たり前であるとでもいうように、
「ヒロインは元々吸血鬼ハンターだったんだけど、ある吸血鬼と恋に落ちて吸血鬼になるの」
「……へぇ」
「そうして
「不死だから?」
そっと床に腰を下ろす。並べられた料理に不備がないか視線で確認したちはるは、シンの問いかけに応えるために口を開いた。
「そう。不死だからこその永遠」
「ふうん。永遠、ねぇ」
皮肉をまとったようなシンの呟きに気が付いてはいる。けれど、それを拾ってしまえるほどの深い仲ではない。
適当に流し、また説明するために声を出す。
「親を吸血鬼に殺され、友達を吸血鬼に殺され、吸血鬼を憎みに憎んでいたはずの彼女は、吸血鬼でありながら人を傷つけることを嫌う男性に出会い、裏切りと偽りの中で愛し合っていくのよ」
それが果たして“永遠”になり得るかは、わからないこと。永遠というものが良いのか悪いのかもわからないし、完全にこの作品の理論を受け入れたわけでもなかった。
それでも、永遠を誓って愛し合った二人の姿は、とても切なく、そしてやさしかった。設定としては王道だが、惹かれたのも事実である。
「言っておくけど、吸血鬼に魅力を感じたわけじゃないわ。永遠なんてものにも興味はない」
「はは、そりゃ残念だ。なかなかシビアな考えをお持ちで」
「でも、二人の恋愛には魅力を感じた」
そう言ってコーヒーを一杯差し出したちはるに、シンは薄く笑った。
その薄い笑みがいったい何を示しているのか、今の彼女にはわからない。わからないけれど、彼にしてはなんだかあまりに投げやりな感じがして、その様子を
「例えばさ」
話し始めたシンに、軽く視線をやってコーヒーを口にする。香ばしい香りと共に、苦さと甘さのちょうどよく混ざり合った味が体内を駆け降りた。
そのおいしさに安心する一方で、コーヒーカップの端を唇につけたまま少し目を伏せたシンに、ちはるは一瞬ハッとした。
どことなく、悲しみのようなものを感じ取ってしまったのだ。
「
「え?」
「そしたら、そのオンナ。話通りに咬まれてたかな。そんでもってその男も、愛するオンナの血を吸えたかな」
そこに永遠がなかったとしても。
そう呟いたシンは少し真剣で、ちはるは言葉が出てこなかった。
永遠があったから彼女は愛する人に咬まれた。彼と同じように吸血鬼になれるという未来があったから。
じゃあ、もしもなかったら。未来なんて死でしかなく、共に生きるという永遠がそこになかったとしたら――彼女は咬まれていただろうか。
この小説の設定が現実の吸血鬼と同じように、吸血しあうことが人間でいうセックスと同じであるほど至高のものであり、愛情を確かめ合う方法であるというならば。咬まれるだけでも彼女にとっては幸せだったと言えるだろう。吸血鬼という生き物の愛情本能に従い、咬まれたのだから。
それでも、仮に「死」というものが立ち合った場合、彼女はどのように決断をしていただろうか。もし「咬まれたら死ぬ」のだとして、彼女が咬まれる決断をしていただろうかと考えると、すこしだけ居心地の悪い不快感のようなものが胸の奥で顔を出した気がした。
そしてもちろん、男主人公の側もそうだ。
自分が吸血することで彼女が死んでしまう。彼女の血を吸いたい、彼女に牙を立てたい。そう思っても、そうすることで彼女と共に過ごす未来は閉ざされてしまう。
もしそうであったとき、彼も彼女の血を吸えるのだろうか。
「ふ、お嬢さんのお
そこまで考えたとき、バカにしたような笑い声と共にそんな言葉が意識を乗っ取った。その声を認識した瞬間、脳内を
なんだ、ちょっと考えすぎちゃったみたい。そう思いながら、全ての思考を取っ払った。
「……そうね、私には難しすぎて何も出てこないわ」
「くくっ、ご苦労さん。さ、食べようぜ」
シンの軽い流しにより、ようやく朝食がとれそうだ。
入り込んできそうになるそれを必死に押しのけ、食べることに集中する。
なんだかなぁ。そんな気持ちを抱えながら
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