Episode.09 Are You Finished?

「私、紅茶を入れてくるわ。あなた、味は」

「レモンティーかな」

「じゃあ、好きにくつろいでいて」


 話が一段落ついたところで、ちはるが立ち上がってそう告げる。

 ――あれだけ俺が吸血鬼だという事実に怯えていたくせに、もうおもてなしをくれるのか。

 背を向けて部屋から出ていったちはるに、彼は小さく笑った。


 かちゃかちゃと食器がハーモニーを奏でて聴覚をくすぐる。

 紅茶なんていつぶりだろうか。

 だが、シンの脳を支配するのは別のこと。

 ああ、意外に吹っ切れていないらしい。自嘲気味にこぼれた笑みは、どうしようもなかった。


 ――純血種でしょ、ねぇ。

 寝るときに使用しているのだろう深緑の掛け布団を見ながら、シンはその端正な顔にすこしだけ影を落とす。

 紅色の瞳はどこか暗く、哀感あいかんがこめられているようだった。


 クリーム色の薔薇ばら刺繍ししゅうが入ったワインレッドのカーテンへと、そっと視線を移していく。それはまるで、自分の左側で視界をうろつくその姿を、ただただ黙って受け入れるように。

 軽く開いた窓から入り込む風を野放しにしたまま、シンは脳内を占める思考にふたをした。


 部屋全体に目を向ける。

 統一感のある上品な部屋だ。等身大の全身鏡は、色が見つからなかったのかベージュ色だが、それ以外は見事にワインレッドや濃い茶色の家具で統一されている。

 長方形のテレビ台に乗っかった、一人暮らしらしい小さめの液晶テレビ。その下に置かれているブルーレイデッキ。テレビの隣には、収納ラックもあった。

 テレビ台に並んで少し大きめの本棚。一番窓際のそれは、室内の家具の中でもひときわ存在を主張している。

 本が好きなのだろうか。小さめサイズの小説が、きれいに立ち並んでいる。


「ん?」


 ふと、ある1冊の本が目に入った。背表紙には『血の晩餐』と書かれている。

 「晩餐」という字が読めず「ふざけんな」と思ったシンだったが、自分の学の無さは完全に棚上げ。そして、一体その文字の羅列られつがどういう意味なのか考えるより先に、あらすじの方に目がいった。


『吸血鬼と吸血鬼ハンター、禁忌きんきのラブストーリー』


 裏表紙に書かれた小説の概要に目を通しながら、少しだけ口元をゆるめた。

 実際の吸血鬼世界にハンターはいない。が、人間は禁忌なんてフレーズに惹かれるもんなのか、と、その小説を手にして目次を開く。

 そして、第1話と書かれてある題名を見た瞬間に――。


「あ、もう駄目だわ」


 読むのを断念した。そう、シンは読書が嫌いだった。


 小説を元あった場所に戻したところで、ちょうどシンのもとにちはるがやってきた。


「お湯を沸かしているの。もう少し待って」


 ちはるはそう言って、部屋の真ん中に置かれた、折りたたみテーブルの上を片付け始めた。

 かさかさと紙の擦り合わさる音が聞こえてくる。彼女の視線はすっかり机上に集中している。シンは思考を切り替え、今度は彼女の様子に焦点をあてた。


 大学のレポートか何かだろうか。プリントアウトされたものが多くテーブル上に広げられていた。

 赤ペンで誤字脱字や文法ミスのチェックが入れてある。


「今の、吸血鬼の話よ。興味ない?」


 思わずキョトンとした視線だけで返事をしてしまう。彼にしては珍しい表情に「あら」と思うが、彼女の興味はそれ以上そそらなかった。

 シンがその本を片付ける少し前には部屋に入っていたため、彼が小説を手にしていたことも、それが何の小説なのかもばっちりと目に入っていた。手にしていたから興味があるのかと思ったが、どうやらちがうらしい。


「いや、俺はあいにく読書が苦手でね」

「ああ、あなたが読書嫌いなの、わかる気がするわ」

「読み聞かせでもしてくれるかい」

「まさか」


 冗談じゃないわ。そんな雰囲気を露わにしたように、少し笑いながらそう告げたちはる。その様子に、「意地悪なもんだ」とシンは残念そうに呟く。

 そんな皮肉屋な吸血鬼を一瞥いちべつして、ちはるはその部屋を去って行った。


 素っ気ない態度がどうにもおかしくて、やっぱりクツクツと笑いをこぼす。

 それからすぐに、ソーサーとティーカップを持ったちはるが現れた。そして、テーブル上にセッティングしていく。


 木賊色とくさいろくきや葉を持った紺桔梗こんききょうの、いや、紺青のブルーベリーの実や、美味しそうに色づいた茜色あかねいろのラズベリーが白色に綺麗に映えている――そんなデザインのティーセット。

 テキパキと動いているあたりが彼女の性格の表れのよう。部屋の統一感からして、几帳面で真面目な性格もよくわかる。


「なかなかシャレてるねぇ」


 カップに注がれていく紅茶を見ながら、シンがそんなことを言う。そうすれば彼女が「良いでしょ」なんて無表情に言うものだから、本当に思っているのかと問いたくなった。

 が、確かにすばらしいデザインなのでここは穏便に済ませておく。そして、そのままの流れで自然にシンは口を開いた。


「吸血鬼が――俺が、怖くねーの」


 その問いかけに、ちはるの動きが一瞬止まる。しかし、すぐに気を取り直したのだろう。「そうね」と一言零して動作を続ける。

 もちろん一瞬の停止をシンが見逃すはずもなく、「強がりなお嬢さんだな」と言葉を送る。そうすれば睨みがプレゼントされ、シンはおどけたように肩をすくめてみせた。


 ここで、「本当は怖いんだろ」と核心をついたからといってシンがどうこうできるはずもなければ、今後一切関わりを持たないなんてことをするつもりもない。

 そうとなれば、黙っていた方が得策だ。そこまでをものの数秒で導き出し、ふ、と小さく息を吐き出すのだった。


「そう言えば、あなたの能力って何」


 ちいさく、ちはるが呟いた。それはちょっとだけ震えていて、彼女のためらいがよく感じ取れるようだった。

 その勇気を心の中でちょっとだけからかうように褒め称えて、「俺のは」と声を出す。

 本来なら能力というのは秘密にしてこそなのだが、別に彼女を恐れる必要はないし、ばれたところで負ける気もしない。発された声はいつものように明らかな自信に満ちていた。


「感覚操作」

「え?」

「感覚操作だぜ」

「か、感覚操作……?」


 対象相手に感覚を操作する。それが、シンの能力だった。

 なぜちはるがクリードに見つからなかったか、というのも十分に説明がつくだろう。その能力でシンは周囲に幻覚をかけ、ちはるを隠したのである。


 簡単に言えば、シンの能力とは幻覚をかけること。

 とは言え、感覚の優れた吸血鬼相手となると、聴覚や嗅覚の面で幻覚が破られてしまうことが多い。そのため、ちはるに「声を出すな」「動くな」と命じたのだ。

 ちはるが下手に動いてしまえば、幻覚世界が作りだした環境に変化をもたらし、勘の鋭い吸血鬼であるクリードが、その不自然さや違和感に気付く可能性が十分にあった。

 その違和感や不自然さを最小限にとどめるために、シンは彼女にそのような指示をしていたのだ。


「ま、そういうことだから」

「それを早く言ってよ」

「そんな暇なかっただろ」


 あったわよ。あなたがクリードという男にわざわざ絡みに行っただけなんだから。

 そう言いたかったのを抑え、ちはるはただ一言「そうね」と紡いでおく。下手に言えばこちらが攻撃、いや、口撃されることは目に見えていたから。


 カップに紅茶を注ぎ、円形に切ったレモンを入れて、ちはるはシンに差し出した。

 サンキュ、とキザにお礼を告げた彼は、カップを受け取りベッドに腰をおろす。やけに様になっているその姿が憎らしいと思った。


「それより」

「ん」

「その右目が能力発動機?」


 紅茶を一口飲んだちはるが、シンの眼帯を見ながらそう尋ねた。

 普段隠されている方に何かがあるという予想ぐらいはできる。


「あー、まあね」


 いまひとつ煮え切らない返事をして、シンはごまかすかのように紅茶を一口飲んだ。返答前の奇妙な空白に気が付いたが、ちはるはいぶかしむだけでスルーする。

 踏み込むべきではないだとか、そんな深いことを考えたわけではない――無意識にはそれを意識したかもしれないが。


 シンがそっと、その眼帯に触れる。

 そこでようやく、クリードがシンの瞳を「つい」と表現していたことを思いだした。


 クリードや本来の吸血鬼の瞳が(シンの片目もそうだが)赤色をしているというのは、彼女の中でもはや当たり前になっている。

 その対となれば、シンの眼帯の奥には青色が眠っていることになるだろう。


「そっち、青色なの?」


 視線だけを眼帯の方向、シンの右眼に向けながら問うた。その視線の先を読まずとも、言葉だけで言いたいことはわかる。

 シンは軽く笑って、「サファイアブルーってやつさ」と軽い口調で返した。


「見たい?」

「興味はあるわ。でも、眼帯で右目を隠しているのは下手に能力を使わないためでしょ。外しちゃったら危ないんじゃないの」

「そ。使わないため。自分の能力ぐらい自分できちんと飼えるさ」


 そう言って、シンは黒い円形の眼帯を外し、その瞳を露わにした。


「わあっ」


 宝石のように澄んだ、爽やかなサファイアブルー。気品漂うその色合いは、どこか冷たく、そして、やさしい。

 吸血鬼を物語る左目の紅色とちがい、人間らしいと思えるような綺麗きれいな青だった。


「きれい……」


 思わず、目を見開いたままそのブルーを凝視する。それこそ、宝石の展示会にでも参加しているかのような表情だ。

 まじまじと眺めているちはるの視線を受けながら、シンは少し、目を細めた。


「そんなに物欲しそうに見られるとはね」


 ハッとして、我に帰った。


「別にいいぜ。俺の下で鳴きながら、もう1回熱く見つめてくれよ」

「な、にを」

「そしたらアンタを、視線でイかせてやる」


 ニヤリ、と自信満々な口元が弧を描き、瞳が欲望を灯した。ちはるは無意識に顔を赤くしてしまい、そのことにまた、恥ずかしさを感じる。

 どうしようもなく悔しい気持ちになって真っ赤な顔のままシンを睨めば、彼は「ははっ」と声を出して笑うのだった。その余裕な感じがまた腹立たしい。


「さってと」


 カップをテーブルの上に置き、シンが立ち上がった。

 それは本当に一瞬の切り替えのようで、どうしようもできないまま、ただ単にその動きを見つめるしかなかった。動作を目で追うばかりのちはるに、彼は振り向く。


「イイコはねんねの時間だ」


 幼児に話しかけるような口調で言いながら、シンが広く窓を開ける。

 風が強いのだろうか。開けられた窓から、肌寒さを感じさせる夜風が侵入してきた。

 身震いをしたちはるにまた小さく笑って、シンが窓辺に向かう。その動作は優美以外のなにものでもなく、思わず目を引かれてしまった。


「うまかった」


 それの指すものはわかっている。紅茶だ。そこでようやくカップに視線をやり、完全に空になっていることを確認した。

 あ、飲んだんだ。そんな感想を脳内に描き、その事実を呑みこむ。そうしてようやく彼に視線を戻せば、レールに足を乗っけて窓から出ようとしていた。


 ――帰るのか。漠然と実感する。


「またな。――ちぃ」


 そう告げて、彼はいとも簡単に飛び降りて行った。あ、と思い窓の方に向かえば、もう彼の姿はなく。少しだけ窓から見える公園を眺めてから、ちはるはそっと窓を閉めた。


 なんとなくの、空虚感。吸血鬼って、血以外の食事もするのね。今さらながらの感想だが、目に入ったカップを見つめて、ちはるは小さく呟くのだった。


 空のカップ、埋まった何か。入り込んだのは、幻だろうか。

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