Episode.07 Reason Why You Told Me Your Story.

 曇天どんてんの夜空の下、仲良く――とは言いがたかったが、二人並んでちはるの家へと向かっていた。シンから離れるようにちはるが早歩きで先を急げば、彼が「やれやれ」とその後を追う。

 レンガの建物が立ち並ぶこの場所は、ちはるにとっての帰路。と同じ街灯の少ない暗い夜道だが、どこか以前より安心しているのは、誰かと一緒だからか。

 それとも逆にその「誰か」が、前回の恐怖の対象であっただからか。


 コツン、とヒールの音を響かせながら、コンクリート固めの道路を歩いていく。


 本当は色々と聞きたいことがある。

 が、どこまで突っ込んで聞いて良いのか分からないのは相変わらずで、口に出せてはいなかった。


「聞きたいこと、あるんだろ」


 180センチ以上あると推測できる彼の声は、彼自身が地上に足をつけていてもなお、頭上から降ってくるように聞こえた。ハッとして顔を上げてしまう。

 皮肉と嫌味のマシンガントークが目立つデリカシーのない男だと思っていたが、意外と他者の機微きびを読み取るのだろうか。

 深呼吸をして、ちはるは口を開く。


「あなた、さっき私に忠告のように吸血鬼のことを言っていたけど、そんなにもたくさんこの世に吸血鬼がいるの?」


 彼の口振りからして、吸血鬼という種族が普通に存在しているらしいことは感じ取れた。しかし、感じ取れたからとって素直に「そうなのか」と納得できるようなことでもない。

 が、シンはそんな複雑な気持ちなど完全に無視らしい。「当たり前だろ」なんて鼻で笑われてしまった。

 何が当たり前なんだか。非難したが、彼は「それがだなぁ」とえらくたのしそうに口元を歪めてみせた。


「吸血鬼って本来、人間に知られちゃマズイ存在なわけ」

「わ、私、思いっきり知っちゃったんだけど」

「安心しろ。それでどうこうなるわけじゃない。お嬢さんが誰かに漏らさなければ、だけどな」


 うっかり口から出てきてしまったらどうなることか。ひどい秘密を抱えてしまったものだ、と、心の奥で騒ぎ始めた恐怖が、ここぞとばかりに顔を出した。


「人間が吸血鬼の存在を知るときってのは、吸血されるときだけだからな。結局世に知られる前に、知ったっつー事実は消えちまうわけ。だから、本来人間が俺たちの存在を知ることはない」


 さらに。

 吸血鬼の五感や身体能力は、そこらの人間とは比べ物にならないほど高い。そのため、例え目撃者などがいてもすぐに分かるようだ。

 人間の力では自身の気配を消し去ることができないため、吸血鬼に簡単に気付かれてしまうのはもちろんのこと、気付かれてしまえば、人間の身体能力で逃げ切れるわけもない。

 つまり、世に知られることは滅多にないのだ。


 ――仮に世に知られでもしたら。

 考えられることはひとつ。吸血鬼を殺すための術を、人間たちが模索し始めるだろうということ。

 いくら人間の力が弱いとは言え、吸血鬼にだって弱点はある。その弱点をつくようなものを、人間が作り上げたとすれば。


「人間ってのは創作力に長けてやがるからなぁ。いつこっちが捕食される側になるか、わかったもんじゃねぇ」


 鼻で笑ったシンの瞳に肉食獣のようなギラギラとした狂気が揺らめいていることに気付いたちはるは、萎縮いしゅくしそうになった体にむちを打って、なんとか平然をよそおった。


「な、なぜ私に教えたの」

「暇つぶし」


 暇つぶし? 暇つぶしで彼は、自分の死をぶら下げるのだろうか。


 先の彼の言葉を呑み込んだちはるは、人間に教えてしまうことのデメリットをよくよく理解していた。

 人間に知られてしまったら、人間によってその存続をおびやかされるかもしれない。そういう脅威があったから、彼らは人間を食べることにのみ使い、馴れ合いを避けてきたのだ。


「結果、殺されるかもしれないのに? なのに、暇つぶしで人間に教えるなんて」


 ちはるがシンの知らないところで、吸血鬼を殺すための術を考えることもあり得る。

 いくらちはるが普通のなんの変哲もない一般人に見えようとも、その可能性を切り捨てるなどできやしないはずだ。


「好都合だぜ」

「え?」


 いきなりの台詞に、思わず聞き返す。

 シンを見れば、彼はちはるの隣で愉快そうに微笑んでいた。


 何がどう好都合なのか。思考のうずにはその疑問ばかりがグルグルする。

 そのときだった。彼が小さく笑みを零した様子が背中越しに感じられたのは。

 笑い声に釣られるようにして後ろを振り向く。それはほぼ反射的だったかもしれない。

 そこで、彼が足を止めたままちはるを向いていることに気がついた。いつものようにポケットに手を突っ込んで、余裕そうな笑みは皮肉の色を灯したまま、口元に張り付いている。


 強い風がふいた。髪の毛をさらっていく勢いで駆け抜けたそいつは、上を目指し飛んでゆく。舞った髪が落ち着いて自身の肩に降りて来たとき、ちはるは違和感のようなものを覚えずにはいられなかった。

 彼の笑みに、その様子に――あまりにもの、皮肉な様に。


「俺は同族意識なんざ持ち合わせていなくてな。気に入った奴は生かすし、気に入らない奴は殺す。そんでもって、俺はお前に殺されはしない。たった、そんだけのことさ」

「ころ、す」


 ――気に入らない奴は、殺す。

 もしも言葉通りの意味をそのセリフに込めていたとするならば、彼は吸血鬼の殺し方というものを知っていることになる。

 吸血鬼はその身に不死に近い能力を宿し、生き長らえている。が、さきほどの口振りから考えれば、彼は不死を断ち切ることができると言っているのだ。

 危険に遭遇し瀕死ひんしの傷を負ったとしても、不死の名の通り生き続けるという吸血鬼の命のサイクルを、彼は断ち切れるのだと。


「あ、あなた、吸血鬼を殺す術、知ってる、の」


 震える声。それは目の前の存在を心配してか、それとも目の前の存在に恐怖してか。

 そんな彼女の状態など、例のごとくこの吸血鬼には関係がない。ちはるの問いに、吸血鬼は妖艶に笑った。愉しそうに、シニカルに、清々しいほどの凄絶な笑みで。


 ――そして、次の瞬間だった。


「っあん、あぁんっ!」

「、は?」


 ちはるは突然の返答に、困り果てるより目を点にさせるしかなかった。


 吸血鬼を殺す術を知っているのか――その問いに返ってきたのはまさかのあえぎ声。

 もちろんシンが出したわけではない。が、良いタイミングで聞こえてきたそれには、声は出ても言葉は出ないほどに驚愕だった。


「な、に」

「うっわぁ」


 シンが、やばい場面に出合わせたというように顔を左手で隠した。


「えらく都合のいいタイミングで最高に不愉快なお客サマがいらしたぜ」


 シンが何やらぼそぼそ言い始めた中、まるでBGМとでもいうように女の喘ぎ声が大きくなる。

 そっと声の発信場所へと視線を投げれば(それは好奇心というよりも反射に近い)、ちらりと見えたその状態は聞こえた声通り、情事の真っ最中だった。

 石化していたちはるもようやく状況を把握したのか、今度は顔を真っ赤に染め上げていく。


 そんなちはるに気がついたのだろう。シンはその苦笑をすぐに、何かを含んだ怪しい笑みに変え、ちはるの両手首を掴んで頭上で縛り上げた。気がつかないうちの自然の動作でなされた行為に、またまた「は?」と零したちはる。

 そんな彼女の混乱は完全無視の方向で、その頬に片手をやりながら、そのまま胸元まで肌を伝うように指を下していく。ちはるの背中あたりにゾクリ、と何かが駆け巡った気がしたがどうしようもなく。結局抵抗さえできなかった。


「ちょっとあなた、」

「くくっ、ずいぶん純粋なお嬢さんだな」

「っやめ……」

「おっと、お口にチャック、だぜ」


 ちはるの唇にそっと人差し指をあててみせたシンに、キッと眉を吊り上げて睨みつける。そんな様子に「イイ子なら黙ってな」と低く囁けば、彼女は「何様よ!」と少し小さめな声で怒った。

 確かに、「イイ子なら」だなんて人を子ども扱いする上に、馬鹿にしたような態度をとるのだから、ちはるが怒鳴りたくなる気持ちも分からなくはない。


「それより離して」


 そう言ってまた睨めば、シンは「声出すなって」と言いながらも軽くちはるを解放した。解放された両腕を交互にさすりながら、彼女は「もう」とまた一言。

 顔が赤く染まっていることに気づいてはいたが、その様子を喉の奥で笑ってくる吸血鬼の、なんともわずらわしいことか。


 そうするとシンが突然、歩き出した。それも、帰路とは少しだけ逸れた方向に、だ。

 そう、情事真っ最中のその現場に、堂々たる態度で向かって行っているではないか!


 しーっ、と自身の口元に人差し指をあてて、意地悪そうな笑みをみせるシンに、ちはるは真っ赤だったその顔を、ひどく青ざめたものに戻していった。

 いったい何をしているのだ、この吸血鬼は。そう思うが、言葉が出ない。


「絶対声出すなよ。ついでに、動いたりすんなよ?」


 頭を抱えそうになったが何も言うことはできず。そうして次のシンの言葉に、ちはるは本格的に逃げ出したくなった。


「はいはい、どーも。オジサンの息子サンはイイ働きをしてくれてますー?」


 ハッとしてシンを見たそのと、きれいなお姉さん。

 女性の歳はちはるより少し上だろうか。目は細めだが、色気のある女性だ。ふくよかな胸は同性でありながらも魅力的に思える。鮮やかな唇も、とても蠱惑こわく的だ。


「……何しに来た、半端もの」


 男がシンを睨む。その鋭さに、ちはるは言い知れぬ恐怖を覚えた。

 そうだ、昨夜の感覚に似ている――殺意。確かな、殺意。

 認識した瞬間、背中を何かがい上がっていく。一気に身体中の血液が冷え切ってしまったように思えた。


「おっと、そう睨むなよ」


 しかし、シンにはそのような感覚は無縁らしい。まるで制止をかけるようにして、両手の平を「オジサン」とやらに向けている。

 その口元には恐らく、いつもの挑発的な笑みが浮かんでいるのだろう。背中越しにいるちはるにはその様子は確認できなかったが、容易に想像できた。


「十分鳴かせることができたなら、そりゃ良かったってもんだ。けど、そんな怖い顔してっと、せっかくのおいしそうなオネエサンが怖がっちまう。オジサンだってそのオネエサンを手放したくねぇだろ。ちょっとは落ち着けよ」


 おちょくるように投げられた言葉に、男の視線がさらに剣呑けんのんさを帯びていく。

 ちはるは恐怖を押し隠すように服の裾を握ったが、特に抗不安剤の効果はないように思われた。


「また私の邪魔をしに来たか」


 外見年齢でいけば50代くらいだろうか。ブロンドの髪の毛をオールバックに仕立て上げ、右目には上から頬あたりまで、引き裂かれたかのような傷跡がある。その傷跡がまた恐ろしさを感じさせる上、声もまた低い。

 厳つい顔つきをしてはいるが、若ければ美青年だったろうと思わせるほどには整っている。貴族を思わせるその雰囲気はどこかの伯爵はくしゃくのようで、ちはるはシンとはちがった彼の紅い目に肩を震わせた。


 その男と、その男に組み敷かれている女は、暗い路地裏のある一画で、突然現れた声の主――シンを二人して睨んでいる。

 男は睨みながらもズボンを上げ、ベルトを締めて白いシャツを羽織った。女は、もう続きはしてもらえないのかと、物欲しそうな顔で男を見上げる。

 そんな二人を嘲笑うような笑みを浮かべたシンは、やはり馬鹿にするような態度で言葉を放った。


「ハッ、邪魔とは人聞きのワリィ。アンタが俺の行く先々に出現してくるだけだろ」

「私に盾突くとは、よほど頭が悪いらしいな」

「頭の悪さは残念ながらよく言われるぜ」

「何度も言われながらまだ学ばぬか」

生憎あいにく、物覚えが悪くてな」


 ニヤニヤと何か企んでいるようにも思える笑みを描きながら、シンは二人を見据えている。


「で、オネエサンは何回イったの」

「っひ、な、なによ……!」


 瞬間移動でもしたかと思えるような、そして男がすぐに反応できないような速さで、裸の女の近くに腰をおろし、シンは女の顎に手をかけた。一瞬反応の遅れた女の顔が恐怖に染まるのを見て、ようやくちはるも何があったのかを理解した。

 シンが突然目の前から消え、裸の女のところに向かっていたのだ、と。

 シンのその指を、男が即座に振り払う。あーらら、と目を丸くしてお手上げをしたシンに、男は不機嫌そうに言った。


「貴様には関係がなかろう」

「いやー、美人なオネエサンには興味があってな」

戯言ざれごとを。貴様の目には、女などどうでも良いように映っていると見えるが?」

「さぁ、それはどうだか」


 肩をすくめたシンを見た男は、女の首元に手刀を入れて気絶させた。

「おや、食わねぇの」

 問えば、男は睨む。シンはそれを見て立ち上がり、男から少し距離を取った。


 シンと言い合っているこの男。彼こそが、以前からシンと言い合っていた例の吸血鬼だ。


 今日は女がいたためか、あからさまにシンを攻撃することはないようだが、戦う者にとっては攻撃の攻防を決める「間合い」がある。シンが先ほどまでいた場所は、完全に男の間合い。いつ攻撃されてもおかしくないのだ。

 ゆえに、簡単に男の間合いに入ってみせたシンのその驚異的な力は、男をさらに警戒させるには十分なものだった。


「やはり、貴様は早々に狩らねばな」

「おうおう、オーニさんこっちらー、ってな」

「チッ、馬鹿にするのが好きな奴だ」

「おっと。馬鹿にされてるって自覚があったとはね」

「いちいち大口を叩くものだな。少し黙れんのか」

「今日はずいぶんと冷静だねぇ」


 睨みあう、赤。吹く風が冷たく思えたのは、ちはるの錯覚だろうか。

 男が、引っ込めていたらしい長く鋭利な爪を、目一杯伸ばして露わにすれば、ちはるが密かに息を呑んだ。

 その瞬間、シンがちはるを見たが、すぐに目を逸らされる。


 なぜ男はちはるに気がつかないのか。

 それについては現在頭を回せるだけの余裕がちはるになく、彼女はとにかく早くここから立ち去りたかった。


 そんなちはるの感情をくみ取ったのかはわからない。しかし、丁度というようなタイミングで「ちょっとストップ」とシンが男に制止をかけた。

 ちはるが安心したように息を吐く。帰れるのか、と。恐怖の瞬間に立ち合わなくてもいいのだろう、と。


「今日はアンタとり合う気ねぇんだ」

「貴様になくとも私にはあるのだよ。害ある者は排除せねば」

「なかなかシビアだ。だが、今日は勘弁! 女の中に突っ込んだ指で、触られたくないもんでね」

「ほう。私に八つ裂きにされることが前提か。その自信のなさであれば、わざわざ逃げ回ってムダな労力を割くこともなかろうに。一瞬で終わらせてやるぞ」

「まさか! アンタに殺られるほど俺も弱くないぜ――クリード」


 自信を主張させるシンの紅眼が、鋭く揺らめいて男――クリードを捉えた。

 ギラギラと狂気をはらんだそれは、百戦錬磨ひゃくせんれんまのクリードの余裕を、いとも容易たやすぎ取ろうとする。

 やはり恐ろしい男だ。実感して、クリードは気付いた。いつもとの決定的な違いに。


「……貴様、力を使っているのか」

「さて、何のことだか」

「貴様のその右目、いつもは包帯か眼帯がしてあったように思うが」

「くくっ、目ざといもんだな。そんなに俺のことが好きかい?」


 そう、シンの右目には今、眼帯がされていなかった。いつもは隻眼なその隣には、まるで対になるかのように澄んだサファイアブルーが輝いている。

 ちはるはクリードの言葉に、あれ、と思った。一体いつから眼帯を外していたのだろうかと。そして、力とは何のことなのだろうと。

 しかし、今はとてもでないが聞けるような状態ではない。


「ふん、皮肉なもんだな。まるで半端ものの貴様を象徴するかのように、目の色までもがつい、とな」

「何だよ、うらやましいのか。アンタは残念なもんだねぇ。一色、赤で」

「これが我ら吸血鬼の誇り。貴様をうらやむなど、天地が引っくり返ってもありはしない」

「それはそれは。ま、とりあえず、退いてくれよな」


 そう言って、パチンとシンがその右指を鳴らした途端に、男の顔色が一気に変わった。どうしたものかと、ちはるが訝しんでいれば、急に浮遊感を感じて視界が変わり、思考が停止した。

 え……?

 少しだけ冷静になった頭で、今の状況を確認する。そうすれば、シンに横抱きにされたまま屋根の上を飛んでいることに気付いた。


「なっ……、」

「まだ声出すな」


 思わず声を出せば、抑え気味の声で制される。

 動くな、声を出すな、というのは先ほどから何度も注意されていたことだったが、理由を教えられないことには不信感も募る。

 冷たい風が、自分の肌を刺激していくのを感じながら、ちはるはあまりにもの速さに何も言えず、少しの嘔吐感に襲われながら目を強く瞑って、必死に堪えるしかなかった。


「っし、ついたぜ」


 どれくらい経っただろうか。いや、そんなに時間は経っていないかもしれない。

 音もなく降り着いた場所は、ちはるのアパートがちょうど見上げられる場所だった。

 レンガの建物が立ち並ぶ地域なだけあって、赤レンガで造られた二階建てのアパート。築浅物件で、見た目も美しい。


「な、なにが、おこったの」


 浮遊感を感じたかと思えば、気付けば自分の家の前。

 ちはるは突然のことに、どう反応したらよいかわからなかった。というより、反応できないのだが。

 そんな彼女に気付いているのかいないのか、シンは何食わぬ顔で彼女の腕をとり、ニ階に上がってドアの前までやってきた。


 その頃には順応性の高いちはるの脳は、状況を理解し始めていた。次に何をすればいいのか、シンが何を求めているのか。

 それを的確に判断することができるまでには回復していた。


「カギ、ね、開けるわ」


 ふぅ、と息を吐き、カバンからキーケースを取り出して家のカギを探す。いくつものカギがケースには付けられており、これを失くしたら大変そうだ。

 該当するものを見つけ出したちはるは、鍵穴にそれを差してドアを開けた。すこしだけ震えている指を、わずらわしく思いながら。


 すると、目の前には広めの玄関と、その先へとを繋ぐ廊下とキッチン。半円を描く玄関はアートなもので、落ち着いた木製のワインレッドの家具が、とても上品な色を持ち出して存在していた。


 ああ、帰ってきた。

 再度息を吐き出して、安堵あんどに浸る。


 見慣れた景色が自分を取り巻く。たったそれだけのことなのに、こんなにも安心感を抱けるものなのだろうか。日常というものがどれだけ尊いものか実感せざるをえない。

 そう思っていると、「さて」と低い声が聴覚をかすめた。


「とりあえずアンタ、風呂でも入ってきたらどうだ。俺も入りてぇ」


 なんとも図々しい。それを聞いたちはるの眉が、はっきりと寄せられて不機嫌さを象徴する。

 連れ回しておいてずいぶんな態度だ。さらに、他人の家に来ておいて、なんとも我がもの顔なこと。


「いつまで居座る気」

「吸血鬼、興味あるだろ」


 そう言われてしまうと、返す言葉がない。


 興味は、ある。

 まだ怖いという気持ちは否めない。先ほどだって、あれが殺気というのかは分からないが、確かな殺意の籠もった紅い瞳を見ているのだ。怖いのは怖い。

 一方、人間の好奇心というのは、恐怖を原動力としても起こるようだ。吸血鬼という生き物に興味があるのは確かなことだった。


「言ったろ。俺がアンタを気に入ってんだ」


 流し目、ちはるを射抜く隻眼。動かされた唇、エロティックなテノール。

 そう言って笑う彼は、なんとも掴みづらい男だと思わせた。思わず言葉を詰まらせてしまったちはるは、どうしようもない感覚に囚われる。


 それでも、「ほら、何もしねぇから行ってこいよ」なんて普通の表情で言われてしまえば、警戒心とやらもどこかへ失踪してしまうというもの。

 少し長く関わりすぎてしまったのかもしれない。でも、今それを判断する術はちはるになかった。


 渋々ながらもお風呂場へと向かったちはるを見届けて、シンは小さく息を吐いた。


 久しぶりに「力」を使ったせいか、少し身体が疲れているようだ。

 普段なら、これくらいでは決して疲れたりなどしない――シンは吸血鬼だから。そのような戦闘、命の危機には慣れている。

 しかし、どうだろう。

 意外にも神経をすり減らしたような気がするのは、なぜだろうか。


「ハッ、まさかな」


 ただの興味が湧いただけの存在。お気に入りだから、自分以外には手を出させたくない。

 とは言え、そこまで執着しているわけでもなく、食べたいと思い吸血するならばいくらでもして、人間としての彼女を奪うこともいとわなかったりもする。


 それでも――それでも。どうやらずいぶん気を張っていたらしい。


 クリードという男は決して弱い吸血鬼ではない。

 むしろ、吸血鬼の中でも上の立場にある者で、力もトップに強いのだ。吸血鬼としての本能をその身に植え付けている純血種。そんなクリード相手に、実はそこまでの余裕はなかった。

 シンも腕には自信があるため、余裕な態度がハッタリというわけでもないが、力のある年輩のクリード相手となると、気を抜けない。

 だからこそ、ちはるという、お気に入りでありながら『お荷物』でもある無力な人間など、この際どうでも良かったりするはずなのだが。


 それでも、自分は彼女を守り抜いた。執着などないはずの存在を、守ったのだ。


「意外にも気に入ってんのかもな」


 力にも集中し、クリードにも集中し。そんな、自分の命を自ら差し出すような自殺行為、するとは思っていなかった。だからこそ――。


「くくっ、たのしくなってきたもんだ!」


 期限の鐘は、いつ鳴るか。今はまだ何もわからないが、確かに形が変わっているようだった。

 それは確実なる刃で、甘さだったのだ。

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