Episode.06 My Guardian is Strange.

 客が誰一人としていなくなった室内で、店員たちは後片付けに励んでいた。ちはるも例外でなく、テーブルを布巾ふきんできれいにし、忘れ物がないかチェックして回っている。

 疲れたな、と思いながら一息吐いたところで、聴覚がちいさな笑い声を拾った。思わず、ちはるはその主を見る。


「疲れたよね」


 そう、湊だ。やわらかな笑みを口元に灯して、ちはると同じようにテーブルを拭いている。慣れた手つきは素早く丁寧で、憧れさえ抱く。

 が、彼の質問にどう答えたらいいか戸惑ったちはるは、結局沈黙で返した。確かに疲れたのだが、はっきりそれを言っていいか分からなかったのだ。


 そんなちはるに気付いてか、それとも本心かは分からない。

 答えやすくしてくれたかのようなタイミングでクスリと笑い、彼は「俺は疲れたなぁ」と一言漏らした。

 思わずその返答に目を見開いて、「え」なんて漏らしてしまう。


「湊さんも疲れるんですか?」

「ちーちゃん、俺を何だと思ってるの」


 湊の苦笑が返る。

 ちはるとしては、長年勤めて慣れている彼でも疲れるのかと、驚愕から出た言葉だった。

 失礼してしまっただろうか。不安になりながら、「いえ、人間だと思ってます」なんて返してみる。するととたんに、彼は大きな声で笑い出した。


「あはは、なんだそれー! 俺が吸血鬼だったらどうするの!」

「えっ、湊さん、吸血鬼なんですか!?」

「なんでそこで信じるの!」


 あはは、と相変わらず大きな声で笑っている湊の表情からして、冗談を言っていることはわかっている。

 しかし、「吸血鬼である」ということを素直に受け入れてしまいそうになるほど、今のちはるにはが通じなかった。


「うそうそ、吸血鬼なわけないじゃん。ごめん、ちょっとだけ、意地悪」


 そう言って、いたずらっ子が浮かべるような子どもっぽい、それでいてどこか憎めない笑顔を見せてきた湊に、ちはるは「湊さん!」と声を上げた。


「ごめんごめん」


 あまり反省はしていないような謝り方で、彼は未だ肩を震わせながら笑いをこらえている。こらえ切れていないというか、誰が見ても明らかに笑っていると判断できるところが目につくのだが。

 ムッとしてじとーっと恨みがましいという視線で彼を睨むが、あまり効果はないようだ。意外にいじわる、と印象を改めながらも、心地良い空気であることは否めなかった。


 ふ、と小さく笑みをこぼし、水色のストライプが入った布巾でテーブルを拭く。

 このような地道な作業が元来好きだからなのか、それとも、場の心地良さゆえか。あまり面倒くささを感じない。

 せっせと片づけを済ませていたその時、花瓶に生けられた百合の花に視線を移し、「やっぱりきれい」と感想をもらした。


「ちはるちゃん、百合が好きなの?」


 別の従業員から声をかけられ、「だいすきです」と笑顔で返事。

「百合の花っぽいもんね、ちはるちゃん」

 さらっと投げられたその言葉に「そうですか?」と言いながらも、ちょっと嬉しかったりする。


 百合の花言葉には色々あるが、「強いからこその美しさ」がちはるは特に好きだった。

 百合には「純潔」などの可憐なイメージがつきものだが、そんな百合でも芯はしっかりしており、力強い女の美しさが象徴されている。

 百合の花の造形はもちろんのこと、そういった花言葉も彼女がそれを好きな一因だった。


「あ、いけない。そろそろ11時になっちゃうね。もう遅いから先に帰っていいよ」


 壁にかけられた円形の時計に視線を投げたかと思えば、湊からそんなことを言われた。自身もそこに視線を向ければ、彼の言うとおり、もう23時になろうとしている。

 窓から外の様子を覗けば、すっかり暗い。いや、覗かなくても暗いことに気付けるほど、外の静けさが夜であることを主張していた。


 しかし、こわい雰囲気は一切ない。むしろ、薄暗くなった店内は落ち着いた色合いで心に安らぎをもたらしてくれる。

 木製であるこの建物と、蛍光灯の淡い輝きが混ざりあって、どことなく森林浴をしているような気分だ。

 だからなのだろうか。あまり帰りたいという気持ちが起きない。というより、もう少しここにいて癒されたいなんて思ってしまう。


「いえ、大丈夫です! 最後までお仕事させてください!」

「だーめ。こういう時はまだ学生さんなんだから、素直に甘えておくものだよ。遅くなったら危ないだけじゃなくて、学業にも差し支えるでしょ」

「でも」

「店長命令だよ」

「あ、それずるい言い方です」

「ちーちゃんを心配して言ってるの」

「む……」


 そう言われるとすごく弱いのだが、そう言われても、という気持ちもまた強い。自分だけが先に帰るなんてさすがに良心が痛む。

 もちろん、湊のそれこその良心を無下むげにしたくはないが、まだ片付きそうにない店内を見ていると気が引けてしまった。


「車で送ってあげてもいいんだけど、遅くなること自体があまり良くないからね。早く帰りな」

「う……、はい」


 上手く言いくるめられてしまったちはるは、結局早くにあがらせてもらうことにした。後ろ髪引かれる思いではあるものの、彼の想いを汲み取らないわけにもいかない。


「あの、お疲れさまでした」

「うん、お疲れ様。明日、明後日はオフだよね。十分休んで、また週明けからよろしくね」

「はい。それでは、ありがとうございました」

「いいえー、こちらこそ」


 にっこり微笑んで温かく見送ってくれた湊に笑いかけながら、ちはるはドアを開き、外へと出た。


 空には、昨日のような星はひとつも浮かんでいない。代わりに、どんよりとした雲が空を覆っていた。

 明日は雨かしら。雨なら早起きしないとなぁ。

 ちはるは一歩、店から踏み出す――その時だった。


「もう俺との約束、忘れちまったのか? いやなに、お嬢さんにはしっかりと枕元まくらもとで言い聞かせてやんなきゃ難しい注文だったかな」


 そんな挑発的な言葉と共に、嫌でも聞き慣れてしまった音が空から、いやちはるの頭上からたのしそうに降ってきた。

 不快感にしばし沈黙を強制されたちはるの声帯が、「失礼な挨拶ね」と音をつむぐために震えたならば、声の主もテノール同様、ちはるの頭上から降ってくる。


「ひゃあっ」


 反射的な悲鳴をもらせば、屋根から飛んで降りてきたその男――シンは、なんとも嬉しそうな表情でちはるの目の前に着地した。

 華麗な動きで着地した人間離れしているその能力に驚くより先に、頭上から何かが降ってきた、という事実に驚愕を隠せない。


「イイ顔、してんじゃねぇか」


 クイっと、人差し指であごをあげられ、紅い隻眼とちはるの漆黒が交わって反発しあう。

 何がイイ顔よ! イイ顔と言っても、どうせ恐怖を抱えた表情かおのことだろう。素直に喜べる気がしない。

 怒鳴りたかったちはるだったが、返ってきそうな台詞せりふを予想し、なんとか我慢することにした。


 顔を横に勢い良く振って、シンの指を振り落とす。彼は「残念」とこぼして、その左手をぷらぷらと揺らすのみ。

 相変わらずの演技がかった大げさな態度に、ちょっとしたいらだちが蓄積ちくせきしていく。それでも、何も言えないのはやはり、彼という存在への恐怖が先立っているからかもしれない。


「俺を呼べって言ったのに」

「どうして私があなたを呼ばなきゃいけないのよ」

「俺がアンタに、そうしろって言っただろ」

「だからって、あなたの指示に従う必要なんてないわ」


 突然の脈絡のないシンの言葉に、ちはるの勢いは一瞬で止まった。今までのやり取りから一転したその質問は、彼女の勢いをぐには十分だった。


「そ、そんなの、あなたが説明してたじゃない」


 確かに自身は昨夜、このシンという男に彼が吸血鬼であるという事実を含め、その存在が何たるかを教えてもらった。だから、ある程度の知識は彼から得たつもりだ。

 その思いでちょっと突き放したような言い方をすれば、シンは「あー」と曖昧な音を作り、「そうだな」と一言こぼした。

 それは、どういう風に言葉を使ったらいいかを考えあぐねているような、ためらいに見える。ぽんぽんと嫌味なコトバをまき散らす彼にしては珍しい、ためらいの様子だった。


「吸血鬼を、理解しているか」

「え?」

「いや、これも聞き方が……」


 ブツブツ言い始めたシンを訝しげに見つめながらも、ちはるの脳内は「吸血鬼とは」という表題を掲げ、思考を巡らせていた。


 ――吸血鬼とは。

 いくら考えても、昨日シンが説明してくれたこと以外にはよく分からなかった。だいたい、彼がちはるに「吸血鬼とは」を丁寧に説明したというのに、なぜ、、などと投げかけるのか。疑問でならない、というのが本音だった。

 そんなちはるに気付いてのことだろう。シンはため息を吐き、「吸血鬼ってのはな」と語り始めた。一応、耳を澄ましてきちんと聞くという行為に辿りついたちはるは、黙ってそれを受け入れる。


「吸血鬼は夜、人間を狙う。誰だって良いんだ。目に入れば誰だってね。吸血鬼には人間とちがって大層な理性なんてもんはない。そりゃ多少なりともあるっちゃあるが、人間に比べりゃ微量なもんでな。本能のままに血を求めて人間を狙う」


 この意味が、わかるかよ。

 そう言って、ちはるを射抜くような一つ眼で見つめるシンに、ちはるは小さく声を出した――声を出そうとしたときの、何かが突っかかったような感覚は即座に無視をして。


「それって、私があなたに狙われるってこと、でしょう」


 震えた声は、恐怖に染まっていた。

 しかし、シンは「それも考えられると言えば考えられるか」と、今さら気がついたとでもいうように、感心した声色で呟く。

 おもわず拍子抜け。恐怖はとたんに微粒子びりゅうしとなって霧散むさんする。


 じゃあいったい何が言いたいの。

 ちはるが不信感たっぷりにそう言えば、つまりだな、と自分でも上手く整理しきれていないのが丸わかりな態度で、彼は言葉を口にした。


「俺は理性のある方でな。人間を食おうとする欲求なんざ、止めようと思えば止められる。オンナがダイエットのために食事制限するようなもんって言えば、わかりやすいか。頑張ろうと思えば止められるが、まぁ止める必要もないから、ガマンなんざせずに食うわけだけど」


 なるほど。ダイエット、と言われると、すこしだけわかるような気する。


「だがな、俺のように理性のある吸血鬼なんざいやしねぇ」

「……だから?」

「アンタが吸血鬼の目に留まれば、一瞬で餌食えじきになっちまうってことさ」


 そんなの、危険なのは私だけじゃないわ。そうは思えども、口にはできなかった。


「俺は、俺のお気に入りを他人に渡すつもりはねぇ。俺がアンタに興味をなくすまでは、だがな」


 それはつまり、いつかは殺されてしまうということなのだろう。

 いつかは、シンによって吸血鬼にされてしまうということなのだろう。

 それがいつになるかは分からない、それでもいつかは――いつか、は。


「まぁそんなわけで、夜の街は危険が多いってわけ。だからは、俺がアンタを守ってやるよ」

「そんなのっ」

「小難しいことは嫌いなんだ。とにかく」


 彼は、声を上げる。


「俺のお気に入りである以上、他の野郎には指一本触れさせねぇつもりだ。だから、アンタも他の野郎にやすやすと股開くなよ」

「だっ、だれが開くもんですか!」

「ま、俺限定で許可するけどさ」


 ゆがめられた笑みを見て、ココロが叫ぶ。ああ、とんでもないものに目をつけられてしまったと。

 ちはるはどうしようもない思いを抱えたまま、彼の隣で歩くことを、渋々受け入れたのだった。

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