Episode.05 May I Have Your Name?

 茶色いウェーブがかった髪の毛をふわふわとさせながら、椎名ちはるは大げさにため息を吐いてみせた。思っていたよりずっと重く、原因の大きさを物語っている。

 そう、ため息の理由は昨夜のこと。あまりにもファンタジックな出会いを体験してしまったのだ。


 ――吸血鬼。

 確かに、昨夜の男はそう自称した。

 去り際に乗せられた「シン」という音は、恐らく彼の名前を示しているのだろう。


 そうして昨日の体験を冷静に分析してみると、吸血鬼という存在は物語によくあるように人間ヒトを模した形をとっていて、コミュニケーションの形態も言葉を扱うという点で、人間ヒトと同じつくりであることがわかった。

 そして、同じ言語体系を有しているからなのか、各々「名前」を持っているらしいことも同時にわかるだろう。


 吸血鬼。


「ありえない、わ」


 いや、ありえた。確かに、ありえていた。しかし、信じるにはいささか突然すぎた。

 それが実際に存在しているなど誰が考えただろう。ありえないからこそ、一時の夢、楽しみとして、その設定が娯楽になり得たというのに。

 本当に存在してしまったら、もはや娯楽にならなくなってしまう。


「だいたい裸にコートを着ているだなんて、なんて破廉恥ハレンチな男なの!」

「ちーちゃん、どうかしたー?」

「いいえ、私は正常です!」

「え、う、うん」


 バイト先の店長、高槻湊の遠くからの呼びかけに――いきなり声を荒げたため心配してのことだろう――ちはるは少々ズレた答えを返しながら、食器洗いに取り掛かった。


 ――ああ、それにしても。

 ちはるは大げさにため息を吐いた。


 一人であるほど昨夜の出来事を思い出して、思考が止まらなくなってしまう。

 吸血鬼は墓場に住んでいるというが、では彼はどこに住んでいるのだろうか。純血と準血について教わりはしたが、では彼はどちらなのだろうか。

 考えれば考えるほど、疑問が浮かぶ。


「まぁでも、これから良いこともあるよね」

「ちーちゃーん! オーダー来られるー?」


 独り言をブツブツ言っていたちはるに、お呼び出しがかかった。このお店のオーナー・湊からだ。

 回想している場合でも、吸血鬼などというファンタジックな存在に思いをせている場合でもない。

 今度こそ即座に思考を切り替え、素早く口を開いて返事を投げた。


「お待たせしましたっ」

「お疲れさま、ちーちゃん。さっそくなんだけど、あそこのサングラスの人、行ってくれるかな」

「はい、分かりました」


 特に気にもせず「サングラスの人」を一瞥いちべつしたちはるは、即座にオーダー票を取り出し歩を進める。

 一人用の席に足を組んで座っているその男。サングラスをかけているにもかかわらず、きれいな顔なのだろうということは遠目から分かるほど明確で、容易に予想ができた。


 が、ちはるは足を止めた。


 なぜこの男、「裸にコート」なのだろうか。なぜ、黒い革のパンツに黒い手袋をしているのだろうか。なぜ、どこか妖艶な雰囲気をふんだんにかもし出しているのだろうか。

 鎖骨の浮き彫りになる様がやけにいやらしい。そうだ、この格好。見覚えたっぷりではないか。


「……お客さま」


 だが相手は。どれだけちはるが接客を拒んでも、彼は客で、自分は店員なのだ。個人の勝手な理由で対応をしないわけにはいかない。

 男の席に辿りついて呼びかけたちはるは、小さく息を吐いた。これは緊張? いや、何に緊張しているというのか。


「また会ったな」


 にやり。彼の口角が上げられたのが分かった。

 悪寒が走ったのをしっかりと感じながら、引きつった笑いで「ご注文は」と決められたセリフを機械的に口にする。


「できれば、お嬢さんをお願いしたいんだけど」


 返ってきたセリフに鳥肌。「お断りですね」となんとも無機質な声ではね除けた。

 当たり前の切り返しだ。そうでなくてはならない。


「ははっ、新鮮な反応」

「失礼ですがお客様。ご注文は」

「そう急かすなよ。なぁ俺のこと、ちゃんと覚えてるか」


 黒越しに、赤が見えた気がした。

 ちはるは昨夜を思い出し、少しだけ、その小さい肩を恐怖で揺らす。

 昨夜のことが鮮明に意識の底から浮き上がってきた気がして、どうしようもなく逃げ出したくなったのだ。


 そんな彼女に男は目を細めたが、サングラスのせいであらわになることはなかった。


「なに、覚えてないの」

「覚えてます、ええ、覚えてます」

「うわ、ひでぇ。投げやりだ」

「……ご注文は」


 声が低くなったちはるに、そう怒んなよ、と男は笑う。


 そう、彼こそがちはるを悩ませていた根源、己を吸血鬼と自称するシンだ。

 もちろん、昨日のことは覚えている。不法侵入してきたこの不審者を、たった半日程度で忘れることの方が難しい。


 それでも素直に「覚えている」と言わなかったのは、ささやかなる抵抗か。


「さてさて、お嬢さん」

「なによ」

「ナマエ。教えてくれよ」


 上目づかいでちはるを見上げている男の、赤い瞳が彼女を捉えた。一瞬、時が止まる。

 ちはるはしばらくその赤に魅入っていたが、すぐにハッとし、気を取り直した。


 吸い込まれそうだと思ったのは、きっと勘違い。そう自分に言い聞かせて。


「少女Aです」


 ナマエなど誰が教えるものか。そういう意思から、ちはるはそんな嘘――逃げ道をつくる。

 名札が胸元できらきらと輝いているのはこの際スルーだ。これだから名札文化は危険なんだと主張しておきたい。


「ぶはっ! アンタ、少女って歳じゃないだろ!」


 なんて失礼な! 男の言葉に心底憤慨ふんがいしたちはるは、力強い目で男を睨みつけた。その視線に彼は「おー、怖い怖い」と言って軽くあしらうような言動をとる。

 挑発的な態度に再度イライラしたちはるだったが、今はバイト中であることを思い出し、なんとか笑みを浮かべてみせた。それこそ引きつっていたかもしれない。


「まぁお嬢さんが少女でもいいさ。俺からすれば多くの人間が十分ガキだからな」

「は」

「言ったろ」


 ――吸血鬼は、不死なんだ。


 小さく低く発された台詞に、そういえば、と昨夜のことを思い出した。確か、吸血鬼は自分で年齢を設定できるんだったか。

 とはいえ、あくまでこの男が吸血鬼であると認めた場合であるが。


「……あなた、本来何歳なの」


 眉を寄せて男を見れば、彼はシーっと口元に人差し指をあてて、ちはるに黙るよう促した。

 何なの、とちはるが睨めば、「その話はまた後でな」と言って適当に流されてしまう。


「今は忘れてくれ。あ、オムライスにオレンジジュースね」


 そうしてなんともかわいい注文をくれる――そうは思ったが言わなかった。


「ほら、さっさと言いに行けよ」

「っ、ご注文は以上でよろしいでしょうか」

「なに、お嬢さんも追加可能?」

「失礼しました」

「あーあー、つれねぇの」


 残念そうに言った男の言葉を背後に、ちはるはまたひとつ、溜息を空気に溶かした。


「知り合い?」


 にこやかな笑顔で湊にそのように聞かれたのは、つい先ほどのこと。

 「いいえ、知りません」なんて、にこやかな笑顔で切り返したちはるは、一発例の男に睨みをきかせて、すぐに顔を背けた。

 知り合いなどと思われたら、自分まで変質者に思われてしまう。たまったものではない。


 そんなちはるの心などいざ知らず、湊は彼女の様子に目を細める。

 彼女の知り合いがこうしてバイト先に足を運んでくれれば、まだ新人である彼女には、力を抜ける良いチャンスかもしれない。

 保護者のように、現状を微笑ましく思う感情の一方、それにしても――と、ちはるの知り合いらしいその男に目を向けた。


 サングラス、裸に真っ白いファー付きのコート、革の黒パンツを穿き手には黒い手袋。どこか変質者ともとれる格好だと思うのは、自分の捉え方の問題だろうか――いや、そんなことはないはず、と湊は自己完結する。

 対するちはるに視線をやった。

 真っ白い七分丈のフリル付きブラウスを、ウエストリボンの黒いスカートにイン。水色のチャーム付きネックレスを首からぶら下げ、足元には白のパンプス。

 茶色く染められた髪の毛は低い位置で二つに分けて結ばれており、女子大生らしい清楚感あふれる身だしなみだろう。


 この二人が知り合いか。少しだけ驚きながら、カランカランと鈴の音を響かせてやってきた別の客に笑顔を向けた。

 「久しぶりにきちゃった」と言って笑ってくれたかつての常連客に、「お久しぶりですね」と柔らかく歓迎する。

 穏やかな気持ちのままその女性客二人を席に案内し、水を持ってきたちはるに視線を――。


「ちょっ、ちーちゃん、お水お水! こぼれてるんだけどっ」

「……ゆっくり歩きます」

「……そうして」


 相変わらずのちはるの不器用さに、思わず焦った声を出す。

 当人のちはるとしては、どうして水がこぼれるのかと困った様子であるが、そんな彼女の心境などお構いなしに、水は自由になりたがっているようだった。

 店内は今日も満席。忙しく動く従業員に合わせて、ちはるも早く客にお水を届けたいところなのだが。申し訳ない気持ちと恥ずかしい気持ちでどうにかなりそうだった。


 そんなちはるの心情を推し量ってはいるものの、丁寧に指導するには少々客が多すぎる。湊もどこかもどかしい気持ちを抱えながら、彼女の横にそっと並び、「落ち着いて平行にね」とアドバイス。

 ちはるはそのアドバイスをもとに、ギクシャクとしながらもそろーりそろり、抜き足差し足忍び足で常連客のもとへ向かう。

 店内は暖かな声援と笑いに溢れているが、恥ずかしさに染まる頬は気にしないようにし、水に意識を集中させた。


「全力で急いでいますので、少々お待ちを、あ、こぼれた」

「ちーちゃんがあそこに辿りつくまでに、どれだけ残ってるかなぁ」

「あははっ! お姉さん、頑張ってあたしのとこに持ってきてくださいね!」


 応援されて、苦笑する。さっさと歩く同大学の女バイト生を横目で捉え、「何であんなに動いているのにこぼれないんだろう」と心からの疑問を浮かべた。

 そうしてハッとする。


「湊さん。いっそコップだけ持って行って、お客様の席で水を入れましょう!」

「それもありかもね……」


 遠い目をして同意した湊に、「次からそれで決定だな!」と中年の男性客が声を張り上げた。同意の声がちらほらと飛び、湊は苦笑をもらす。

 そうして笑いあって、ちはるは厨房に向かった。そして、出来あがったオムライスとオレンジジュースに、色々思い出してため息を吐く。


 暖かな空気に隠されてしまったが、ミッションはまだ終わっていない。


 太陽の光が苦手な夜行性である吸血鬼がなぜ、まだ明るいこの時間帯に活動できるのか。尽きない疑問をまた再発させて、このメニューを注文した男の元に足を運ぶ。

 優雅に座っている様はとても絵になるが、どうにも憎らしく思えてたまらないのは出会いが出会いだったからか、それとも彼自身の性格を知ってしまっているからか。


「ちゃんと『取ってこい』はできたかよ」


 そして、この口調である。

 私は犬じゃない――突っ込んでみたところでどうにもならない。からかうように上げられた口角が憎たらしいが、今は仕事中。抑えるしかない。

 こぼれていない奇跡のオレンジジュースを彼のテーブルに丁寧に置いて、営業スマイルに励んだ。その笑顔への返事だろうか。「どーも、お嬢さん」と軽い調子がちはるに贈られる。


「こちらのデミグラスソースをご自分でおかけになって、お召し上がりください」

「はいはいっと。ところで、ちはるってナマエなんだな」

「ええ、そのようですね」


 うわ、他人事ひとごと。そう言って、わざとらしく肩をすくめてみせた男に、ちはるは「それでは仕事がありますので、失礼しますね」と言ってその場を去った。

 いや、正確にはのだが。ちはるの腕は、男の黒手袋をはめた手に捕まっており、引きとめられていた。


 うわ、と引きつりそうな口元を再び丁寧にコントロール。「何かご用でしょうか」といたって普通を装い、やわらかく男に問いかける。

 そんな彼女の腹の底に気付いているらしい。男は違和感なくとがった犬歯を見せながら、感じの悪い笑みを浮かべた。


 なるほど、悪役も面目丸つぶれ。

 ちはるは改めてこの人間――いや、人間ヒトの形をした「吸血鬼」とやらの並ならぬ意地悪さを感じていた。

 コイツは確かに吸血鬼だ、なんて、皮肉も言い得て妙である。


「今日お嬢さんの仕事が終わったら、あの家まで送ってやるから。終わって外に出たら、『シン』って俺のナマエ呼んでよ」


 何を言い出すのか。この男に家まで送ってもらう義理はない。送り狼にでもなりそうなこの男に、どうして送ってもらう必要があるのか。

 ちはるは不審げな色を瞳に宿して、シンという男を睨んだ。何が目的かは分からないが、このような存在にこれ以上関わる気はない。

 それに、前回は何もなくて良かったものの、今後何をされるかわからない。雰囲気からしてこの男が危険なものだということは容易に判断できるし、吸血鬼を本当に信じるならば、絶対に関わりたくない。


「いえ、結構です。確かに夜道は恐ろしいけど、あなたにそこまでしていただく義理はないわ」


 段々、この吸血鬼に敬語を使うのがわずらわしく感じてきた。ちはるは口調を崩しながら、そう答える。

 じ、と視線は逸らさず、気の強い彼女の性格そのままに、ちはるは睨むようにしてシンを見ている。


 聴覚の端っこで、カチャカチャと食器が重なり合う音が聞こえた。拾い上げた音はなるほど忙しそうで、今このような会話を一点に留まってしている場合でないと思わせる。

 忙しく動いているほかの従業員とは真逆に、一点から動かない自分が異様であるような気さえした。


「おいおい、ここらには俺と同種なのに、卑劣ひれつ傲慢ごうまんな奴らが、腹をかして獲物を狙って待ってんだぜ」

「あなたに言われたら彼らもおしまいね」

「手厳しいご意見だ。くくっ、悪くねぇ」


 愉快にしている男に眉を寄せたが、この男と対峙し始めてから常に眉間にシワを寄せている自分の境遇に気付き、この先の将来に一抹の不安を抱いた。


 そうして、食べ始めた男の姿を見て、不思議な気持ちになる。


 味覚というものは生き物にとって重要な要素であると、ご飯を食べるときに思い知ることはそう珍しくはないだろう。

 例えばちはるは目玉焼きに塩コショウをかけるが、ソース、醤油、塩など、他にも様々な組み合わせがあるように、食べる者によって多種多様なが存在し、こだわりの生まれる部分だ。

 そのようにして味覚を捉えると、吸血鬼とやらはどうなっているのやら。こうして普通に食事をしていれば、なんら人間ヒトと変わらぬように見えるが、一般的に言われる吸血鬼の主食――考えただけで恐ろしく、背筋も凍る勢いだ。


 だって、吸血鬼の主食は人間の生き血。恐ろしいと感じないわけがない。

 人間にもカニバリズムやそれに似たような嗜好しこうがあるが、そういう人はマイノリティーとして認識されている。

 それなのに、吸血鬼というグループで考えたとたん、マイノリティーは一気にマジョリティーに変化し、「普通」となるのだ。


 実際、吸血鬼という存在を認識する手段として「人間の生き血が主食」というのは当然のものであると我々は知っている。

 自分たち人間の味覚と同じ感覚で、彼らも血を「美味しい」と感じ取っているならば、なんとも不思議なものだろう。

 自分の体内を流れる血液が「おいしい」という対象ともなれば、想像し難いのも無理はなかった。


「ちーちゃん、お話中悪いんだけど、次のオーダーお願いできる?」

「あ、はい! すみません」


 湊の呼びかけにちはるは我に返る。

 そして、そっと掴まれていた腕を振りほどき、失礼しましたと吸血鬼――シンに向かって笑みを浮かべてみせた。

 急ぎ足でその場を去って行く。


 このまま吸血鬼という存在に脳内を侵されていくのは心外だ。

 そう思いながら次のオーダー元へと歩を進ませるが、やはり自分の思考を占めるのは吸血鬼について。なんともファンタジーな頭と思えど、止まらない。


 ふと聞こえた、背中越しの笑い声は、気付かないふり。警鐘音は、音を刻まない。

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