Episode.02 "It" is in Hiding Behind Me.
星が
いつもより強く輝いているように見える星が、自分の手に届く位置にあるような気がしてワクワクしてしまう。一方、届きそうで届かないもどかしさも生まれるのだけど。
お疲れさまでした、と告げ、レストランを後にした。身体全体を襲う気だるさに侵されながらも、なんとか気力で背筋を伸ばす。
そうしてふと、すっかり暗くなった空を眺めてみれば、幾数もの星が揺らめき、闇に色を与えていた。
きれい、ね。
ちはるはゆっくり歩きたい気持ちに駆られながらも、足早に
夜空は美しい。心を穏やかにさせ、ずっと見つめていたいと思わせてくれる。
吸い込まれそうな輝きはまぶしく、魅惑的な色で誘い出す。
しかし、帰り道であるこの路地は、街灯の少ない裏道。誰かの
何も起こらない可能性の方が高い。
けれど、何かが起こる可能性もある。
ただでさえ、夜道というのはどこか不気味なもの。
誰かに追われている感覚に襲われるだけでなく、付随して生まれ出る焦燥感は、もはや心臓を破裂させる勢いだ。
おまけに夜は静寂が包みこむ。心拍音がやけに耳に響き、恐怖感と孤独感に拍車をかける。
近くを光の点が通っただけでビクリと肩を揺らしてしまうくらいには、警戒心が強くなっていく。
コツン。
「っ!」
突然、だった。
靴の音がコツン、と背中から響き渡った瞬間、それが己のものではないとちはるは直感した。その直感が正しいか否かは別にして、本能が
ちはるは途端に、かつてないほどの
全身が震えるような、恐怖だった。
これでも高校時代は運動部だっただとか、体力診断ではA判定だっただとか、そんなことはどうだって良く。
後ろの恐怖が何者かだとか、本当に靴の音だったのかということさえ、どうでも良い。
ただ、ただそうだ――胸を突き刺すこの恐怖を、早く
走っても走っても命を掴まれている感覚。逃げても逃げても追われている感覚。
それはまるで夢で見る、終わりのない階段のようで。
「はぁ、はぁっ……!」
どう走れば家に着くかだなんてシミュレーションは、今のちはるにはできなかった。
己のほとんどを支配しているだろう本能と、数年間通った道のりを覚えているだろう体に全てを預けるのみ。
もう追いかけてきてはいないかもしれない。そもそも、最初から自分を追って来る者などいなかったかもしれない。
それでも、そのような「可能性」をいくつも脳内でかき回せるほど、彼女の脳は今、正常ではなかった。後ろを確認できる余裕もなかったし、確認しようとも思えなかった。
だって、もし後ろを確認して、恐ろしいものがこちらを狙っていたら――そう考えるだけで、身体が震え上がって叫びだしたくなる。
角を曲がり直線を行き、また角を曲がって坂を上がる。景色など全く視界に入っておらず、脳内も真っ白だった。自分がどのようにしてここまで来ているのかも分からない。いつもの道なはずなのに、見慣れぬ景色に思えてしかたがなかった。
もっと速く、速く、速く――!
勢い良くアパートの敷地に向かい、最大速度で鍵を開けた。そうして精一杯の力で重量のあるドアを開閉すれば、また自分史上最高最大速度で鍵を閉める。
ハァ、ハァ、と肩で息をしながら部屋に駆け込んで灯りをつければ、ようやく心を落ち着かせることができた。
そして、自分の部屋を確認する。
ああ、帰ってきた、と。
いつも自分が寝ている木製のベッド。掛けられたワインレッドの布団には百合の花が描かれている。
そっと視線を動かせば小さなローテーブルが目に見え、やはり自分の
朝に紅茶を飲んだ洗い忘れのティーカップ。脱ぎっぱなしのチェック柄のパジャマ。テーブルの上に置かれた読みかけの本――そこには、自分の
ふぅ、とため息ひとつ。そうして、落ち着いた脳は日常を認識する。
もう恐怖感は、どこにもなかった。緊張感は未だあるものの、先ほどのように張りつめた感覚はもうない。
「……嫌になる」
何もないことは理解していた。それでも、“突然襲ってきたもの”がただならぬ威力を秘めていたような気がしてならなかった。
いや、分かっている。自分の持つ恐怖の感情とやらに振り回されてしまっただけだ。
言うなれば、自分が勝手に生み出した感情に食い殺されていただけ、か。
しかし――しかし、だ。
今日はいつもとちがった。あえて言い訳をするならば、今回はいつもとちがう強大な恐怖感だった。
馬鹿らしいと思えるほどに、自分は全力だった。意味のわからない恐怖の感情に怯え、意味のわからない存在から逃げていた。
「おちつけ、わたし、おちついて……」
独り言を繰り返すことで、心臓の高鳴りを抑え込む。
それがまるで無理やり日常と同化しようとしているようで、自覚した己の脳が「そうすることこそ非日常の表れだ」と嘲笑った。
どくん、どくん。聞こえる心臓の音がやかましい。
先ほどの恐怖を思い出せと叫ぶように、鼓動が鳴り止まないのが耳障りだ。
きっと、昨日読んだこわい物語が影響しているだけだわ――そう言い切れるのは、非日常というものに疎いからなのかもしれない。
「と、とにかく、お風呂に入ろう」
まだ、高揚感はある。こうして独り言でもブツブツ呟いていないと、怖かったりもする。
だが、日常の流れを今ここで絶つことの方がもっともっと恐ろしかった。
どくん、どくん。
鳴り止まぬ鼓動を振り払うようにして、入浴の準備に取り掛かる。パジャマとバスタオルを持ち出し、洗面所へ向かう。
ふ、と視界に入り込んだ大きな鏡に、何かが映りこんでいそうで再度心臓が爆発したが、ごくりと唾を飲み込むことで、勘違いした脳を覚ますことに成功した。
「あ、やだ、新しいシャンプーに変えるんだった」
ドキドキとうるさい心臓を意識の端で認識しながら、ちはるは意図的に大きく独り言を呟いた。
いつまでも誰かに見られているような、追いかけられているような、狙われているような、そんな感覚が拭い切れず、それでも払拭しようとする脳が独り言をこぼさせた。
「部屋にもどらなきゃ」
床を進む小さな音を響かせて、いつものように何の覚悟もせずリビングの扉を開いたちはるは、視界に突然入りこんできた非日常に、言葉を失い停止するしかなかった。
「っひ……!」
肩に着くか着かないかくらいの艶やかな黒髪。片目は包帯に覆われているものの、反対側から鋭くのぞく
鼻筋の通った端正な顔立ちは、きっと見る者を魅了することだろう。
上半身には白いコートを身にまとっているだけで、ほどよく鍛え抜かれた
そんな存在が、赤いベルトをつけた黒い革のパンツを履いて、長い足を見せつけるように窓辺に背中を預けていた。
半月を背景に、開かれた窓の前で存在するその男。
「だ、だれっ」
冷静な自分が、情けない声だと分析した。
しかし、見知らぬ男が変わった出で立ちで、自分の部屋に入り込んでいたのだ。情けない声も出るというもの。
泣きそうに震えた声は自分のものでないかのようにか細く聞こえたのに、確かに自分から発されていた。
それを認識すれば余計に、今度こそ確かな恐怖だった。
赤い隻眼がゆらりとちはるを捉える――その瞬間、全身にゾクリと悪寒が走った。
命を掴まれている感覚。これこそが、恐怖。捕食者のような視線、その先には自分がいて――。
圧倒的な力の差だった。言い訳のしようもない、明確な不等号が生まれていた。
が、ちはるの頭はやけに冷静だった。
自分が生み出した恐怖感に振り回されていた先ほどの方が、もっとパニックになっていたし、もっと「恐怖」に怯えていた――冷静な彼女の脳がそのようにこの状況を認識する。
どうしたら逃げられるか、どうしたら切り抜けられるか。
じっと見つめてくる男からは一度も目を離すことなく、思い出せる限りの記憶を引きずり出して、家具の位置や家の周辺事情から逃げ道や脱出方法を考える。
それもできるだけ早く脳を回転させて多くのパターンをイメージし、シミュレーションを行っていく。
今のちはるの状態は、脳内真っ白で何も考えることのできなかった先ほどの脱走劇とは正反対だった。
恐らく正確に心から脳が現在の状況を理解していないだけだろう。
――いや、ちがう。
状況を言葉で間接的かつ理論的に解しているだけであって(言葉を記号として見ている感覚だ)、これらを直接的かつ感情的に認識していないからなのだろう。だから、恐怖というものがすり抜けて、心まで届かない。
でなければ、
それでも、ちはるが今持っている勇気にも似た感情は、彼女にとっては本物なのだ。
そんなこちらの状態に気がついたのだろうか――それとも全く関係はないのか。
目の前の男は口元に小さな笑みを浮かべながら、その整った唇を震わせたのだった。
「おっと、怖がらせるつもりはなかったんだ、お嬢さん」
男が
「恐怖に怯える姿もなかなかそそられるが、アンタに興味が湧いて来てみただけで、特別怖がらせるつもりはなかったんだ。悪かったな、意図的じゃない、許してくれるかい、レディ」
「っ、ストーカー!」
それはもう反射的だったといって良い。気付いたときには思わず、その単語を叫んでしまっていた。
裸にコート。なんとも卑劣な格好をしていて怪しいこと極まりない。確かに変質者だ。
極めつけに他人の部屋にまで上がりこんでいるのだから、『ストーカー』は的確だろう。
とは言え、変質者に変質者だと叫ぶのは得策ではない。
いくら相手が
ハッとしたちはるは、途端に顔色を悪くした。大変なことを言ってしまったと思ったのだ。
そんな彼女の心情に気がついたのかもしれない。男は少しだけその隻眼を細めてみせた――しかしそれは一瞬のこと。
すぐに心外だとでもいうような顔で、両手を上に挙げてみせるのだった。
「おいおいお嬢さん、いくらなんでもそりゃねぇよ。確かにアンタを追ってここまで来ちまったことに関しては、少なからず悪いとは思ってるけどさ。だが、俺はストーカーなんていう外道と一緒じゃないんでね」
何やら弁解を始めた変質者に、ちはるは眉を寄せる。
たしかに、目の前の彼は「これぞまさに美男子」と言って良いような容姿。
王子と呼ぶにはいささか雰囲気に
しかし、だからと言って不法侵入を許す理由にはならないし、外道云々という彼の弁明は的はずれに他ならない。
「ど、どうして私を追ってきたの」
それでも、彼の芝居がかった口調は、どこかちはるから恐怖心や警戒心を失わせた。
確かな自信と余裕を持った態度や振舞いが、彼女から負の印象を取り除いたのかもしれない。
「アンタが俺の気配に、無意識とは言え、気がついたからだぜ」
「え?」
「やっぱな」
男はニヤリと口元を歪めた。そんな彼の様子に、ちはるは思わず顔を歪める。
説明をくれはしたが、その意味が理解できないのでは“説明”として意味がない。
そんな不満な様子に気がついたのか――いや、恐らく意図的にちはるが理解できない言い方をしたのだろう。男は明らかに愉しんでいる色を瞳に映し、くつくつと喉を鳴らして笑った。
それがまた、ちはるの不満に火をつけていくのだが、男はそれが目的とでもいうように笑いを続けた。
一方、男が説明した内容は事実だった。
男にとって自分の気配をただの人間に悟られてしまったことは、非常に驚くべきことだったのだから。
そう――ただの人間に、だ。
これまでも彼の気配に気づいた人間は何人もいた。気付いたといっても無意識的に『何か』を恐れる程度であったが、確かに気配に気づけた者はいたのだ。
だが、注目すべきは、気配に気づけることではない。
目の前のこの女ほど、あからさまな態度で気配に気づき、あまつさえ、それから逃げようとした者はいなかったのだ。
だから、男は興味が湧いた。
わけがわからないながらも全速力で、彼の持つ特殊な気配から遠ざかるように必死に逃げて行ったこの女に――恐怖を振り切ろうと闇雲に走り、なんとかして『非日常』を遠ざけようとしたこの女に。
「あ、あなたの気配だなんて、そんなもの知らない。だって、何かの気配を感じるなんてマンガみたいな能力、持ってないもの」
ちはるは戸惑いと不安を隠しきれない様子で、瞳を揺らしながらそう告げた。
本能的に危険を察知することは生き物としての能力。あるにちがいない。しかし、その危険意識が持続するかと言えば、人間には難しい――男はそう思っている。
なぜなら、人間には野性的本能というのが薄い。そのため瞬間的に危険を察知しても、危険の対象が何なのかが明確に分からないかぎり、それを『危険』と認識しないからだ。
特に、命の危険を認識すること自体、基本的にはありえないと考えて良いだろう。人間の世界とはそのようなものだと、男は知っている。
「当たり前だろ。アンタがそんな能力持ってたら、それはそれで驚きだ」
ははっ、と声を上げて笑ってみせた男の、なんとも嫌味な態度だろうか。
きっと彼はいつも誰かを挑発しているのだろうと、妙に確信的に思った。あながち外れではないのだが。
「とはいえ、せっかくこうして顔を合わせたんだ。挨拶の一つでも交わすのが礼儀ってもんだろう?」
「あ、あいさつ? そんなこと……」
反論しようとするちはるを無視するかとごとく、彼は手を差し出した。握手、という意味だろうか。
それでも、素直に握手をする気にはなれなかった。握手をするには、彼により近付かなければならないのだ。
「まあ、アレだな。不審者に近付くなんざ怖いよな」
当たり前だ。
何の意図があって挨拶を望んでいるのか。騒がしい今の頭でその答えを見つけられる気はしなかったが、身を守ろうとする彼女の本能は、あらゆるシチュエーションを考えることでそれを成し遂げようとしていた。
が、ちはるがそんなことを考えている間に、彼はふと、その長い足を動かした。
その様子を警戒心丸出しで見守るも、どうしたらいいのかわからないのも事実だった。なにより、地面に縫い付けられているかのように、足が言うことを聞かない。
「ま、来れねーなら俺から行くんだけどさ」
ひどくゆったりとした動作であるのに、避けるには身体が動かなかった。
異質な空気――その気配が、どんどんちはるを見つめたまま距離を縮めてくる。
恐ろしい――かつてないほどの恐怖に囚われる。
それなのに、逃げだせなかった。
男が目の前にきた。逃げ出したい気持ちに襲われているのに、手足は動かない。
そうこうしていると、男が黒い革の手袋をしたその手を、突っ込んでいたポケットから抜き出した。その行為に、一瞬肩が揺れる。
男がその長い指でちはるの頬に触れ、ゆっくりと撫で下ろした。瞬間、ゾクリと何かが背中を伝うような感覚を覚えて、ちはるは自分の心がわけのわからない感情に支配されようとしているのを感じ取っていた。
それは帰り道に感じた悪寒とはちがう、どこか
「あな、た……何、よ」
声が震える。そんなちはるの様子に、満足そうに細められた紅。
これ以上、近付いてはいけないと。これ以上、関わり合ってはいけないと。
本能が告げる。本能が叫ぶ――彼は、危険だと。
それでも、どこか安心した。まるで、こうなることが決められていたかのように。まるで、こうであることが当たり前のように。ただただ、彼の赤に囚われていた。
「吸血鬼だよ、はじめまして。かわいらしいお嬢さん」
甘美なテノールが響いた。
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