Episode.01 It is just folklore.

「ちーちゃん、これ3番テーブルに運んでくれるかな」

「あ、はい」

「一番奥の窓際席、三人家族のお客様だよ」


 やさしい風が頬を撫で、鳥たちの唄声うたごえが聴覚に溶けこむ。広がる蒼穹そうきゅうは一点の影さえなく、木々のざわめきは自然の作りだすオーケストラ。

 そんな良き日を作った世界のある場所に、とある木製の建物があった。

 丸太の木が積み上げられて出来たその建物。オシャレな外観が人を惹きつけ、お客が後を絶たない。

 庭にも色とりどりの花が咲き乱れ、ずいぶんと美しい。立てかけてある黄色いジョウロが、またどこか風情を感じさせる。


 ここは小さなレストラン。

 従業員の愛想が良く、アットホームな雰囲気で有名だ。

 テーブル上に並べられている料理の数々もまた美味なもので、魅力のひとつとなっている。


「店長。まだお昼前なのに今日も忙しいですね」

「ありがたいことだよね。君も、いつも助けてくれてありがとう」


 女性従業員のそんな言葉に、店長と呼ばれた男は朗らかな笑みをこぼした。

 ヒマワリのように元気な印象はなく、だからと言ってスズランのような儚さもない。穏やかなその微笑みに釣られるようにして、女性従業員も口元に笑みを浮かべれば、そこは一瞬にして温かな空間となった。


 ――高槻たかつき みなと

 三十路みそじの成人男性だ。やわらかな物腰にふんわりした穏やかな雰囲気、そして、静かにやさしく微笑む姿は、大人の男性ならではの余裕が窺える。

 何より、その容姿。

 茶色のサラサラとした髪の毛に、鼻筋の通った端正な顔立ち。つり目とはほど遠いその目元は、成人男性にしてはやや不釣り合いに幼さを感じさせるが、彼の柔らかな印象はこれあってこそと言えるだろう。

 外観や料理の味ももちろんだが、高槻湊という店長の人柄や存在そのものが、客を惹きつけているのも否めない事実である。


「湊さん、大変です」


 そんな彼を慕うのは、何も客ばかりではない。そこで働く従業員も、親しみを抱き、彼を頼るのだ。

 今回もまた一人、彼に助けを求めてその名を呼ぶ者がいた。それは「大変だ」という割には冷静で落ち着いた女性の声だった。


「ん、なにかあったの」

「大きなことではないのですが、私にとってはとてつもなく大きな事件です」

「と、言うと」

「運ぶたびに水がこぼれます」

「……ちーちゃん」


 湊が困ったように苦笑いを浮かべた。それに釣られるようにして、ちーちゃんと呼ばれたその女性も眉を寄せる。


 先ほど、湊に3番テーブルに料理を運ぶよう頼まれたのが、この『ちーちゃん』だ。

 彼女は数日前から人生初の飲食店でアルバイトを始めたばかりの超ド素人であり、まだまだ仕事に慣れていない新人であった。

 だからなのか。トレーの上に液体の入ったものを乗せて歩くのは、彼女にとってらしく、運ぶたびに水をこぼして歩いてしまっていた。


 椎名しいな ちはる。ある大学に通う女子大生だ。


 大学生らしくメイクされたその顔はいたって普通。おまけにスタイルだって、可もなく不可もなくといったところか。

 ゆるりと巻かれた茶色い髪の毛は胸元まで伸びており、多少なりとも大人っぽさを感じさせる。眉間みけんにシワさえ作られていなければ、もう少しとして絵になっていたことだろう。


 トレーの上に、運んでいる水をコップからピチャピチャこぼして歩いている、という特徴は、この際容姿でないのでスルーしたい。


「ちょ、新人ちゃん、俺への水、なくさないでくれよー!」

「全神経を集中させ、最大限の努力をしたいと思います。が、こぼれます」

「いやいやちーちゃん。俺と代わろうか」


 湊のにっこりをいただいてしまったちはるは、渋々彼にトレーを渡し、恨めしそうに睨んだ。

 そんなちはるに気がついた客が「トレーを睨んでもお前さんのスキルはどうにもなんねーよ!」と豪快に笑えば、店内にもどっと笑いが沸き起こった。


「ここに来るバイトは、いっつも一癖ある奴ばかりだからよ。なんつーか、何やっててもだいたい許してしまうっていうか、慣れちまったよな」

「それに新人さん、なんか見てて面白いし」

「ううう情けない……」

「ははっ、歩き方から学ばねーとな! 俺の娘もそろそろ自力で立って歩けそうだぜ!」

「比較対象がそこなら、もはや赤ん坊にかえります……」


 どの客も皆、非常に寛大だった。そのため、未熟なちはるにとって居心地の良いものだった。


 数々の笑顔に囲まれ気恥ずかしさを抱えつつ、ちはるは客から聞いたオーダーを伝えに厨房へと向かう。


「ちはるちゃん、上手くやってる?」


 厨房で働いている従業員の一人が、ちはるの様子を見ながらそう尋ねてきた。とても優しい目をしている中年男性だ。

 ダンディーな雰囲気をかもし出している彼は、実は厨房を取り仕切る料理長で、その腕前は世界的に高く評価されている。


 ちはるはそんな彼の言葉に、「水とかスープをこぼさずに歩けません」と小さく苦笑いをする。

 表では少々ネタになっているが、申し訳無さを感じないわけでは決してない。情けない思いでいっぱいなのだ。

 皆が良い人だから助かっているものの、もし怖いひとが相手だったら――そう思うと、今の状態ではさすがに肝が冷えるというもの。


 それを聞いた料理長が、食い付くように意地悪げな笑みを浮かべた。


「お、なんだなんだ。俺に水かさを減らせってか?」

「あ、それもありがたい」

「ははっ、んなことできるか! 俺は料理がベストな状態で提供したいんだよ」


 そう言ってクシャリと目元にシワを作り、人好きのする笑顔をみせた料理長に、ちはるも一緒になって苦笑いでない笑みを灯してみせた。


 湊はそんな会話を厨房近くにあるレジの場所で聞きながら、小さく笑う。

 新人であるちはるが、早くこのレストランに馴染んでくれればと思っていたのだ。今、こうして彼女の様子を見る限り、ずいぶん打ち解けてきたように思える。


「新人さん、仲良くしていけそうですね、湊さん」

「そうだね。これからもよろしくね」


 そう言った客から伝票を受け取り、ほっと息を吐く。大丈夫かと心配していた湊だったが、ちはるの笑顔に安堵あんどした。

 周囲の人と上手くやれそうだと思わせる彼女の笑顔に、水をこぼした事件は水に流し、今後も丁寧に指導しようと気持ちを固めた。


「そう言えば、最近吸血鬼のドラマやってますよねー」

「ああ、やってるみたいだね」

「店長、見てます?」


 話しかけてきた常連客に向き直り、にこりと笑みを浮かべる。


「確か、bloody knightだっけ」

「そうそう! 血の夜っていう吸血鬼らしい意味と、血の騎士っていう吸血鬼がヒロインを守るストーリー的意味とを、かけ合わせてるらしいですよ」

「えー、そうなんだぁ」


 目の前の女性二人が話す様を、湊は口元に笑みを携えたまま聞く。


「吸血鬼って、ノスフェラトゥって言うよね」

「ノスフェラトゥ?」


 湊の呟きに、キョトンとした表情をみせる二人。


「生ける死者。つまり死者の霊を意味する言葉だよ。元々吸血鬼っていう種族がいたのか、死者が何かで力を得て吸血鬼になったのが始まりなのかは分からないんだけどさ。少なくとも小説や伝記においては、吸血鬼は生ける死者って言われたりしてるよね」

「へぇ。でも昔から吸血鬼の存在って語られてるし、そう思うと起源にあたる吸血鬼って、少なそうですよね。血を吸われた人も死んでまた吸血鬼になるんだから、元は人間な吸血鬼の方が多くなっちゃってそう」

「え、けど吸血鬼って不死説あるから、そんな簡単には始祖もいなくならないよ」

「うわ、なにソレ、複雑」


 吸血鬼など所詮しょせん、伝説でしかないのだから、知識に正しい正しくないは関係ないだろう。

 だが、知識を総動員させて、何らかの説に意味を持たせようとしているその姿を見ると、吸血鬼という存在が彼女たちの興味を引いているのだと分かった。


「ヴァンパイアのヴァンプの部分には、男を誘惑するだとか妖婦ようふって意味があるから、ヴァンパイアは本来女なんじゃないかって説がありますよ」


 厨房から料理を取り終え、客に渡し終えたちはるが、レジの近くで話に入り込んだ。


「え、そうなの? うわー、女が吸血鬼だったら一気にポイント下がるわぁ」

「ちーちゃん物知りだねぇ。さすが文学部」

「ありがとうございます」


 物知りなちはるに感心する湊の一方で、当の本人はさほど興味のなさそうな様子でレジの管理に回る。

 ちょっと苦笑して、彼女たちの会話に耳を傾けた。


「誘惑かぁ。ドラマでも吸血鬼ってずいぶん美形だよね。確かに誘惑されたい、と思っちゃう」

「ドラマとかは美形じゃなきゃ商売になんないってのもあるでしょ」

「夢のないこと言わないで。吸血鬼役の人、めっちゃカッコいいし、ほんと吸血鬼最高設定だから」

「むしろイケメン吸血鬼しか信じないまである」

「ははは………」


 ヴァンパイアのどこが魅力的なのかしら。

 女性二人の会話を聞きながら、ちはるは疑問を脳内に巡らせていた。

 それは彼女たちの意見に反して、というよりも、吸血鬼という存在の魅力について文学的側面から考察する、という意味に近かった。


 彼女たちが吸血鬼に惹かれるのは、ドラマの吸血鬼役が格好いいからだとか、血を吸う行為に官能を覚えるから、というのが大きいだろう。漫画や小説でも吸血鬼ものはあるが、多くはイケメン吸血鬼が女性を虜にする設定となっている。

 もちろん、男性向けでは可愛い幼女の吸血鬼や、妖艶なお姉さん吸血鬼、はたまたロリババァと呼ばれる見た目幼女、年齢百歳超えなどといったものも多く見られるが、いずれにせよ『吸血鬼』というワードを聞いて連想するのは、端正な顔立ちのイケメン・美女設定のそれである。

 そのため、彼女らが夢を抱くのも無理はない。ちはる自身も、そういった設定から始まる妄想の魅力に関して、否定はできない。


 しかし、実際に吸血されれば死んでしまい、太陽の光を浴びられなくなる窮屈きゅうくつな存在になってしまう、というのが吸血鬼に関する一般説。

 人間として普通に長生きしたいちはるには、吸血鬼になってまで生きることは理解できなかった。

 だからこそ、吸血鬼に多大な憧れは抱けなかったし、入り込むほどの魅力も感じないのだ。


 いや、小説の物語として楽しむぶんには非常に良く、自身も愛読しているそれがあったりもするのだが。

 憧れだなんて。そんな、非現実的なものに。


「じゃあ、湊さん。それと……ちはるちゃん? また来ます!」

「美味しかったです! ありがとうございます」

「あ、ありがとうございました!」

「こちらこそ、お越しいただきありがとう。またお待ちしています」


 二人組の背を見送りながら、ちはると湊は頭を下げる。そうしてまた、忙しく動き始めた。

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