亡骸にキス

一之瀬ゆん

Chapter. 1 Qua la mano

Episode 00. Prologue

 ぴちゃん、ぴちゃん。

 水の上を静かに歩く影。その水は闇夜に不釣り合いな、鮮やかで真っ赤な色だった。


 一人の人間が横たわっており、水上を歩く影に向き合う、別の真っ黒なそれがいる。

 暗闇にひときわ目立つ真っ白いコートと、射抜くような隻眼せきがんあかが、血の色と相まって奇妙に浮かんで見えた。


 真っ白な包帯が右目を覆い、真っ赤なひとみが世界を映す。時折、鋭く伸びた牙が口元からうかがえ、この場の奇妙さを強調していた。

 が歩くたび、水が音を立てて存在を主張する。

 あらゆる生き物が息を止めたかのような夜には、この水のこそが「不気味」を引き連れていた。


 ──月が、きれいだ。

 影の目元も、ここぞとばかりに弧を描く。

 鋭い赤眼が、きらり。闇夜を照らすその様こそ、ああ、月がきれいだと表現できるだろうか。


 コートの下から覗く、ほどよく引き締まった男の上半身を見ると、存在自体がまるで精巧に作られたお人形のよう。

 女性のように美しく端正な顔立ちは、それでいてとても、雄としての魅力を備えているようだった。


 嗅覚を刺激する匂いは、例えば性欲を刺激する薔薇ばらいろどりで。

 例えばそう、夜に効力を発揮する月下香げっかこういろどりで。


「おや、おままごとのキャスティング中かい。素敵なヒロインの誕生じゃねぇか。血で染められて、よりいっそう、イイ女の色気に拍車がかかってる。着させてもらっちゃって、準備は万端ってとこかな」


 からかうような口調、意地悪く上げられた口角。

 声の主はパンツのポケットに両手を突っ込み、煉瓦れんが作りの壁にもたれかかっていた。


 教会の壁はおごそかな雰囲気をかもし、悪を寄せ付けぬ救世主の光を掲げている割には、何にも寄せ付けないほど鋭く獰猛どうもうな牙を出して威嚇いかくしているようにも見える。

 ああきっと「ヒロイン」もには、祈りを捧げて何になるのかとつばを吐きたい気持ちになったことだろう。


 教会はただそこにたたずむだけで、救世主にはならないのだから。


 耳元に光る白いピアスに、胸元を彩るシルバーネックレス。発された声は青年らしい幼さを残した、どこかエロティックなテノールだ。

 自信満々に浮かぶ紅は、挑発的にきらめいている。そんな紅をもってして、青年は厳格な顔つきの男をしっかりと見ていた。


 清らかな聖域とも言える場所に寄り添うこの存在の異端さと汚らわしさが、教会を飲み込むほど強大な力であることに気づける者は、どれほどいることか。


半端物はんぱもののくせに、たいそうな口を利く。いや、半端物ゆえか」


 青年に視線を投げつけた男は、気分を害されたとでもいうように、その眉間にシワを寄せた。


「低下した知能では、を見定めることもままならぬか。には分からない、と言うならそれもまた仕方ないが」

「おっと、そんなに怒んなよ。それ以上余計なシワが増えたら困るだろ。年食ったジジィにゃ何の価値もない上、堅物かたぶつ老害じゃ世界もごめんだ」


 途端とたんに、鋭く伸びた爪が青年を襲う。

 オールバックに仕立て上げられた金色こんじきの髪が少し崩れ、男の顔に垂れた。青年を睨む彼の紅が、憎悪ぞうおきらめいている。

 隻眼せきがんの青年は男の攻撃に「うわ」と一言もらしたが、ついでに軽口を叩く余裕はあるようで、「男の更年期障害かよ」とこぼし、軽やかなステップで避けてみせた。


 本当に余裕なのだろう。

 たわむれるようにかわす姿に、焦りのひとつも見当たらない。


「オジサンに追いかけられて喜ぶ趣味は持ち合わせていなくてね。悪いがアンタとの鬼ごっこはどうにも気分が乗らねぇ。どうせならさっさとそのヒロイン叩き起こして、俺に鬼ごっこを教えてくれよ。半端モンゆえ、鬼ごっこのやり方がわからなくてね。その女に教えていただきたいってわけ」

「シン……私を馬鹿にしてくれおって」

「おー、苦虫潰したような悔しそうな顔も、女ならそそられるんだけどな。……残念ながらクソみてぇなおっさんだ」


 心底嫌そうな顔をした青年──シンは、たいそう大げさにため息を吐いてみせた。

 生意気を──男から放たれた台詞にシンは表情を一転、たのしそうな色を浮かべる。


「オジサンもさ、血が吸えなくなったらオネエサンかママのおっぱいでも吸ってりゃ満たされるんじゃねーの」

「私を貴様と一緒にするなよ」


 心外だとでもいうように、表情と声色の両方に怒りを込めた男に対し、くく、とシンは喉の奥で笑うだけだった。

 チッと舌打ちを一つ送りつけた男は、「貴様と遊ぶ時間はない」と低い声で威嚇いかくする。


「まーてまてまて、なんで怒るんだよ。いまここで女捕まえて強姦。むさぼるように犯して血を吸ってたのって、どちらサマ? おっぱい舐め回して満足はできたかよ。まぁ動かなくなってる女を見る限り、さぞかし甘くて旨かったんだろーね。ごちそーさま」


 愉快、という感情を乗せて送られたセリフに男が歯ぎしりをする。

 ざわ、と風が吹き、周囲に危険を知らせたようだった。


「俺と遊ぶ時間がなくなるくらいだ。たっぷり遊べただろ、


 そんなシンの台詞が引き金だった。


 男が爪で切り裂くようにシンに向かって2、3度、勢い良く手を振り下ろせば、シンはそれに合わせて後ろに体を逸らし、一歩下がった。

 そして、次の男の一振りでバック転を決める。すぐさま手を地につけ、長い足を回して男の足を払う

 ハッとして避けた男に、ヒューッとからかうようにシンが口笛を吹けば、男は彼を思いっきり睨みつけた。


「ハッ、気の強そうな表情、女なら最高だったのにな!」

「我等の恥曝はじさらしめ!」


 目にも留まらぬ速さで地を蹴った男は、素早い動きで右、左、右と引っ掻くように攻撃する。シンはそれに笑みを浮かべながら、頭を下におろして避けた。

 瞬間、左から襲い掛かってきた爪に、ヒューッとまた口笛を吹き、余裕綽々よゆうしゃくしゃくとした態度で男の頭上を背中から飛んだシンは、バック宙で地面に降りた。

 音の全くしなかったその着地は、状況がこうでなければ美しく映ったかもしれない。


 そんなシンが、男の方に視線を投げる。

 二人のそれが交わりあって、静かに冷たい空気をただよわせた――その時、シンの口元に凄絶せいぜつな笑みが灯されたのを見た男は、背中に何か冷たいものが駆け巡るのを感じざるをえなかった。


 だから野放しにはできないのだ、と強く思うほどに。


「恥さらし、ね。くくっ、俺が半端モンだからか? まぁ、そうだろうね。だが楽しいぜ、こういうも。せっかくだからよ、俺も坊やと一曲踊ろうかな」

「減らず口を……」

「ははっ、セックスしたがる姿は何ら人間と変わらねぇ! そうしてガキが生まれて、存在を保つ姿もな!」


 たいそう馬鹿にしたように笑うシンに、男はこめかみに青筋を浮かばせていたが、話しても無駄だと悟ったのか、それともここでり合うのは得策ではないと踏んだのか、シンを一睨みしただけで、どこかに素早く消えて行った。


「あーらら、つまんないねぇ」


 殺そうと襲い掛かってきた割には、早い退散だこと。

 残念そうに紡がれた言葉は、まだ戦っていたい気持ちがありありと表れていた。


 浮かぶ月、建物の隙間から見える星。闇夜を照らすその二種は、どこか妖艶ようえんな雰囲気を漂わせている。

 そんな金色に目を細めたシンは、顔に飛び散った誰かの血を、軽く舌を出して一舐めした。もちろん、先ほどの男に強姦され、爪で体を裂かれたヒロインこと哀れな女のものだろうが。


 そして、思っていたよりその血が美味なことに満足する。こりゃ欲しがるわけだ、と。


「災難だったな、アンタ」


 無残な状態でしかばねと化した女の裸体を、軽く一瞥いちべつ

 綺麗な白い肌、長い睫毛。すらりとしたくびれのある体に豊満な胸。血まみれでなければさぞかし美しく、さぞかしイイ女であったのだろうが、今はもう面影はない。


「さーて、と」


 ニヤリといやな笑みを浮かべたシンは、屍はそのままで、靴の音を鳴らして夜道を歩いていく。


 ――どうせ、あの女は


 人間ではなく別の生を授かって、そのままの姿に少しの細工をもたらされ。

 そして、女を犯したあの男を愚かしくも絶対的ぜったいてきあるじとしてあがめるようになって。


 コツン、コツンと靴のおと

 ザー、ザーと噴水が。

 ホー、ホーとフクロウが鳴き、どこかで誰かの悲鳴が動く。

 そんな世界、そんな世界を、シンは静かに味わいながら、そんな世界、そんな世界を、シンは静かに闊歩かっほする。


「おっと、アイツ無防備だなぁ。頼むから男は止めてくれよ」


 開きっ放しの窓、香る人間の紅の色。心の奥底から、抗えぬ本能が叫び出す。


晩餐会パーティータイムと行こうぜ」


 影が、舞った。

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