第一章 四百万の男



 「未来を売って未来を買った」


 ……言葉にすると笑えてしまう


 僕が歩む未来には、未来を買える価値があるのか





 地獄の沙汰も金次第というのは日本の諺だが、西洋には免罪符という物がある。あの世のことまで金でどうにかしようという人間の浅ましさと罪深さはきっと世界中どの時代でも変わらないのだろう。

 ただ仏教徒の友人が語るところによれば、「地獄の沙汰も金次第」という言葉の元の意味は「金さえあればなんとかなる」というようなものではないらしい。原義はと言えば、強欲は身を滅ぼす、金に拘らず徳を積みなさいといったものだったそうだ。なるほど、僧が説きそうな教えである。

 ただ――だとしても、日本には六文銭という伝承もある。閻魔様が賄賂を好むのかどうかは僕は寡聞にして知らないが、最低限の金さえなければ地獄にさえ行けないのだ。

 「……金がない……」

 ぼんやりと考え続けていただけの、それこそ一銭の得にもならない思考を止め、僕は空を仰いだ。

 空は、青い。

 苦しい時は空を見上げてみろ、小さな悩みなんてどうでも良くなる、などと言った格言を思い出す。仮にそれが本当だとしても街角で見掛けるホームレスがあれほど悲惨な表情をしている以上、金がないことは小さな悩みではないのだろう。

 「……金がない……職もない……希望もない……。本当に何もない……」

 ないない尽くしの僕にあるのは中途半端な学歴と一枚の紙切れだけだった。

 A4の紙片の表紙には「奨学金の返済について」と印字されている。大学生という肩書を手に入れる為に背負った重荷、約四百万。幸いにして無利子なので急いで返さなければならないわけではないが、二年後に就職を終えた後は十年以上掛けての借金返済の日々が始まる。

 昼下がり、大学内の西側広場のベンチで溜息を一つ。

 幸せそうに歩くカップルに恨めしい視線を送りながら、買ってもいない宝くじが当たることを祈り、二十歳にもならない内に債務者になった事実に絶望しつつ、就職活動が始まる頃には景気が上向いていることを願う。

 僕の名前は旭ヶ丘久良。

 京都市の私立大学に通う大学生。

 何処にでもいる、ただの債務者だ。





 お気に入りのループタイを弄んでいると隣に座っていた四季が言った。

 「亡くなった人のことを悪く言いたくはないけれど、君の両親は因果な名前を付けたもんだ」

 四季、というおよそ他の聞いたこともないような変わった名前の持ち主には言われたくないと内心毒を吐くつつも、先を促した。

 「久しいの久に、良い悪いの良い、でヒサヨシ。綺麗な響きだけど、『クロウ』って読めちゃうな」

 言われてみればそうだが、こればかりは自分でどうすることもできない。

 「こんな名前だから苦労してるんだ」と両親に文句を言うべきなのか悩むも、僕が数百万の奨学金を借りることになったのは二人が早死にしたからなので名前は関係ない。ただの偶然だ。

 たまたま縁起の悪い名前の人間が奨学金を借りることになった。それだけだ。

 約四百万を借りて僕は大学生という肩書を手に入れた。それは大卒という資格と未来を買ったということに等しい。

 それは、それでいい。

 引き取ってくれた上に仕送りまでしてくれているおじさんおばさんにこれ以上迷惑を掛けるわけにいかない。だから、奨学金を借りたことは納得している。

 ただ、納得したこととは言え、この年で何百万もの借金を背負っている事実は受け入れ難い。両親が死ぬという偶然の結果として背負うことになった借金だ、何かの偶然でチャラになりはしないかと毎日そんなことばかり考えていた。

 「そう言えば、割の良いバイトがあるんだけど、やる?」

 「やる」

 だからだろう――友人のその問いに二つ返事で頷いてしまったのは。

 今のバイト先の書店は今週で閉店することが決まっている。理由は経営不振だそうだ。ちょうど新たなバイト先を探す必要があった。

 何処もかしこも不景気な日本で高賃金のバイトを探すのは難しい。彼、若宮四季はそこそこ裕福な家で育っている。そんな彼が「割が良い」と表現するのだから、まさか最低賃金ということはないだろう。

 「金に困ってるのは分かるけど、答える前に内容聞くべきだと思うよ。臓器売買とかだったらどうするのさ」

 「この際、なくなっても平気な臓器なら売ることも検討する。それで借金がなくなってクリーンな未来が手に入るなら万々歳だ」

 「追い詰められてるなあ……」

 「逆に考えれば『借金を返す度に僕は自由を取り戻している』とも言える。そう考えれば借金返済は未来へと進む行為だ。……こう表現すればポジティブだろ? 笑えてくる」

 「傍から見てると泣けてくるよ」

 苦笑いして四季は続けた。

 「仕事の話だけどさ、僕もよく知らないけど、小間使い? 執事? みたいな仕事らしい。結構激務みたいだけど……」

 「お手伝いさんか。ちょうど来週から夏休みだろ? 金を稼げるのなら、過酷な労働でも我慢するさ」

 「そう? なら向こうには連絡しとくよ。詳しいことは雇い主から聞いてくれ」

 懐からガラケーを取り出し、しばらく操作する四季。やがて僕のスマートフォンが震える。

 届いたメールには電話番号と住所が書かれている。ここに行け、ということか。

 「大変だろうけど、頑張って。生憎僕は手を貸せないし。話を聞くくらいならできるけどね」

 それはバイトに関してか。

 それとも僕の人生に対してか。

 どちらにせよ、金銭的な問題で友人を頼る気はない。

 たとえ一銭にもならずとも、友達というのは値千金のものだからだ。





 目的地は市内北部。

 電話の相手であった若い男性曰く「ちょうど良い、今日来れるなら来い」とのことだった。善は急げ、ということか。

 市バスを乗り継ぎ、終点である神社で降りる。人気のない神社を後目に歩く。穏やかに流れる川では河川敷で子どもが遊んでいる。夏を感じさせる光景だ。

 川沿いを北上し、目印にしていたボウリング場を見つけて安堵する。橋を渡って対岸へ。閑静な住宅街、という表現がぴったりな一軒家と学生マンションばかりの街中を進む。スマートフォンに表示した地図を逐次確認していた甲斐もあり、目的地には迷わず辿り着けた。

 「総合整理サービス」という聞いたこともない業務を看板に掲げているその会社は何の変哲もない三階建てのビルだった。

 チャイムを押し、返ってきた受付嬢の声に「電話をさせて頂いた旭ヶ丘です」と答えると中に入るよう指示される。次いで耳朶に届いたのはロックが解除される音。頑丈そうな自動ドアは予想より幾分かすんなりと開いた。

 正面に受付、手前にソファーという構図は安いホテルのエントランスを思い出させるが、まさか宿泊施設ということはないだろう。受付に座った厚化粧の女性に促され、右手奥の階段に向かう。僕の雇い主(予定)は二階の一室で待っているらしい。

 面談室、と表記された部屋を見つける。すぐには入らず、立ち止まって深呼吸を一つ。

 昔から面接の類は苦手なのだ。初対面の人と話すのも。

 覚悟を決めてドアをノックする。

 「どうぞー」

 向こう側から聞こえるえらく軽い声に驚きつつ、失礼しますと中に入った。そして、すぐに後悔した。

 「やあ、よう来たやん。……旭ヶ丘くん、やっけ?」

 声の主は部屋の中央に置かれた向かい合わせのソファーの片方に腰掛けていた。

 年齢は三十に届かない程度か。シャツにチノパンというラフな出で立ち、暗めの茶髪にピアスとサングラスという見た目。これだけなら若々しい人という感想で済むのだが、袖から見える刺青を加味すると「ソッチ系の人」としか思えない。つまり、暴力を生業とする人間。

 それだけなら良かったのだが、その人の手には黒光りする物体があった。

 人を殺す為の形をした物が。

 一般に、拳銃と呼ばれている物が。

 ベレッタだった。僕の記憶が正しければ、2000年代に開発された新しい型。デザインがそれまでのベレッタと大きく異なっているので区別は付けやすい。あくまで僕の記憶が正しければ、だが。

 「……あ、あの」

 「まあ座ってや。そんな緊張せんと」

 戸惑い視線をあちらこちらへ彷徨わせる僕に対し、彼は関西人らしい気安さで声を掛けてくる。やっぱこんな見てくれやと怖いか?なんて笑ってみせるが、この困惑は出で立ちには関係がない。その手にしている物が問題だった。

 相変わらず腰を落ち着けようとしない僕にようやく彼は察したらしい。

 「……ああ、何緊張しとるんかと思たら、これか。アホやな、玩具やで。ほら」

 「わっ、と」

 投げ渡された拳銃をなんとか受け取る。確かに軽かった。

 本物の拳銃はずっしりと重い、とは小説で頻繁に目にする文言。考えてみれば当たり前だ、鉄の塊なのだから。その重さを実感してみたいとは思わないし、そんな機会がないことを切に祈っているが。

 「よく出来てますね」

 「なんや兄ちゃん、良し悪し分かるんか?」

 「いえ、なんとなく本物っぽいなーと思っただけなんですけど……」

 答えながら銃口を覗き込んでみると、彼が笑った。

 「はは、確かに素人さんやな。多少でも本物に触れたことがある奴は銃口覗き込むなんてこと、ようせんわ。玩具屋に売っとるようなピストルでも目に当たったら失明するんやから」

 「そうなんですか?」

 「あ、あとそれ玩具やけど改造ガスガンやから今もし引き金引いたら脳までぐしゃぐしゃやで」

 「っ――先に言えっっっ!」

 敬語も忘れて慌てて凶器を放り出す。拳銃を受け止めたお兄さんは「冗談やって」と腰を下ろすように促す。

 「弾入ってないさかい、安全や」

 「……改造銃ってところは?」

 「それはホンマや」

 「そっちは本当なのかよ……」

 「物騒な世の中やで、ホンマ」

 何故改造ガスガンを持っているのかはあえて訊かず、異常なまでに座り心地の良いソファーに身体を沈める。この一分ばかりで感情がピンボールのように動いた気がする。どっと疲れた。

 しかし、困ったことにまだ本題に入る前であり――猶更に困ったことに、今から話さなくてはならないのはこの明らかに堅気の人間ではない御仁なのだ。

 「で、旭ヶ丘くん……で良かったか? 四季の友達や聞いたけど」

 「はい。若宮君とは大学で仲良くさせていただいています」

 「そりゃ結構や」

 口振りから察するに四季とこの人はかなり親しい仲らしい。実家が裕福だとは聞いていたがまさかヤの付く自由業じゃないだろうな、と内心で舌打ちを一つ。

 「四季が言うには、随分金に困っとるそうやん」

 「はい……」

 「若いのにどうしたんや。賭け事するタイプにも見えへんけど?」

 「いえ、奨学金が少しばかり……」

 「奨学金? ああ、なるほどなあ。最近の若者は大変やな、借金してまで大学行かんとあかんくて。で、いくらくらいなんや?」

 「ざっと四百万ほど」

 「全然少しちゃうやん」

 仰る通り、ご尤もで。

 少しばかりの借金だったなら理由を付けてこの場から逃げ出しているところだ。どう考えてもこの会社もこの人も、堅気ではない。金に困っていなければ一生関わり合いになりたくないタイプの人だった。

 看板として掲げられていた「総合整理サービス」の意味に今更気付く。何を総合的に整理するのかと思っていたが、恐らくこの会社は倒産整理業務を行っている――つまり、事件屋なのだ。

 他者の揉め事に介入し、合法非合法あらゆる手段を持って事態の整理を行う。それが事件屋だ。言うまでもなくクリーンな仕事ではない。非弁活動は犯罪だ。厳密に暴力団と同一ではないのかもしれないが、一般人からすると関わり合いになりたくないという一点に関しては共通しているだろう。

 「お兄ちゃん、賢いな」

 ふと、目の前の男が笑っていることに気付いた。

 今までも笑みを湛えていたが、それとは違う。全く性質の異なる笑み。子どもを相手にするような笑顔ではなく、興味深い存在を観察する時の微笑。

 気付かれたのだろう。

 僕が気付いたということを、気付かれた。

 「……何がですか?」

 「賢いけど、まだ子どもやな。まだまだ頭の回転の良さがお勉強に寄っとるわ」

 「……この場合、僕はお礼を言えばいいんですかね。それとも不快感を表せば良いのか」

 「好きにしたらええで。正直な感想言うただけやし」

 声が震えそうになるのをどうにか堪え、考える。

 さて、どうするべきか。逃げ出したいが、金は欲しい。金は欲しいが、犯罪行為には手を染めたくない。

 非正規雇用が全体の四割を超えるこの現代社会で社会に出る前から百万単位の借金があることはかなりのリスクでありディスアドバンテージだ。学歴は平均程度。何か特技があるわけでもなく、口が達者なわけでもない。大手企業に就職するどころか、そもそも就職口が見つからない恐れだってある。学問は好きだが、一定の収入を得られる研究職になれるまでにはどれほどの年月と費用が掛かるのか考えたくもない。

 両親が死んだ時からずっと僕の未来は灰色だ。

 いきなり宝くじが当たるか景気が良くならない限り、ずっと灰色のままだろう。

 「悩んどるようやけどな、お兄ちゃん」

 と。

 男の声が思考に割り込んでくる。

 「一応言うとくけど、別に法に触れるようなことさせようと思てるわけちゃうし、第一、まだ雇うって決まったわけちゃうで?」

 「え?」

 「雇い主は俺ちゃうからな。結局んところ彼女がどう思うかやから、ま、これは一次面接みたいなもんや」

 「……あなたの言う『彼女』が雇用主ってわけですか?」

 頷いて続ける。

 「そうや。お兄ちゃんの仕事は『彼女』の身の回りの世話や。こっち来たばかりやしな。色々と人手が必要なんや。まあ、主に炊事洗濯みたいな雑用やろうけど。ただの世話係、なんも心配せんでええで。……しかも、人は選ぶけどかなりの美人やしな」

 美人?

 蹴り破るような乱雑さでドアが開かれたのはそう問い返そうとした瞬間だった。

 きっとこの時のことを僕は死ぬまで忘れないだろう。ありきたりな文言だが、そう言い切れる。

 現れた背の高い少女はその琥珀色の瞳で僕を捉え、次いで言った。


「気に入った。採用」 


 言い放たれた言葉に酷い既視感を覚えた。

 ……音が聞こえたのだ。

 そう、それは天上から降り注ぐようで、けれどやたらに重苦しい響きを有している。

 無音でも確かに聞こえたその音は運命の歯車が回り出す音。

 両親が死んだ日に聞いた、あの音だった。

 




 狼みたいな人だ、と思った。

 英語圏では琥珀色の瞳のことを「狼の目(Wolf eyes)」と表現するのだと聞いたことがある。狼の瞳が琥珀色であることからそういう表現ができたらしい。ニホンオオカミが絶滅して久しく、多くの日本人と同じく僕も狼の実物なんて目にしたことはないが、それでも彼女の瞳を見ると不思議とそう思ってしまった――まるで狼みたいだ、と。

 鋭い眼光をこちらに向けてくる彼女は確かに整った顔立ちをしていた。精悍という二文字が相応しい横顔に、射干玉色のショートカット。年は高校生くらいだろうか? 二十歳を超えているのかもしれないが、化粧っ気がないせいで酷く幼く見える。肌は白いが、ひ弱さが連想されないのは彼女の四肢がこれ以上なく引き締まっているからだろう。男物らしきジャケットにダメージジーンズというコーディネートからは女性らしさは欠片も伺えなかった。

 狼のような人。総評すれば、やはりそうなるのだろう。

 「いやいやローコちゃん、まだなんも話してないやろ?」

 ソファーの男が苦笑いしつつ言う。

 ロウコというのが彼女の名前らしいが、どういう字を書くのかさっぱり見当が付かない。

 呼ばれた彼女は顔立ちと同じくらい勇ましい声でこう返す。

 「雇用主はあたしだ。あたしが採用と言えば採用。そうだろ?」

 「そりゃそうやけどな……」

 そんなやり取りを見ながら気付いたことがあった。

 一つ目は彼女の体躯について。このロウコという女性は僕より五センチ強は大きい。目算で百八十センチ程度。女子としてはモデルでもそういない長身だ。

 二つ目。彼女自身のインパクトが強過ぎて目が行かなかったが、彼女の手には細長い布製の袋があった。竹刀袋、というやつだろう。

 なるほどと独り言つ。明らかにスポーツをやっている人間の身体付きであるのに肌が白いのは、武道が専門だからか。

 「なあ、お前」

 男との会話を打ち切った彼女が言う。

 「え、はい。なんでしょうか」

 「あー、いいよ敬語なんざ。年、同じくらいだろう? お前が年功序列を絶対とする体育会系の人間なら別だが、そういう感じでもないしな。……あー、で、お前。名前は?」

 「旭ヶ丘久良です」

 ロウコという名前がどういう漢字なのか気になっていたので問おうとするも、先んじて彼女が続けた。

 「お前さ、誰かに似てるって言われるだろ?」

 「……へ?」

 「ほら、プロ野球選手の。東海ワイルドワンズの次期エース、背番号19、氷室にさ。一昨日も投げてただろ?」

 「あ、ホンマやな。ちょい似とるわ」

 似てる似てると二人で僕を指差すが、残念なことにプロ野球は詳しくないので、その東海のピッチャーの何某さんが僕と似ているのかどうかはさっぱり分からない。

 「でもアイツはもっと凛々しくて威圧感あるから、ちょっと冴えなくした感じやな」

 余計なお世話だ。

 「冴えないのは冴えない感じだが、でも似てる。だから採用」

 「それは、つまり……僕が好きな野球選手に似てるから採用するってことですか?」

 「そうだけど……何か問題あるか?」

 「いや、他にも色々あるでしょ!」

 「色々って?」

 「それは、ほら、人柄とか……」

 「お前、声高に他人に誇れるような人柄してんのか?」

 「そう言われると困りますけど……」

 そんな長所があればさぞ就職活動も楽なことだろう。

 「じゃあなんだよ。他に何が必要なんだ? あー、そうか。金の話か。……とりあえず前金百万くらいでどうだ?」

 「ひゃっ……百万?」

 「前金として百万渡す。それでしばらく働いてもらう。あたしが気に入れば日給なり月給なりでそのままお前を雇う。気に入らなければ……ま、さよならだな」

 前金だけで百万?

 信じられない条件に頬が引き攣った。百万もあれば奨学金の四分の一が返せる。

 「いつから働ける? あ、いやその前にお前、料理できるか? 掃除は?」

 「人並にはできると思いますけど……」

 「ならいい。で、いつから働ける?」

 「明後日のテストが終わればもう夏休みです。後はどうとでも都合は付きます」

 「いいな、最高だ。じゃあ決まりだな。明後日試験が終わったらここに来い。後のことは長谷さんに聞け」

 「長谷さん?」

 「俺のことやで」

 机の向こう側で件の長谷さんはグラサンを押し上げ、ウインクして見せる。

 「名前も聞いてなかったのかよ、お前」

 「いや、あなたの名前もまだ伺ってないんですけど……」

 「あたしか? あたしは、あー……」

 一瞬視線を外し、次いですぐに琥珀色の瞳で僕を見据えて言った。

 「……斉藤、斉藤狼子だ。狼の子どもと書いて、狼子。ちゃんと刻んでおけよ?」





 試験前。

 必死に最後の追い込みを行う学生達を嘲笑うような気軽さで教室に入ってきた四季は、黒板に書かれた問題訂正の文字列を消している若い掃除婦に労いの言葉を掛け、僕の隣に腰掛けた。

 「一題はハーバーマスについてでしょ? 大学生レベルの問題なんだから、どうせ『公共圏』についてなのにね」

 「その『公共圏』の意味を詰め込んでるんだろ」

 何も、大学という空間は学問に興味のある人間ばかりが集う場所ではない。というよりもむしろ、現代日本における大学は就職予備校かモラトリアム青年の腰掛けに過ぎない。僕や四季のように学問が――ここでは社会学が――好きな人間ばかりではないのだ。

 学問が好きと言えば聞こえは良いが、何の価値も生み出さないという点に関しては僕達も他の学生と変わらない。「勉強が好き」と言うと大層に聞こえるだけで、その本質は車好きや本好きと変わらない。

 僕達のような人間が本当に価値を生み出せるようになるのは研究者になり、論文を書けるようになってからだ。それは電車好きはただのオタクだが、車掌は一つの仕事であることに似ている。プロとアマチュアを隔てる絶対的な差。

 そして言うまでもなく研究者の道を選ばなければ社会学など大した金にはならない。

 人間社会の構成に不可欠だというのに就職活動ではまるでプラスにならないのは哲学や数学と同じである。

 「ところで、どうだったの。仕事」

 緩慢とした動作で机に筆記用具を並べながら四季が問い掛けてくる。僕はぱらぱらとレジュメを捲る作業の手を止めて答えた。

 「斉藤狼子って人に雇われることになった。昼から引っ越しの手伝いに行ってくる」

 「あ、やっぱり狼子さんだったんだ」

 「やっぱりって……知ってたのか?」

 「知らなかったけど、そうだったら面白いなーって」

 「面白い、って……」

 確かに斉藤狼子はユニークな人物ではあったのだが。

 「いいよね、狼子さん。美人だし。胸は小さいけど、背は凄く高いし」

 「お前はあの人より背が高いから分からないだろうけど、あのサイズの女子は僕からすると、ちょっと怖い」

 「そう? でも狼子さんの方は君のこと気に入ると思うけど。君、狼子さんが好きなプロ野球選手にちょっと似てるし」

 「ああ、そう言われたよ」

 「本物はもうちょっと凛々しいけどね」

 「それも言われた」

 一体僕はその東海のピッチャーに対してどういう感想を抱けば良いのだろうか。プロ野球選手と似ているなんて嬉しい、とは特に思えない。

 しかしなんにせよ、たまたま顔立ちが野球選手に似ていたお陰で割の良いバイトが見つかったのだ。いきなり宝くじが当たるとはいかなかったが、偶然というのはやはり、馬鹿にできないものだ。





 定期試験を終え長谷さんの元に向かった僕はのっけから驚かされることになった。

 「そういやお兄ちゃん、着替えとか持って来たんか?」

 「着替え? そんな汚れ仕事をするんですか?」

 最初は何をさせられるのだろう。長谷さんは「こっちに来たばかり」と言っていたはずだから、引っ越しの為の荷物運びかそれとも新居の掃除か、大穴でこの街の案内かと予想していたが、大きく裏切られることになった。

 平然と長谷さんは言った。

 「何言っとるんや自分。お兄ちゃん、今日からローコちゃんと一緒に住むんやで?」

 「…………は?」

 一緒に住む?

 誰と誰が?

 なんだ、それは。初耳だぞ?

 「身の回りの世話なんやから住み込みなんは当たり前やん」

 「当たり前……ですか?」

 「当たり前やろ。自分、ヘルパーさんみたいに毎日通うつもりやったんか?」

 驚きつつ長谷さんは腕を組む。

 既に迎えらしきタクシーは事務所の前に停まっていた。僕が異論を唱えなければこのまま斉藤狼子さんとの新居に直行するはずだったのだろう。

 「そりゃそう思うでしょ……。だってバイトですし、何より昨日知り合ったばかりの男女ですよ?」

 「だからローコちゃん、お兄ちゃんのこと気に入ってた言うてたやん」

 「好きな野球選手に似てるから、でしょ?  それだけで一緒に住む相手を決めるなんておかしいですよ」

 「男やろ、細かいこと言うなや。大丈夫やって。我慢できんくなって襲ってもローコちゃんのことやから許してくれるわ」

 「そういう問題じゃないですよ……」

 ただ改めて問われると何が問題なのかという気もしてくる。生娘じゃあるまいし、百万も貰えるのだから知らない女子と一緒に生活するくらいは仕方ないのかもしれない。相手は美人の範疇には十分入る女性なのだから、女好きの男友達が事情を聞けば贅沢を言うなと怒られてしまいそうだ。

 そんな風に考え始めている自分に気付き、駄目だ駄目だと首を振る。この異常な状況に毒され始めている。

 知り合ったばかりの男女がいきなり共同生活なんて、どう考えてもおかしい。今時テレビ番組の企画でも中々ない。

 「分かった、もう俺は何も言わん。ローコちゃんと直接相談したらええ。通いで世話するか、住み込みで世話するか」

 「多分通いになると思いますけどね」

 そもそも着替えも何も持っていないから泊まろうにも泊まれない。

 迎えの車に乗り込み、揺られること数十分。下ろされたのは市内中部、日活映画館の正面だった。

 長谷さんに渡されたメモを参照し、すぐ近くの三階建てのビルに入る。一階はガレージらしいが、使われている痕跡はほとんどない。野晒しですっかり錆び付いてしまっている屋外階段を軋ませながら上り、最上階へ。チャイムも郵便受も何もない、飾り気のなさ過ぎるドアをノックする。

 「……お前か? 入っていいぞ」

 誰か分かってんのか。

 ……きっと誰かは分かっているのだろう、単に僕の名前を覚えていないだけで。

 溜息を一つ吐いてからドアノブに手を掛けた。ギシリと音を立てながら扉を開き、中に入って後ろ手にドアを閉めた。廊下の先、ロングカーテンの向こうに人影を見つける。

 「いきなりで申し訳ないんですけど相談したいことが、」

 言葉を失った。

 カーテンをくぐった瞬間、時間が止まった。

 そこには――首にバスタオルを掛けただけの全裸の斉藤狼子がいたからだ。

 シャワー上がりだったのだろう。白い肌の上を水滴が流れていくのが分かる。鍛え上げられた肉体はまるで博物館にある彫像のようで、けれども胸部には控えめながら女性らしい柔らかさが見て取れた。

 裸体であっても淫靡さよりも洗練さを感じてしまう。そういったところも、狼のようで。

 「じゃなくて――何が『入っていいぞ』だよ! これ以上なく駄目なやつだろ!」

 怒鳴りながら目を伏せて後ろを向いた。

 本当に何を考えているのだか。

 どうして僕が困惑しているのだか。

 「あー、ちょっとした悪戯だよ。雇用主様からのサービスだと思ってくれ」

 「どんなサービスだ!?」

 「あー、悪い。半分は冗談だ」

 コンクリート打ちっぱなしの飾り気のない部屋にわざとらしく身体を拭く音を響かせ、愉し気に彼女は続ける。

 「もう半分は、実験だ」

 「……実験?」

 「ああ。いきなり女の裸を見て、お前がどういう反応をするのか。それを観察してみたんだ。お前がどういう奴か、少し分かった気がする」

 つまり、試された、ということか。

 彼女の目に僕はどう映ったのだろう?

 色恋に疎い初心な学生か、不測の事態に弱い軟弱者か。得をしたのか損をしたのかよく分からなかった。

 「あー、おもしろ。最高だ。悪かったな。もう振り返ってくれていいぞ」

 「勘弁してくれよ……」

 振り返ってすぐに後悔した。

 まだ彼女は裸のまま、どころか今度はバスタオルすらなくなっていた。

 独楽のように回転しすぐさま目を逸らす。

 「天丼やってんじゃねえよ! 関西人か!」

 「関西人だよ。あー、おもしろ」

 背中にげらげらと笑う声が聞こえてきて無性に腹が立ってきた。おちょくられていると分かっているのに何処か興奮してしまっている自分自身にも苛付く。

 「一連のやり取りでお前に観察力がないことが分かった。あの短期間で身体全部拭いて下着付けて服まで着れるわけないだろ? 大体、服着る時は多少は衣擦れの音が響くだろうに」

 言われてみればその通りなのだが、僕はそこまで細部まで気を遣って生きていない。ただいい加減に学習し、耳を澄ます。服を探す為に歩き回る音や下着を身に着け、ジーンズのジッパーを上げ服を着る音を聞き終わったところで、ようやく僕は振り返った。

 今度ばかりは全裸ということはなく、ラフな格好の彼女が地べたに胡坐を掻いていた。その脇には鍔のない木刀がある。護身用だろうか?

 「で、いきなりで悪いんだが、お前名前なんだっけ」

 「……久良だよ。旭ヶ丘久良」

 やはり覚えていなかったらしい。

 一度会っただけの、名前すら覚えていない異性に対して裸体を晒してしまえる感性は僕には欠片も理解できなかった。

 「久良か……。あー、お前。一応言っておくが、あたしは露出魔ってわけじゃない」

 「さっきのことがあった後だと信用性に欠ける言葉だな」

 「そう言うなって。誰彼構わず裸を見せつける奴じゃないってことだけは覚えておけ。まあ? 見られて恥ずかしい部分があるわけじゃないんだが」

 「…………」

 そんなことを言われ、つい思い返してしまう。

 目の前の少女がどんな身体付きをしていたのか。

 「……エロいこと考えてるだろ?」

 「っ、考えてるか!」

 「これでお前が分かりやすい奴だってことも分かった。それに、あたしの身体が案外捨てたものじゃないってことも」

 「……さっき見られて恥ずかしい部分はないって言ってただろ」

 「それはスポーツマンとしての発言だよ。だらしのない身体じゃない、って意味だ。今のは女としての意味。二回も見たんだ、あたしの言ってる意味……分かるよな?」

 そう。

 彼女の身体は確かに美しかった。まさにスポーツマンというような余計な筋肉がない引き締まった四肢は洗練さを感じたし、うら若き少女の裸だ、卑猥な感情を全く抱かなかったと言えば嘘になる。

 ただ――彼女の身体は古傷が幾つもあった。僕の記憶が正しければ右肩に銃創、左手と脚には縫合痕、脇腹には裂傷痕まで。一瞬、酷い虐待を受けた経験があるのかと疑ってしまったほどだ。

 「傷のことは、」

 「ん?」

 「傷のことは……触れない方がいいのか。それとも、訊いておいた方がいいのか?」

 どうすべきは心底に悩んだ挙句、情けなくも僕は相手に対してそれを問い掛けてしまった。無論、彼女はそんな僕を笑い飛ばす。

 「あー、好きにすりゃいいよ。……でも、あたしが理解したお前の性格から察するに、お前は『こういった重大そうなことはもう少し親しくなってから訊こう』と考えるタイプだと思うけどな」

 「……仰る通りで」

 斉藤狼子。

 彼女は一体何者なのだろう。只者ではないことは確かであるし、このあしらわれ様を踏まえると年上であって欲しいものだが。

 「さて、と」

 立ち上がった狼子は大きく伸びをして、だだっ広い部屋の隅にあるソファーに寝転んだ。三人掛けのかなり大きいサイズだが、長身の彼女が横になるにはちょうど良さそうだ。

 「仲良くなる為に雑談でもするか、それとも飯を食いに行くか、あるいはお前が飯を作るか……。どれがいい?」

 「どれでもいいが、その前に決めておきたいことがある」

 「なんだ?」

 「長谷さんは俺が住み込みで働かないといけないって言ってたんだけど、その辺りどうなんだ?」

 ああ、と再度伸びをして彼女は言う。

 「どっちでもいい。あたしだって何もできないわけじゃない。飯作ったり買い物行ったりするのが面倒だから小間使いが欲しかっただけだ。毎日三食飯作って掃除して風呂沸かしてくれるなら最高だが、無理ならできる限りでいい。勿論、その分給料は安くなるし、お前があまりにも役立たずなら別の奴を探すことになる」

 「そりゃそうか……」

 多く金を稼ぎたいのならば頭を使うか必死で働かなければならない。貨幣ができてから変わらぬ社会のルールだ。

 「じゃあ、こうしよう。とりあえず前金が百万なのは前言ったな? 日給制で、日に一万を基本給にする。そうだな、一食辺り二千円で三食作ったら六千円。それ以外の掃除や洗濯諸々で四千円。これで一万だ。週五日は最低でも来い。週に二日は休ませてやる。金が欲しいなら七日とも来い。他に手のかかることを頼む場合はプラスアルファで手当てを出す。当然どれも経費は抜きだ。……これでどうだ? ちなみにだが、お前には交渉権も拒否権もない」

 「ないのかよ……」

 「あー、あたしの命令を拒否する時は仕事を辞める時だと考えておけばいい。その場合はその日までの給与を渡して解雇、はいさようなら、ってやつだ。安心しろ、『今すぐその窓から飛び降りろ』みたいな無茶な命令はしないから」

 『面白い話をしろ』くらいは言うかもしれないが、と悪戯っぽく笑ってみせる。

 それは関西人にとって結構キツい命令な気がするが、まあ良いだろう。破格のバイトであるのは確かなのだから。

 「これで決めるべきことは決まったな? とりあえず飯を食いに行くか、飯を作れ。外食の場合は勿論自腹だ」

 「キッチンはあるみたいだが、食材は? ていうか冷蔵庫は?」

 「どちらもないぞ。コンロがあるだけで料理器具の類は一つもない」

 「じゃあ買い出しからじゃん……。どうやって生活していくつもりだったんだ?」

 僕の問いに彼女は屈託なく笑った。

 精悍さが崩れ、幼さが前面に出た笑みと共に彼女はこう返す。

 「何言ってるんだか。その為にお前を雇ったんだろうが」

 なるほど。

 それも仰る通りで。

 「じゃあもう昼過ぎですし、今日は外食にしておきましょう。帰りに最低限必要な物を買いに行きます」

 「買いに行くのはお前だけだけどな。あと、敬語に戻すなよ。タメ口でいい」

 「……はいはい。分かりましたよー、だ」

 斉藤狼子。

 突然僕が身の回りの世話をすることになった少女。年齢不詳。鍛え上げられた傷だらけの身体。百万をぽんと出せる資金力。木刀を手放さない性質。琥珀色の瞳。

 彼女は一体何者なのか、何処の誰なのか。

 出逢った時からずっと訊ねよう、確かめなければと思っていたのだが、ファーストフードを二人で食べ、二人で買い物に行き、どうでも良い話をしている内にそんな考えはすっかり何処かへ行ってしまっていた。

 「お前の名前、どういう漢字書くんだ?」

 「久しいの久に、良い悪いの良いだよ」

 「あー、『クロウ』って読めるな。良い名だな。名付けた奴に感謝しろよ」

 「クロウって読めるのにか?」

 「『願わくば我に七難八苦を与えたまえ』って言葉もあるだろ? 誰の言葉か忘れたけど」

 「山中幸盛だよ」

 ……どうやら僕は、存外にこの斉藤狼子という少女と一緒にいることが嫌いではないらしかった。





 「出会ったばかりの女子と寝食を共にするなんて、仕事であってもありえない」。

 そう考えていたのだが、最低でも週に五日は朝っぱらから出勤し朝食を作り、帰れるのは夕餉を用意した後という現実を前にすると、心はすぐに折れた。毎朝毎晩バスや電車に揺られる企業戦士達に一通り尊敬の念を抱いてから、泊まり込みに切り替えた。

 基本スタイルは月曜の朝に彼女の家に赴き、金曜の夜に帰る形だ。向こうの都合で「明日は来なくていい」と伝えられることもあるが、基本はこうだ。

 六時起床、朝風呂を沸かし、彼女が寝汗を流し終えるまでに朝食を用意する。昼は十二時前後に食べ始められるように調理を始める。夕飯の時間はその日によるが、一日の最後の仕事が彼女が入り終えた風呂の栓を抜くことだけは決まっている。

 掃除洗濯買い物などはこちらの裁量に任されているので、必然的に飯時以外はほとんど自由時間となる。幸いにして僕の趣味は読書と詰将棋だ。そこに秋学期の自習を加えれば時間など幾らでも潰せた。

 「……お前、毎日同じことしてるな」

 「アンタにだけは言われたくない」

 初対面の頃よりラフになった言葉遣いでストレッチを行う彼女、斉藤狼子に返答した。

 彼女がどういう生活をしているかと言えば、存外と規則正しい。

 早朝に起きてストレッチとランニング。それ以外の時間は何かしらの武道の形稽古と木刀での素振りに費やされている。二人暮らしとしても異様に広く、しかもほとんど何もない殺風景なリビングルームの意味を理解する。   

 一日二日出掛けることもあるが、それもごく稀なことらしい。

 「……結局、アンタは何者なんだ? 何処かの道場主か?」

 彼女が買ってきた分不相応に高級な将棋盤を挟んで僕は問い掛けた。

 一人で詰将棋の本を読む僕に勝負を挑んできたは良いが、斉藤狼子はとんでもなく弱かった。まさに初心者に毛が生えた程度といった感じ。戦法も原始棒銀とゴキゲン中飛車程度しか知らないらしい。今は二枚落ちだが、こっちは子どもの頃の夢がプロ棋士だったのだ、正直六枚落ちでも余裕で勝てる。

 「あー、道場主なら鍛錬は道場でやるだろうな」

 覚えたばかりの早囲いを完成させ、満足気に笑う。

 思わず僕は顔を背けて「そりゃそうか」と独り言ちる。彼女が不意に見せる幼い笑みには、どうにも弱い。

 「ま、将棋で例えればあたしは王将だよ。一国一城の主ってわけだ」

 この脳筋具合だとアンタの国はすぐ亡ぶだろうな。

 そんな本音は口にせずに彼女の攻めを適当に捌く。

 「英語で言や、『IC』だな」

 「IC……? “Independent Contractor”ってことか?」

 「驚いた。よく知ってるな、お前」

 「これでも社会や経済が専門ですから」

 「へえ。やっぱりお勉強ができると将棋も強いのかね」

 「それは全く関係ない」

 彼女が言う『IC(Independent Contractor)』とは、個人事業主のことだ。特定の会社に雇われるのではなく、企業と請負契約をする人間。分かりやすいところではフリーの作家や個人タクシーの運転手が該当する。

 なるほど、百万単位の金銭をポンと出せる理由もそれならば納得だ。有能なフリーランサーにとって百万は大金でもなんでもない。

 しかし、だとするならば、彼女は何かの専門性を活かして仕事を請け負っていることになる。

 てっきり何処かの大金持ちの放蕩娘だと思っていたが、当てが外れた。

 「……嫌な予感がするな」

 「投了か?」

 「そんなわけないだろ」

 定跡もロクに知らない人間にどうやれば負けられるのか逆に訊きたいくらいだ。

 嫌な予感の原因はただの連想ゲームだった。毎日欠かさず行う武道の鍛錬、身体の傷、事件屋の事務所という出会った場所……。それらのことを総合して考えると、一つの推測ができる。

 そう、彼女もあの長谷さんと同じく揉め事処理屋なのではないか、と。それも、肉体労働系の。

 そう仮定すると、僕は非合法な仕事をしている人間の世話をしているわけで、いよいよマズい。早く次の仕事を探さなければ。

 「……それは違うぜ」

 と。

 琥珀色の瞳が僕を射抜いた。

 「あたしはお前が思ってるような仕事はしてねえ」

 「……思考を読んだのか?」

 「お前、単純だもん。ついでに顔に出やすいタイプだ」

 ……まったく。

 この斉藤狼子という少女は盤上での戦略的な視点はまるでないくせに、驚異的な洞察力を持っているらしい。あるいは直感か。それこそ獣じみた。

 僕は言った。

 「アンタは王将じゃないな。飛車か角だ」

 「評価してくれてるんだろうが、足りないな。刻んでおけ。あたしはクイーンだ。飛車より角より強い」

 じゃあアンタはその頭にまず基本的な囲いを刻み込め、とは言わなかった。雇用主の機嫌を伺うのも労働者の仕事の一つだ。

 その気になれば十手以内に詰めるが、さて、どうするか。

 結局今日も僕が勝利を収め、彼女が刻めと命じた内容は一晩眠るとすっかりと頭から抜け落ちてしまっていた。

 彼女の言葉の意味を思い知ったのは三日後だった。





 しっとりと濡れた地面に倒れた衝撃で朝の占いの内容を思い出す。「遠出は禁物、絶対しちゃ駄目よ」。可愛らしいキャスターさんの言葉はもう少し早く思い出すべきだった。

 日本三大がっかり名所の一つと向かい合う巨大な駅舎を超え、露骨な条坊制の街の先へと向かったのは三時過ぎ。目的は買い出し、行き先は謎の雑貨屋。市内を流れる川の下流も下流、古びた橋を渡った先のその店で万札が入った封筒を渡して謎の小包を受け取った。

 気になるなら中は見ても良いと言われていたが、「見ても良い」と言われると見る気はなくなるものである。見るなのタブーの説明通り、禁忌が人を引き付けるのだ。

 小包を脇に抱え、小雨が降り始めた空を見上げた。「仕事で近くにいるから買い出しが終わったら連絡しろ」と言われていたことを思い出し、スマートフォンを取り出したところまでは良かった。

 連絡することは叶わなかった。

 立ち止まった一瞬で肩がぶつかったチンピラに絡まれたからだ。

 「……おい、てめえ。喧嘩売ってんのか」

 すみません、と口にする前に胸倉を掴まれてしまってはどうしようもない。

 喧嘩売ってねえよ、アンタ切れるの早過ぎだろ、謝罪の意思があるかないかくらい確認しろよ、とは勿論ピアスだらけの茶髪に言えるわけもない。人に絡まれた経験自体が数回しかないので、そもそも咄嗟に言葉が出てこないのだ。

 とりあえず、謝るか。

 ……そう思った瞬間に突き飛ばされた。運動不足の身体は呆気なくコンクリートに転がり、小包も硬い音を立てて地面に落ちる。

 「……っ、て……」

 思わず着いた手と打ち付けられた腰から走る痛みのお陰で思い出したのは占いの内容だけではなかった。この辺りの地域は戦後には外国人が多く治安が悪かったこと、記憶が正しければ『ゼロ番地』などと呼称されていたことも同時に思い出す。ただ現在進行形で絡んできている相手は恐らく日本人なのであまり関係はないだろう。ただの偶然だ。

 これまで出会ってきたチンピラさんと同じく茶髪の彼は僕を突き飛ばしたことで満足したようで、こちらを一瞥もせずに背を向けて歩き出す。

 彼はたまたま虫の居所が悪かったのだろう。

 僕は運が悪かった。

 そう、これもやはりただの偶然であり、右手の擦り傷が治る頃には記憶から消去されるであろう出来事だ。

 そのはずだった。


 「―――ちょっと待てよ、兄ちゃん」


 静かな声だった。けれど、明らかな敵意が込められた声だった。

 隣を見ると、彼女が立っていた。彼女――斉藤狼子が。コンビニで買ったらしい傘を差し、左手にはやはり青い竹刀袋を携えていた。

 「なんや姉ちゃん。なんか用か?」

 「ここのひ弱なガキに対しての謝罪の言葉を忘れてるぜ、って教えてやってんだ」

 振り返り睨み付けて来る男に彼女は言った。

 馬鹿か、なんで揉め事を蒸し返すような真似をするんだ、僕はもうどうでもいいのに。

 それが僕の正直な胸の内だったが、彼女の琥珀色の瞳を見るともう無駄だと分かった。

 その狼の眼光は目の前の男を完全に敵として認識していた。

 「肩がぶつかったのはお相子だ。だが、胸倉掴んだ分と突き飛ばした分、しっかりコイツに謝って帰るんだな」

 「……何言ってるんや、お前?」

 明らかな嘲笑にも彼女は動じない。

 ただ一言、「喧嘩売ってんだよ」と告げた。

 「は、姉ちゃんよお。女にしてはちょっと背丈があるからって調子乗り過ぎちゃうか? こっちは男で、しかもこれでも拳法家やで?」

 「……あー、そうかい。流派は名乗るなよ。お前のような人間が名乗ると、その流派の名が穢れる」

 「日本拳法やで。ほら、満足か?」

 男がこちらに向かって来る。

 持ってろ、とその一言と共に竹刀袋を投げ渡される。ずしりとくる質量に驚いていると、彼女は閉じた傘を右手から左手に移した。

 それは些細な仕草だった。だが、あまりにも流麗だった。その所作が紛れもなく一流の剣士のそれだったからだ。

 ―――『昔のお侍さんって、普段は刀を右手に持ってたらしいよ。腰に差したり左手で帯びないことで敵意がないことを示してたんだって。だからか知らないけれど、今も剣道の形は右手に持った木刀を左手に持ち替えることから始まるんだ』

 随分と前に四季がそう語っていたことを思い出す。そして彼女の行動の意味を知る。

 斉藤狼子は安物の傘を刀の代わりとして佩刀したのだ。

 「……私が喧嘩を売った。お前が買った。それで良いんだな?」

 言葉と共に抜刀が行われた。自然過ぎて、構えているものが傘だと忘れそうになる。右足を前に、左足は後ろに置き踵を上げ、背筋を伸ばし、敵を見据える。

 中段の構え。ただの基本的な構えだ――一連の動作が戦慄するほど美しく、恐ろしいことを除けば、だが。

 僕と同じく思わず息を飲んだらしい強面の男は、けれども戦意を失うわけもなく、両の拳を顔の両側へ持ち上げ、ステップを踏み始める。ボクシングの基本的なスタイルだ。

 「そんなら姉ちゃん、そのチャンバラごっこがどれくらい本物の格闘技に通じるんか――試してみぃや!」

 彼女の唇が動いた。


 ―――「その身に刻め」


 次いで、タン、という空気が弾けるような音が耳朶に届き――それで全ては終わり、彼女は中段の構えに戻っていた。

 一拍遅れて、呻き声と共に男が派手に倒れ伏した。否、吹き飛ばされていた。言うまでもなく彼女によって。

 軽快なフットワークを披露していた男が前に出ようとした刹那、彼女の切っ先が男の右鎖骨を貫いたのだ。両足が空に浮いたその一瞬を正確に狙い突きを繰り出し、そうして元の構えに戻った。

 恐らくは現代剣道最速の技の一つ――中段からの、左片手突き。

 「……長物を持った敵を相手にして気軽にステップを踏むなんて、お前は本当に拳法家か? お前のような人間が日本拳法を習ったと口にすること自体が烏滸がましい」

 そう吐き捨て傘を納刀した彼女の瞳には最早敵意の欠片もなく、ただ侮蔑の感情が残るだけだった。

 その瞳を僕にも向けようとした彼女は、けれどもすぐに視線を元に戻した。

 男が立ち上がったからだ。

 「……ぁ……っ、てめぇ……!」

 「……喧嘩はお前の負けだ。利き腕側の鎖骨にヒビを入れられたんだ、ロクに動かないだろ。さっさと謝って消えろ」

 彼女の言葉も聞かず男が唸り声を上げて突進してくる。そこに武道や格闘技の要素は一つもない。身体能力に任せた純然たる暴力を振るう為に突撃してくる。

 対し、琥珀色の瞳はただただ無慈悲に男の腹部に突きを叩き込んだ。

 今度は、その拳で以て。

 「……日本拳法における突きをしてみたつもりだが、どうだ? ……もう聞こえていないか。……その全身で平伏し詫びる姿勢に免じて、許してやる」

 今度こそ終わりだった。再度倒れ伏した男が立ち上がることはなく、彼女は僕に渡した竹刀袋を奪うように取ると右手で傘と纏めて持つ。

 今なら分かる。彼女が竹刀袋を僕に渡した意味が。きっと彼女は「お前は刀を使うまでもない相手だ」と伝えたかったのだ。その彼我の圧倒的な戦力差を。

 「……ちっ」

 立とうとしない僕に対し苛立たしげに舌打ちをして、彼女は左手を差し出してくる。手を掴む。豆が何度も潰れたせいだろう、すっかり硬くなった皮膚の感触に驚いている内に引き上げられる。

 「帰るぞ」

 「…………はい」

 転がっていた小包を拾い上げ、既に歩き始めている彼女の隣に並ぶ。彼女がこちらを見ることはない。差している傘に入れてくれる様子もなかった。

 どうしてだろう。

 何故か、酷く惨めな気分だった。

 運悪く絡まれたこと。それは僕の中でそれだけのことであって、そこで完結していたことだった。その出来事に彼女が割って入り、僕の代わりに相手を打ちのめした。

 因縁を付けてきた相手が一方的に打ちのめされ倒れ伏したのだ。喜んだっていいはずなのに。

 ……それなのに。

 どうしてだろう、何故か、堪らなく情けなかった。泣きたくなってしまうほどに。

 僕の中に残っていた男としての欠片ほどの自尊心が、仮にも女子である斉藤狼子という少女に守られたことで傷付いたのか。そうだとすれば、それこそ情けない。そんな小さなことで傷付いているなんて。

 将棋で勝ったくらいで悦に入っていたのが馬鹿のようだった。

 隣に立つ彼女は雇用主であり、僕は労働者。

 何処までも彼女は強者であり、僕は弱者だったのだ。


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