第二章 金と命と資本主義



 金と愛は釣り合わない


 想いに値札は付けられない


 ……残酷過ぎる社会のルール





 もう帰れ、二日は来なくていいと一方的に告げられたのはチンピラとのいざこざを終え彼女の家に辿り着いた直後だった。

 こちらとしてもあまり彼女の顔を見たくない、平静を保つのが難しい気分だったので幸いだった。雇用主様からの命令をありがたく承り、下宿先へと戻った。

 その日はそのまま夢の世界へと逃げ、翌日に昼に起きまだ気分が好転していないことを自認すると、枕元のスマートフォンを引き寄せた。

 素晴らしき文明の利器で距離を飛び越えて連絡した相手は大学での一番の友人、若宮四季。友人は数人いるが、僕の好きなこと――現政権やその施策の社会的考察なんて酔狂な真似に付き合ってくれる友達は、彼くらいのものだった。

 「クロウ君に腹が立ったんだろうね」

 居酒屋にて、グラス半分のジントニックを一気に飲み干して四季は言った。

 右寄りの現首相に対して一通りの批判を終えた後。自然と僕の口は例の出来事を語っていた。それについての四季の感想がその一言だった。

 「腹が立った……? 確かに不機嫌そうだったが」

 「どうして不機嫌だったのか、って問題があるよね。狼子さんの不機嫌さの原因。一つはそれなりに仲良くしている君が不良に絡まれたから。これは分かりやすい」

 そこまで好意を抱いていてくれたならば幸いだと思いつつ先を促す。

 「もう一つは情けなさだろうね」

 「情けなさ?」

 「聞いた話だけど狼子さん、この間まで北米にいたらしいんだ。で、久々に日本に帰ってきて、君を雇った」

 時給千円で働かされている若い店員に同じものをもう一杯と頼み、続ける。

 「君は久々に深く関係を持った日本人だった。……エロい意味じゃないよ」

 「分かってるから続けろよ」

 「で、そんな君が道端で急に絡まれて何もできなかったことに、情けなさを感じた。で、腹が立ったんだろう。自分と同じ日本人がこんなに情けないのか、と」

 なるほど。

 しかし、溜息しか出てこない。

 「……勝手に同族意識を抱かれても困る」

 「まあ、これは狼子さんの理屈だから。同じように相手にも失望したんだろう。私と同じ武道家がこんなつまらないことをしているなんて情けない、って感じ」

 「つくづく勝手な奴だ」

 「人間なんてそんなものだよ。各々勝手な価値観の下に、好きな感想を抱いて生きている。それを口に出さないだけ、狼子さんは自重ができる人間だよ」

 「……手を出したのにか?」

 仇を討ってもらった僕が言うことじゃないが、自分の労働者を突き飛ばされた応酬としては明らかにやり過ぎだったと思う。鎖骨の骨折だけでも全治数か月の怪我だ。

 店員からグラスを受け取り礼を告げ、四季は「そりゃ手は出すよ」と笑った。

 「狼子さんにとっての『武道』ってそういうものだと思うから」

 「武道、ねえ……?」

 その辺りについてもいつか訊いてみることにしよう、それ以前に結局何の仕事をしているのかをまず訊ねなければ。クビになっていなければ、だが。

 アルコールのせいでぼんやりとした頭でそんなことを考えた。






 二日振りに会った斉藤狼子は機嫌を直しているようだった。

 始発のバスに乗って彼女の家に赴くと、扉を開けるや否や「風呂沸かしてくれ」と命令される。挨拶もなし、素敵な勤務時間の始まり。

 彼女の小間使いを引き受けてからもうそろそろ二週間が経つが、これが彼女の平常運転だった。熱心に鍛錬をし、合間にスポーツもののノンフィクション小説を読む以外、ほとんど彼女は何もすることはない。後は精々、野球の中継を見る程度。

 「……ひと眠りするかな」

 朝食を食べ終えた彼女は食器の後片付けを行う僕を後目にソファーに寝転がった。

 一緒に寝泊まりすると分かることなのだが、彼女は浅い睡眠を短く分けて摂っている。隣の部屋で寝ているので正確なことは言えないが、夜中に何度も目を醒ましているらしい。そういったところも野生動物のようだった。あるいは傭兵か。

 えらく小さなノックの音が聞こえたのは食器を洗い終えた時だった。ソファーの彼女を見る。琥珀色の瞳が「お前が出ろ」と告げていた。アイサー、雇用主様。

 来客は初めてだった。彼女の知り合いか、宅配便か、そうでなければNHKの集金か。どれかだろう。

 いつものように軋む音を響かせドアを開ける。一瞬、誰もいないのかと思ったが、客人はちゃんとそこにいた。小さ過ぎて気が付かなかったのだ。

 小さな女の子が立っていた。年にして十才ほど。大きな黒い瞳からは利発さが伺え、その印象通りに少女はしっかりとした声音でこう言った。

 「さいとうろーこさんはいらっしゃいますか?」

 多少舌足らずではあったが、礼儀を弁えた一言だった。少なくとも挨拶もしないうちの雇用主よりは余程礼儀正しい。

 「いるけど、どうしたの?」

 そう返すと少女はくしゃくしゃになった名刺を僕に渡す。その紙面には斉藤狼子の名と電話番号がある。

 この簡素過ぎる名刺はなんだろうと考えていると、奥から名刺の主がやって来た。客人に琥珀色の瞳を向け、次いで僕の手に会った名刺を一瞥し奪い取ると、客人には中に入れと小さく告げた。同時に「お前は外に出ていろ」とも。

 労働者にとって雇用主の命令は勅令にも等しい。あるいは立憲主義も遵法精神も形骸化し、ただ資本だけが幅を利かせている現代社会では現人神、もとい、現御神とその価値観よりも直属の上司の命令の方が余程重いのかもしれなかった。聡明な米国人がかつて分析してみせた恥というイデオロギーでさえ、最早存在していないのかもしれない。

 僕は斉藤狼子が非合法な仕事をしているのなら縁を切りたいと思っていたが、考えてみるとどうなのだろう? 社会に出て企業に勤めることになれば法律を無視した、下手をすれば憲法すら軽んじた命令を受けることがあるかもしれない。その時、僕はどうするのだ? どうするつもりなのだろう? 「アンタの命令は労基法違反だ、従えない」と毅然と言えるのだろうか?

 ……いや、自問自答するまでもない。言えるわけがないのだ。企業という組織に取り込まれてしまった以上――何より、その外で再び居場所を見つけることが難しい以上、末端の構成員は上司の命令に唯々諾々と従い続けるしかない。何も考えることはなく、ただの労働力として。それが、社会の現実だ。

 社会に出たくねー、ずっと大学で文献漁っててー、と錆び付いた階段の踊り場で頭を抱えていると、そのすぐ脇を先ほどの少女が走り去って行った。

 「……あの、」

 どうしたんだ、と問い掛ける暇さえなかった。一目散に走っていく少女が勢いそのまま車道に飛び出て轢かれないかが心配だった。

 ……いや。何よりも気になったのは、少女の瞳に涙が見えたことだった。

 少女を追い掛けるか、斉藤狼子に話を聞くか。どちらにするか悩んだ後、後者を選択した。少女は小さな体躯には似合わぬ健脚のようであっという間に街の隙間に見えなくなってしまっていたからだ。

 部屋に戻ると、斉藤狼子はお気に入りのソファーに座り、名刺を見ていた。自分の名刺だろ。何がそんなに気になるんだ。

 「……さっきの子、なんだったんだ?」

 「あー、仕事の依頼だ。断ったけどな」

 手にしていた紙片を放り捨てた彼女に僕は訊いた。

 「ずっと訊ねようと思っていたんだが……。アンタの職業って、結局なんなんだ?」

 「言ってなかったか?」

 「聞いてない」

 そうか、と何故か納得したように頷き、彼女は言った。

 「殺し屋だよ」

 「………………は?」

 「だから、殺し屋。人を暗殺することを生業としている」

 は?

 殺し屋?

 それは一体、なんの冗談だ?

 「……漫画の読み過ぎじゃないのか?」

 「むずかしー本ばかり読んでるお前は知らないかもしれないが、日本を出れば殺し屋なんて掃いて捨てるほどいるんだよ。日本にもあたしみたいに多少はいるが」

 「…………冗談じゃ、ないのか」

 声が震え始めていることが分かった。

 殺し屋。あまりにも現実感のない職業。だが嘘だ、とは言い切れない自分がいる。

 あの異常な戦闘能力。身体の傷。常に持ち歩いている竹刀袋。全てが腑に落ちる。

 「さっきのも殺しの依頼だった。あー、まあ『お父さんの仇を取って』だから、表現はマイルドだが。で、金がないようだから断った。大人になって、金が稼げるようになって、それでも気持ちが変わってなかったら来いってな。一件百万からって決めてるんだよ。前払い制じゃあないが、少なくとも払えそうもない奴の依頼は受けない。……まったく、長谷の奴毎度毎度……。金がない奴は回すなっつってんのに」

 「……い、いや待てよ! アンタ、前に『私は長谷さんと同じ仕事はしていない』って言ってただろ!?」

 「あー、同じ仕事はしてないだろ。双方に失礼だぞ、それ。あの人は交渉屋で、私は殺し屋だ。揉め事を処理するって意味じゃあ同じジャンルだが、方法が全く違う。あー、まああの人は私に対して仕事の斡旋もするから仲介屋でもあるが」

 「っ……! 本当に、本当……なのか?」

 「本当だよ」

 欠伸混じりに答えた彼女は続ける――「『平成の大逆事件』は知ってるだろ」と。

 「……ああ。何年か前の事件だろ。まだ高校生だったけど、よく覚えてる」

 『平成の大逆事件』とは数年前に起こった暗殺未遂事件だった。極左組織の人間が主となり、右寄りの最大与党の中核議員数名と天皇皇后両陛下を爆殺しようとした大事件だ。平成に入ってからの本格的なクーデターの一つで、一連の出来事の中で警察どころか自衛隊まで出動する事態にまで発展、最終的には政府側・反政府側合わせて三十人以上の死者が出た。

 彼女は、言った。

 「私はあの事件で反政府側のトップの一人に雇われてた」

 「……嘘だろ?」

 「本当さ。あの時だけでチヨダ――公安警察の連中を三人、自衛隊の人間を五人殺した。色々あって途中からは政府側に付くことになって、更に二人。……詳しく話してやってもいいが、お前の為にならないと思う」

 具体的過ぎて余計に信じられなくなった。彼女に酷い虚言癖があると考えた方がまだしも納得できた。

 近年最大のクーデターに、反体制側として参加して、警察官と自衛官を殺した? そんな馬鹿なことがあるか。もし、本当にそうならば、彼女はこんなところにいることが既におかしいのに。

 「もう一つ、お前が知ってそうな仕事の話をしてやろう。去年、中東の国で軍事政権の大統領が暗殺されかけた事件を覚えてるか?」

 「……それも、アンタがやったって言うのか?」

 「いや、そっちは大統領を守ることが仕事――『向こうの殺し屋が大統領を殺す前に、向こうの殺し屋を殺すこと』が私の仕事だった。『ジャッカル』っていうとんでもなく優秀な殺し屋の暗殺を阻止したから、海外じゃ結構有名なんだよな。『壬生の白狼』『離の剣士』『殺し屋殺し』――それに、遺憾ながら『ニンジャ・マスター』ってな」

 武勇伝を語っているようでいて、しかし自慢げな風ではない。ただ、淡々と話をしていた。

 淡々と人を殺した話を。

 その琥珀色の瞳が告げていた。全ては真実なのだと。狼のような瞳が語っていた。

 「……最近まで海外に行ってたのはさっき言った大逆事件の件でお上から睨まれてたからだ。で、上の方との交渉が終わって、とりあえず政府の人間からは狙われなくなったから、戻ってきた」

 「そんな無茶苦茶なことがあるか!」

 「あー、それがあるんだよな。元々私が誰からの依頼を主に受けていたかと言や、経団連のお偉いさんからなんだよ。つまり、現日本経済の中枢だ。私が捕まるか、私のこれまでの仕事内容が表沙汰になると経済自体に対して結構なダメージらしい」

 「だから……捕まらない?」

 「そういうことだ。大企業や官公庁が作業を民間にやらせたりするだろ? ほら、年金のデータ入力作業とか、そういうのだよ。それと同じだ」

 確かに彼女の言う通りではある。

 企業や政府は雑多な仕事を業務請負の形で特定の会社へと丸投げしている。そうすることでコスト削減が可能だからだ。経済学で言えば外部労働市場の活用、福祉学で言えば労働力の買い叩き。

 面倒な作業は外の人間にやらせてしまえ――。なら、面倒なだけではなく、違法なことは? 表向きにはできない仕事ならば余計に外の人間に頼むことが多くなるのではないだろうか。時折紙面を賑わす産業スパイのように。あるいは、彼女達のような事件屋のように。

 彼女は言う。

 「私を否定するのは自由だし、今すぐ仕事をやめてもらっても構わない。……ただ、法律でどうなっているかはともかく、私のような仕事が社会に必要とされていることは覚えておくといい」

 「必要だからって……なんでもしていいわけじゃ、ないだろ……」

 「かもしれない」。

 琥珀色の瞳を細めて彼女は呟いた。

 「だから、私を否定するのは自由だよ。警察に駆け込んでもいい。どうせ窓口の馬鹿共は信じないだろうけど。……なんなら、殺そうとしてくれたっていい。人殺しを生業としているんだ、殺されても文句を言えないことくらい分かってる」

 あまりにも彼女は潔く。

 あまりにも彼女は真っ直ぐだった。

 自らの能力を武器にして、彼女は資本主義社会で生きていた。その裏の、文字通りの弱肉強食の世界で人を殺しながら。

 「……必要とされたからって人を殺すなら、だったらなんでさっきの子の依頼は受けてやらなかったんだ」

 「言っただろ、金がなかったからだよ」

 「……アンタはそれでいいのか!」

 もう理屈ではなかった。

 ただの感情の奔流が言葉になった。

 「自分に人を殺す能力があるからって人を殺して、それで金貰って……! それでいいのかよ!?」

 「いいだろ、別に」

 平然と彼女は続けた。

 「……どうも、さっきの子どもの親父は派遣労働者だったみたいだ。一人娘を大学まで通わせる為に貯金をしてたらしい。文字通り、死ぬほど働いてだ。無茶な労働条件で働いてなければ、もっと長生きできただろう。そういった意味では企業や雇用主が殺したも同じだ」

 「だったら!」

 「だけど、それが資本主義社会のルールってやつだろ。大した能力も学歴もない、どころか労働に関する最低限の知識もない一人の男が、企業に使い潰されて死んだ。ありふれ過ぎてて反吐が出るよ。当然の光景だ。でもその何処かの誰かと似たような立場の――他人から仕事請け負って、向こうの都合ではいさようならって職業の私は、こうして生きてる。それが答えなんじゃないの?」

 「それは……!」

 「どんなに愛されていたとしても、それが一文にもならなければ、生きていけない。『愛は金では買えない』って巷の歌手は歌うよね。それはそう、でも逆も然りだろ。愛は金にならないんだ。水商売でもなければ。そして金がなければ生きていけない。『自らを恃むことによってしか、投手は投手たりえない』――エースの美学だ。だけど、残念なことにこの社会じゃ、誰もが自らを恃むしか生きる方法がない」

 そう、それが答え。

 彼女の言う通りだった。

 必要とされた役目が仕事になることも、秀でた人間には多くの報酬が与えられることも、企業が儲け続けることも、何もない人間は底辺にいるしかないことも……。何もかも、その通りだった。

 大したセーフティーネットもない――労働者に対する保護が不十分な日本では、無知で無力な労働者は一方的に搾取され続ける。その現状が改善される兆しがない以上、この社会は弱者がのたれ死ぬことを無言で以て肯定しているに等しい。

 「でも、だからって……! アンタは武道家としてそれでいいのかよ!? 武道ってのは弱い人間を理不尽な暴力から守るためのものじゃないのか!?」

 「違う。少なくとも私は武道とは通す為のものだと教わった」

 「通す……?」

 「そう。武力という力で何かを通す――それが私の武道であり武術だ。義理を通すこと。忠義を立て通すこと。あるいはお前の言うように誰かを守り通すことかもしれない。ただその本質は自分の内側に一本の芯を通すこと。それが私の武道だ。私が刻み、そして通す、私の道だ」

 「じゃあアンタは何を通してるって言うんだよ……?」

 決まってるだろ、と彼女は言った。

 呆れたように。

 「私は、私の我が儘を通してるんだ」


 静寂だけが部屋を支配していた。

 もう言葉を交わす必要はなかった。

 話しても無駄だと分かったからだ。

 確かに彼女の言うことには一理ある。「何故人を殺してはいけないのか」なんて論戦を展開するつもりはない。何故人を殺してはいけないのか。その理由は、正義や倫理を除けば、たった二つしかない。一つは「自分がされて困ることを他人にすると、同じことを他人からされる恐れがあるから」。もう一つは、「人が一人死ぬことは社会における明確な損失であり、殺人が横行すると社会自体が立ち行かなくなるから」。

 この二つが多くの社会で殺人を禁ずる為の基本原理だ。だがロジカルに考えればこう言い換えられる――「人から殺される覚悟がある人間は人を殺してもいい」「社会が是とするならば殺人は肯定される」と。

 斉藤狼子は殺し屋として殺される覚悟を持って人を殺しており、しかもその依頼主は社会の核たる経済を動かしている企業であって、尚且つ国家はそれを黙認している。それ故に彼女の主張には正義はなくとも、紛れもなく理がある。

 けれど。

 「……僕は、人を殺すことが必ずしも悪いだなんて言わない」

 「……へえ?」

 「何故なら僕は――そう、僕は……僕の両親を殺した相手を殺してやりたいほど憎んでいるから」

 ―――「じゃあ、明日の夜には帰るから」。

 それが僕が両親と交わした最後の言葉だった。

 僕を親戚の家に預け、久々に夫婦水入らずで旅行に出掛け、その先で二人は死んだ。

 殺されたのだ。

 宿泊先の旅館での爆破事件の結果、両親が死んだ。訳が分からなかった。何故両親が死ななければならなかったのか。何故あの二人だったのか。警察も被害者が多い為に誰が誰を標的にした何の目的の犯行なのか分からないと語っていた。なら僕に分かるわけがなかった。

 でも、分からないなりに分かることもあった。『人間の人生は些細な偶然で滅茶苦茶になってしまうということ』――両親の死で、その真理を僕は知った。

 どうしてこんなに世界は理不尽なんだろう。

 それが不思議で仕方なく、社会や歴史を学び始めた。どうも性に合っていたらしく、今はこうして私立大学でそれなりに楽しく社会学をやっているが――それはともかく。

 僕にも、殺したい相手はいる。

 「……自分の両親が殺されて、だからその殺した相手を殺したい。だから殺人を肯定するってわけ?」

 「そう単純な話じゃないけれど、でも、『人殺しは絶対にいけない』とは言えないだけだ。仮にここにタイムマシンがあって、両親が殺された日にタイムスリップできて、そこで爆弾を仕掛けている相手を見つけたら……多分、僕は殺してでもソイツを止める。そういう感じだ」

 だから、人を殺すことが必ずしも悪いだなんて僕は言わない。

 けれど。

 けれど、だ。

 「……それでも、アンタのことは認められない。どうしてかは上手く言えない。でも、嫌なんだ」

 「感情論か」

 「そうだな。最高学府で学んでいる人間として情けないけど、金で人を殺すことを請け負うような人間の手伝いをするのは心情的に嫌なんだ」

 「……あー、そう。なら、どうする?」

 分かり切った問いを彼女は投げ掛け。

 僕は、分かり切った答えを返す。

 「今日で、この仕事を辞める。今日までの給料も返す。……幸いにして前金の百万には手を付けてないからすぐ返せる」

 「その百万はいらないよ。私のことを認めないのはいいとして、労働の対価まで返す必要はないだろ」

 ……まったく。

 獣のように粗雑なようで、彼女の言葉はいつだって正しい。

 「……そうかもしれないな。でも、嫌なんだよ」

 「義理、か。それとも意地か」

 「分からない。でも、アンタの武道の考え方を踏まえると、どちらかを通したいってことなのかもしれない」

 「馬鹿か。……お前は武道家じゃないだろ」

 「仰る通りで」

 彼女は笑い、僕も笑った。

 こんな状況であるというのに、いやに自然に笑うことができた。

 荷物を纏め始めた僕に対し、彼女は背を向けたままで言った。

 「……私は殺し屋だ。人探しはできないが、人を殺すことはできる。だからもし、お前がお前の両親を殺した相手を見つけられたら……。そして、お前にその気があって、私がまだ生きていたら。そうしたら、また来い。百万から相談に乗ってやる」

 「ありがとう、って言うべきなのかな」

 「……ただの宣伝だよ。礼はいらない」

 泊まりの初日に持ってきていたスーツケースの中に衣服を詰め込んでいると、一枚の真新しい名刺を差し出される。そこには彼女の名前と電話番号が記してある。あの少女が持っていたものと同じ、簡素過ぎる彼女の名刺。

 「住む場所は変えるだろうが、番号はずっと変えてない。……っても、そのナンバーは長谷のところの番号だけど」

 「ありがとう」

 「……人殺しに礼なんて言うな。少なくともお前みたいな人間が」

 そうなのかもしれない。

 でも。

 「でも……ありがとう」

 きっと、これも僕なりの義理というやつだったのだろう。

 こうして僕の一風変わったバイトは終わりを迎え、折角脳に刻んだ彼女の料理の好みも無駄な知識になるはずだった。

 そう、そのはずだった。

 再びノックの音が響くまでは。


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