第11話

エアコンが効いている休憩室に、僕は一人で座っていた。

数年前に本社のシステムがアナログからデジタルに変わったのを気に直営店舗からシステムの導入がなされた。そのため、出退勤管理やシフト表の確認なんかは、パソコンでできるようになった。休憩室にはWiFiが設置され、パスワードを入力するだけで、従業員も使用が可能になっている。


「ごめんなさい。今日、早番なのに残ってもらってて。」

菱川の引越しを手伝って、丑の日を挟んだ日曜日。

エプロンを畳みながら峯田さんが休憩室のドアを開けた。

「いや、大丈夫です。」

僕の場合、早番は朝六時半に出勤し、仕込みをする。仕込みが終わり次第、配達の準備をし、配達が終わったら料金を確認する。その後、金庫にある現金をチェックし、銀行に入れたら、業務終了。

月に二、三回くらいしか入らないので、気が滅入るほどしんどくなることはないが、早起きの習慣がついていない僕からすると、配達中に眠気が襲ってくることもあるため、本当はあまり入れたくないのだ。

いつもは早く家に帰り、昼寝をしたいところだが、峯田さんが真剣な表情で、話がある、なんて配達前に言われたら眠気なんて、一瞬で消え去った。


峯田さんは畳んだエプロンをロッカーに入れ、タイムカードをスキャンし、僕が座っていた椅子の真反対に座った。

「すいません、呼び止めちゃって。私…、橋本さんのこと、本当のお兄ちゃんみたいに思ってるんです。だからこういう事は職場の人、誰よりも先に言いたくて…」

峯田さんと僕は同期だ。彼女の方が三つ下、最初に会った時は高校生だったが、今は店長を支える、立派な副店長を務めている。

「私、結婚するんです。」

驚いた。なんて反応するべきか。

「え!そう…なんだ。初めて知った…。彼氏いたんだ。」

しまった。最後のは余計だっただろうか。

「だから、誰よりも先に言うって言ったじゃないですか!その…相手は高校からの友人で、本格的に付き合い始めたのは二年前くらいです。」

二年前。二年前というと、

「副店長になった時だね。」

峯田さんは当時二十歳だったが、仕事の態度やお客様からの評判、前店長や当時の従業員からの勧めで、就任した。

その一年後に、前店長が定年のため、退職。その時期に他店との合併があった。

そして今の店長が来た。

だが、新しいこのメンバーで、スムーズに、円滑に、運営できているのは峯田さんが今の店長と従業員の意見を聞いたり、親しくなれるきっかけを作ってくれたおかけだ。

「そう…ですよ。そうなんですよ。私、あの時すっごい、すっごい悩んたんです。進路決めるより時間費やして、真剣に悩んで、真剣に迷って。もう、怖かったんです。自分が思っているより、皆さんからは期待されているってこと、気づいた時は嬉しかったです。言われた瞬間、やります!って出そうになって。でも、同じくらい不安だったんです。まだあの時、二十歳ですよ?ついさっきまで高校に通ってたヤツが、もうそんなに…」

「いや…だった?」

いつもは冷静沈着。何事にも落ち着いて対応する峯田さんが、この時に限っては年相応の愛らしい女性に見えた。

峯田さんは視線を落とし、ため息をついた。

「私、てっきり橋本さんが副店長になるのかと思っていたんです。」

「え?僕が?」

「橋本さんは、何でも出来たじゃないですか。フライヤーも、焼き場も、レジも、配達も、お金の計算も。金庫の鍵だって、任されてたじゃないですか。前の店長は、ものすごく橋本さんのことを褒めてらっしゃったんです。だから、私に指名された時、胸が苦しくて…。どうして私なんかが、どうして橋本さんじゃないんだって。私、年下だから敬語やめてくださいって言ってもずっと敬語で、礼儀もあって、遅刻もしないし仕事もなんでも…。私が副店長になったら、場を荒らすんじゃないかって、思ったんです。」

峯田さんの大きく、意思の強い目が涙をいっぱいに溜めて、鼻の頭を真っ赤にして、眉間に皺を寄せ、僕を見つめる。

「でも、僕は峯田さんが副店長でよかったって思ってるよ。」

「それは…結果論でしょ。今、だから思うんです。」

「そうかな。」

「あの時、もう精神状態ぐちゃぐちゃで、とりあえず誰かに相談したかったんです。私の思いを誰かと共有したかったんです。…その時、相談に乗ってくれたのが、彼で。」

峯田さんは少し照れながら言う。

「大変だったよね。僕達のプレッシャーとかあったでしょ。」

「ありまくりですよ。でも、私は仕事に対する気持ちも変わったし、第一、私の未来を変えてくれた、大きなターニングポイントになりましたからね。後悔は…もう一ミリもありません。」

峯田さんはおもむろにロッカーへ向かい、バックを漁る。そして左の手を突き出し、薬指に光る銀を僕に見せつけてきた。峯田さんはその手を自分の頬に寄せた。そして、ニカッと笑い、また席についた。彼女の左手が幸せそのものを物語っている。

「おめでとうございます。」

「ありがとうございます。あと、ついでじゃないですよ?妊娠もしてるんです。」

峯田さんは自分のお腹に手を当て眉を下げながら言った。その時の僕は、大層間抜けだっただろう。これ以上目が開くか、と言うほど目を見開いた。

「あ、1番驚いてますね。」

「いや、うん、そりゃそうでしょ。それより、ここ、仮にも飲食店ですよ?悪阻とかあるでしょ。」

「その事を、話したかったんです。」

峯田さんは待ってました、と言わんばかりに口角を上げた。

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