第8話

「ホントに元通りですね。何も無かったみたいです。」

パソコン用のメガネを半分ずらし、マジマジと僕を見て店長が言う。

何も無かったみたい…か。半年もしたら僕の耳が聞こえなくなったことなんてすぐ忘れますよ、そう心の中で言った。

そうですね、なんて心無いことを言う。

そして、店長のデスクに今朝大量に買ったお菓子を置き、車に配達用の弁当を運びに戻った。


そしていつもの通りに戻っていく。

生活リズムも対応もすべて。



そこから淡々と時間が過ぎていき、菱川がこちらへ来る日になった。


「ごめんな~駅まで来てもらって。ちょくちょく出張で来たことあんだけどさ、わかんないもんだよね。」

キャリーバッグとボストンバッグを持ち、野球帽のようなものをかぶった菱川が駅の待合室に女性と二人、座っていた。

ちょっとこい!と手でアクションすると、隣の女性にごめんな、と顔の前で手を合わせてこっちに来る。

「どういうことだよ、連れがいるなんて聞いてない。」

「あー、言ってなかったよな。同棲すんの。付き合って5年くらいかな。同僚でさ、経理部なんだ。でも、俺に付いてきてくれるって仕事辞めてくれたの。」

「そんな話、普通は最初にするだろ!大事なことだろ!」

すると、後ろからバニラのような少し甘い匂いが鼻に抜けた。

「すみません。彼、私のこと紹介してくれてました?はじめまして、西脇です。よろしくお願いします。」

賢そうで気が強そうな、少し抜けた菱川を引っ張ってくれるようなタイプ。

彼女が来た瞬間に顔がにやけ始めた友人を前に、少し呆れながらも駅を出てすぐのコインパーキングに止めた車へ案内した。


「あー…、大丈夫…ですか?あの、冷房とか効きすぎてない?」

普段、女性と会話しないせいか、あまり言葉が見つからない。

「お前、そんな感じだっけ?」

助手席の菱川が笑いながら言った。

「いや、お前にだけだよこういう対応。普段はもっとちゃんとしてる。」

恥ずかしさを隠すため、変な悪態をついてしまった。

「大丈夫ですよ、丁度いいです。ありがとうございます。」

「あー、橋本~!!勘違いすんなよ!俺の彼女だからな!」

いや、何も言ってない。まず狙わないし、狙う気もさらさらない。

そんなくだらない会話、何年ぶりにしただろう。

そして、車を10分ほど走らせ、ようゆく目的地に付いた。

駐車場の入口には、恐らくイチョウであろう木が、敷地を囲うように植えられている。 さっぱりとしたベージュを基調としたモダンな造りで、社宅にしては少し豪勢すぎないか?と圧倒されてしまう。

「あ!そこの三号棟!ファミリー用にしてもらったんだ~。」

スピードを出しすぎていなくてよかった。

通り過ぎようとしていた角を勢いよく曲がる。おぉ、と後ろで聴こえたがいきなり言った菱川が悪いので、菱川には声をかけなかった。

「ごめんね、西脇さん。大丈夫ですか?」

「あぁ、大丈夫ですよ。」

顔は地味なほうだが、とてもいい子だ。


車を指定の駐車場に入れ、荷物を下ろす。

「どのくらいの広さ?」

「2LDK。」

「家賃。」

「四万。」

「は?安すぎだろ…。」

「会社からある程度、支給されんの。まぁ色々あったからね。ここも半年くらいしか住まないし、元の家はまだ契約してるんだ。」

「さすが、大企業に務めてる営業マンは違うわ。」

菱川はひひ、と笑って新居の鍵を開けた。

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