第43話 あなたを失いたくない

 ***


 晩の鐘が遠くで鳴り響いている。灯りなしではほとんど足元も見えない薄闇の森で、その人は待っていた。人影を見た瞬間、訳の分からない感情がこみ上げて走り寄る。


 気付いた時には挨拶すら言う前に、エイラを抱きしめていた。腕の中にいる人の体温がじわりと伝わってきてようやく、この人が自分の作り上げた妄想ではないことに安堵の息が漏れた。腕の内側に感じる柔らかな温かさと、身体の形が、何も考えられないほどに愛しい。それは、あの日抱き上げた時の、恐ろしいほどの熱とはまるで違った。


「……すっかり良くなったんですね、よかった」


 身体を離してその美しい顔を見つめ、笑いかける。しかしすぐに、彼女の目に浮かぶいつになく厳しい色に気が付いた。


「ロタ、時間がないわ。よく聞いてくださいね」


「エイラさん……?」


 冷静な口調が、却ってこちらの焦りをかき立てる。


「詳しいことは私にもわからない。……けれど、アスタル様が計画を進めています。次の聖戦の前に、大きな暴動が起こるはずよ――下級騎士たちが聖戦への不満を爆発させる。きっと、あなたもいくらかは知っているでしょう」


 暴動――その言葉に、背筋が凍る。きっと、イグのことだ。自分がしたことを言うこともできず、ようやく答えを絞りだす。


「……少しは」


「あれは、全てアスタル様の計画よ。だから、必ず起こる。あなたも、巻き込まれてしまう。皇帝が鎮圧に使う軍はおそらく一部の中位騎士と私兵およそ千。それに防城火器が二十。かき集めても一千ちょっとの下級騎士では、手こずる程度では済まないはずです……アスタル様が目的のために騎士団を使い捨てるつもりなのは確実だわ」


 恐れていたことを、エイラは次々と言葉にしていった。やはり、そうなのだ。イグは、きっとその首謀者に仕立てあげられている。エイラは、あくまで冷静な声で続けた。


「でも、あなたが生きる道はある。暴動の日、なんとか抜けだして、ラジャク川に向かうの。そこに小舟を待たせておくわ。だからそれに乗って。フスカについたら山を越えて、ヴェトルを出るの」


 思わず目を瞬かせる。信じられないような話だった。フスカの山の先は、シェズ正教を信じない異国だ。


「ヴェトルを……?」


 首を傾げるロタに、はじめてエイラは焦りを見せた。手を握って、必死な目でロタを見つめる。


「グリャナに逃げるのよ。あの国なら、難民も受け入れるはず。ヴェトルはもう安全じゃないの」


「でも、生き残れば」


 エイラは懸命に首を振って否定する。


「アスタル様は、ダナイに降るつもりだわ。生き残った騎士も、ダナイに兵として捧げるはずよ。そして南の国家を攻めるのに使われるの。……もう血を捧ぐ神様もいないのにね」


 そこまで言って、エイラは縋るようにロタの手を額に押し当てた。薄闇の中、風がエイラの髪をなびかせたのがぼんやり見えた。


「……あなたが生き残れる保証なんてない」


「そんな、」


 彼女は震えているようだった。細い声が、ロタを揺さぶる。


「あなたを、あなたを失いたくないの。お願い、ラジャクに行くと言って」


 震える声の余韻が、風に散らされる。ごくりと唾を飲み込んでロタは静寂を破った。


「……エイラさんは?」


 顔を上げると、エイラはみるみる濃くなる闇の中、優しく笑んだ。


「もちろん、一緒にいくわ。……グリャナで落ちあいましょう」


「あなたが一緒なら、行きます。でも、あなたはアスタル様の、」


「私の代わりなんていくらでもいます。でも、私にとってあなたの代わりはいないの」


 地面に置いたランタンの仄かな光にようやく見えるその人を、じっと見つめる。そして、同じことを思う。エイラの代わりなんて、どこにも居やしない。


 ロタはこくりと頷いた。薄闇が、またひとつ色を濃くした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る