第44話 罰

 ***


 翌朝は久しぶりに晴れた夕方だった。ちぎれた雲が、西の空に輝く夕陽を隠しては暴いている。濃紺の気配が迫る空の下、宿舎へと戻り始めた騎士たちが小屋の間にちらほら見える。ロタも、冬の匂いがする空気を胸いっぱいに吸い込み、疲れた身体をぐうっと伸ばすと宿舎へと歩き出した。昨日、エイラが言った未来は、まだロタには想像もつかなかった。生まれてこの方、この国を出ようと思ったことなど一度もない。ダナイとの聖戦のために出た時だって、当たり前のように帰ってきた場所だ。けれど、血と不安にまみれた聖戦から離れられるかもしれない、そう思うだけで安堵する自分もいた。訓練用の皮の鎧の下に入れた三叉剣のチャームを想う。神は、逃げ出したいと思ってしまった自分を赦すだろうか。


「ロタ!」


 名を呼ぶ声に振り向く。宿舎の隙間を、ロタと同じように軽い皮の鎧をまとったイグが駆けてくる。


「イグ」


「誰にも言わないと約束できるか」


 ロタに追いつくなり、彼は息せき切って話し始めた。


「……うん、もちろん。何?」


 答えながら、彼の顔をまじまじと見る。会わなかった数日のうちに、彼の顔は少し痩せ、目は鋭くなったように思えた。


「昨日の晩、アスタル様にお会いしたんだ。……素晴らしい方だった。本気でこの国を変えることができる方だ。ヴェトルに正しい神の権威を取り戻してくださると、そうおっしゃっていた」


 正しい神の権威、という言葉に違和感を覚えた。ロタに語ったのとは、少し違う話のようだ。


「どういうこと?」


「次の聖戦までに、俺たちは動かなきゃならない。聖戦を許したら、同志がまた傷つくし、ヴェトルはまた、弱くなる。国を変えて、蓄えるときなんだ」


 きっとアスタルが言った通りなのだろう。薄ら寒い思いが沸き起こる。しかし、話を聞くうちに、もっと恐ろしいことが起こっていたことに気付く。


 イグの語る計画は、正義に焦った青年が立てたようなものではなかった。イグの中の戦は、ロタの知らないうちに始まっていたのだ。攻城作戦、補給経路、辺境レンダー家の私兵による援助、最終的な交渉まで、全てが恐ろしいほど緻密に計画されている。その計画は、アスタルの助力があったとはいえ、イグの才能を確信するには十分なものだった。それに、イグの下に集まった下級騎士、兵の数は、エイラが言った数を優に超えていた。裏で動いている者の数を考えると、気が遠くなりそうだ。


「……ロタ」


 目眩のするような話に、いつの間にかぼうっとしていたらしい。強い光をたたえながらこちらを見る黒い瞳に、ようやく気がつく。


「あ、うん」


「今、答えをくれなくていい……俺を手伝ってくれないか」


 悪い予感が、ぞくりと背を撫でる。言葉の意味が分からないふりをした。


「え?」


「俺は、お前にそばに居て欲しい。お前がいれば、強くいられる……戦える気がするんだ」


 彼の言葉を、止めるわけには行かなかった。彼の背を押したのは、自分だ。耳をふさぐことなんかできない。


「イグ」


「危険な道だ。ついてきてくれなんて言えない、けど、もし、ロタがそうしたいと願ってくれるなら」


 必死な瞳から、なんとか目を逸らす。だが今この瞬間も、エイラと共に暮らす未来がどんどんロタの手から離れ遠ざかっていく。


「……どうして私なの」


 逸らした視線の先で、木の葉が舞った。


「お前が好きだ」


 意味が無いとわかっていて、耳を塞いでおかなかった自分を憎んだ。これだけは、どうしても聞きたくなかった。


「だめだ!だって」


「どうしてだ。お前はいつも優しかった。それに、俺に幸運をもたらしてくれた。大げさかもしれないけれど俺にとっては、お前は女神なんだ」


 はは、と乾いた笑いが漏れる。自分への好意が、彼にこう言わせるならば、自分は嫌われなければならない。そのためならなんだってできる気がした。


「女神だって? ふざけないで!私は……私は、汚い女なんだ。知らなかった?」


 暗い部屋が蘇る。嫌な痛み。嫌な感触。嫌な匂い。


「どうしたんだ、お前は」


「娼婦だった」


 そう口にした瞬間も、怖かった。それでもなお歩み寄られたときに、この人を遠ざけるすべを自分は知らないからだ。


「こんななりで、笑っちゃうでしょう。でも、本当なんだ。金のために身体を売った」


 ぱさぱさに干からびた笑いが、喉の奥に張り付いている。


「だからね、だから、私はきみには釣り合わない。君のしようとしていることを助ける資格なんてないんだ」


 嫌な汗が背に滲む。諦めて欲しい。忘れて欲しい。これ以上寄り添われたら、ついていかなくてはならなくなる。


 夕陽が差した。恐怖に俯いていた目を、そっと上げる。朱い光に照らされた絶望が、優しく手を伸ばしていた。


「お前は綺麗だ」


「だめだ、私は、」


「強くて、正しい心を持ってる。はじめて会った時から感じていた」


「嘘だ!だって私は、薄汚くて馬鹿で、でも狡い。知らないでしょう、イグの見てた私は全部嘘だ」


「それが、何だって言うんだ。俺はお前のことを、」


「やめて!」


 声を絞り出して、頬に触れたイグの手を払いのける。ぎゅっと目をつぶる直前に見てしまった、彼の熱い瞳の色を忘れようとする。けれどその瞬間、暖かく優しい腕が、ぐいとロタを引き寄せた。慄き、体をよじらせようとして、諦める。自分は、この人の優しさにもう逆らえない。体から力が抜けていく。そのままイグの肩に埋まると、落ち着いた呼吸が耳元をかすった。


「大丈夫だ」


 思いやりに満ちた声が、苦しくてたまらない。恐怖にすくむ子どもをなだめるように、イグはロタの背をさすった。そしてその手で、髪をさらさらと梳く。指先から、愛おしさが伝わる。この人は、自分を本気で想ってくれている。


 ゆっくりと目を開けた。肩越しに、美しい夕陽が落とす影を眺める。


この暖かな人は光の方を向いている。ロタが暗がりを見ていることなど知らずに。


「俺は、お前が何でもいいよ」


 引きずり込んだ、これが罰なのか。


「好きだ」


 ロタは目を閉じ、温かな腕に身体を預けた。

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