第42話 そして運命は動き出す

 立ち聞きするつもりはなかった。しかし、聞いてはいけなかったことだとはすぐに理解できた。宿舎の陰で、二人の男が歩み寄ったかと思うと、低い声がしたのだ。


「三日後の日没後、いつもの場所で」


 潜められた声音に、ぴりりと恐怖が走る。聞かなかったふりをして逃げるべきなのか。一人が歩み去ると、残った男は、安心したように息をついた。瞬間、もたれていた壁が軋んだ。


「誰だ」


 厳しい眼差しで振り返ったイグに観念して、そっと歩み出る。こちらの姿を見た途端、闊達そうな彼の眉に困惑の色が浮かんだ。


「ロタ……聞いてたのか」


 疑われるのが怖くて、必死にかぶりを振る。歩み寄る彼の視線が恐ろしい。


「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ、でも」


 言いさしたロタの言葉にかぶせるように、イグは唸った。


「漏らさないと誓うなら、見逃す。……ロタ、お前だからだ」


 ここで言わなければ、アスタルの指示を果たすことは二度とできないだろう。そう感じて、意を決した。


「本当に違う。イグに言いたいことがあったんだ」


 ロタの言葉に、イグは意外そうに目を瞬かせる。目に宿った光には、期待が混じっているように見えた。


「アスタル様が、イグを助けるとおっしゃっていたって、……そう、言いたかったんだ」


 唐突だっただろうか。怪しまれないだろうか。ばくばくと打ち続ける心臓が、いつか感じた罪悪感に染まっていく。しかし、伺ったイグの顔はみるみるうちに驚きに輝いた。


「アスタル様って、あのアスタル様か? 皇帝のお子であらせられる、あの」


「ああ、本当だ……アスタル様は、聖戦を憂いておられる。だから、力を貸したいって」


 イグの目にかすかな不信が浮かんだ。当然だ。一介の下級騎士が皇族と関わることなどきっと普通ならば一生ない。


「なんでお前がアスタル様と」


 予想通りの反応に、アスタルに言われた通りの物語を話す。


「偶然なんだ……。この間、城門の警護をしたことがあっただろう、あのとき、偶然、お会いした。それで聞かれたんだ。あの噂について」


「どういうことだ?」


 騎士たちの間の不満は、近頃噂になって漂っていた。確信はなかったが、漠然とした不満を言葉にしたのは、きっと目の前のこの人が最初だ。


「あの噂、流し始めたのはイグでしょ? 聖戦は……その、無意味だってやつ」


「ああ、……確かにそうかもしれないな」


「あの噂の出処を知っているかと、そうお聞きになった。それで知っていると言ったら、これを言うようにと頼まれたんだ。助けたいって」


 アスタルに言われたままを語ると、イグの頬にさっと赤みが差した。興奮を隠さず、彼はロタの手を握った。


「……すごい、すごいぞ!」


「どうしたの?」


「わからないのか、アスタル様が後ろ盾になってくださるのなら、俺達はもう逆軍ではない」


「軍?」


 思ってもいなかった言葉に、目を見開く。かちりと合った視線の先で、イグは満足気に微笑んだ。


「密かに準備してたんだ。いつか報いる日のために……知らなかったろう?」


 興奮した面持ちで彼がそう言った瞬間、ロタは全てを悟った。


 アスタルは知っていたのだ。噂の主がイグであることも、そのイグが反乱の計画を立てていたことも。アスタルは、彼の背中を押すつもりなのだ。ロタの手を包む手に、ぐっと力がこもる。今、全てはもう動き始めてしまった。ロタが伝えた言葉によって。


「神よ感謝します、これで戦える……。ロタ、話してくれてありがとう」


 取り返しのつかないことをしてしまった恐怖が身体を貫く。震えてしまいそうな身体に力を込めて、目を閉じ、祈るように思う。これは必要なことだったのだ。アスタルの計画が成功しなくてはエイラは立場を失うだろう。立場だけならまだいい。身も危ないかもしれない。濡れた石畳の上に横たわる彼女を思い出す。


「……でも、危ないよ。そんなこと」


 足元を絡めとっていくアスタルの言葉に、精一杯の抵抗を口にした。けれど、イグは優しい瞳を細めた。


「お前は本当に優しいな……」


 やめてくれるかもしれない。淡い期待が胸をかすり、次の瞬間に霧と消えた。


「でも俺は、間違っている中で生きるより、正しさのために戦いたいんだ」


 青年の瞳はどこまでもまっすぐで、何も言えなかった。


 もう止められないのだ。


「……うん」


「案じてくれるのは嬉しい……けど、やらなきゃならないんだ」


「わかった」


 イグは嬉しそうに笑うと、ようやく手を離した。代わりに、そっとロタの肩に手を置く。


「ありがとう、ロタ。……それでアスタル様はなんと? 俺もお会いしたい」


「二日後の、晩の鐘のなる時間に、南の内城壁の庭で待つ、と」


「ああ」


 彼が頷き、踵を返して離れていく瞬間、絞りだすように声をかけた。


「お願いだ、気をつけて行って。アスタル様を信用してないわけじゃないけど、なんだか怖いんだ」


 アスタルの名でごまかしてみても、ロタにはわかった。これは自分の罪だ。凛々しい顔をした青年に、精一杯呼びかける。彼はロタの心配を好意と受け取ったのか、少し照れたようにくしゃりと笑った。


「もちろんだよ」


 いつの間にか、風が出てきた。戸の隙間から冷たい空気が入り込み、かたかたと揺らしている。這い登るような寒さにぶるりと身を震わせ、ため息をつく。イグと別れてからも、胸の奥のざわめきが止まなかった。彼は歩き始めてしまった。それは、彼の言うように正しいことなのかもしれない。しかし、その正しさのために、何かが失われる。それをわかっていて、彼の背を押してしまったのは自分だ。


 居所の分からない罪悪感を紛らわせたくて、水瓶から一杯、カップに注いで飲んだ。喉がこくりと鳴る。考えていても仕方がない。もう過ぎたことだ。


 ベッドに掛けたとき、風の音に紛れてノックが聞こえた。戸に近づき、問いかける。


「誰?」


「私よ、ハイケ」


 何故か潜められた声を聞いて、そっと戸を開ける。暗い色の外套に身を包んだ彼女は、人目を気にするように辺りを見回してから、すっと部屋に入った。


「ハイケ……? 久しぶりだね、どうしたの」


扉を締めながら尋ねると、長くは居ないから、と言って彼女は戸の近くに立ったまま小声で話し始めた。


「エイラ様からの伝言よ。明日、晩の鐘がなる頃にいつもの場所でって」


 ハイケを見た瞬間から期待していた言葉に、今まで悩んでいたことを一瞬忘れ、胸を躍らせる。しかし、同時に思い出したこともあった。その時間は、アスタルがイグと会う時だ。なにか見つかりたくないことがあって時間を合わせたのだろうか。不安が胸をよぎったが、すぐに頭を振って追い払う。あんなことがあったのだ。エイラがアスタルの目に注意を払うのは当然だろう。


「わかった」


 ロタの返事を聞いたハイケは、今度は目に強い光を灯して言った。


「あと、フレックに伝えて欲しいの。私もここに残るって」


「どこか、行くはずだったの?」


 首を傾げると、少女はうつむきがちに答えた。


「……エイラ様が教えてくれたの、次の聖戦の前、一月の間は皇都を離れていたほうがいいって。きっと危険なことがあるのよ……だから一緒に行こうってフレックに言ったら、笑われちゃった。今の俺は皇都騎士団の騎士だって。だから行けないって」


 彼女の口調は明るかったが、目には大粒の涙が浮かんでいた。


「一人で行くなんてできないわ。だって、フレックが騎士なら、私は宮殿の侍女だもの」


 顔を上げて笑うと、ほろりと零れた涙が頬を伝った。心配になって身体を屈め、目の高さを合わせる。


「……会わなくていいの? 今日はたぶんいるよ」


 隣の部屋を指さす。この風で、この声の大きさならきっと聞こえていないだろう。だから、会いに行かない限り彼は気づかないはずだ。しかし、ハイケはゆるゆると首を横に振り、淋しげに笑った。


「いいの。会ったら、怖くなっちゃうから。だってまるで、お別れを言いに来たみたいじゃない。また次、当たり前に会えるって信じられなくなっちゃうもの」


 彼女の声は弱々しかったが、気持ちを変えるつもりはないようだった。


「……わかった。伝えておくよ」


 ハイケはそれを聞いてほっと息をつくと、にっと笑った。「ロタもよ。気をつけて欲しいの」


「うん。伝言、ありがとう」


 感謝を口にすると、ハイケはロタを急に抱きしめた。自分よりはるかに小さいその腕を背に感じ、優しく抱き返す。腕を離したハイケは、真っ赤になった目をこすって言った。


「じゃあ、またね」


 小さな背を見送って閉じた戸の内側で、ハイケの言葉を思い出す。一人で行くなんてできない。その気持ちは、ロタにはよくわかる気がした。

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