第29話 「踊りましょう」

 ***


 吊るされたランタンに火が灯る。辺りを包み始めた薄闇に、光る花が咲いていくようだった。春の訪れを祝う祭りではあるが、日が落ちるとさすがに風はひんやりと冷たい。いっそう盛り上がる広場の踊りをかいくぐり、屋台で温かい蜂蜜酒を買った。歩きながら木の器を傾ける。とろけるように甘い酒は、腹の底から身体を温めた。


「ロタ」


 隣を歩む人の視線が、こちらに傾く。ランタンの灯りを映して輝く瞳から、目が離せなくなる。


「なんですか」


 エイラは、縋るように眉を寄せ、長い睫毛を伏せた。残っていた笑みのかけらは、闇に溶けて消えてしまう。


「……ロタ」


 細い声が揺らぐ。何かを恐れているような声の震えが、ロタの胸をざわつかせる。その響きには覚えがあった。一人でいることを恐れ泣いた幼い自分と、目の前の強いひとの姿が何故か重なる。


「何でもない」


 桃色の唇がわずかに動いて言葉を吐き出す。しかしその言葉は、エイラの心の中を何一つ見せてくれはしなかった。


「エイラさん、あの」


「何?」


「私はただの下級騎士です。エイラさんが何を言っても分からないし、他の人に話したりもしません。だから、力になれないかもしれないけど、いつでも言ってください」


 たどたどしく、必死で紡いだ言葉だった。だが、言い終わった瞬間自分が何も出来なかったことを悟る。いつもどおりの優しい笑顔で、エイラは心の内をいっそう奥に隠してしまったように思えた。


「ありがとう。でも大丈夫。最近忙しくて、少し疲れていたのかもしれません」


「でも、」


「心配をかけたならごめんなさい。でも、花祭もあと少しですよ。もっと楽しみましょう」


 ほら、と言ってエイラは器を手近な机に置くと、優雅な仕草でロタに手を差し伸べて微笑んだ。洗練されたその動きに、思わず見惚れる。


「私たちも踊りましょう」


 エイラの言葉に促されるまま差し出された手に触れようとして、慌てて手を引っ込める。


「……わ、私、踊りなんて」


 傭兵生活の間、女物の服を着ることすらほとんどなかったのだ。ましてや踊ったことなど一度もない。ためらっていると、エイラはロタの手を優しく握り自らに引き寄せた。


「肩の力を抜いて」


 思いやりに満ちた、温かい指先が肩に触れる。


「行きましょう。あなたは私に身を任せて、音楽を聞いていてください」


 そう言ってエイラは歩き出す。身体がふわりと動き、気づけばロタは踊る人々の輪に混じっていた。音楽が近い。頭のなかを響き渡る音色に合わせ、足を踏み出す。行く先は、エイラの手が導いてくれる。灯りがいくつも焚かれた広場は、落ちる闇を拒むように明るかった。人々の手拍子が聞こえる。エイラの瞳がロタを見て、そして笑う。くるりと回り、エイラの手に戻る。さっき飲んだ蜂蜜酒が、熱い血となって身体を駆け巡る。吹き出した汗が、夜風に冷やされては乾いていく。


 夢か、うつつか、もうその境はさだかではなかった。触れるほどに確かで、見るほどに覚束ない夢が、そこにあった。



 ***



 上がった息を整えながら、煉瓦の壁に寄りかかる。隣では、エイラが同じように壁に身体を預けていた。夜の空気を胸いっぱいに吸い込み、吐き出しながら呟く。


「ああ、楽しかった」


 言ってから、自分の言葉が足りないような気がして、唇を閉じ合わせる。楽しかったというには、あまりに輝いていた時間だった。腹の奥まで流れ込んだ音楽と足踏みのリズムは、まだロタの中で弾んでいる。


「私もです」


 こちらを見て、エイラは目を細める。しかし、ロタは彼女が微かに唇を震わせたのを見てしまった。


「エイラさん?」


「ねえロタ」


 にっと歯を見せて、エイラは笑った。村娘のするような表情に、懐かしさがこみ上げる。


「私、あなたとまた会えたこと、もう恨んだりしないわ」


 底抜けに明るい声だった。なのに、何も返せなかった。

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