第28話 川辺での語らい


 ***


「それじゃあ、私とこのお菓子を食べるために帰ってきたっていうの?」


 隣に座るエイラが目を丸くする。すごく子供っぽいことをいってしまった気がして、頬が熱くなる。でも、そのとおりなのだから仕方ない。


「はい」


 笑われるかと思ったが、意外にもエイラは淋しげな顔で息を一つ吐き出した。


「じゃあ、こうしていられるのもこのお菓子のおかげなんですね」


 皇都を流れる川のほとりに腰を下ろし、水が流れていくのを眺める。冬にはいなかった羽虫が鼻先を漂うように飛んで行く。淡い桃色の菓子をつまみ、口に運ぶ。春の香りが舌の上いっぱいに広がり、甘みが頬をとろかす。頬に手を当てながら幸せな気持ちでそれをかみしめていると、エイラがぼそりと呟いた。


「でも、次、あなたにあげられるものがない」


「え?」


「次の聖戦は夏だそうです。……でも、そうだわ。あなたは傷が治ったばかりだし、行かなくても」


 話すうちに少し表情を明るくしたエイラを遮って目を合わせ、口を開く。


「行こうと、思ってます」


その瞬間エイラの顔に浮かんだ感情を、ロタは忘れられそうになかった。底の見えない瞳には、こちらまで抉るような凶暴な孤独が住んでいる。


 暗い眼差しを膝のあたりに落とし、震える息をゆっくりと吐き出してから、エイラは再びこちらを見た。辛そうに眉を寄せながらも柔らかく笑う。


「ばかだな、私。……そう言うってわかっていたのに」


 エイラを傷つけている。それでも、それが聖戦であるなら、行かないことのほうが恐ろしいのだ。自分を支えてきたものを、裏切ることはできない。


「……ごめんなさい」


「いいの。でも、絶対帰ってきてくださいね。もうあなたを驚かせるようなものは何も持ってないし、あげることもできないけど」


 エイラの身体が、ロタに寄り添う。鼻先をロタの肩辺りにうずめ、エイラは小指をロタの小指に絡めて持ち上げた。


「必ず帰ってきてくださいね」


「はい」


「約束よ」


そう言って顔を上げたエイラの目には、うっすらと涙が滲んでいた。ずきりと胸が痛む。


「ロタ、少し、話を聞いてくれますか?」


「……もちろん」


 エイラは、両手を膝の上に乗せ、視線を前へと向けた。


「実は、あなたにまた会って、最初は喜べなかった。あなたとの思い出は、長い間ヘディン家の娘としての私には重しでしかなかったから」


 風に乗って、かすかに音楽が聞こえる。昼前の若い青空の色が、川面に映り、きらきらと輝いた。


「でも、嬉しかったんです。エイラ・ヘディンは、拾われた子のくせに身分ばかり高い陰気な騎士だときっと皆が思っています。アスタル様に身体を売ってのし上がったとまで言われたわ。――何怖い顔してるんです、いくらアスタル様とはいえ私に手を出すならたたっ斬ってやるわよ。とにかく、あなたのそばにいる時は、そんな日常から逃れられた。一度会ってしまったら、もう忘れようとしても出来ないし、あなたのことが心配でたまらなかったし、私は臣下として大切なものもきっと失ってしまった。……あんなに頑張って、汚いこともしてのし上がって来たっていうのに、今じゃ上を目指すことももう楽しくないんですよ」


 責めるような口調で、エイラはついと唇を尖らせた。


「え、私のせいなんですか、それ」


 ぽかんと口を開けると、エイラはくすくすと笑った。


「あなたのせいじゃなくて、あなたのおかげ、と言ったほうがいいかもしれないです。少なくとも、私は今の自分のほうが好きですから」


 エイラはそう言って口を閉じ、また川面を眺めはじめた。流れる水音に混じり、遠く笛の音が聞こえる。隣のエイラをなんとなく見て、いいことを思いつく。


「エイラさん、髪の毛いじっていいですか」


「え? ああ、もちろんいいですよ」


 そう言いながら、エイラの背後に回る。青色のリボンを解き、焦茶の髪を自由にする。さらさらと柔らかい髪に指を通しながら、3つの束に分けていく。


「あの、私の話も聞いてくれますか?」


「当たり前です」


 束を重ね、ロタはエイラの髪を編み上げていく。つややかな髪は、指に心地よい。


「私が今ここにいるのはね、エイラさんのおかげなんです」


「ああ、前、言ってましたね」


「はい。でも、エイラさんがいなかったら、私はきっとこうして外の空気を吸うこともなかったでしょう」


 唇をきゅっと閉じた。うす暗い、狭い部屋を思い出す。身体の大きな女は好まれないから、ロタは一番安値だった。夜を越える度、自分が人であることを忘れそうになった。


「こんなところ、逃げ出してやるって、エイラさん、言ってましたよね」


「ああ、……お義父様と行くって、決めた夜ね」


「エイラさんは、いつも私のずっと先にいました。身寄りもなくて、私なんかよりずっと苦しいはずなのに、いじめられていた私を助けてくれたし、毎日笑っていた。身体が大きいばかりで弱虫な私とは大違いだった。だから、皇都の貴族様がエイラさんを気に入ったときも、やっぱりって思ってたんです。こんな小さな村で一生すごすわけがないって」


 別れは、寂しかった。けれど、エイラが認められたことは、ただただ嬉しかった。


「私は諦めてしまうところだった。父さんのためだと言い聞かせて、ごまかしながら死ぬまでそこに居ることを受け入れてしまいそうだった。けど、エイラさんの声を思い出したんです。こんなところ、逃げ出してやるって」


「あなた、どこにいたの?」


 エイラが振り返ろうとするのを、押しとどめる。髪の束を離さないように握り直す。


「うわ、動かないでください。あと少しでほどけちゃうところだった」


 三つ編みの先を、リボンできちりと結ぶ。ふと思いついて、花束から一輪の白い花を抜き出し、耳の上の髪に挿す。


「できましたよ」


 こちらを向いたエイラは質問を無視したのが気に入らなかったのかしかめ面だったが、花も三つ編みもよく似合って可愛らしい。


「すごく似合ってます」


 思わず笑顔になり、ぱちぱちと手を叩く。すると、エイラは照れくさそうに唇を尖らせ、ほんの少し頬を染めた。耳の上の花にそっと手をやってはにかむ。


「こんなことする歳じゃないですけど」


「えー、可愛いですよ」


「私一人じゃ恥ずかしいです」


 何をいう暇もなく、華奢な手が伸びてロタの髪に花を付ける。ほら、と呟き、エイラは満足気に口の端を上げた。


「ロタの髪はきれいな色だから、花が映えるわ」


 そのとき青空を背にして目の前に座るそのひとの、優しい瞳に目を奪われる。温かな感情が胸を満たすのに、なぜか鼓動は早かった。風が髪を弄び、頬をくすぐる。高く上った日差しが、二人を柔らかく照らしていた。

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