第26話 待ち合わせ

 ***


 最後の一針を縫い終え、結び留めて糸を切る。息を大きく吐き出した。とうとう完成だ。ハイケのクナッドに元から施されていた刺繍を殺さぬよう気をつけながら、幼いころによく縫ったモチーフを散りばめた。


 針を置いて立ち上がり、一度振ってばさりと広げる。深い青の布地に辛子色と白の糸で複雑な模様が縫い込まれた美しいクナッドだ。ハイケの仕立ては完璧で、肩も丈もロタにぴったりだ。大急ぎで仕上げたのにしては、なかなか満足の出来である。クナッドを抱きしめて、ベッドに倒れこむ。


 明日。今日眠って起きれば、花祭だ。皇都の花祭を、エイラと回れる。つい数ヶ月前には流れの傭兵をしていたことを思うと、奇跡のようだ。思わず感謝の念がわき起こり、胸に下げた三叉剣のチャームを握りしめる。起き上がって膝をつき、窓の外の月を見上げた。清浄な青い光が、手に乗せたチャームに映り淡く輝く。


 最近、刺繍にかかりきりであまり寝ていなかった。ランタンの油も使いすぎてしまった。そろそろ眠ったほうがいいのだろう。わかっていても、胸が高鳴って眠らせてくれない。明日が早く来て欲しい。しかし同時に、明日という日をいつまでも楽しみにしていたかった。


 ***


 いつの間に寝ていたのだろう。目を開けると、木窓の隙間から微かに光が漏れていた。開けた窓の外には乳白色の光がただよい、夜明けの柔らかな風が鼻先を撫でる。疑いない春の香りが、ロタに今日が何の日であるかを告げていた。頭がはっきりと覚醒していくにしたがって弾けるような喜びが身体を駆け巡っていく。


 水桶で顔を洗い、夜着を脱ぐ。白いシャツをかぶり、腕を通す。そして、ハイケと一緒に準備をしたクナッドを手にとった。ひらひらとした服を着るのはいつぶりだろうか。気分の高揚で頬が熱くなる。綺麗に着られただろうか。自分のような女が着飾るなど、おかしくはないだろうか。不安が次から次へとわき起こったが、腕を伸ばして手の指先から足下まで自分を眺めると、幸せな気分でいっぱいになった。


 ドアを開け、空を見上げる。夜明けの薄靄が晴れていく空は、乳白色から澄んだ青へと色を変えていた。始の鐘はそろそろ鳴るだろう。ロタはいつもの木立へと急いだ。


 通り過ぎる木々の枝の先を、淡い緑の新芽が彩る。足下にはもう霜はなく、細かな双葉が場所を取り合うように生えている。枝の隙間から差し込む朝日の下に、彼女は掛けていた。


「エイラさん」


 そっと声をかける。倒木から立ち上がったエイラは、少しこわばった顔でこちらに手を振る。深緑のクナッドには金糸で模様が縫いとられ、陽の光をちらちらと映して美しい。しかし、何よりロタの目を惹きつけたのは、やはりエイラの瞳だった。大きな枝を避けながら駆け寄る。手が届く距離に近づいてようやく、エイラは頬を緩めた。


 ロタを上から下まで見て、その美しい顔に花が咲くように笑顔を浮かべる。


「とっても綺麗」


 エイラはロタの胸元の刺繍に手を伸ばすと、そっと触れた。


「これって、」


「村にいるときに一緒に習ったモチーフです。覚えてたんですね」


「忘れるわけないでしょう? あなたは器用だからすぐできるようになっていたけど、私はすごく時間がかかったもの。……何ヶ月見続けてたかしら」


 エイラはくすりと笑い、刺繍を愛しげになぞった。その顔が一瞬泣きそうに歪んだ気がして、どきりとする。しかし、エイラはロタの肩にことりと頭を預け、明るい笑顔でこちらを見上げた。微かに紅を差した目元が、すっと細められる。生えそろった睫毛の隙間から、温かな視線がのぞく。


「なんだか、とても久しぶりですね」


「そうですね」


「ハイケから聞きました。このクナッドも、あの子のお下がりなんですって?」


 エイラはおかしそうに笑って、ロタの着る青の布地を撫でる。


「最初はすごく怯えられてしまいましたけど」


「でも仲良くなれたのなら良かった。あの子は、私の出自も知っています。それでも変わらずに慕ってくれたし、口も堅い。だからあなたへのお使いも頼めたの」


 エイラの静かな口調が、少し震えた。また、胸の辺りが嫌な打ち方をする。


「エイラさん」


「ん? 何?」


 ロタを再び見上げた視線は、やはり柔らかく温かい。心配はいらないのかもしれない。けれど、一抹の不安が胸の底に絡んで取れない。


 その時、澄み渡る朝の空気を震わせて、幾重にも重なった音が鳴り響いた。聞き慣れたはずの音色も、今日、ロタにとっては特別なものだ。一日の始まりを告げる鐘、――始の鐘だ。


「……そろそろ、行きましょうか」


 不安を振り払い、口の端を上げてみせる。


 空は晴れ、雲もない。風に乗って花の香りが漂う。隣には、エイラが笑っている。


 今日は、素晴らしい日になるだろう。


 二人は立ち上がり、城下の大通りを目指して足を踏み出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る