第21話 土の匂い、春の予感
***
久しぶりに誰の手も借りずに踏む床は、少しふわふわとして心もとなく思える。弱ってしまった身体は思うように動いてくれない。けれど、もう歩ける。たまらなく嬉しいはずなのに、どこか物足りない気がしてしまう欲深な自分に嫌気が差す。やはり、来て欲しかったのだ。骨の奥まで染みこむような痛みの中で見たその人の顔は、痛みとともに、目蓋の裏側に焼き付いてしまったのかもしれない。
――涙、拭いてあげたかったな。
胸の中で小さくつぶやく。はじめから、エイラは自分と一緒にいるところを見られるのを嫌がっていた。皇族に仕える彼女がそう思うのは当然だ。だから、一度来てくれただけでも、奇跡のようなことなのだ。そう自分に言い聞かせながら、ベッドの隙間を縫って大部屋を出た。あまりに覚束ない自らの足取りに、思わず笑ってしまう。次の戦がいつになるかは知らないが、しばらくは荷運びすら難しいだろう。
ようやく傷病者棟の外に足を踏み出したときには、すっかり息が切れていた。見上げると、抜けるように青い空が頭上高くに広がっていた。窓越しでない空は、どこまでも高い。乾いた音を立てて、枯れ葉が転がる。羽織った上着がはためく。風はまだまだ冷たいが、微かに湿った土の匂いが混じっていた。
ここは皇都なのに、故郷の村と同じ匂いだ。春はもうそこまで来ている。ロタは、視界いっぱいに広がる空を見て、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
そのとき、背後でかさりと枯れ葉を踏む音がした。
「……ロタ?」
空耳だと思った。違ったら嬉しい。その程度の期待で振り返った。そして、思わず目を瞬いた。
「やっぱりロタ。なんで外にいるの? もう出歩いていいんですか?」
整った眉を心配げに寄せたエイラが、切りそろえた前髪を揺らしながら小走りで駆けてくる。胸元のクラバットがふわりと揺れる。
「エイラさんこそ、どうしてこんなところに?」
エイラはロタの目の前に立つと、黒目がちの瞳でこちらを見上げた。
「あなたの見舞いに来たに決まってるでしょ。……久しぶりに休みを頂いたので」
「え、じゃあ、あれからずっと忙しかったんですか? 大変ですね」
護衛任務と訓練があるぐらいの下級騎士とエイラのような上級騎士とでは、暮らしはだいぶ違うようだ。驚くと同時に、嬉しくなる。エイラは貴重な自分の時間をロタのために割いてやってきてくれたのだ。
「……そんなことないです。とにかく、歩けるようになったなら良かったです。あなた、時間は?」
エイラの瞳がこちらを向き、問うように見上げる。
「暇で暇で、死んでしまいそうです」
笑ってみせると、エイラは顔をしかめてため息をついた。
「……では、あなたが死なないように、相手をしなきゃならないですね」
唇を尖らせてそっぽを向いた彼女の顔をそっと伺う。むすっとしながら頬を染めているエイラが可愛らしく思え、くすりと微笑む。
「お願いします」
「ところで、少し歩けますか? 食べ物を持ってきたので、どこか座れるところに行きたいんです。いつもの場所でもいいけれど」
目をそらしたまま、エイラが言った。見れば確かに、小さなかごを持っている。
「ああ、それなら私の宿舎なんかどうです? しばらく空けていたので心配なんです。実は今から行こうかと思ってて」
ロタの言葉に、エイラは一瞬目を輝かせたが、すぐに視線を落とした。かごの取っ手を握る手に、力が入ったのがわかる。そういえば、エイラはさっきから周りを気にしているようだった。傷病者棟の前には宮殿へ繋がる道がある。なるほどと胸の内で呟き、声をかける。
「見られるのが心配なら、ほら」
色あせた上着を脱ぎ、エイラの肩にふわりとかける。
「これなら見咎める人もいないはずですよ」
エイラは驚いたようにこちらを見上げ、ほんの少しだけ微笑んだ。
「ありがとう」
胸が、とくりと揺れた。なんとか目を逸らす。
「い、いきましょうか」
歩き始めてからしばらくしても、まだ怖かった。一瞬、あの美しい笑みに溺れてしまいそうな気がしたのだ。
「まだ歩ける? 戻りましょうか」
エイラが立ち止まり、こちらを見上げる。傷病者棟からはまだいくらも来ていないのに、いつの間にかまた息が上がっていたようだ。心配をかけたくなくて、笑ってみせる。
「大丈夫ですよ。……少し、体力が落ちちゃって」
エイラは少し唇を噛み、小さく息を吸い、吐き出す。
「まだ昼にもなっていないわ。時間はたっぷりあります」
そう言ってロタの隣に歩み寄り、そっと右腕をとって身体を支える。向けられた笑顔がかすかにこわばっている気がしたが、いたわるように接してくれるのが嬉しくて、ただ頷く。そういえば、エイラは昔からこうだった。村のいじめっ子たちを一人で倒してしまうほどの腕っぷしなのに、気遣いは誰よりも細やかで、温かい。
こくりと頷くと、エイラはロタの背に手を添えて歩き始めた。冷たさに春の匂いを滲ませた風が吹く。半歩前をゆくエイラに歩調を合わせるのは、とても幸せなことに思えた。
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