第20話 約束

 ***


 血と、泥に塗れていた。ぬるりとした手指の感覚が、血と泥、どちらなのか判然としない。だが、これが夢であることには、なんとなく気付いていた。きっと、自分は、記憶の中であがいているだけなのだと。


 神は、自分たちを見捨てたのだろうか。それとも、自分たちを助けられないほど、疲れ、弱ってしまったのだろうか。そう疑いたくなるほどに、戦況は悪かった。異教徒たちの降らせる矢は雨のようで、傷ついた馬では逃げることもままならない。肩の傷は焼けるように熱く、矢じりが残らぬように貫通させて引き抜いたのがまずかったのか、元から場所が悪かったのか、鎧の下に着込んだ厚手のシャツがぐっしょりと濡れるほどに血を流していた。


 いつの間にか、馬を失い、足も斬られていた。夢は、記憶を時々早回す。どうやって斬られたのか思い出せなくても、その傷は激しく痛み、肩よりも激しく血を流した。足がもつれて倒れこむ。ふと横を見ると、息絶えた仲間の虚ろな目がこちらを見ていた。恐怖を感じることはなかった。ただ、こうなりたくないと思って、立ち上がる。死んではいけないとだけ念じながら、戦闘を離れる。異教の紋様をかいくぐり、死体の隣をよろめきながら通り、逃げて、逃げた。夢だとわかっていても、背中のほうから聞こえる剣のぶつかる音が怖い。神のための死は怖くないはずなのに、この生を手放すことは怖くてたまらない。


 どうして死んではいけないのか。どうして、生きなくてはならないのか、靄がかかったような意識の中、必死に考えた。そして、その訳を思い出して、ふっと頬が緩む。


 ――今度あの菓子を食べさせてあげる。


 そう言ってくれた人を思い出す。そうだった。まだやりたいことがある。一緒に食べたいと、彼女は言ってくれた。だから、こんなところで死んではならない。




 ***




 目を開ける。どのくらい眠ったのだろう。棟には午後の光が差し込んでいたが、それが眠る前と同じ一日の光なのか、それとも翌日の光なのかはわからない。恐ろしい夢の余韻は、目を覚ます直前に思い出した温かな気持ちのおかげですぐに消えた。生き残った以上、自分はきっとまた戦に出る。ならば、戦への恐怖など忘れてしまっていた方がいい。幼いころロタを支えてくれた神に剣をふるうことで恩を返せるならば、戦うと決めたのだから。


 まとわりついた上掛けが何となく窮屈で、身じろぐ。痛む肩をかばいながら、腕を外に出した。ひやりとした空気に触れ、洗われるような心地がした。自分はもう大丈夫だ。今だに傷は激しく痛むが、どこか身体の奥のほうで健康な力が沸き起こっているのを感じる。


 そのとき、こつこつと足音がしてロタの横たわるベッドに人影が近づいた。


「よう」


 言いながら、青年はベッド脇の窓枠に掛けた。


「顔色がいい。この分なら大丈夫そうだな」


「うん。……フレックはどう?」


「俺は最初から大したことないからな。それより、早く起き上がれるようになれよ。隊の奴らみんな死んじまいやがったから、話す奴がいないんだ」


 肩に巻いた包帯をさすりながら、フレックはつまらなそうにため息をついた。


「フレックなら友だちくらいすぐできるでしょう」


 思わずくすりと笑いが漏れる。そんなロタを見て、フレックは肩をすくめて頭をがしがしとかいた。


「あーこれだから寝っ転がってるだけのやつは嫌なんだよ。出てくればわかるぜ? 隊で生き残った俺たちがどんな風に言われてるか。殉死が怖くて逃げ出した背教者、だって、」


「違う!」


 考えるより先に声が出ていた。言ってから、ぼんやりとした頭で考える。


「それは、違う……たぶん」


 繰り返した言葉に、自信を持つことができない。もちろん、神に背いたつもりはこれっぽっちもない。皇都騎士団へ入る前は大抵護衛か、せいぜい小競り合いに駆り出される程度の傭兵業しかしてこなかった自分にとっては初めての大規模な戦だった。それでも、全力を尽くしたつもりだ。雑兵が多かったとはいえ斬った敵の数は十をゆうに超えるだろう。けれど、死を恐れなかったかといわれれば、違うと答えるしかない。傷を負ってからの自分は、逃げ出して生き延びることしか考えていなかったのだから。


 うつむいて黙り込んだロタに、フレックが声をかける。


「そういえば、お前は俺と違って真面目な信徒だったな。……今のは忘れろ。神を信じてる奴が皆喜んで死にに行ったりしたら、騎士団は壊滅だ。それに、これを言ってた奴らは無傷なんだから笑える。たまたま激戦に巻き込まれなかったからって勝手なことを、」


「大丈夫、気にしてないよ」


 饒舌に語り始めた友を遮って微笑んでみせた。自分たちのことを悪く言う人がいることより、こうして慰めてくれる人が一人いることの方が、大きなことに思える。


「フレックのためにも、はやく起き上がれるようにならなきゃだな」


眉を上げると、フレックは今日来てから初めて、少し笑った。


「そういうこった」

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