第7話 ずっと、会いたかった

***


 何を考えていても、何をしていても、心の奥に釘が打ち込まれたかのような苦しさが消えなかった。剣闘大会から、そろそろ十日が経とうとしている。それなのに、不安は薄まるどころか日に日に強くなっていた。


 その日、アスタルの頼みで菓子を買い求めるため、エイラは久々に城下へ出ていた。アスタルに気を使わせてしまったのは明らかだ。己の情けなさにため息をこぼす。しかし、宮殿の外を歩くのはやはり楽しいものだ。エイラが都に来た頃に比べると衰えつつあるとはいえ、城下は活気がある。久方ぶりに気持よく晴れた日差しも後押しして、数日塞いでいた心が微かに軽くなった。


 城下では一番人気のその店で、目的の菓子を数個買う。干した果物をふんだんに使った焼き菓子は、エイラの次で売り切れた。紙袋から漂う甘い香りを胸いっぱいに吸い込む。弾む心で帰路を急いだ。


 アスタルの思惑通り、城下へ出たことはよい気晴らしになったようだ。何もかも見通されているようで少し癪だったが、少しでも忘れられるならありがたい。だから、どうして帰路をそれてしまったのか、エイラにはわからなかった。


 いつの間にか、エイラは傷病者棟の前に立っていた。乾いた風が、エイラの髪を揺らす。何故こんなところに来てしまったのだろう。せっかく忘れられそうだったのに。


 ――帰ろう。


 自分に言い聞かせ、踵を返したときだった。


「エイラさん?」


 落ち着いた声が、エイラを呼び止めた。


 エイラは、息を吸った。振り向いたら、きっともう戻れなくなる。上を欲する強さを失ってしまう。記憶を断ち切る術を、失ってしまう。


 そうわかっていても、エイラは、振り向かずにいられる方法を知らなかった。


「やっぱり、エイラさんだ」


 視線の先で、ロタがぱっと顔を明るくする。


「……あなた、傷は」


 ロタは今気付いたように肩に手を当てた。木漏れ日に照らされたシャツの下に、包帯の白さが微かに透ける。


「だいぶ良くなりました。もう歩けますし」


 周りを見回し、ロタの側に歩み寄る。怪我をしていない方の腕をとり、歩き出す。


「場所を移しましょう」


 紙袋を抱えたまま、敷地内にある森に分け入る。裸の枝の隙間から日差しが漏れ、十分明るい。最近は来ていなかったが、このあたりにエイラのお気に入りの場所があったはずだ。貴族の養女としての自分に耐えられなくなった時、度々抜けだしてはそこでしばらく座っていたのだ。


「あった」


 木々の間に、人が数人は座れそうな大きな倒木がある。朽ち始めてはいるが、まだ座れるだろう。


「疲れたでしょう……座ってください」


 引いていた手を離して声をかけると、ロタは嬉しそうに微笑み、頷いた。ロタの隣に掛ける。


「傷、良くなってきているようで良かった」


「治りは早い方なんです……。こんなにすぐ、また会えるなんて」


無邪気に喜ぶロタを見ていられなくて、視線を膝に落とした。


「……そう」


「そういえば、皇都騎士団に入れることになりました」


身体がぴくりと震えた。ロタが顔を覗きこむ。


「エイラさん?」


「……いいんですか」


やっとのことでその一言を口にする。俯いたエイラを見て、ロタは不思議そうに首を傾げた。


「何が、ですか」


「皇都騎士団に入団すれば、聖戦に駆り出されることになります。しかも、下級騎士は最前線です」


「……そうですね、少し怖いです」


 ロタは、なんでもないかのように笑う。エイラは、笑えなかった。アスタルの側にいるせいで、聖戦での死傷者の数は知っている。女のロタが、最前線で生き残れる可能性が、どれほど低いか。そう思うと、腹の底から震えが走る。


「死ぬかもしれないんですよ」


「でも、神様のためです。それに、殉ずれば救いが、」


「何を言っているの」


 思わず声が大きくなった。吐き出しそうになる感情を飲み込み、ぎゅっと膝を掴む。


「……生きて、救いを探せばいいのよ」


 しばらくして、ロタはふっと息を吐き出した。透明な陽が差す空を見上げる。つられて、同じ空を見上げた。縦横に走る枝に切り分けられた青空が眩しい。


「まだ信じられません」


「え?」


「こうして、エイラさんとまたお話していることが夢じゃないかって」


「……そうですね」


 そっけなく答える。なんとなく隣を見て、目を丸くした。目を閉じたロタの頬に、小さな水滴が伝っている。


「ロ、ロタ?」


 ロタはゆるりと首を傾けると、エイラの目を見て、懐かしい笑みを浮かべた。目を細めると同時に、涙がぽとりと落ちた。


「ずっと、会いたかった」


 二人の間に、風が吹き抜ける。葉のこすれ合う音が、揺れる日差しとともに二人の影を洗った。

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