第5話 忘れるはずの
声が出せない。懐かしさで、どうにかなってしまったのかもしれない。喉の奥が詰まったままのようだ。しかし、ロタが体を起こそうとしているのを見て、つい手を貸す。たくましい腕をシャツの下に感じ、思わずロタの顔を見る。
「あなたは、大きくなりましたね」
言葉が、ぽろりと口からこぼれる。我ながら間抜けな台詞だ。久しぶりに会って、自分はこんなことしか言えないのか。エイラが顔をしかめると、ロタがくすりと笑った。肩に届かないほど短く、しかし柔らかそうな髪がふわりと揺れる。
「やっぱり、夢じゃないみたいだ」
エイラの手にそっと手を重ね、目を伏せる。
「……温かい」
ロタの手は冷えきっていた。女性の手にしてはごわごわと固く、無骨な手。だがその手つきはただただ優しい。
「エイラさん」
「……な、なんですか」
ロタは目を閉じた。幸せそうに微笑む。
「ずっと、会いたかった。……まさか、来てくれるなんて」
重ねたロタの手に、微かに温もりが灯る。エイラの熱が移ったのだろうか。
「どうして、剣闘大会に?」
「ええと、エイラさんが村を出てから、」
「ロタ!」
口調が鋭くなる。嫌な可能性に気付いてしまった。ロタと話しているのを見られたら、アスタル以外には隠している出自が曝されてしまうかもしれない。そうなれば、ようやく勝ち取った最上級騎士の位が危うくなる。
「村の話はしないでください」
ロタは少し驚いたように目をぱちぱちと瞬かせたが、素直に頷いた。
「……はい」
今も、誰が目を覚ますかわからない。焦りが背を這い上がり、ロタの手を振り切るように立ち上がった。その時、ロタが一瞬眉を歪めた。傷に響いたのか。胸が締め付けられる。
「私はここでは皇族に仕える最上級騎士……あなたの上に立つことになります。あの頃とはもう違う。気をつけなさい」
こんなことが言いたいわけではない。それなのに、きつい口調になるのをやめられない。
悔しさに歪む顔を見られたくなくて、フードをかぶり直す。別れの声もかけずに来た道を引き返した。早足が、次第に駆け足になる。傷病者棟を出て、自室までひたすらに走った。外套を脱ぐこともせず、ロタが寝ていたものよりずっと柔らかな自分のベッドに倒れ込む。
どうして、再び出会ってしまったのか。
飾り気のない落ち着いた声、優しい笑顔、柔らかに揺れる髪。たった今見て、触れた全てのものがエイラの記憶をかき乱し、締め上げた。
握りしめた拳が震える。
「忘れるって、決めたのに」
アスタルが上を目指す限り、全ての私を捨て忠誠を誓う覚悟を決めた。そのはずだった。
「……どうして、」
喉に熱い塊がこみ上げる。頬を、ぬるい液体が伝う。エイラは、寝具を力なく殴りつけた。ロタの手よりひと回り小さく、華奢な拳をそっと解く。
「どうして、忘れさせてくれないの」
空はもう暗い。雲の裂け目から月がわずかに顔をのぞかせていた。冷たく幽かな光の差し込む部屋で、エイラはまた一粒涙をこぼした。
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