第4話 再会

 ***

 自室のドアを開ける。廊下の空気が、冷たい部屋の中に吸い込まれていく。エイラは、その薄暗い部屋に足を踏み入れた。皇族に仕える最高位騎士の位を持つエイラには、宮殿の敷地に建つ宿舎に部屋が与えられている。派手ではないが上等の敷物が引かれた床、隙間風を通すことのない石の壁、柔らかなベッド。幼い自分が見たら驚いて目を回しそうな部屋だ。

 幼いころ、物好きな貴族に拾われて都にやってきた。明日の見えない寒村を逃げ出したい一心で、好機にしがみついた。その時から、エイラはどこまでも這い上がると決めた。あの貧しい村で孤児であった自分が、自分の手にする運と力量でどこまで登れるかが知りたかった。アスタルに引き抜かれ、自分を蔑んでいた人々の上に立つ喜びを覚えた。そして、彼とともにその先を見るつもりだった。

 ――それなのに。

 エイラはベッドに掛け、ぐしゃぐしゃと髪をかき乱した。リボンがほどけ、まとめていた焦茶色の髪がさらさらと肩に落ちる。剣闘大会が終わり、アスタルと別れてからも、倒れた女騎士の――ロタの姿が瞼の裏から離れない。孤児の自分を友と認め、いつも控えめに笑っていた泣き虫のロタ。いじめられてうずくまる幼いロタを思い出し、居ても立ってもいられないような気がする。

 過去のことは忘れたはずだ。あんな貧しい、薄汚れた村のことなど、記憶から葬り去ったはずなのだ。

 ――でも。

 頭を振る。自分の覚えているロタとは、変わってしまっている。そう思い込もうとした。エイラの知っているロタは、エイラの後ろにおどおどと立って、花や鳥が大好きで、エイラの目を見て優しく笑う――あんな、人に剣を振るうような子ではなかった。

 何度違うことを考えようとしても、よみがえるのは血にまみれたロタの姿だけだった。傷は深かっただろうか。きちんと手当をされているだろうか。嫌な想像ばかりが頭のなかで膨らむ。

 エイラは立ち上がった。

 足元に落ちたリボンを拾って、再び髪をまとめる。衣装棚から黒い外套を取り出した。腕を通し、フードを目深にかぶる。

 ここから様子を知るすべが無いというなら、自ら赴くまでだ。

 下級騎士の傷病者棟には、独特の臭気が漂っていた。特に怪しまれることもなく正面から入り、ドアの一つを開ける。中は思ったよりずっと清潔だったが、それでも隠せない、血と土と排泄物の混ざり合ったような嫌な空気が立ち込める。そこは、数十のベッドが並ぶ大部屋であった。同じようなドアがいくつもあったことを考えると、もしロタがここにいたとしても、見つけるのには時間がかかりそうである。ため息を付いて、ベッドの隙間を歩きはじめた。

 ここ数ヶ月戦いはなく、ゆえに帰還兵もいない。だから、ここに寝ているのは今日の剣闘大会の怪我人ばかりなのだろう。空いているベッドも多かった。ときどき、苦しげな呻きが聞こえる。外はようやく雲が切れ、夕陽が陰気な空を染め上げている。

 窓から差し込むわずかな光を頼りに、幼馴染の顔を探した。

 灯りを持ってくればよかった。暗くなれば探すすべがない。

 敷地の森に、夕陽がみるみる飲み込まれていく。

 赤い光が消え失せ、大部屋が薄暗さで満たされたときだ。エイラはその人を見つけた。心臓が早鐘を打つ。

 引き寄せられるように、彼女の寝ているベッドの傍らに駆け寄る。フードが邪魔で、外す。彼女は、枕に頭を預け、深く眠り込んでいるようだった。

 顔も身長も体つきも、何から何までエイラの覚えているロタとは違うのに、その人はくらくらするほどに懐かしかった。足から力が抜け、ベッドの傍らにへたりと膝をつく。

 傷ついた肩と胸には、きちんと包帯が巻いてある。少しだけほっとした。会わない間に、一体何をしていたのだろう。ロタの身体は騎士にふさわしく、無駄なく鍛えぬかれていた。泣き虫でいじめられっ子のロタとは思えない。けれど、眠っていても感じるこの温かな雰囲気は、間違いなくロタのものだ。

「……ロタ」

 そっと名前を呼んでみる。すると、ロタのまつ毛が震えた。慌てて立ち上がる。まさか目を覚ますとは。怪我の手当が気になって来ただけだ。会うつもりなどない。しかし、フードをかぶり直す前に、ロタの目が薄く開いた。

「誰?」

 かすれた声が、エイラを呼び止めた。きっと、そのまま帰るべきだったのかもしれない。けれど、何よりもその声の響きが、エイラをその場に縫い留めた。

「ロタ」

 エイラには、ただその名を呼ぶことしかできなかった。ぼんやりと定まらなかったロタの目が何度か瞬き、次第にエイラを真っ直ぐに見つめる。瞬間、彼女の柔らかな視線がエイラを絡めとった。

「……これは、夢なのかな」

そして、昔と少しも違わない、控えめで優しい笑みを浮かべた。

「綺麗になりましたね、エイラさん」

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