第1章

第6-1話 混沌は緩やかに街を飲み込む〜スピーキージーにて〜

 ニューヨークの南にあるブロンクス地区、その更に南西部にあるサウス・ブロンクスは、ニューヨークでも屈指の貧民街だ。家を持たぬもの、迫害された移民、何らかの理由で好景気の恩恵を受け取れなかったもの……そうした者達が、瓦礫と廃墟の隙間を縫うようにして肩を寄せあって暮らしている。

 その奥まった路地へと入る少し手前、スロットと言う名の飲食店にジョン・E・ウェスコットの姿があった。スロットという店は飲食店を謳っているが、その実態はこの時代多くの人間が酒を求めてやってきた違法酒場、スピーキージーのひとつだ。そのバックには多くの場合ギャングやマフィアがいる事が多く、この店も例に漏れずブロンクス一体をシマとするマフィア『ガーランド・ファミリー』が管理していた。ジョンはそこまで知っていながらも、この店を手入れするために来た訳では無い。彼が手入れをするのは、単にボルステッド法違反をしている組織や店では無く、その他にクスリを扱っていたり移民や黒人を奴隷の様に働かせていたり、被害者にとっての大事な人を人質にとったり殺したり……と言った、彼にとって社会に反すると考えるものを検挙対象としていた。

 ジョンはどちらかと言えば禁酒法には反対している。彼が酒を好むということも関係しているが、酒が生み出す雇用や経済効果、そして税金、と多くのことを加味して反対の立場を取っている。それに、禁酒法が始まってからの反社会的組織の幅の効かせ方がジョンは気に入らなかった。禁酒法はそれ自体がギャングやマフィアの資金源となる一方、酒による税収が減った国は彼らを取り締まるために十分な資金源を見つけられず、まさに本末転倒という他なかった。

 だから彼は禁酒法取締捜査官として働いている。それは酒をアメリカから無くす為ではなく、酒によるギャングやマフィアの支配に怯える人々を救う為……本来の考え方とは違うかもしれないが、それでも結果を残す彼に文句をいう人間はそう居なかった。

 そんな彼にとって、このスロットは数少ない憩いの場だった。マンハッタンのもっと活気がある地区にもスピーキージーはあるが、禁酒法取締捜査官である彼がお忍びで酒を飲む為には、こういった少し廃れた場所に来るしかなかった。そんな憩いの場を荒らす者がいるからこそ、彼はこのブロンクス一体に出回る謎の密造酒の調査に乗り出したのだった。

 そんなスロットでは、カジノやビリヤード、ダーツに興じる客たちの騒ぎ声に、レコード・プレイヤーから流れるジャズが混じりあっていた。ジョンはカウンターで一人、オンザロックを傾けながら、ある人物を待っていた。

「ジョン、久しぶりだな」

 ふと、一人の男がジョンの背後から話しかけた。体つきはしっかりとしているが、表情はにこやかで優男といった風貌の男だ。

「あぁ、最近何かと周りの目が厳しくてね。優秀な捜査官様には模範的な行動を、とかなんとか」

 振り返りながらジョンがそう返す。

「まぁ、今日は調査って話になってるから、うっかり頼んだ飲み物の中にアルコールが入っちまっててもしょうがないだろ?」

 そう言いながらグラスを男に向けて掲げる。男はジョンの態度を見てニヤリと笑うと、マスターに「同じものをくれ」と言ってジョンの隣に座った。

「で、最近どうよ?ガーランドの旦那」

 ガーランドと呼ばれた男は苦笑しながらジョンに返した。

「おいおい、ここでその名前はやめてくれ。客がビビって逃げちまう。一応こんなんでも、ガーランド・ファミリーで親やってんだからよ」

「いやいや、今日は友人としてではなく、そのガーランド・ファミリーの親であるアンタに話があって来たんだぜ?まぁ、とは言っても店の売上が落ちても俺は補償できないし、今日のところはゲイルズということにして置いてやろう」

 ジョンにそこまで言われながらも、男……ガーランド・ファミリーの親であるゲイルズ・ガーランドはにこやかだった。

「全く、調子がいいやつだ。もう酔ってるのか?」

「まさか?これからが本番さ」

 ジョンはそう言うと、マスターにキープボトルを取り出すよう注文する。空のショットグラスを2つ受け取り、それぞれに並々とスコッチを注ぐと、2人はそれをぐいっと飲み干し、同時にカウンターの上に子気味良い音を立てグラスを叩き付けた。

「……ったく、本当に話を聞く気あるのか?」

「もちろん。だが、こいつが無きゃ始まらないだろ?なったってここは、スピーキージーなんだから」

 2人がニヤリと視線を交わす。しかし、次の瞬間にジョンは真面目な仕事の顔に戻ると、今度は声を潜めてゲイルズに尋ねた。

「まず最初に一つだけ尋ねたい。俺は旦那のことを信用しているし、そんなことをやる様な奴じゃないと思ってる。だから、この話は別に疑ってるわけじゃない。簡単な確認作業だ。その上で、まず俺の質問に答えてほしい」

 ゲイルズは回りくどい言い方をするジョンを決して茶化すことなく、静かに頷いた。

「旦那、あんたクスリにて出してねぇだろうな」

 刹那、爆発音が響く。いや、爆発音に聞こえた。あれ程騒がしかった店内はしんと静まり返り、音の発生源であるカウンターでつかみ合う1組の男に視線が注がれていた。

 ゲイルズはカウンターに穴が開くのではないかと言うほど力強く右の掌を叩きつけ、その反動で左腕でジョンの襟首を掴みあげていた。

「落ち着け旦那、クールに行こう。最初に言っただろう?俺は別にあんたを疑っちゃいない。だからこそ率直にあんたに質問出来たんだ。この意味が分かるな?」

 首を絞めあげられながらも、なおも冷静にジョンはゲイルズを諭す。ゲイルズの顔は、先程までの優男から一変して、マフィアの親が見せるそれに成り代わっていた。2人はきつく睨み合いながら、決してお互いに一歩も引かなかった。

「ジョン、お前……」

「分かってる、分かってるさ旦那。俺が忘れる訳無いだろ?なんて言ったって、俺が上げたヤマなんだから。だからさっさとこの腕を離して、大人しく席につけ」

 ジョンがそう言うと、ゲイルズは最後にもう一度だけジョンをきつく睨み上げ、腕を離した。開放されたジョンは、襟元を正しながら振り返ると、未だ2人に注目している客達に向かって話した。

「悪かったな、空気を悪くしちまって。もう落ち着いたから、続けてくれていいぜ」

 そう言われると、客達は口々に悪態をついたり野次を飛ばしながらも、次第に店の中は先ほどと同じく喧騒に包まれていった。

「すまなかった」

 ジョンが席に着くと、ゲイルズは開口一番に謝罪を口にした。

「いやいや、今のは俺が悪かった。だがあんたのその反応を見てシロだと確信したぜ」

 ゲイルズのグラスにスコッチを注ぎながら、ジョンは少しだけ彼らの過去に纏わる話を始めた。

「まだ1年しか経ってないんだな、そう言えば」

「あぁ」

 短く言葉を返し、グラスに少しだけ口をつけると、ゲイルズは脳裏に浮かぶ誰かに向かって残りのスコッチを掲げた。

「俺はクスリだけはやらないと誓っている」

「知ってるさ」

 短い言葉だが、ジョンのその言葉には重みがあった。ゲイルズがクスリを忌み嫌う理由。それは、恐らくゲイルズとジョン、そして獄中生活を送る加害者と、今は亡き被害者しか知らない話だった。

「いい女だったよな」

「……あぁ」

 ゲイルズは掲げたグラスを飲み干すと、今度はそっとカウンターに置き、ジョンに話の続きを促した。

「それで、わざわざそんな話を俺にするってことは例の件か」

「さすがマフィアの親玉、もう耳に入ってるか」

「当然だ。ブロンクス全体がそうだが、特にこのあたりが酷かった。店に卸される訳でもなく、このご時世に路上販売なんかしやがるバカはすぐに見つかったが、結局出元までは割出せなかった」

 すると、ゲイルズはマスターを呼び、彼に耳元で何かをいうと、マスターが店の奥へと戻っていった。しばらくするとマスターは戻り、その手には一本の瓶が握られていた。マスターはゲイルズにそれを渡すと、また仕事に戻っていった。

「これは?」

「例の酒だ。売人達は海のアブサンと呼んでいた。生産元もバイヤーも不明、そして……」

 ゲイルズは栓を開けると、空のグラスに中身を注いだ。すると奇妙な事に、酒はグラスに触れた途端に奇妙な青い輝きを発し出した。ついで、辺りには磯臭い独特の匂いが溢れ出す。

「これは……」

「明らかに『何か』細工してある。聞いていると思うが、コイツを飲んだ奴はそろって同じ証言をしている。首元が疼き出し、エラが生え、クスリをやった時のような感覚になる、と」

 ゲイルズはグラスをそのままジョンの前に差し出した。

「飲めってか?」

「中毒性が無いことは確認済みだ。捜査官殿、モノを知らずに事件を追うってのは、ナンセンスな話だと思わないか?」

 ゲイルズがニヤリと笑う。先程までのこわばった顔つきはもう元に戻り、ゲイルズはいつもの様子にすっかり戻っていた。

 グラスを差し出されたジョンは、恐る恐る手に取るとそれを鼻の先に持っていき、匂いを嗅いだ。そのまま口元まで持って言ったが、首を横に振るとカウンターの上にグラスを戻した。

「いや、やっぱりやめとくよ。酒は禁止されてるからな」

「よく言う」

 ゲイルズは戻されたグラスを受け取ると、ビンと共にマスターに返した。

「で、何もわかってねぇのか」

「調査中だ」

 ジョンの問いに、ゲイルズが疲労感のある声で返す。

「バイヤーはこの街……というよりも、街の裏にとことん詳しくないやつだとは思っているが、バカではないらしい。尻尾を覗かせることはあるが、すぐに切り落としてどこかへ行っちまう」

「……が、トカゲの尻尾だって無限に生えてくる訳じゃない」

 ジョンの言葉に、ゲイルズが頷いた。

「あぁ、時間の問題だろう。またなにか分かったら知らせる」

 そう言うと、ゲイルズはポケットから100ドル紙幣を数枚取り出しカウンターに置いた。マスターはその額に驚き、目を丸くしている。

「騒いじまった分の謝罪も兼ねてな。今後ともよろしく頼むぜ」

 そう言うと、ゲイルズはジョンに背を向け店を立ち去った。ジョンはしばらく店の喧騒に耳を傾けながら酒を飲み、ゲイルズが十分遠くに立ち去った頃を見計らって席を立った。ゲイルズと同じく、彼には及ばないが会計以上に金をカウンターに置くと店を出る。

 彼の行動を見ていると忘れがちだが、紛いなりにも禁酒法取締捜査官……警察官である彼がマフィアの親玉と仲が良いなど知れてしまう訳には行かない。スピーキージーで堂々と密会している時点である程度諦めと覚悟はしているものの、最低限お互いに害が及ばないようにはしていた。

 店を出たジョンは、3月のまだ肌寒い夜空の下で白い息を吐き出しながら……同時に、遠くは無いブロンクスの路地裏が騒がしいことに気が付いた。

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