第1話 ジョン・E・ウェスコットは酒を飲まない

 1920年代、アメリカ。後に狂騒の20年代と呼ばれることとなるこの時代は、アメリカ史上最も景気の良い時代だった。1918年に終結した第一次世界大戦で、アメリカ軍は終局間際に参戦し、物資の滞り始めた同盟国を圧倒。結果的に僅かな損失で莫大な利益を手にすることとなった。

 一方、1920年に施行されたボルステッド法、通称禁酒法は、黄金の20年代に暗い影を落とす事となる。密輸・密造された酒はギャングやマフィアの資金源となり、かの有名なアル・カポネやラッキー・ルチアーノと言った司法行政機関でさえ手出しの出来ない存在を生み出してしまった。

 そう言った存在に手入れをすべく、警察は禁酒法取締捜査課を立ち上げたが、その存在はほとんど効力を発揮することは無く、彼らの多くは役立たずの烙印を押されてしまう。

 しかし、一部の勇敢な捜査官。特に、アル・カポネを検挙しようと奔走した禁酒法取締捜査官エリオット・ネスは、後年その功績が広く世界に知れ渡る事となるが……ここにも一人、正義を掲げる勇敢な禁酒法取締捜査官がいた。

 ニューヨーク市警禁酒法取締課の執務室で、捜査資料を片手に頭を掻く男の名は、ジョン・E・ウェスコット。27歳。

 ハーバード・カレッジを卒業後、故郷であるニューヨークへと帰ってきた彼はニューヨーク市警に入局し、その後の配属で現在の部署へとやって来た。ジュニアスクールからの友人の影響で、人並み以上の正義感を持っていた彼は周りから飛ばされる「役立たず」のヤジに屈することも無く、自身の信念に基づいた正義の執行を続けてきた。

 彼の成し遂げた1921年から1925年のボルステッド法違反検挙数57件は、同時期のアメリカ国内に存在した他の禁酒法取締捜査官の中でも群を抜いていた。今や彼の仕事ぶりにケチを付けるものは居なくなり(偶に嫉妬を向けられる事はあるものの)ニューヨーク市警内での彼の地位は確固たるものになっていた。

 その彼が頭を抱える程の案件……今回の件は、彼が今までに扱ったことの無い類の物だった。

 ふと、執務室の戸を叩く音が聞こえ、次いで扉の開く音と若い男の声が聞こえてきた。

「失礼します」

「あぁ、クライブ。お疲れ。何か用かな?」

 そう尋ねられたクライブという男は、少しバツが悪そうな顔をして、言葉を返した。

「副長が、例の件についてどうなっているのか確認をとってこいと……」

 大方、そんな所だろうと考えていたジョンは、さして気にする様子もなく、しかしどう答えたら良いか迷っているようだった。

「その件だが……悪いが俺はこう言ったオカルト話には疎くてね。特殊事件捜査室はうちではない、と副長に突き返したいところだが……」

 資料を机に投げ捨て、代わりにタバコとマッチを手に取る。火のついたタバコをゆっくりと吸い、紫煙を溜息のように吐き出した。

「酒が関わっているとなると、そうもいかないよなぁ……」

 彼が現在担当している案件は、非常に厄介なものだった。ニューヨーク、マンハッタンのとある一角。貧民街として知られるサウス・ブロンクス周辺で出回っている密造酒の調査……それだけを聞けば、何の変哲もないボルステッド法違反でしかないが、その後に続く『密造酒を飲んだ市民によれば、酒を飲んだ人間は一時的ではあるが首元に魚のようなエラが生え、奇妙な陶酔感に襲われる』と言う一文を読めばこの事件の特異性が理解できるだろう。

「酔っぱらいの戯言だと考えていたんだが……証言者の数が多すぎる。現在だけでも15人。これだけの数の人間が同じ酒を飲んで同じ症状を訴えれば、それはもう戯言じゃねぇ。れっきとした事実だ」

「クスリ……ですかね?でしたら、麻薬取締課に回しても……」

 クライブのもっともな提案を、ジョンが遮る。

「いや、クスリが混じってようがどうだろうが、酒は酒だ。それに、奴らに渡すのは癪に障る」

 ジョンは頑固な人間だった。真面目……と言うよりも、仕事は律儀にこなすが、どこか砕けた印象を周りに与え、一度こうと決めたものに関しては最後まで貫き通す。

 実際、この事件に関して言えばギリギリのところで禁酒法取締課の担当案件だと言えるだろうが、ジョンの取ることが出来た選択肢の中には麻薬取締課との共同捜査もあったはずだ。しかし、それは彼にとって負けを認めたようなものであり、実際のところそう言ったプライドが邪魔をして捜査が進展していないことも事実だった。

「まぁいい。とりあえず、今夜あたりサウス・ブロンクスのスピーキージーに行って、様子を見て来るさ」

 そう言って席を立ち、コート掛けからスーツと防止を身に着ける様子を見ながら、クライブは呆れたような表情で問いかけた。

「酒が飲みたいだけでは?」

「まさか!俺は禁酒法取締捜査官だぜ?酒の1滴でも飲むもんか!」

 ジョンはおどけた様な格好で言葉を返すが、最後に帽子を目深に被ると、一言だけ付け加えて執務室を出ていった。

「……少なくとも、勤務時間内はな」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る