3LDK

 空を見上げ、深く吸った煙を吐き出す。

 大気に舞い、濃度を少しずつ薄くしていく紫煙を眺め、淘太は手に持っていた煙草を揺らして灰を落とす。

 通り雨が先ほど降ったおかげか、空気は澄みわたり湿り気のある空気はほんのりと雨の匂いがした。

 自身が立っている玄関先のタイル地の先には、殆ど手入れのされていない雑草が好き勝手に生え、そのどれもが空から降った雨を宝石の様に纏い、明るい日差しの元美しく輝いている。

 そんな中自身が不快な臭いを振りまき、せっせと環境破壊に勤しんでいる事に多少の後ろめたさは感じるが、最近はこうして家の外で一服を済ます事が多くなった。

 その理由の一つに、部屋の壁紙が黄色く染まる事に嫌気がさしたのもあるが、自分一人室内禁煙のルールを守った所で大した効果が無いのは明らかだ。

 そのため、淘太がこうして家の外に出ているのにはもう一つの理由があった。

 「本当に良い天気……」

 淘太はこの庭先から見える景色を、純粋に楽しむようになったのが本当の理由だ。

 しかし、この場所から見える景色は特別綺麗な訳でも無い。

 苔むしたブロック塀の先に広がる景色は、殊更造形に長けた訳でもない山と、同じ位古びた電柱とそれから伸びる電線のみだ。

 だが、一見地味な景色だからと言え、毎日の変化に欠けている訳では無い。

 時折目の前の道を子供が駆け抜けたり、電線の上には時々名前も分らない小鳥が留まり、小さく囀りながら羽を休める。

 もっと目を凝らせば、草木の合間を小さな羽虫が舞い、空の景色は深い深夜の青から、明るい昼の水色、そして夕暮れ時のオレンジと表情を変える。

 もちろんそれらの変化は酷く緩慢ではあるのだが、それでも不思議と見とれてしまう魅力があった。

 そんな景色から目線を反らし、淘太は手に持っていたオイルライターを見つめる。

 「つま先よりも少しだけ先を見ると、本当に色々な物が見えますね」

 元の持ち主が『自由の羽』と呼んでいたそのライターを懐へしまうと、再び一口煙を吸い込んでから短く紫煙を吐く。

 その動作に合わせてか、遠くから響いていたエンジン音の主が視界に姿を現す。

 「ん? 早いな……」

 淘太の目線の先、低いエンジン音を響かせるそれは、凛の跨るトリコロールカラーのスポーツバイクだった。

 GTX-1100と銘打たれたそれは、ゆっくりと敷地の中に入るとエンジンを停止させて動きを止める。

 「おかえり」

 淘太の声に反応してか、乗っていた凛は右手を軽く上げてからスタンドを立て、バイクから降り、ヘルメットを外すとこちらへと向かう。

 「ただいまー」

 「早かったですね」

 「ん? まぁね、今日はもう仕事おしまい」

 凛は羽織っていた武骨なジャケットを脱ぐと、玄関のドアノブへ掛け汗ばんだ首元をハンカチで拭く。

 「あれだけ着込めば熱いでしょ」

 「でも一応安全の為にね……夏用そろそろ買わないと」

 凛はそう言うと、ポケットから煙草を取り出して咥える。

 「その為にも今はお金を……ん……」

 ライターがガス欠なのか、火打ち石を何度も削っては悪態を吐く凛に、淘太は無言でライターを差し出す。

 「ありがと」

 凛は受け取ったライターで火を点け、軽く礼を言ってから淘太へ返そうとしてライターに描かれていた柄に目を止める。

 「相変わらず可愛い柄、淘太らしく無い……」

 「それじゃ凛さんにあげます」

 淘太は短くなった煙草を持っていた携帯灰皿に詰め、そう答えた。

 「いいの? 大事な奴なんでしょ?」

 「大事に使うと約束してくれるなら良いですよ、もう俺には必要無いから」

 淘太がこのライターを愛用していた理由をなんとなく凛は察していたが、そんな持ち主から予想外な言葉に目を瞬かせて答える。

 「ラッキー」

 他人には触らせもしなかったこのライターを、何故自分に渡したのか察した凛は彼への言及の代わりに小さく礼を言うとポケットの中へとしまう。

 淘太がこのライターを手放すと言う事は予想外ではあったが。

 少なくともこれは彼にとって良い変化である事は間違いなく、凛はそんな彼の成長が嬉しかった。

 「にしても凛さん? 仕事サボったんじゃないですよね?」

 「まさか! 今日はおばあちゃんが眠たいって言ったから店閉めただけ」

 「また随分と気まぐれな人だ……凛も、予め連絡をくれたらご飯用意しといたのに」

 「それがさ、ちょっとケータイのパスワード忘れちゃって、持ち主なのに操作できなくなってるんだよね」

 本人から彼女が働く場所がどんな所かは聞いていたが、どうやらその店の店主は淘太の予想以上に気まぐれな人間らしい。

 そしてそんなところで働く凛と言えば、気まぐれでケータイのパスワードを変更したは良いが、そのパスワードを間違えてしまうほど能天気、お似合いと言えばお似合いの職場だろう。

 「機械音痴なのに下手にいじるから……大事なメールとか受け取れなくなりますよ」

 「まぁそれ位が私は楽で良いんだけどね、真面目に連絡取らないといけない相手とかはいないし」

 「一孝さんとは大違いな不真面目人間ですね」

 淘太は呆れ、一孝が居るであろう場所を指差し鼻を鳴らす。

 すると、その声に合わせたかのように家の中、リビングがある場所から太い悲鳴が響く。

 「何やってんの?」

 「パスワードを手当たり次第探してます」

 「どういう事?」

 「つまり俺達が見つけた三つの文字と、可能性がある26個のアルファベットから作られる組み合わせを全部試してるみたいです」

 それを聞き凛は絶句する。

 最初は三文字だけだと思っていた為、作られる組み合わせは6個だが。

 それにもう一つ文字を足すとなると、単純に計算しただけでその組み合わせは57万通り以上、それを彼は一人全部試しているらしい。

 「やっぱりあいつオオバカだ……」

 「大庭一孝ですよ……」

 「でもさ、もう一つの文字って、アルファベットとも限らないんでしょ?」

 「はい?」

 「だから、数字の可能性だって、もしからしたら4桁じゃ無くてもっと多い桁かも……」

 そこまで聞き、淘太は頭痛を覚える。

 考えてみればそうだ、たまたま自身らが手に入れたヒントがアルファベットだっただけで、パスワードが全てアルファベットで構成されているとは限らない。

 仮に4桁なのは間違いないとしても、その可能性は170万通りを優に超える。

 もし4桁以上となれば、完全に天文学的な数字になるだろう。

 「とりあえず、本人には言わないでおきましょうか」

 「……だね」

 淘太は痛む頭を抱え、ジャケットを手に取り、玄関の扉を開ける。

 「あ、私も行く」

 凛も、煙草の火を消すと家の中へと掛け込んだ。

 「とりあえず、俺達は違う方向から赤い部屋のパスワードを探すとしますか……」

 そう言うと淘太は思案を巡らせる。

 赤い部屋は課題を与える際、それぞれにメールを送信していた。

 そのため、全員がそれぞれに与えられた課題の詳細を知らなかった訳だが、それぞれの反応を見た限り、誰もが一つずつの課題を受け取っていた。

 仮に誰か一人だけに、複数の課題を与え、受け取った人間がその事を何かの理由からひた隠しにしている可能性もあるが、そもそも赤い部屋が用意した課題をわざわざ隠す理由も見つからない。

 ただ一つ、パスワードを打ち込まれたパソコンは、エラーコードを吐き、打ちこまれたパスワードが間違いだと抗議しただけだ。

 「あの画面……」

 淘太は頭の中のフィルターに、何か異物が絡まるのを感じた。

 それは、パスワードを打ち込んだ際に表示された画面、長々と表示されたプログラムコードと思われる長いテキストファイルだ。

 「普通は……」

 淘太は自身のケータイを開き、あえて間違ったパスコードを入力、すると小さな液晶画面に更に小さなウィンドウが開き『パスコードが正しくありません』の一文が表示される。

 「どうしたの淘太?」

 「ちょっと気になってたんだ、普通こういう端末なんかのセキュリティを解除する時、パスワードを間違って入力した場合は、大抵こんな風に表示されるよね」

 凛も自身の端末を操作、機種の違いからか表示のされ方に違いはあれど、大体同じような結果に至る。

 「赤い部屋が用意したプログラムでは、良くわからない画面に飛ばされただけだよね」

 「まぁ、でもあれは彼が用意したものだし、まさかパスワード間違えるとは思って無かったんでしょ?」

 「いや……その可能性は低いと思う、あいつならもっと凝った画面に飛ばす筈だ」

 淘太は確信していた。

 真面目な会話をする時を除き、彼は基本方向性のずれたユーモアを忘れない。

 普段から多用していたアスキーアートに関してもだが、日常の会話でも彼は目にした相手が目を丸くし、軽い頭痛を覚える様な返答を必ず用意している。

 今回の課題に関しても、パスワードを間違えて入力した所で、目にした相手が軽い頭痛か吐き気を覚えるような萌えイラストと共に、下らない一文で間違いを提示してくれる筈だ。

 だとしたらある可能性が浮かぶ。

 「初めから、ああなる様に仕込まれていた可能性……」

 あの画面を記憶の中から掘り返してみる淘太。

 淘太自身機械に殊更強い訳では無く、プログラミングの経験など全く無いのだが、良く良く考えてみると、あの画面に表示されたプログラムが、単にパスワードのミスを指摘するためだけの物にしてはあまりにも長文すぎる気がした。

 「そうか!」

 「……!! ちょっと淘太どうしたの!?」

 突然何かに気が付き、大声を上げるのに驚いた凛の肩を、淘太が掴む。

 「あの画面は間違いじゃない、初めからあそこに行くように仕込まれてたんだよ」

 「ちょっと待ってよ、それはどういう」

 「あの画面こそが第四の課題なんだ」

 「へ?」

 手短に話された状況が上手く飲み込めない凛は眼を丸くして答えるが、その頭を淘太はまるで子供にする様に撫でると、ややテンション高めに言葉を続けた。

 「凛がケータイのパスワード間違えてくれたお陰でピンと来たんだ! ありがとう凛!」

 「は……はぁ……」

 淘太は直ぐに後ろを振り返ると、廊下を走り一孝が居る場所へと駆ける。

 「淘太なんか最近キャラ変わった?……」

 凛はぼそりと呟き、赤くなった顔を隠す様にハンカチを被り深く深呼吸をするのだった。

 「むがぁぁぁぁ!!!」

 淘太がリビングへ辿りつくのとほぼ同時のタイミング、部屋の中から図太い悲鳴が再び聞こえた。

 説明するまでも無く、それは皮下脂肪の装甲を纏った一孝の物だ。

 彼はパソコン画面をから目を話すと、テーブルに置かれていた缶ジュースを一気飲みしてから無駄に上がった血圧を落とすために深呼吸。

 そして部屋にやってきていた淘太を見ると、深く息を吐いてから言葉を述べた。

 「今3万だ……」

 「何がですか?」

 「試したパターンの数がだよ」

 それを聞き、絶句する淘太、四桁の組み合わせとは言え、3万種類も文字の組み合わせを試したとなると相当な物であり、そりゃ奇声を発したくなるほど精神も参るだろう。

 「頑張りましたね……それで部屋に転がるそれは何ですか?」

 「飲まなきゃやってられねぇよ!」

 一孝は淘太の言いたい事を悟ったのか、口ではそう言いつつ、大人しくフローリングに積まれた空き缶の山をビニール袋に押し込み始める。

 「飲まなきゃって、全部それジュースですよね?」

 「飲めりゃ何でも良いんだよ、はぁ……にしても飲みすぎたか?」

 「太りますよ?」

 「うるせぇ」

 ぶつくさと呟く一孝を余所に、淘太はケータイに備わった電卓機能を操作、そして導き出された数字を読み上げる。

 「350g×20缶……7キロですか……」

 「はぁ?」

 「ジュースの体積がそのまま一孝さんに蓄積されたとした場合の……」

 「うるせぇ! あのな、俺は3万通りも試したんだぞ、もうそろそろ当たり引いてもいい筈なのに……」

 すると淘太は再びケータイを操作、導き出された数字を読み上げる。

 「57万分の3万……つまり19分の1ですね」

 「はぁ?」

 「一孝さんが試そうとしてる全部の文字の組み合わせの数です、57万通りあるので今丁度19分の1が……」

 「うるせぇ!!」

 一孝は聞かなければ良かったと表情を曇らせながら、ごみ袋の口を縛る。

 「ちなみに今のはあくまでもアルファベットだけで構成されるパスワードの可能性であって、数字を含む場合は……」

 「良いから黙れ淘太!」

 にやにやしながらケータイを操作する淘太を制すと、一孝は机に置かれていた煙草を一本手に取り火を点ける。

 「そもそも、これ以外方法が無いんだからしょうが無いだろ……」

 「いや、そうでもなさそうですよ」

 淘太は一孝の座っていた席に腰を落とすと、適当に文字を打ち込み例の画面を表示させる。

 「ほらエラーじゃねぇか」

 「いや、ちょっと気になる事があって……」

 淘太は画面に表示されたプログラミング言語を目で追い始める。

 もともとこれらのプログラミング言語とは、機械が本来使う0と1の二進法で表現された命令文を、人間が読みやすいような形へ翻訳された物である。

 そのため専門の単語ばかりではあるのだが、一定の文法に乗っ取った文章である事には間違いない。

 もちろんその基礎知識は知っていようと、プログラミング言語は星の数ほどあり、淘太と言えばそのどれもの言語を扱う事は出来ないのだが、素人目に見てもこの画面が単にパスワードのミスを示している様には見えない。

 「やっぱりだ……」

 「何がだ?」

 「いや、俺自身詳しい事は断定できないけど、この画面に行き着くのは正しいみたいなんだ」

 淘太は画面をスクロール、一番最初の文字列の場所にマウスポインタを合わせると、その一帯をドラッグして読みやすく色を反転させる。

 淘太が色を反転させた箇所。

 そこには、このプログラムの名前なのか、一文だけ素人でも読める箇所があった。

 「『Quest:4』……ってまさか……」

 「そう、これは第4の課題みたいなんだ」

 淘太は確信を得た。

 だが、問題はこの画面に表示されている文字列の意味を理解することが出来ない。

 それも当たり前だ、元々プログラミングを生業にしている人間や、赤い部屋の様な存在ならともかく。

 このようなごく限られたで世界でのみ使われる言語など、読める人間は限られており、その数少ない逸材の中にこの家の住人は含まれていないからだ。

 「一孝さ……?」

 「無理だぞ」

 一応一番この手の問題に強そうな相手の顔を見ては見るが、案の定一孝は即答するるため、深くため息をつく淘太。

 「大体な、お前らよりは確かに俺はパソコンに詳しいかもしれない、だけどな、そう言う人間が揃いも揃って自作プログラムで県警だののサーバーハッキングしてるのは、フィクションの世界の話しだ。

 こういうのはもっと専門の職業の人間とか、そう言う奴らの出番であってだな」

 「まぁそうですよね……ってことで一孝さん?」

 何か意味ありげに一孝の顔を見る淘太。

 どうやら、知り合いにそう言った人間が居ないかと聞いてるつもりらしい。

 「居ねぇぞ」

 「やっぱりですか」

 初めから可能性は低いと考えていた淘太だったが、予想通りの返答に肩を落とす淘太。

 「何の話?」

 すると今度は、冷蔵庫の中を漁っていた凛が二人の会話に割り込む。

 「いや、赤い部屋からのもう一つの課題を見つけたんですけど、それを達成するにはプログラミングの知識がある人間が必要なんです」

 「プログラミングねぇ……私も無理、英語だって読めないんだから」

 凛は肩をすくめて答えるが、何か思い当たる節があった様子で目線を明後日の方向に向けて思案を始め、そして直ぐに結論が出たのか口を開く。

 「そう言う知識持ってそうな人、居なかったけ?」

 「居ないだろ……って言うかお前の知り合いなんて俺は知らないぞ」

 一孝は肩をすくめるが、そこに追い打ちの言葉を掛ける凛。

 「ううん、オオバカも知ってる人が居るでしょ? この家の人間はみんな知ってる凄腕のエンジニアが」

 「はぁ?」

 「だから、赤い部屋の生みの親、良くわからないけど凄い装置で彼らを作り出した人間が居るでしょ? その人ならもしかしたらそう言う事知ってるかも……」

 そこまで凛が言った時、一気に合点がいく。

 赤い部屋を生み出したのは、奇跡や魔法の類ではない。

 VRSと呼ばれる最新の装置、それがこの町の人間の知識を寄せ集めて生み出したのがこの町の都市伝説であり、コンパイラと正式名称で呼ばれる存在の詳細だ。

 その装置は一人の人間が生み出した物であり、恐らくはその装置のプログラミングも同じ人間が行っている、つまり。

 「桜井朝香……あの人なら……」

 「待て待て! あいつと関わったら何しでかすか……って言うか協力する気ならもうすでにコンパイラはこの町に復活してる筈だろ」

 一孝の声を聞き考え込んでしまう淘太。

 それもそうだ、もし彼女がコンパイラの復活を望んでいるのなら、今頃は既にVRSを修理もしくは作り直し、この町で闊歩させているはずだ。

 「もしかしたら、既にこの町に彼らは……」

 そこまで口にしてその可能を否定する淘太。

 VRSが故障し、コンパイラが消滅した原因はこの家の住人にあるのは事実であり。

 もし仮に朝香がVRSを作り直していたとしても、この家の住人に彼らを認識出来る権限を与えるとは思えなかった。

 だが仮に、その仮定が事実だったとしても、コンパイラの中には赤い部屋も存在しており、彼ならVRSのプログラムを書き換え淘太達にその権限を与える事は間違いが無い。

 つまり、現状起きている出来事をまとめると、答えは一つに絞られる。

 桜井朝香はVRSを再建、もしくは修理していないのだ。

 「やっぱりそうだよな……もしその可能性があるのなら、赤い部屋はこんな課題は出さない」

 そう呟いてはみたものの、淘太の頭の中にもう一つの可能性が生まれた。

 「もしかしたら赤い部屋は彼女と俺達を引き合わせる為に……」

 「だが、お前は初めからその腹積もりだったんだろ?」

 一孝の声、それを聞き淘太は口端を吊り上げて笑う。

 「もちろん、俺はお節介焼きな人間だからね」

 淘太は開かれていたパソコンを閉じると、近くに置いてあった鞄に詰め、荷造りを始める。

 「おいおい、お節介焼きなのはお前だけじゃないだろ?」

 そこに投げかけられる一孝の声、そして一連のやり取りを聞いていた凛もまた、煙草を灰皿に押しつけ口を開いた。

 「それじゃ、第四の課題、やる?」

 その声を号令に、一同は立ち上がり出発の準備を始めるのだった。






 やる事が無く、ただ時間を費やすのはそれなりに疲れるものだ。

 暇な時、思考を巡らせ想像の世界に意識を投げる人間も少なからずいるだろうが、目的を失った今、そう言う行為に勤しむのにはいささか無理が生じる。

 だったらベッドに身を預け、深い眠りの世界に身を授けるのも一つの手段ではあるのだが、それを続けると意外な事に気がつく。

 寝る行為自体が疲れると言う事実だ。

 全身にしつこくまとわりつく倦怠感、まるで全身が水を吸った綿に置きかえられたような酷い疲労感に襲われ、寝るにも寝れず、かといって何かをするにも体が重く、食事を取る、トイレに行くといったごく自然な行為すら鬱陶しく感じてくるものだ。

 そんな状態の中、桜井朝香は普段あまり見慣れない天井を見たまま、深くため息をつく。

 「暇ね、本当に暇ねぇ……」

 眼鏡が無ければ本も読めないほど視力に劣る彼女にとって、ごくありふれた天井を見る行為はとても新鮮だった。

 日常生活において、人が天井を見る瞬間は布団に入り寝息を立てるまでの間、もしくは目を覚ました瞬間とごく限られている物だが。

 前記の通り、彼女は目が不自由であり、これらの瞬間には彼女は既に眼鏡を外し、視力をほぼ失っている。

 だからこそ、自身が住まう家の中でも天井がどういう模様なのかを知る事が無かったのだ。

 「いっそこのまま天井が落ちてくれたら私はどうなるかしら?」

 などとぶつくさと不謹慎な事を呟く彼女。

 こういう時、音楽を聴くなりすれば多少気は紛れるのだろうが、生憎彼女は音楽に興味は持っていない人種であり、かといってそれ以外の趣味も持ち合わせてはいない。

 仕事に熱を出すと言った選択肢も用意されていない訳ではないのだが、彼女の生活を助ける収入源はネットからの広告収入が主であり。

 殊更努力する必要も無く、ただ時間の経過とともに必要最低限の賃金は用意されてしまう。

 「やっぱり私は役立たずね、だってそうでしょ? 自分一人居なくても、ひとりでに世界は回るんですから……」

 それは孤独感か、それとも依存心か。

 これまでは自身の傍に居た首なしライダー、そしてそれら以外のコンパイラの管理をすることでこれらの感情は満たされていたのだが、今となってはその役目も自分には用意されていない。

 なぜなら……

 「自分で作っておいて……本当に間抜けねぇ……」

 朝香は首を捻り、部屋の隅に設置された大きな装置を見つめる。

 冷蔵庫の様な長方形の巨体、そこから点滴のように伸びた大量のケーブル。

 VRSと彼女が名づけた道具、それは今は稼働せず、僅かな駆動音も上げる事無く沈黙していた。

 「飼い犬に手を噛まれたとはこういう事かしら? それとも……ん?」

 朝香は何かに気が付き、首を上げて扉の方を見る。

 「誰か来たかしら?」

 この部屋は家の中でも最も玄関から遠い位置であるため、元々来客を知らせるチャイムの音は聞こえない事が多いのだが、さっき一瞬だけ明るいチャイムの音が響いた気がした。

 「気のせいかしら? ……いいえ……」

 朝香は先ほど聞こえた音の詳細を幻聴で結論付けようとしたのだが、玄関の扉を開ける音がそれは間違いだと唱えた。

 「誰……?」

 この町へ引っ越してきてそれなりに経つが、彼女はこの町の住人と極力コンタクトを取らない生活をしていた、したがって自身の家にやってくる人間は宅配便か新聞の勧誘位だと思っていたのだが、そう言った部類の人間ならわざわざ扉を開く真似などしない。

 耳を澄ませば、その扉を開いた人間の声が聞こえてくる。

 どうやら男二人に女一人の三人組らしく、各々に遠慮がちな言葉を並べながら廊下を歩いてこちらへと向かっているらしく。

 その声の主に検討をつけた朝香は上体を起こすと目の前の扉を開き、姿を見せた相手の顔に目線を向けた。

 「女の家に押し掛けるなんて、随分と乱暴な人ね」

 「嫌なら鍵位付けといてください」

 扉を開くなり口を開いたのは淘太だった、そして遅れて姿を見せる凛と一孝。

 「どうせ盗む様な物なんて無いのだから、するだけ無駄でしょ?」

 「あのですね……いえ、なんでも無いですよ」

 朝香の一言に何か言いたげだったが、言っても無駄だと悟ったのか淘太は口を噤むと気だる気に頭を掻く。

 「そう……それで? あなた達は私に何の用かしら?」

 朝香は自身の前に姿を現した面々に向かって、道を尋ねるように疑問を投げかけた。

 どうせ大した事の無い、自身の想像の範疇を超える事など無いと思っていた彼女の予想は、凛の一言に覆された。

 「あなたに協力してほしいの」

 力を込められた訳でもない一言、だがその声は不思議と力強く朝香の元へ到達する。

 「へぇ……随分と単刀直入ねぇ、一体何かしら?」

 「これの意味を教えてください」

 朝香の声に答えたのは、鞄の中からパソコンを取り出す淘太だった、彼はパソコンを開くと、朝香の前に置き画面を表示させた。

 「……何かしら? へぇ……私の好きなcaveriね、随分とマイナーな言語で作られたプログラムだこと……」

 やはり、彼女はこのプログラムに書かれた意味が分るのか、小さく鼻を鳴らすと画面に表示された文字列を目で追い、答えた。

 「意味が分るのですね?」

 「私の専門だから、で? これの意味を知った所であなた達は何をする気?」

 「赤い部屋からの課題ですよ、恐らくそこに書かれている課題の意味が分ればこの町に彼らを呼び戻す事が出来る、恐らくVRSを修理する方法が書かれていると俺は考えています」

 淘太は持っていた確信を口に出す。

 もちろん彼女がコンパイラの復活を望んでいる可能性は低く、喜んでこの件に参加してくれるとも思えなかったが、だからといえ彼女の力無くてはどうしようも無いと思っていた淘太は、単刀直入に意見を述べた。

 だが、帰って来たのは予想通りの笑いと。

 そして予想外のその理由だった。

 「へぇ、赤い彼もそれなりに策を練ってたのね……でも残念、私がこのプログラムの謎を解いた所で、彼らは復活しないわ」

 それを聞いた一同は息を飲む。

 赤い部屋は初めから彼女と淘太達を引き合わせる為にこの課題を用意したのは分っており、彼女がその事を快く思わない事を想像してはいたのだが、帰って来たのは参加を拒む意見では無く。

 赤い部屋の計画を完全に否定する物だった。

 「どうして……」

 「簡単よ……VRSは既に私が作りなおした、だから今直ぐにでもコンパイラをこの町に呼び戻す事が可能なの」

 「だったら……」

 その声に、朝香は再び小さく笑うと、予想外な盲点を突いた。

 「コンパイラを再び生み出す事は可能よ、だって私が彼らの生みの親だから。

 だけどね、今私がこのVRSを再び動かした所で、あなた達の目の前に現れる彼らは、あなた達の知る彼らとは違うの。

 だってそうでしょ? 彼らの記憶情報を積んだバックアップはあの時全部失っているのだから」

 桜井朝香が目的を失った理由がそれだった。

 再びコンパイラを生み出す事は可能ではある、だが、あの一件で焼き切れたVRSは、この町の全てのコンパイラの記憶情報の詰まったハードディスクと共に失われた。

 そして、念のためにと取って置いたバックアップもまた、あの一件以降何故か削除され、データの復旧すら不可能だったからだ。

 コンパイラを生み出す事はさして困難では無い、だが、この部屋に集った一同の知るコンパイラを生み出す事が不可能だった。

 だからこそ朝香は今までずっと考えていた。

 コンパイラの存在しない世界を受け入れるか。

 全ての記憶を失ったコンパイラを受け入れるかを。






 無知ほど怖いものは無い、なんて言葉が示している通り、知識を持ち合わせていない状況は何かと不都合やトラブルが多い。

 知識は目の前の不都合を解決する為のツールであり、目の前のトラブルを回避するための道しるべとなる事が多いからだ。

 たとえば何かしらの家電が壊れたとする。

 知識の無い人間は、専門の人間に連絡をし高い修理費用を払って修理する必要が出てくるが。

 機械への基礎的な知識を持っていれば自力でどうにかなる場合も多く、結果として金銭的な利益がそこに生まれる。

 たとえば目の前の友人が倒れたとする。

 知識の無い人間は、電話で救急車を呼び右往左往する事しか出来ないが。

 応急処置の知識を持っている人間なら、その友人の容体を確かめ、迅速な処置で命を救う事も可能となる。

 たとえば不意に暴漢に襲われたとする。

 たとえば言語の違う人間と対話する必要が出来たとする。

 たとえば自社の商品の紹介をする必要が生まれたとする。

 たとえば……

 考えるだけで目が回るほど膨大な可能性。

 もちろん人の一生の中、これらの可能性は無限に広がり、全てのケースに応用が出来るほどの知識は用意出来ない為、知人や友人家族などに相談をする場合も少なくは無いのだが。

 それでも本人が意図して知識を蓄えるか蓄えないかで、自分一人でカバーできるケースの量は増減する事は事実だ。

 自身一人で行動をする人間の知識量が、常人よりも多くなる傾向が強いのは、容易に合点がいく事である。

 言っては悪いが、桜井朝香もその手の部類に括られる人種だ。

 人との接触を拒み、一匹狼のように孤独と自由を抱き合わせにした世界で、一人生きてきた。

 だからこそ、何事も自身の力で解決できると考えていた。

 もちろん前記で何事もとは表記したが、これは彼女自身が招いたトラブルに限られる事ではある、しかし少なくとも彼女は今回の件に関しては自身の知識で事足りると感じていた。

 たとえば、自身のVRSが故障したら。

 それが今回彼女の前に姿を現したトラブルである。

 しかし、元々この機械を設計組み立て、そしてプログラミングを行ったのは彼女であり、たとえVRSが修理出来ない程度まで破損していた所としても、彼女にはVRSに関する殆どの記憶が蓄えられている。

 決して曖昧では無い記憶を再現することで、VRSを再び制作する事が可能であると信じていた、そしてその想像通り大した壁にぶつかる事も無くVRSは再び組み上がった。

 ハードウェアの構築は済んだ、ならば次にやる事はその巨体を稼働させる為のソフトウェアの開発。

 残念な事に、そのプログラムのバックアップは失われてしまったが、彼女の記憶の中にはそのプログラムの基本的な構造は深く刻まれており。

 個々の命令文の言い回しの違いはあれど、彼女の持つ基本理論を辿れば同じ作用を持ったプログラムを作り出す事は容易な事だった。

 だが、最後の最後で一つの問題に直面した。

 それが、VRSによって生まれるコンパイラの記憶情報だ。

 この町に当たり前の様に存在し、当たり前の様に闊歩した彼らの記憶、そのバックアップを読み込ませない限り、生まれてくるコンパイラは朝香の知る彼らとは違う存在として生まれてしまう。

 コンパイラの記憶は、コンパイラの人格を形成した。

 VRSはその情報を自動で累積し、蓄えた。

 そのため彼女はコンパイラの記憶情報の生成には一切手を付けた事が無かった。

 だからこそ彼女はコンパイラの記憶に関する知識を持ち合わせておらず、自身が慕った首なしライダーの記憶を取り戻す事が不可能だったのだ。






 「分った? これが理由よ」

 朝香は全てを語ると、自嘲気味た笑いを浮かべこれ以上の策が無い事を示すためか、掌を見せ鼻を鳴らす。

 「なんだよそれ……どういうことだよ!」

 「だから分らないの? あなた達のやってきた事、そしてこれからやろうとした事は全部無駄なの、だってそうでしょ? 此処にあるVRSはもう完成したんですから。

 そりゃ悪かったわ、でもね私が先に作っちゃったの」

 一孝の言葉に、朝香は何処か饒舌に返すと、室内で鎮座した新しいVRSのボディーを軽く叩く。

 「そう言う意味じゃ無い……」

 淘太は声を繋いだ、彼も一孝が自身の行動が無駄だと悟り頭に血を昇らせたのではないと知っていた。

 久しぶりに湧いた感情を抑え込み、ゆっくりとした口調で呟かれた思い。

 「VRSが既に治った、俺達のやった事は無駄だった、そう言う事を言ってるんじゃないんだ。

 朝香さん、さっきの話は本当ですか?」

 「何の話?」

 「コンパイラ……いやこの町の都市伝説の記憶が全て失われたって事です。

 彼らは俺達の事を忘れた、今までの思いでも全て失った、仮にそれを動かした所で前と同じ彼らは再び姿を現さない、そう言いたいのですよね」

 淘太の思考に引っかかったのはその事実だった。

 自身の努力が無駄になった事はどうでも良かった。

 重要なのは、どんな形であれ自身の仲間が再び姿を現す事。

 だからこそ、朝香の行った事は称賛に値する事だが、肝心な物が無い。

 VRSを再び稼働させた所で、この町へ姿を現すのは淘太達の知らない都市伝説、そんな彼らを見る為に淘太は努力したつもりは無い。

 彼らが望んでいたのは、前と変わらない都市伝説の姿だった。

 「ええ、それは事実よ。

 試しに動かしてみる? VRSを起動させるのは簡単、だから直ぐに『あなた達の知るコンパイラ』がこの町に姿を現してくれるわ。

 もちろん、『あなた達を知るコンパイラ』ではないけど」

 「その言い方は何?」

 自制するよりも早く、凛の口は動いていた。

 「それはこっちの台詞ね、あなた何機械ごときに本気になってるのかしら?」

 凛の意図を瞬時に悟ったのだろう、朝香は少しだけ目線を鋭くすると、凛へ向き直る。

 だだ、そんな彼女の視線に臆する事無く言葉を繋いだ。

 「機械ごとき? あなただって分ってるでしょ、彼らには自分の意思があった、それなのに何? まるで物の様に扱って……」

 「だってそうでしょ!? 彼らはただの機械、私の生み出したプログラムに過ぎないの。

 それとも何? あなたは道具一つにも意思があると? 故障した家電に魂があるとでも言いたいの? 本当馬鹿ねあなた達は」

 「……最低」

 言い返す言葉が見つからなかった、だがせめてもと呟いた安易な愚痴、子供の使うそれと同じように安直で、自分で言って悲しくなった。

 だからこそ、なんとかしてでも彼女を言い負かしたい、本当に子供の様だと思いつつ、彼女は思いついた意思を言葉にしようと息を吸い込むが、その言葉を飲み込んでしまう。

 なぜなら、朝香の目頭で僅かに揺れる涙が見えたからだ。

 「だってそうでしょ……あれは機械なの、意思なんてないの……」

 彼女が使った鋭い言葉、それは凛や他の誰かに向けられた物では無い。

 初めから自分に言い聞かせる為に紡がれた物だ。

 「あなた達馬鹿じゃないの? 冷蔵庫が壊れたら悲しむ? テレビが壊れたら涙を流す……? 洗濯機が壊れたら……」

 コンパイラの生みの親は彼女自身だ、口では物として扱い、道具として眺めていただけだが、彼らがこの町で生活し探求し、そして自我を強い物にしていくのを一番楽しんでいたのは彼女だ。

 だが、そんな彼らを呼び戻す手段などもうどこにも無い。

 結局何も出来ない、だからこそ諦めるしかない。

 下手に愛着を持つから辛いのだ、安易に感情移入するから辛いのだ。

 辛いのならやめればいい、コンパイラをただの道具としてみなせば良い、結局彼らは壊れた家電だ、HDDを失ったパソコンの様な物だ。

 その事実を受け入れられない、なら何度でも反芻し、無理矢理にでも納得するしかない。

 無駄に期待し傷付くのなら、もういっそ自分から嫌いになれば良いのだ、無関心になってしまえば傷付く事は無いのだから。

 「勝手に壊れて居なくなって、何それ? ……ほんとうに……迷惑なのよ……」

 こういう時、つくづく自分は無力だと淘太は感じる。

 毅然と無関心を示す彼女、この現状を作り出したのは自身の意思の弱さだ。

 彼女から実験の協力を求められ、安易に乗っかった、そしてその実験の最中にコンパイラは消滅した、それは自分を守るためだ。

 結果として現在に至り、彼らが自身に行ってくれた事のお陰で自分の心の痛みは緩和され、そして痛みと向き直る事が出来るようになったが、それと引き換えに朝香は深く悲しんでいる。

 力になりたい、だが自分にそれだけの力は持ち合わせていない。

 目的地が見えているのなら手を引けばいい、目的地まで共に歩くだけで人の苦しみは和らぐ。

 だが目的地はもうない、どれだけ努力しようと望んだ結果へ続く道は寸断されているのだ。

 「なぁ、なんか大事な事見落として無いか?」

 重い沈黙、それを不意に破ったのは一孝だった。

 彼は何かを悟ったのか、自身ありげに腕組みをすると軽く咳払いをして言葉を繋いだ。

 「大事な事?」

 「そう、俺は漫画家や」

 「何今更な事言ってんの? オオバカ」

 「だーかーらー、俺はオオバカや無い、大庭一孝や! そしてこれから一世を風靡するであろう、天才漫画家や!」

 「で? 漫画家の能力が何か役に立つと?」

 一孝は凛の声に軽く反発をする。

 「漫画家と言うより、作り話を生業にする輩の悪い癖なのかね?

 どうも仕込まれた出来事にいちいち感情移入出来ないんや、いや、正確には客観的に状況分析しちまうってのが正しいかな」

 「どういう意味ですか?」

 何かを確信したように小さく頷く一孝。

 「奴は恐ろしく感が鋭い、いや、まぁこの点は奴が人の意識から生まれたコンパイラだからかもしれんな。

 それぞれに結果が予想できない課題与えて、その課題の先にこれまた厄介な謎を隠して。

 そしてものの見事にこの場所まで奴は俺達を誘導した。

 全部奴の掌の上の出来事だ、奴は全部計算し、俺達が課題を成功させると絶対的な自信があっての行動だろう、だからこそ妙なんだよ」

 「一体何がなの? もったいぶってないで早く説明してよオオバカ」

 「まぁそう焦んなって、どうせケツが決まってる課題じゃねえんだしよ」

 そう言うと、一孝は小さく息を吸い込み、軽く瞳を閉じる。

 自分の考えに相当の自信があるのか、それとももう一度考え直しているのか、僅かな沈黙を開けたのち、目を開いて言葉を繋いだ。

 「それだけ計算高い奴が、こんな簡単なミスをするかね?」

 息を飲む淘太。

 考えてみればその通りだ、ここまで手の込んだ計画を仕込んだ彼が、こんな単純なミスを見落とすとは思えない。

 そうなると、今の状況も赤い部屋は予想していたと考えるのが通りである。

 つまり。

 「赤い部屋は朝香がVRSを作り直す事を初めから予想していた、と言う事は……」

 思わず朝香の顔を見てしまう淘太。

 それに合わせるように、朝香に向き直り、一孝は言葉を繋いだ。

 「赤い部屋が用意してるのは、VRSの設計図じゃない。

 この町に居た全てのコンパイラ、いや都市伝説の記憶情報……」

 「どういうつもりかしら? それが何の意味があるの?」

 予想外な言葉に少しだけ息を詰まらせ驚くが、朝香はすぐにいつもの調子に戻ると、毅然とした態度で振る舞う。

 彼女自身、コンパイラの復活を願っていた筈なのだが、何故こんな態度を取ったのか、その理由はすぐに分かった。

 「わかんねぇのか? 赤い部屋はお前を信じてたって事だ。

 俺達が何もしなくとも、自分からVRSを組み直してくれるとな」

 「何が言いたいの? ねぇ? だってそうでしょ、私は自分の作った道具を修理しただけ、そんなの当然でしょ? コンパイラの為なんかじゃない! 私利私欲の為だけに私はこれを直しただけよ!」

 珍しく荒ぶる彼女だが、一孝は更に追い打ちをかけた。

 「私利私欲の為だけなら、何故早くそいつを起動させない?」

 「それは……」

 後ろで音も立てずに鎮座するVRSをバツが悪そうに見ると、まだ何か言いたげに口をぱくぱくとさせる彼女に、一孝はさらに言葉を重ねる。

 「赤い部屋は信じていたんだよ、自身らの記憶が戻らない限りVRSを起動させないとな。

 だからこそこんな課題を用意した、そしてここへ俺たちを誘導した。

 つまりこれはあんたへの課題なんだ」

 「嘘よ……そんな筈無いわ……」

 朝香が恐れていた事、毅然とした態度で誤魔化していた感情。

 それはコンパイラへの期待だった、朝香はコンパイラへ期待しそして心の奥で信じたいと思っていた。

 だが信じる事で、同時に彼らから裏切られる可能性を恐れていたのだ。

 期待の眼差しを向けられ、そして研究を続ける自分の背中を押してくれた仲間、しかしその研究が机上の空論だと分かった時、皆は自分を指さし笑った。

記憶の隅で醜く歪んだ記憶が生んだ考え、信じていたら裏切られる、その思いがあったからこそ、彼女はコンパイラに対しただの道具としての態度を示した。

 無関心と銘打たれた分厚い盾は、この町へ移り住んできた彼女を今まで守ってきた。

 だがその盾を持つ手が震えるのが分かった、だからこそ、彼女はひと際強く意思を示す。

 「あれはただの道具なの! ふざけた事を言わないで!」

 「ふざけてんのはおまえだろ!」

 そんな彼女の声に対して不意に放たれた一孝の言葉。

 「一々くだらない事拘って、目的を曖昧にして、他人に期待するのが怖いのかなんだか知らねぇけどよ、そんなんじゃわかんねぇんだよ! やりたい事があるなら口に出せよ! むかつくんだよ、そういうのは!」

 一孝の一喝は、彼女が広げていた盾をやすやすと貫き、彼女の胸を奥深く貫いた。

 眼を向けてはいけない、単に自分の工作が壊れただけだ。

 そう思えばいくらでも納得が出来た筈だ、しかし一孝の言葉につられ、つい自分の本音に気付いてしまった。

 「私は……私……嬉しかった、首無しが私のそばに居てくれた事が……道具として扱われてるのに……それでも私を信じようとしてくれた事が……」

 嗚咽気味のせいであちこちが途切れ、まともに思考せずに溢れたため、言葉は酷く稚拙だった。

 だが、涙と共に溢れだした彼女の本音は留まる事すら忘れ、それから暫くの間床を濡らした。






 「正直邪魔ですね……」

 淘太は家の中、マグカップを両方の手に持ったまま呟く。

 「奇遇だな、俺も今同じ事考えた処だ」

 その声に答えたのは、淘太から淹れ立てのコーヒーを手渡された一孝である。

 「なんでこの場所なんだよ……」

 「それは設計者に聞いてください」

 その声を聞いたのか、ダイニングに無造作に設置された寝袋と、その上に置かれたノートパソコンに向かっていた人物はやたらと滑り気のある動作で状態を起こすと、口を開いた。

 「あら? 説明しなかったかしら? このVRS-3は前回の失敗を考慮して、少しだけ効果範囲が狭く設定されているの。

 だからこの緑川町全体を覆うほどの効果は……」

 「そういう意味じゃねぇ! 俺が言いたいのはだからと言ってなんでお前の家じゃないんだ?」

 「私の家? そんな物今は無いわ、だってそうでしょ?

 私は家賃をVRS-3の制作費用に全部回しちゃったのよ?

 あなた、もしかして頭弱いのかしら? それともか弱い私を追い出したいが為にわざとそんな悪戯をしているの?」

 「か弱い女なら、よく知らない相手の家に無理やり上がりこんで居候するなよ……っていうか家賃払え!!」

 「あらあら? 電子機器ってのは高価なの、そんな事も分からないのかしら?……」

 もうここまでやりとりが続けば、その人物がだれかは容易に想像がつくだろう。

 淘太達が口をそろえて邪魔だと言った物はリビングの奥、37インチのテレビの横にあたりまえのように鎮座する長方形の機械、VRS-3の事である。

 そんなVRS-3を冷蔵庫か何かのように設置し、図々しくもさも当然のようにこの家に居座る人物は朝香だ。

 彼女は一孝の言葉に悪びれる様子も見せずに、キーボードを叩き、赤い部屋が残した課題に着手している。

 「んな事は分かってんだよ! ……まぁいい、この際は置いとこう。

 それよりも、赤い部屋の課題の意味は分かったのか?」

 「ええ、このプログラム、どうもおかしいと思ったらあちこち重要な個所が欠けてるのよ。

 それでプログラムとして起動せずにいた、っていう事は私はこのプログラムの欠けている場所を探せばいいの」

 「朝香さんも飲みます?」

 淘太はキッチンカウンターの上に置かれていたカップをもう一つ手に取ると、朝香へと差し出す。

 「あら? コーヒー? つくづくダメねぇあなた達は、私は紅茶派なの、アールグレイの葉を濃い目に出したのが好み……それなのに何?

 こんな苦いだけの物を……」

 「つくづく図々しいですね……」

 淘太の声に何か感じたのか、彼女は少しだけ眉を寄せながらも黙ってカップを受け取り、一口含む。

 「まぁ悪くないわね……」

 そう言って彼女は鼻から息を吸い込む。

 広げられた寝袋のせいかやや埃っぽさはあるものの、室内にはコーヒー豆のいい臭いが広がり、レースカーテン越しの光はやや色付き、鋭角に室内へ差し込んでいる。

 そして身の周りには楽しげな会話が交わされ、その輪の中に自身も入っている。

 「それはどっちの意味でか?」

 「そうね……両方……いいえ三つとも」

 「三つ?」

 一孝は作業の進行状況とコーヒーの味、そのどちらが『悪くない』のかを尋ねたつもりだったが、少しだけ意味ありげな言葉に首を傾げる。

 「……まぁいい、とりあえず作業の方はどんな感じだ?」

 「だから言ったでしょ? 三つとも悪くないって。

 つまり完成したって事よ? 後はこのキーを押せばプログラムが動き出して最後のキーワードを教えてくれるはず、どうするかしら?」

 彼女は作業を終えたパソコンを二人の座っていたソファーの元へ持ってきて、キーを打とうとするが、それを淘太が小さく制す。

 「どうしたんだ?」

 「もう少しだけ待ってもらえます? そのプログラムを動かすのは」

 最初こそ意味が分からなかったが、遠くから響くエンジン音に気が付いた一孝も淘太の意図を読み取ると、同じように彼女に作業の中断を促す。

 「この家に重要な人が欠けた状態ではね?」

 淘太はそう言うと、コーヒーメーカーに残っていたコーヒーを、新たに用意したカップへ注ぐ。

 そしてそれを相手の好みに合わせ、普段は使わない角砂糖二つとミルクを加え、スプーンでかき混ぜる。

 「あら、私にはブラックなのに、あの子にはちゃんと砂糖入れてあげるのね、特別扱いって所かしら?」

 「特別も何も、あなたみたいに家の中でごろごろしてるだけの相手に、カロリーをつぎ込むとどうなるか心配なだけですよ」

 キッチンカウンターにカップを置くと、朝香の声に皮肉を交え小さくため息をつく淘太。

 「あら、『彼女』だけには甘いようね、いいえ、全部お見通しって所?」

 「別に『彼女』だけ特別扱いしてる訳ではありません、単に同居してたら好みが分かるだけですよ」

 朝香が『彼女』と言う時だけ、僅かに声色を変えた事に気が付かなかったのか、淘太はいつも通り気だるげに答える。

 「あらあら? これが朴念仁って物?」

 「……? おかえり」

 朝香の言葉は玄関を開く音に遮られ、肝心な言葉が聞こえなかった淘太は首を捻りながらも、リビングへやってきた凛へカップを手渡す。

 「ただいま、今日は疲れた」

 「それでもちゃんと仕事続けているのは偉いですよ」

 それを聞き、凛は何か意図を誤魔化すためか、顔を反らしコーヒーを啜る。

 そんな凛の意図を読み取ったのか、短く言葉を交わす一孝と朝香。

 「ああいうところはなかなか罪だよな」

 「そうねぇ、朴念仁は世界的に取り締まるべきよ……」

 「何ですか二人とも?」

 やはり意味が分からなかったのか、首を傾げる淘太。

 だが、二人の会話の意図は分からなくとも、その様子に少しだけ安心する。

 コンパイラの生みの親である朝香、そんな彼女がこの家にやってきた際、正直上手く馴染めるとは思っていなかったからだ。

 勿論半ば強引にこの3LDKにやってきたのもある、そしてまたもや強引にこの家にVRS-3を設置したのもある、そして当初はこの家の住人と彼女の中はそこまで良くなかったのもある。

 だが、それ以上に気に掛けていたのは、彼女の掴みどころの無い性格だった。

 しかし、意外なことにそんな彼女は一孝と意気投合し、どこか皮肉交じりとは言え、良好な関係を築いていたからだ。

 「それよりも凛、やっと4つ目の課題のが解けそうなんだ」

 「え! ほんと?」

 子供のように眼を光らせる凛の手を引くと、朝香のそばへとやってくると、フローリングへ座り込み画面を覗く。

 「それじゃやってみる?」

 一同がパソコンの前へ集結したのを確認すると、朝香はパソコンを操作。

 画面には淘太達が知るいつも通りの文字列が写されているが、素人目には分からないだけで、そこには朝香の手が加えられているらしい。

 「よろしく」

 朝香はキーを叩く、すると画面が一瞬明滅し真っ暗になる。

 暫くその状態が続いたため、パソコンの故障か何かと思った一同だが、不意に画面の上から不規則で大量の文字列がスクロールを始める。

 「何これ?」

 「さあ、でもこれが正解らしいわ」

 最初は朝香自身も意味が分からなかったが。

 画面を走る文字列が少しずつ集まり、何かの図形を描き始めている事に気が付く。

 「これって……」

 「数字ですね」

 「3って書いてるな……」

 徐々にその輪郭をはっきりとさせて行く文字は、間違いなく『3』という数字だった。

 「えっと、今までの文字は……『D』『L』『K』そしてこれで『3』……えっと……」

 四つの文字の組み合わせを色々試す凛、そして何か思いついたのか、あっと声を上げ、一同の顔を見る。

 朝香はあまりピンと来ていないようだったが、残る二人は意味が分かったらしく頬を釣り上げる。

 「私にも説明してくれるかしら?」

 「ああ、勿論だ」

 一孝はそう言うと一同に目配せをする。

 そして朝香を除いた一同は息を吸い込むとその言葉を言う準備をした。

 最初は分からなかったが、赤い部屋が選んだ単語、それはこの家に住む住人にとってはとても馴染みがあるものだった。

 その単語が示す物、それがあったからこそ三人は出会った、そしてコンパイラと出会い、朝香とも出会った。

 出会いがあったから、それぞれに成長出来た。

 だからこそ忘れられない一つの単語、ネット上ではあるが淘太が言ったシェアハウスをする上での条件の一つ。

 つまりその単語は……

 「「「3LDK!!!」」」

 三人同時に言ったその言葉は、築20年を過ぎている事さえ眼を瞑れば過ごしやすい、良くある一軒家、そんな『3LDK』の家の中隅々へと響き渡るのだった。






 とある処に緑川町という町がある。

 殊更目立つ事も無い小さな田舎町、この町の特徴を上げろと言われたら住民の殆どが首を傾げ、市役所の職員は震える声で『草木が綺麗』又は『水が綺麗』と言った後『きゅうりの生産が国内5位』と苦しみまぎれの言葉を紡ぐだろう。

 殊更大きな商業施設も無ければ、温泉が湧くわけでも海があるわけでも、観光名所の類が充実してる訳でも無く、かといって絵に描いたような田舎町でも無く。

 一応はベッドタウンとして機能している為か、人口が大きく増減する事も無い、本当に特徴に欠けた中途半端な規模の町。

 緑川町はそういう町だ。

 そんな緑川町の住宅街、土地代が安いためか一軒家が軒を連ねる通りを、一台のバイクがゆっくりと走る。

 そのバイクはオンロードに特化したボディーを、派手な赤白青のトリコロールカラーに染め、それでもまだ目立ち足りないのか、マフラーから傍迷惑なエンジン音を響かせている。

 スモーク入りのフルフェイスヘルメットを被った乗り手は、それでも一応は静かに運転しているつもりらしいが、何せ大型バイク、しかも滅多矢鱈にカスタムされた車体に消音装置の類はおまけ程度にしかついていないため、図太いエンジン音を響かせ辺りの注目を引いてしまう。

 「――煩い馬鹿! 前頭葉捲れろ……! あ!!」

 お馴染みとなった、無茶苦茶な罵声を唱えた彼女も又、そのエンジン音に気が付いたのか車椅子に座ったまま後ろを振り返る。

 「どうかしましたか?」

 「耳が聞こえないのか馬鹿! 後ろ見ろ! 眼球爆ぜろ馬鹿!」

 そんな彼女の名前はキサラと言う、彼女は中身の無い袖を揺らすと、噛みつくように車椅子を押していた主に指示を飛ばす。

 「手を振って! 早く振れ!!」

 何処か人形を思わせる、愛らしい顔立ちをしている彼女だが、その外見とは裏腹に口は酷く悪い、だがその事に腹を立てる事も無く、車椅子を押していた黒ずくめの大男、檜山は何処か嬉しそうに後ろを振り返ると、こちらへ近づく派手なバイクへ、正確にはそのライダーへ指示通り手を振って見せる。

 「これでいいですか?」

 「もっと振れ馬鹿! 気付いて無いかも知れないだろ!」

 キサラの思いとは裏腹に、手を振られたライダーは横を走り抜ける際に小さく左手を振る。

 「おい馬鹿!」

 「どうかしましたか?」

 「立ち止まるな! 早く押せ!!」

手を振って足を止めていた檜山に、キサラは相変わらずな一喝を飛ばすと先を急がせる。

 しかし再び横を走り抜けた漆黒のバイクに気が付き足を止める。

 その相手は二人乗りをしているらしく、当然のようにグリップを掴むライダーには首から上が無い。

しかしそんな事気にも留めていないのか、その背中にしがみ付いていた女は楽しげに声を上げると二人に手を振る。

 説明するまでも無く、首なしライダーと朝香である。

 コンパイラとしての性質なのか、一切のエンジン音を立てないで走り抜けるバイクを見て再び口を開くキサラ。

 「楽しそうですね」

 「そうだな、だから……早く押せ馬鹿!!」

 「そんなに急がなくても」

 「遅れたら恥ずかしいだろ馬鹿! ランゲルハンス島沈め!!」

 「は……はい!!」

 檜山が俗に言うドMなのかは不明だが、意味不明な暴言を何処か嬉しそうに受け止めると車椅子を押し、目的地へと向かうのだった。






 この町に住むコンパイラ、その一人である犬夫に、ここ最近新しいあだ名が生まれた。

 そのあだ名は『狛犬』だ、本人としては非常に不本意ではあるのだが、家の入口付近にあるブロック塀に座り、暖かな日差しを浴びる彼の姿が神社で見かける狛犬に見えたのはしょうがない事ではある。

 そんな『狛犬』とも呼ばれる人面犬は、敷地内へ入ってきたライダーの背中に飛び乗ると、いつも通りな口調で話す。

 「よお、今日は帰ってくるの早いんだな」

 すると等の本人は犬夫を抱えると、地面へ歩かせ小さく手を振り玄関の戸を開く。

 「あ! お帰り!!」

 すると今度は別の人物から声を歓迎を受ける。

 年齢は20代半ば、よく言えば線の細い、悪く言えば酷く虚弱体質に見える男、その姿は淘太の物だった。

 そして遅れて姿を現す人物、目鼻立ちがしっかりしているせいか、それとも日頃の言動のせいか、何処か男勝りな印象を他人に与える人物、凛である。

 この家に二人が居る事はいたって自然なことなのだが、ヘルメットを被った人物は、その状況の不自然な点をいち早く感じ取り、何か諭すような仕草で男を指さすと、ヘルメットを外す。

 「今度は一体何の真似ですか? ニュー」

 ヘルメットを外した人物、それはこの家の家主である淘太だった。

 彼は呆れた素振りで自分と瓜二つな相手を見ると、その人物の名前を呼ぶ。

 「淘太ゴッコ!!」

 そう言ったもう一人の淘太の顔は、まるで氷が高速で溶けるように溶解し、別の人物の物へと変化を始める。

 年齢も性別もそして人種までもが不明な酷く中間的で、どっち付かずな外見。

 「一体なんでまた……」

 「ニューね、今日の主役が居なくちゃいけないからって変に張り切っちゃって」

 横に居た凛の説明に、小さく納得しながらも、不意に湧いた疑問に気が付く淘太。

 「主役? 俺なんかやったっけ?」

 「今日は何の日?」

 質問の答えに繋がる凛の質問、その意味を理解しようと頭を巡らせると、一つの事柄に気付く。

 「あ……そういや今日って……」

 「淘太の誕生日!!」

 淘太の言葉を先読みするかのようなニューの一言。

 その言葉が示す通り、今日は淘太の誕生日だった、その為この家に関係する一同は彼の事を祝おうとサプライズで計画を立てていたのだが。

 何処かバツが悪そうにする淘太の様子を鑑みると、肝心の主役は今日が自分の誕生日だと言う事すら忘れていたらしい。

 「なるほど……とりあえず何するのか分からないけど、これ置いてくる」

 淘太はそう言うと、靴を脱ぎ抱えたままのヘルメットを置くために家の二階へと向かう。

 実際はわざわざ二階まで行く必要は無いのだが、ふと自分の頬が緩んだのを隠すため、ある種の照れ隠しの為にと寝室の扉を開く。

 部屋は相変わらずな6畳間、変わった事と言えば2年ほど前に部屋の模様替えをした事であり、その際にベッドはダブルベットに、仕事で使っていた机は別の部屋へと移されている。

 とはいえ、その部屋は一般的な住宅の物だったが、一つだけ不自然な物が必要以上に存在感を主張していた。

 「何やってるの?」

 一応形ばかり尋ねてみる。

 淘太が声をかけた先、そこには一本の腕があった。

 窓のサッシに伸びている手は、おそらく家の外壁にしがみ付いている相手の物だろう。

 「えっと……家に入ろうと……」

 「普通に玄関から入って良いから、強盗か何かかと思うでしょ」

 呆れ交じりの声にうつむくのは、家の外壁にしがみついたままの赤いコートの女、さくらだ。

 「だけど……ほら……っきゃ!」

 何か言い訳をしようとしたようだが、さくらは不意に手を滑らしそのまま地面へと落下する。

 庭先に置いてあったバケツをひっくり返したらしく、あわただしい音を聞き淘太は小さくため息をつくと今度はベッドの宮に置かれた手鏡を見る。

 「久しぶりだな!!」

 威勢のいい声を放ったのは、その鏡に映された淘太だった。

 「久しぶりですね」

 鏡の中に映された、自分とそっくりな外見の別の存在、紫の鏡と名乗るそのコンパイラにオウム返しをすると、ヘルメットを棚の上に置き羽織っていたジャケットを脱ぐ。

 「お前バイク乗るのか? 族はあの女だけだろ?」

 「訂正二つ、まず一つ目は俺もあのバイクに乗るようになりました。

 そしてもう一つの訂正、凛は別に暴走族の類ではありません」

 手に持っていたジャケットをハンガーに掛けると、淡々と答える淘太。

 そもそも淘太自身バイクに乗るようになったのは事実なのだが、淘太としては進んで乗るようになったわけではない。

 凛に急かされ、半ば強制的に大型二輪の免許を取らされ、そして本来の持ち主が乗れなくなったという理由で、何故か自分の元へ肝心のバイクは回ってきた。

 これまでは自転車かバスが基本的な交通手段だった彼が、その誘いを拒む理由も無く、普段の足としてバイクに乗るようになったのは事実だが、さまざまな理由が絡んだため今はこのバイクに乗って車の免許を取る為に教習所と家の往復に汗を流す日々だ。

 「まぁそうムキになるなって! 今日はお前の誕生日だろ?」

 「それは事実ですけど……ってあなたもそのためにここへ来たのですか?」

 「あたりまえっ……!! おい……!」

 淘太は再び口を開いた相手を黙らせる為か、紫の鏡が映されていた鏡を倒すと部屋を出る。

 別に自身の誕生日を祝ってもらえるのが嫌な訳ではないが、正直ここまで大々的にやられると妙にむずがゆい。

 かといってこの部屋に居座ってもさくらや紫の鏡、その他のコンパイラがこの部屋に押しかけてくるのは火を見るよりも明らかな為、気だるそうに髪を掻きながらリビングへと足を進めた。

 VRS-3と銘打たれた機械は、あの日以降何一つトラブルも無く稼働し、懐かしい仲間はこの町、そしてこの家に舞い戻った。

 勿論その日から現在までそれなりに時間が経過したため、この家の住人も周りの環境も風変わりしたのだが。

 こうして自分の誕生日だけは全員が集まるつもりらしい。

 「いい迷惑ですよ……」

 口で小さく思いとは間逆の意見を言ってはみるが、内心は小躍りしたくてしょうがない。

 そんな自分を宥めるため、小さく息を吐くとリビングの中を覗いてみる。

 10畳の比較的広いリビング、フローリング張りのその室内には所狭しと友人が集結していた。

 『淘太 目視 歓迎』

 「あらあら、今日の主役の登場みたいね」

 まず目についたのは首なしライダーと朝香だ、二人は仲良くテーブルへ皿を並べ、淘太へと手を振る。

 「ここで良いですか?」

 「良いに決まってるだろ! それよりも手伝え馬鹿!!」

 次に眼に着いたのは檜山とキサラ。

 ここに来る際も見たのだが、案の定彼らの目的地もこの家だった様だ。

 キサラは自分の代わりに準備を進ませる為、大声を張り上げて檜山を叱咤するが、これもまたいつもの事と言えばいつもの事だ。

 そんな様子を呆然と眺めていると、今度は部屋の奥からにぎやかな音楽が流れる。

 その音の主は、部屋の奥に設置された37インチのテレビだった。

 画面が赤く染まり、大量の文字列で淘太を歓迎するアスキーアートを表示させている処を見ると、赤い部屋が操っているらしい。

 「ほんとに全員集合だな……」

 「おいおい! 俺の存在を忘れんなよ! ほれ、これ新刊」

 ぼそりと呟かれた淘太の一言に、今度はいつの間にかここに到着していた一孝が答え、懐から一冊の本を取り出す。

 「出たんですね、新刊」

 「あたりまえだろ! プロの漫画家は原稿落とさねえよ」

 淘太が受け取った本、それは漫画本だった。

 拍子に大きく書かれた『3LDK』のタイトル、そしてその横に続く『VOL.21』の文字、この家に彼が住んでた時に描いた一冊の本、その続きである。

 当初この本は一冊完結で描かれたのだが、彼がこの家の出来事をヒントに書いた物語は大勢の人の目に留まり今では週刊誌で連載され、テレビ放送も決まるほどの大ヒットを成し遂げている。

 「フィクションと銘打たれたノンフィクションですか……」

 「うるせえ、今はオリジナルストーリーだ」

 一孝は淘太の声に小さく噛みつくと、部屋の奥で食器を並び終え、テレビを操作してニュース番組を表示させる朝香を見る。

 「まぁ、ネタを考えるのはあいつの仕事だけどな」

 「仲良いですね」

 「うるせえ!」

 ひょんなことから関係を持つようになった二人、彼らはVRS-3の稼働に成功させると、今度は協力して同じ物語を作るようになった。

 とはいえ、朝香は別の仕事をやっているため、彼が書く本のストーリー以外の点には一切会していないのも事実ではある。

 テレビリモコンを操作し、赤い部屋の介入にいちゃもんをつける朝香、彼女の現在の仕事ぶりは、不意に止まったチャンネルから明らかになる。

 『――SF作品の中だと思われた技術、それが間もなく現実の物になりそうです』

 昼過ぎのニュース番組、その中で彼女の作り上げた物が紹介されている。

 『人の脳の動きを読み取り、並列化することで従来の物よりもはるかに高性能なコンピュータを生み出す技術が昨日、学会で発表されました。

 この研究を使えば従来のスーパーコンピューターでは行えない複雑な計算も……』

 「それ……朝香さんの奴ですか?」

 「そうよ、やっと私の考えまで世間が追いついて来たようね」

 朝香はどこか自信ありげにテレビを軽く叩き、その横に設置されていたVRS-3を見つめる。

 「まぁ、一応名目上はこれから試験運用だけど、これくらい成功してあたりまえね?

 だって私が学会に発表した物よりも高度な技術は、既に実用化されているのですから」

 テレビの中では、ニュースキャスターが夢の技術と絶賛をしているが、実際のところ淘太達から見れば対して凄い事とは思えない。

 それは彼女の功績を認めない訳ではない、単にそれ以上の力を見た上で、その基礎理論を見せられた処で対して感動もしないだけだ。

 なぜなら……

 「こんなにコンパイラと出会っていたら、今さら驚かないよな、むしろ時代遅れっていうか……」

 一孝は家の中に首の無いライダー、姿の変わるニュー、人面犬、その他もろもろのこの世界には存在しないはずの異形を見比べ、小さくため息をつく。

 朝香が学会で発表した技術、それはVRSの技術の基礎部分だ、勿論同一の技術とは言え使い方を変えると見た目は大きく変わり、取り巻く環境も変わる。

 彼女が量子コンピューターへと発展させたVRSは、大学の研究機関の元、ワクチン開発や不治の病の治療に今後力を発揮させるのだろうが、朝香自身はその事を驕るでもなく何処か楽しげにしている。

 「あら? それって褒め言葉かしら?」

 「褒め言葉だと捉えるなら、こんなところ居ないで仕事しろよ」

 「良い仕事するには息抜きってのも必要なのよ? だってそうでしょ、そうじゃなきゃ疲れちゃうから」

 一孝と朝香のやりとり、それを見て小さく笑うと、不意に携帯電話が着信音を響かせている事に気が付く。

 「ん?」

 淘太は自分の携帯電話を取り出して確認をするが、どうやら音の主は凛の携帯電話だったらしく、見慣れない番号からの電話に首を傾げつつも対応をする。

 淘太は用無しだった電話をジーンズのポケットにしまうが、見計らったかのように電話が震えるのに気付き、画面を確認する。

 淘太としては朝香がテレビの画面を切り替えた時に、自分の携帯電話にこの現象が起きる事は予想しては居たのだが、案の定画面に表示された真っ赤な背景と、メイリオ体の文字列に眉根を寄せる。

 『なにやらおかしな事が起きてるでござるよ』

 「ええ、人面犬に首なしライダー、口裂け女が行き来する家なんだから、おかしな事くらいありますよ」

 淘太は赤い部屋の言葉にため息交じりで答えたが、追い打ちをかけるように文字が切り替わる。

 『そういう意味ではでゅふふwwww 凛殿へ電話を掛ける主、どうやら人間ではないでござるww』

 「無人ダイヤルですか?」

 『そういう意味ではww 拙者と同じコンパイラの可能性が濃厚でござる』

 「人の電話盗み聞きするのはどうかと思いますけどね」

 『……mjdk? (´・ω・`) 』

 淘太が言った通り、おそらく赤い部屋は凛の携帯電話に張り付き、会話の内容を盗み聞きしてたのは間違いないのだろうが、問題はそこでは無いと判断し、淘太は話を続けた。

 「それで、電話をしそうな怪談話と言うと……『さとる君』辺りですか?」

 『それはどうでござるかなww 直接聞いてみるにfawww』

 アスキーアートだの知識が無ければ意味を理解するのに苦労する略語が並ぶ画面に再びため息で答えると、淘太は視線を横へ動かして電話を切る凛へ質問を投げかけた。

 「凛? 誰から電話?」

 「んー? 外国の女の子みたいだったけど、知らない子。

 今ゴミ捨て場に居るんだって?」

 「あー、その子ってメリーさんって名前じゃないですか?」

 すると、凛は合点がいったのか、眼を丸くして答える。

 「淘太の知り合い?」

 「いや、有名な都市伝説ですよ」

 そう淘太が答えた時、再び電話が鳴り、それに出る凛。

 暫く困ったような声を上げる凛と、電話越しに何かを言っている相手とのやり取りが続いたのち、凛は淘太へ助け船を求める為か、ハンズフリーモードにしてからケータイを淘太へ投げ渡す。

 「……はい、今代わりました」

 代替相手が何者なのかは検討が付いているのだが、一応丁寧に電話に出てみると、スピーカー越しに聞こえてきたのは、淘太が予想していた通りの声だった。

 『う……ふぇ……わ、私、メリーさん』

 「初対面ですけど、知ってます」

 ただ、少し予想とは違っていたところは、何故か相手に恐怖心を与える事で有名な彼女が、何故か何かに怯えていた事だった。

 しかし、その答えはすぐに明らかになる。

 『わ……私、メリーさん。

 今、あなたの家の後ろの……電柱の上に居るの……とっても……ふぇ……怖いの』

 「ずいぶんクレージーな奴だな」

 「っていうかどうやって登ったんでしょうか?」

 ますます頭痛が酷くなるが、彼女の言葉が正しければメリーさんは淘太達が今居る場所は、淘太達の住む家の真後ろにある、送電や通信目的の為に建てられた電柱の上との事だ。

 あたりまえの事ではあるが、現代社会ではライフラインとして切っては切れない電線が切断されるリスクを減らすため電柱は背が高い、更に言えば電柱は人が登る事を想定していないため、足場としては非常に不安定な物だ。

 「知らん、登りたかったから登ったんだろ?」

 「まぁそれくらいは分かりますけど……」

 よく背丈の高い樹木に、飼い猫が登り降りられなくなるといった事態は聞くが、理由は何であれメリーさんと名乗る彼女もまた、なんかしらの理由で電柱によじ登り、そして降りられなくなったのは間違いが無い。

 実際、電柱は先ほど述べた通りの理由でとても背が高く、その上に登って下を見下ろせばそれなりに恐怖心煽られ、足が竦んで動けなくなるのも道理ではあるが……

 勿論淘太としては顔も知らない相手、ましてや普通の人からは認識すらされないコンパイラの事であり、わざわざ首を突っ込む義理も無いのだが……

 「さてと……」

 最初に腰を上げたのは朝香だった。

 「まぁお節介焼くのがこの家のルールですしね」

 口では適当な口実を並べるが、内心楽しそうに立ち上がりメリーさん救出の手段を思案する淘太。

 「ったくこの期に及んでかよ……」

 「って言いながら楽しんでるでしょ?」

 各々が口実だの悪態だのを並べ、立ち上がるが。

 不意に淘太が凛に話しかける。

 「凛はここに居て、危ないからさ」

 「いいとこ取りする気?」

 「そんな体の相手を巻き込むほど俺も鬼ではないでしょ」

 不意に掛けられたその一言に、眼を丸くするが淘太が続けて言った言葉に納得し、静かに腰を下ろす。

 「それじゃ土産話だけはちゃんと聞かせてよね?」

 「はいはい」

 そう言う相手を見送ると、凛はソファーに座りカップの中のお茶を一口飲み、ため息をしてから部屋の隅を見る。

 テレビの横に置かれた巨大な機械、VRS-3の上に飾られた小さな銀色の輝き。

 何がきっかけか不意に煙草を辞めた淘太の持ち物であり、今は凛の持ち物となったオイルライター。

 凛自身も諸事情があったため禁煙をし、今ではこうして飾られるだけになったその姿を見て懐かしく思う。

 「ねぇねぇ! 何を見てるの?」

 「っ! なんだ居たの?」

 淘太についていき、姿を消したと思っていたニューは凛の横に座る。

 予想外な事だった為最初は驚いたが、凛は小さく笑うとニューの言葉に答える。

 「なんか懐かしいと言うか、不思議だなぁって」

 「不思議?」

 綺麗に澄んで子供のそれのように純粋な眼を輝かせるニュー。

 「この生活が不思議だなぁって。

 適当な理由でこの家に住むようになってさ、小さな接点しか無かった人たちと生活していくうちに、喧嘩とか馬鹿騒ぎしてお互いにを知って。

 色々な出来事に巻き込まれて、逆に巻き込んだりして。

 それでもみんなで協力してトラブルを解決して、気が付けば仲良くなっていてさ。

 そう思っていたらまた仲間が増えて、また色々な事があって。

 人生って分からない物だなって」

 この家に人が集まった理由。

 淘太は人目を避け、自分を知る人間を遠ざけたかった。

 一孝は漫画家になる夢を叶えたかった。

 凛は自分のやりたい事を見付けたかった。

 それぞれ別の目的の為、たまたまその目的を遂行するのに同居するのが都合良かった。

 単純にそれだけの事だった。

 だけどある日突然この家に人面犬が姿を現した。

 そうしている内に、今自分の隣に腰掛けるシェープシフターが現れ。

 次に赤い部屋、口裂け女、紫の鏡と、次々と空想の世界だけの生き物が姿を現した。

 ごく普通の家の中に、突如として姿を現せた彼らの悩みを解決していくうち、今度は朝香が姿を現し、VRS-3の上に置かれたライターの持ち主の存在も知った。

 まるでドミノ倒しのように連鎖して繰り広げられる出来事、目は回るが退屈している暇なんて無い楽しい日常。

 きっと今もそんなドミノ倒しの最中なのだろう。

 だからこそ楽しい。

 だからこそ充実していると凛は感じる。

 「またこの家の仲間が増えるね!」

 「メリーさんの事?」

 「それもあるけどねぇ、何時なの?」

 「あー、その事か……」

 凛はニューが言ったもう一人の仲間が誰なのか分かり、カレンダーを確認して答える。

 「後2カ月くらいかな?」

 「ほんとにほんと!!?」

 「医者が言うにはね?」

 のどかな昼下がり、心地よい風が抜ける3LDKの中をニューの楽しげな声が響く。

 それにつられる様に『佐野 凛』は笑うのだった。

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