Quest

 依存というものはなかなか厄介な存在だ。

 たとえばコーヒーなどのカフェインを含んだ飲み物、日常的に口にしているうちに、不意に飲まない日があると妙にその味を懐かしく思い、ついつい缶コーヒーなどと言った安易な手段でカフェインを補給したくなる。

 たとえば煙草や葉巻と言ったニコチンの類、最初こそ子供の様な好奇心や見栄で口にし、空ぶかしをしているうちに脳がその化学物質を吸収。

 そのうちニコチンを体が欲する様になり、暫く口にしない時間が出来ると、そわそわしたり口寂しさと言う症状に現れる。

 依存という言葉に混ぜて良い物か迷うところだが、対人関係にもその性質は現れる。

 もちろんこれらの依存を解く方法も無くは無い。

 その中で一番安易かつ失敗の少ない方法として上げられるのは『代用』である。

 カフェインを少なくするために、それ以外の炭酸水などの飲み物を飲む。

 禁煙による口寂しさを誤魔化すためにガムを噛む。

 これらの方法を上手く使う事で、依存を減らしていく事も可能ではある。

 そして現在進行形で淘太が行っている行動もそれに良く似た行為である。

 いつものテーブルに置ききれないほど揃った料理の数々。

 綺麗に磨かれたテーブルの上、同じように綺麗に磨かれた皿の上に乗る料理の数々はどれもがそれなりに手間のかかる料理であり、淘太が料理研究家と言う肩書を持っている存在とは言えそれなりに手間を掛けたのは間違い筈だ。

 いや寧ろ手慣れている人間だからこそ、昼時にぎりぎり間に合ったとも言えるかもしれない。

 調理の片手間に食器洗いも同時進行で進めていたらしく、凛と一孝が食卓に着くころには淘太は最後のフライパンを一枚濯いで居た。

 「なんていうか……豪華……」

 「せやな……」

 口では喜んで見せるが、凛は内心この食卓が異常である事に悟っていた。

 淘太は気が向いた時、妙に手間のかかった料理を作ったり、大量の品でテーブルを覆い尽くす事はあったものの、今回の料理は明らかに豪華すぎる、そして量も多い。

 恐らくこの料理を作った理由は、自身の頭の中にある思いを誤魔化すためである。

 不意に自身の慕っていた友人が消えていなくなった。

 最初こそトラブルメーカーと内心思っていた相手だったが、淘太自身彼らに対していつの間にか依存心を抱いていた。

 だから不安で落ち着かない、落ち着かないから何かをして気を紛らわせる。

 だがいつも通りの作業では、それほど神経を使う必要が無く、不安感を感じる余裕を自分に与えてしまう。

 だからこそ、自分の能力限界の所で無駄な事を考えないようにしていたのだ。

 「俺があんなんなってる間、ロクに飯も作って無かったみたいだし、今日くらいはサービスですよ」

 淘太は明るく笑いながら、蛇口を閉め、フライパンを布巾で拭いて棚に戻すと、地味な紺色のエプロンを脱いで壁に付けられていたフックに掛ける。

 「二人ともご飯どれくらい食べます?」

 そして淘太はしゃもじを片手に空の茶碗を手にして問いかける。

 「これだけおかずが多いと、そんな食えないな」

 「右に同じく」

 その声を聞くと、淘太は軽く茶碗にごはんをよそうと、それぞれに手渡したあと、自分の分のご飯をよそう。

 「あのさ……淘太」

 「どうかしましたか?」

 殊更驚いた様子も無い様子ではあるが、何を思って凛が声を上げたのかは本人も検討がつくらしい。

 「幾らなんでも……」

 「高すぎやろ……」

 凛と一孝、二人が揃って声を上げるのも当然である。

 彼が手に持つ茶碗にはご飯がうず高く盛られていた。

 なぜここで一孝が『多い』では無く『高い』という単語を使ったのか、その理由は茶碗の全長を見たら一目瞭然だ。

 彼の持つ茶碗は、三段重ねのアイスクリームやかき氷の様な、明らかに器の大きさとは付図り合いな標高を誇る山脈を形成していた。

 「まぁ否定はしません」

 淘太は器の上に形成された『白米山』が雪崩を起こさないように慎重に運び、テーブルの上に置くと箸を手に椅子へと腰かけた。

 「食べきれるの?」

 「後で絶対後悔するんだろうけど、今日はこれ位食べたい気分なんです」

 「まぁずっと長い間寝込んでた様な物やしな、食え食え、若いうちに食いだめしとけ」

 「なんかオオバカ最近妙におっさん臭いよ」

 淘太が目を覚ました、正確には自我がこちらに戻って来たのは昨晩の事だった。

 VRS-2の影響で意識を抜き取られていた間、現実の淘太はロクに食事も取らず、部屋の中に籠った生活をしていた。

 実際に運動をしていなければそうカロリーを消費する事は無い筈だが、この間淘太は別の世界であるコンパイラを一人で演算しており、その為、肉体とは逆に脳はこれまで経験した事が無いほど膨大な演算を行っていたのだ。

 脳は人が思っている以上にカロリーを消費する器官であり、その事を鑑みると淘太が今現在酷い空腹を感じているのは当然とも言えた。

 「とりあえず、早く席ついてください、もうお腹が空いて死にそうなんです」

 「本当に死に掛けてたくせに」

 そんな愚痴をつきながらも、三人は席に着くと手を合わせ、一斉にいただきますと声を上げて料理へと箸を進める。

 料理を一口口へ運び、咀嚼してから飲み込む、たったこれだけの行為なのだが、こうしているとつくづく思う。

 空腹と言うものは厄介だ。

 だけどそれゆえに幸せな事でもある。

 空腹を感じるのは、食欲がある証拠。

 そしてそれ以外に何も問題が無く、心身共に健康である証拠だ。

 だからこそ、自分ひとりで無く、気の合う仲間とその時間を共有出来る時間は、何よりも幸せな事なのだ。

 「飯食いながらで良いんで、ちょっと聞いてほしい事があるんだ」

 淘太はひとしきり料理を食べると、半分ほどの高さになった茶碗をテーブルに置いて口を開いた。

 「今回は本当にありがとうございます」

 「なんや改まって」

 一孝は絶妙な焼き加減の鶏肉を箸でつまみながら、軽く返事をする。

 「あのコンパイラの中の生活ってのは、桜井が予想していた通り俺にとって都合が良い世界だったんだ。

 無いものは望めば出てくる、自分を不快にする存在は何処にもない。

 別れが無ければ、誰かが病気になる事も死ぬ事もない」

 「桜井朝香らしい考え、まぁ私はそんな都合が良いだけの毎日なんて嫌だけど」

 凛は油揚げの浮いた味噌汁をすすると、小さく呟く。

 「俺も桜井と同じ部分があった、過去に引きずられて変化を拒んで、目の前で変化を繰り返す現実を受け入れる事が出来なかった。

 そして今も彼女はその考えに引きずられて、そして悲しみに暮れているはずだ。

 ついこの間の俺みたいにね」

 淘太は小さく笑うと、茶碗を再び手にとってテーブルの中心へと箸を伸ばす。

 何気ない仕草で紡がれた言葉だったが、その一文が何を意味しているのかを悟った一孝は、少しだけ強い口調で口を開いた。

 「お節介焼はいい加減にしろよ」

 一孝は淘太とは対照的に食器を置くと、目を細めて淘太の表情を覗うが。

 肝心の淘太は殊更驚いた様子も無く、少しだけ表情を柔らかくして答えた。

 「俺は昔ある人と約束をしたんだ」

 「瀬谷香夜子って奴か? 死んだ人間だろ、そいつが人助けしろといったから今でもホイホイお節介焼いて、それで満足か? そんな執着が今でも残ってたとはな」

 「ちょっと一孝!」

 凛が一孝の暴言に横槍を入れるが、淘太は掌で彼女の言葉を制すと言葉を続けた。

 「俺がした約束は『好きな事をして生きろ』って事さ。

 別に今までみたいに居ない相手に尻尾を振るつもりは無いよ、ただ俺がやりたい事をやる、俺がやりたいように生きる。

 俺は誰かの為になりたい、みんなが笑って居られるようにしたい、たとえそれがお節介だと言われても、俺は自分勝手に好きなように。

 人助けをする、だから俺は桜井朝香を助ける」

 淘太の声は、ゆっくりと、そして明瞭に一同鼓膜を叩く。

 無駄な感情が込められた訳でもない、本心から出てきたであろう迷いの無い声に淘太を除いた二人は口をつぐんだ。

 「俺ってさ、実は元々俗に言ういじめられっ子って奴でさ、高校にもまともに行かないで中退、そこから通信高校通ったりしてさ。

 なんかガキの頃にそんな事あったりしたから、何やっても上手くやっていける気がしなくて、何をやっても自分は他人から必要とされない人間だと思えたりしてさ。

 いろんなバイトを転々としちゃ、直ぐに辞めて。

 金に困っても、なぜかそんな自分を作ったのは親だと変な逆恨みしちゃってるせいで、実家にも帰れないからネットカフェとかで寝泊まりして。

 この自体を招いた原因は分っているけど、そこから抜け出そうにも、なんか世界が自分の事笑ってる様にすら思えちゃって、行動も起こせなくて。

 桜井朝香も同じなんだ、要因が何かは分らないけど、彼女の過去に起きた出来事が彼女の足を何時までも引っ張って、そのせいで世界そのものが憎く思えていて。

 だからコンパイラなんてもの作り出したんだと思う。

 自分が必要とされ、自分が必要とする世界を作るためにね」

 淘太は淡々と語ったのち、コップの中の麦茶を一口飲み込むと更に口を開いた。

 「だからこそ……俺には彼女の気持ちが痛いほどよくわかる。

 否定からしか、物事を捉える事が出来ない気持ちは痛いほど分るんだ。

 確かに彼女は俺を危険に合わせた存在だけど、だからといって見過ごす気なんて無いよ」

 そして淘太は、茶碗の中の米を全て平らげると満足気に椅子へ深く座りなおして脱力する。

 「淘太は本当にお節介焼きね」

 「犬夫にも良く言われたよ」

 凛の声に軽く返事をするが、この瞬間一つ嫌な事を思い出し、全員がお互いに目線を反らしてしまう。

 綺麗に拭きあげられたフローリング床。

 整理整頓された戸棚の荷物。

 いつの間にか背丈を伸ばした観葉植物に一輪挿しのガーベラ。

 なんて事は無い、綺麗や清潔感が感じられる3LDKの家だ。

 だけど、それだけ綺麗に片付いているからこそ、不意に生まれた不自然が際立っていた。

 「犬夫……か」

 淘太は、自身がそう命名した友人の名前を反芻し、彼のお気に入りの場所だったソファーを眺めて落胆する。

 数日前とは比べ、ごみ類が綺麗に消えて無くなった家の中からは、淘太達が慣れ親しんだ都市伝説も綺麗に消えて無くなっていた。






 桜井朝香が目を覚ましたのは、丁度淘太達一同が食事を終え、静かに襲い掛かる睡魔と格闘している時だった。

 「……んっ……」

 硬いフローリングで寝たせいか、それとも猫の様に丸まった不自然な姿勢で寝息を立てていたせいか、全身の筋肉は硬く強張り、姿勢を変えるだけで体の節々が痛覚を交えて抗議の声を上げる。

 「つっ……ねぇ首無し……」

 朝香は未だに寝ぼけた瞳をゆっくりと開きながら、すぐ傍で待機しているであろう相手に声を掛けるが、返事が無い事を疑問に思う。

 重い瞼を開けてはみるものの、レンズ越しで無い世界は予想通り歪にその輪郭を歪ませており、肝心の相手の姿の確認もままならない。

 「首無し、眼鏡を……」

 遮光カーテン越しの日光では光量不足な室内、ましては眼鏡が無ければ見動きなど取れないが、声を掛ければその相手は直ぐに答えてくれる。

 なのになぜ彼が何も返事を返さないのか、そしてやっと暖気運転を済ました彼女の頭は、もう一つの疑問を投げかける。

 「どうしてこんな所で私……」

 ある種の作業場として完成している朝香の家は住みやすさを捨て、極端に生活感が欠けている。

 たとえばキッチンに鎮座しているはずの、冷蔵庫や電子レンジなどの白物家電の不在。

 たとえば多くの場合風呂場にその身を据える洗濯機の不在、そしてそれらの代わりに家の中至るところに見当たる、クリーニング店の包装や空のペットボトルに基盤をむき出して絶命した電子機器。

 普通に生活しようと思えば何かしら不便は感じる筈だが、ライフラインのほとんどを有料サービスに移行した彼女の生活サイクルに、この家は最適化されてはいる、とはいえこの家に寝床が無いわけでは無い。

 もちろんその寝床と呼ばれる物も、布団では無く本来アウトドアで使われる筈の寝袋ではあるのだが、こんな硬い床の上で薄着のまま寝るよりは遙かにましな筈だった。

 「聞いてるんでしょ首無し……」

 朝香は床の上で手を這わすと、どこかに落ちているであろう眼鏡を探す。

 すると案外自分の場所から近い所から眼鏡は見つかる。

 「なんで黙ってるのよ……眼鏡が無いとVRSの修理が出来ない……」

 眼鏡を掛け、そこまで口にした時やっとばらばらに崩れていた記憶の欠片が一つにまとまる。

 レンズ越しに補正され、綺麗な輪郭を手に入れた視界の先に広がっていたのは、基盤を吐き出し、異常を知らせる赤色LEDを点滅させ物言わなくなったVRSだった。

 「……そうね、VRSは動いていないのに馬鹿ねぇ……私って本当に……」

 そこに居るのが当たり前になっていた為、相手が本来存在しない存在だという事を忘れていた。

 彼女が当たり前の様に話しかけ、そして当たり前の様に顎で使った相手である首なしライダーはVRSが作り出したコンパイラだ。

 だから、こうしてVRSが止まっている間は姿を現す事など無理なのだ。

 そして、このVRSは単に電源を切っているだけでも無い事を思い出す、淘太を飲み込んだこの機械は、首無しライダーと同じコンパイラ、恐らくは中に入り込んだ赤い部屋により内部から破壊された。

 それも単にプログラムを破壊するだけでは無い、VRSの物理的な制御まで行っていた部分のプログラムを書き換え、過剰に供給された電気によりメインの基盤とデータの詰まったHDDを焼き切ったのだ。

 だからこそ、彼女が徹夜してまで基盤を開いた所で、修理など不可能だった。

 「ねぇ首無し……どうして赤い彼は此処までしたのでしょうね?」

 帰ってくるのはやはり無音を貫くの沈黙だった。

 元々首なしライダー自体、顔が無いため声を発さなかったが、こうして話しかければ何かしらの動作とメモ書きで答えてくれた。

 だからこそ、本当の沈黙なんてものを感じるのは久しぶりなのだ。

 「誰に話しかけてるんでしょうね……本当馬鹿みたい……」

 こうして愚痴ってみて改めて気が付く。

 自分は首なしライダーに依存していた。

 道具と呼んではいたが、無意識のうちに彼を慕い、そしてその存在が自分の中の多くの部分を占めていたのだ。

 だからこそ……

 「作っておきながら修理が出来ないなんて……本当私は役立たずね……」

 朝香はフローリングの上、膝を抱えるように座り直すと、眼鏡にかかった前髪を退けて俯く。

 「本当に役立たずで馬鹿な私……」

 あえて自嘲ぎみた事を呟いてみる、だけどそれを否定してくれる相手はもう居ない。

 もう居ないからこそ、もしかしたら再び現れてくれるかも、そう思っての一言だったが、やはり自分の一言を否定してくれる相手は、再び姿を見せる事は無かった。






 普通に生きていたとしても、自身を取り巻く環境は変化する。

 どれだけ平凡で変化の無い生活を望んでいようとも、この世界は自分一人の為に用意されている訳では無い、自分は何もしなくとも、遠く離れた人間の些細な行動は巡り巡って己の元へ何かしらの変化を伝える物だ。

 だが、自分を取り巻く環境の変化と言うものは、全てが悪い形で顕現するわけではない。

 しかし人は誰しもネガティブな感情を持ち合わせているため、自身に起きた変化の中から些細な悪意を見つけ、猜疑心を抱いてしまう。

 マイナスな感情はそのほかのマイナスな感情を呼び寄せ、中毒性すら感じさせるほどの嫌悪感へと姿を変え、自身の感情を飲み込んでしまう。

 だから、そんな時こそ気持ちを切り替える必要があるのだ。

 同じ事を考えていると、いずれ考えはこり固まり身動きすら取れなくなる、その前に考えを一度改め、そして良い面での変化に目を付けるのだ。

 「考えてみたら、元通りになっただけだよな……」

 淘太は使いなれた椅子に腰かけ、セットになった机の上に幾つかの書類を広げてそんな事を呟く。

 確かに自分達が慣れ親しんだ都市伝説は居なくなったが、彼らは元々イレギュラーな存在であり、お互いに干渉しすぎないと約束したこの家の中ではある意味邪魔な存在でもあったかもしれない。

 「元通りになってめでたしめでたし……か」

 淘太は羽の刻印が打たれたライターを手に取ると、咥えた煙草に火を付ける。

 傍から見たら、淘太は危険な目に晒されただけだ、しかしあの一件で色々な事に気づかされ、そしてこの家の住人との距離が一気に近くなった。

 だからこそ淘太は今回の出来事を決して悪い事だとは思っていなく、寧ろこの切っ掛けを作ってくれた彼らには心から感謝していた。

 だが、もうそんな彼らは何処にも居ないのだ。

 手品師が指を鳴らして魔法を解くように、この家の中心に起きていた魔法は、一つの機械の故障と言う形であっけなく解かれた。

 何事も仕掛けがあり、形がある。

 そして形がある者はいずれ壊れるのだ、それなのになぜか落ち着かない。

 落ち着かないからこそ、淘太は仕事に精を出して気を紛らわせていた。

 「考えてても自体は変わらないし……とりあえず溜まった仕事を……」

 淘太はパソコンを立ち上げると、届いていたメールの確認作業に移る。

 ここ暫く自身の人気も落ち仕事のオファーが減ったりもしたが、それでも仕事の声がかからないわけではない。

 基本は来る者拒まずな姿勢である淘太は、画面に映し出されたメールを確認していると、一つだけ妙なタイトルのメールを発見した。

 「『あなたは好きですか?』……ってなんだよこれは……」

 淘太は気になりそのメールの詳細を確認する。

 メールの送信元は見覚えの無いアドレスであり、送信日時は昨日、丁度淘太を取り込んでいたVRSが壊れた瞬間だった。

 そしてメールの送信者の名前が目に留まる。

 そこに書かれていたのは『赤い部屋』の一文だった。

 「赤い部屋って……まさか」

 淘太は明らかに怪しげなそのメールを開封すると、中に書かれている文面を確認する。

 すると不意に液晶にホップアップが表示された。

 無機質な書体で書かれた『akaiheya.exaを起動しますか?』の文字。

 淘太は迷うことなくその下の『OK』ボタンをクリックした。

 その瞬間、パソコンのHDDが激しく動き始める。

 どうやらどこかのサイトから大量のデータをダウンロードし、そして再生するために解凍しているらしい。

 若干型が古い機種の為か、時折画面をちらつかせながらもフリーズすることなく作業を終えると、画面に新しいウィンドウが開かれた。

 「予想通りではあったけど、見覚えのある画像だな」

 淘太が煙を吐いて呆れる先、パソコンの画面に表示された真っ赤なページ、そして一瞬の間を置いてから洪水の様に溢れだす文字列。

 メイリオ体のそれは、間違いなく淘太が親しんだ赤い部屋の物だった。

 だが、予想とは反し、この文面が赤い部屋本人では無い事を伝える。

 『赤い部屋です。

 恐らくこの文面を読んでいると言う事は、恐らくVRSが故障もしくは破壊され、この町全てのコンパイラが消滅している頃でしょうか?

 一体どのような理由で故障したのかを私に探る術など無いですが、いずれVRSの稼働が停止し、私達が消滅するであろうと予想した私は、予めこの文面を用意しておきました。

 つまり、今現在の私は淘太さんが知っている私では無く、私が一個人で書きあげた遺言の様な物です』

 淘太の発した声を無視して続けられる文面から、現実が付き付けられる。

 彼らの存在は、魔法の様な科学では証明する事の出来ない現象では無い、だからこそ何の前触れも無く、ただ祈れば復活する様な単純な物では無いのだ。

 形あるものはいずれ壊れる、それはVRSによって生み出されたコンパイラも同じなのだ。

 だからこそ、最初に自身の存在が何なのかを知った赤い部屋は、こうしてメッセージをネットワーク上に隠しておいたのだ。

 インターネットブラウザで表示される画面には、続きの文面を表示させる為のボタンが用意されており、一連の文章を読み上げた淘太は、小さくため息をついてからクリックする。

 このページを作られたのは、淘太がVRS-2に飲まれるよりも前の出来事だったらしく、丁寧に桜井朝香やVRSに関する記述が並んでおり、赤い部屋がどれだけ周到にこの文章を用意してたのかを計り知れた。

 『……する事で生まれたのが私達の様なコンパイラです。

 もしかしたらこの事は既に知ってるかも知れないけれど、念の為に書かせてもらいました。

 そしてここからが本題です。

 先ほど述べた通り、私達は機械的に生まれた存在、それ故に消滅する事もあり得るけれど、逆に幾つかの手順を踏めば私達コンパイラは再びこの町に姿を現す事が出来るのです。

 私からのお願いです、この3LDKの家に住む皆さんの手で、私達を復活させてください、そのための手段も手順も、全て用意してます』

 赤い部屋がこの分を残した理由に合点がいった淘太は、画面の下の方に書かれた文面を読んで安堵し、画面の矢印をクリックしてページを進める。

 コンパイラを生み出したVRSその修理方法が表示されるのだろう、そう勝手に想像していた淘太は、画面に写された予想外な『お願い』に少しだけ変な声を上げながら眉根を寄せる。

 「……これがなんの役に経つんだか……」

 呆れから来た間の抜けた声、しかし写されが文字を見れば、誰もが淘太と似た反応を見せて首を傾げるだろう。

 なぜなら、真っ赤に染まった画面には。

 『一つ目のお願いは佐野淘太さん、あなたに対してです。

 ○○年6月24日、21時22分丁度に、芒ヶ原神社にある展望スペースで、靴を脱ぎ手すりに寄りかかり、その下に広がる崖底を身を乗り出す様に覗いてください』

 と意味不明な事が書かれていたからだ。






 「もうちょっと先かな……」

 閑静な住宅街、ちらほらと居酒屋などが並ぶ通りを、トリコロールカラーの大型バイクが走っていく。

 いつもなら常識外れな速度で走るのだが、人通りの多い昼間とあってか、今日は比較的おとなしめな速度ではある。

 しかし何せ大型バイク、しかもマフラーもレース用の物に換装しているため、無駄に大きなエンジン音を響かせるその三色の車体は、時々道を歩く人の目を不必要なレベルで集めてしまうのも事実だ。

 「よっと……」

 乗っているのはいつも通りの人物、凛だった。

 彼女は道の傍らにバイクを止めると、スタンドを立てて懐からケータイを取り出して現在地を確認する。

 「赤い部屋の遺言がこんなのとはね、まぁ面白いのなら私は構わないけど……」

 淘太の元に届いたメール、それに書かれていた『課題』は一つではなかった。

 3LDKの家に住まう住人へ、赤い部屋はそれぞれ何かしらの『課題』を送っていたのだが、この現在進行形でニート生活を送っていた凛の元へ送られたのは、とある場所に行き、そこを救えといった内容だった。

 「やっぱすぐ目の前の筈だよね……」

 『救え』と言われた訳だから、それなりに大それた場所だと思っていたが、それらしき建物は何処にも無く、あるとしたら目の前に佇む小さな蕎麦屋だけだった。

 「もしかしてあの店を救えってこと? でもどんな風に……」

 大雑把に予想を立ててはみたが、一切見当がつかない疑問。

 凛はとりあえず家に帰って考え直そうと思ったのだが、不意に子犬が鳴く様な音に気がつく。

 「とりあえずお腹すいた……」

 音の主は凛の腹の虫だった、一応人並みに顔を赤らめて辺りを覗うが、幸い近くには誰もいない事を確認してため息を吐くと、改めて自分が空腹であると実感する。

 「まぁたまにはお蕎麦も悪くないかな」

 凛はとりあえず腹の虫を黙らせる為、一度は引き返そうとした場所へゆっくりとバイクを走らせると、駐輪場にその車体を止めて店の戸を開く。

 「あのー?」

 一応店は開いている居るらしいが、人気の無い店内をめくった暖簾越しに見渡し、凛は小さく声を投げる。

 「……はーい、珍しいねぇうちにお客さんが来るなんて……」

 すると、遅れて店の奥から声が響き、腰を大きく曲げた老婆が姿を現す。

 「開いてますか?」

 「開いてるよ、好きな席座りんしゃい」

 老婆は人気が無く、やたらと散らかった店内をゆっくりと歩くと、椅子の上に置かれた新聞をどかし始める。

 口では好きな席に座れと言ってはいるが、どうやらこの席に座れという意思表示らしく。

 凛は内心呆れながらも、愛想笑いを浮かべて席に着く。

 「何にするかい?」

 老婆はテレビリモコンの下敷きになっていた手書きのメニュー表を引っ張り出すと、凛に差し出して白い割烹着をやたらと緩慢な動作で身に付ける。

 「それじゃ……天ぷらそばを一つ」

 「あいよ」

  凛は内心『この店は外れだ』などと思いつつ、メニューと一緒に渡されたお手拭きで薄く埃の積もった机を拭きながら、厨房へとゆっくり姿を消す後ろ姿を見て疑問を感じる。

 大通りを外れた場所の店には、ここの様にかろうじで店の形態を保った建物は幾つか点在する。

 恐らく人が来なくとも立地の悪さが幸いして、土地代が安い事が店舗維持のランニングコストを抑えてくれてはいる、だからさして客がこの店にお金を落とさなくとも経営を続けていける。

 大抵はそんな所だと説明がつくのだが、この店に関してはその点を鑑みてもこの店が潰れていないのは不自然と言わざるを得ない。

 そもそも今の時間は丁度昼食時だ、人がごった返す事も無いにしろ、何かしらの理由でここに集まる常連客の一人や二人は居てもおかしくないのだが……

 「これは私の部屋よりも酷い……」

 凛は店の中を見渡し、呆れや諦めにも似たため息を吐く。

 テーブル席の殆どは埃を新雪の様に纏い、比較的綺麗な席には新聞紙、そして扇風機のリモコンに中身のほとんどを吐き出し小さくしぼんだ軟膏のチューブ。

 凛が座ったカウンター席もまた、老婆が慌てて片付けたおかげで多少のスペースは開いているが、それ以外の場所は厨房を覆う壁の様にうず高く新聞紙が積まれている。

 難攻不落の城の様、リサイクル紙製の高い城壁で囲われた厨房の先でせっせと調理に勤しむ老婆の姿にため息が湧いて出る。

 自身が言えた立場では無いのだが、幾らなんでもこの店は汚すぎる、感性の違いはあれど、少なくとも飲食店を経営するには不十分な衛生環境であり、結果として客も自分一人だ。

 しかも、老婆が出会い頭ぼそりと呟いた一言からも分る通り、この状況は此処2.3日の間の出来事では無さそうだ。

 「潰れない方が不思議なお店」

 「失礼な娘やねぇ……」

 「あっ!」

 不意に呟いた言葉に、返事が返ってきて我に返る凛。

 視界を上げると、目の前には老婆が器を持って立っていた。

 「そう思うのもしょうがないさかいな……」

 老婆はカウンターに器を置き、棚の中から割り箸を一組取り出して凛へ渡す。

 少しばつが悪くなった凛は、軽く会釈してから箸を割ると、料理に箸を付けた。

 「うちは出前の店やさかい、わざわざうちまで来てくれるお客さんは少ないんよ」

 老婆はさして凛の言葉に傷付かなかったのか、それとも慣れていたのかテレビのチャンネルを切り替えながら呟く。

 この店がやっていける理由の合点が付いた。

 出前が殆どのこの店にとって、店舗自体はこの店の経営体系にさして重要な物では無かったのだ。

 だからこそこれだけ店の中が汚くとも、人が来なくともやってけた、そう合点が付いた凛は麺を器から拾い上げ、息を吹きかけて冷やす作業に移る。

 その時、不意に電話が鳴った。

 「ん? ……違うか」

 凛は口へ含もうとしていた麺を再び器に戻すと、自分のケータイを確認して音の主を再度探す。

 着信音はケータイの物では無く、部屋の奥に置かれた固定電話の子機の物だったらしく、老婆はよたよたと歩き電話に出ると、暫く申し訳なさそうな返答を繰り返したのち、受話器を置く。

 「お客さん?」

 「出前を頼むってなぁ、にしても、爺が居ないんじゃそれも無理さかい、断ったわ」

 「爺……? ああ、夫婦二人でこの店をしてるんですか?」

 「そや、うちは昔から私が料理して、爺が出前、そうやっとったんさかいな……爺がついこの間な……」

 「すみません、辛い事聞いちゃって……」

 老婆が言おうとした事の意味が分り、俯いてしまう凛。

 しかし、肝心の老婆は気分を害す事無く、寧ろ皺の浮いた眼を数回瞬きしてから口を開いた。

 「何いっとるんや? 爺は元気や、ただなぁ、この間腰壊して家の外に出ようとしないんや」

 「……はぁ」

 勝手な勘違いに顔を赤くした凛は、小さく笑って表情を誤魔化すと、麺を一口啜った。

 「まぁ、うちで働いてくれる若い子居たらたすかるんやけどなぁ……この前の電報に書かれてたような……どないした?」

 何か昔の事を思い出してか、小さく呟く老婆は器に視線を落としたまま硬直する凛に注意が引かれる。

 「どないしたんや?」

 老婆の声に合わせるように、凛の手から箸が落ち、器の淵に当たって軽やかな音を奏でる。

 凛は口元を押さえたまま、僅かに肩を震わせ、そして器の中を覗いたまま無言である。

 「お……おっ……」

 「お?」

 何かを言いたげだが、喉の奥でその言葉は詰まり、吃音症の様に単発的な音を発するだけの凛の言いたい事を予想する老婆。

 しかし、何を凛が言いたいのか予想がつかないのか、首を傾げとりあえずと落ちた箸を手渡す。

 凛は箸を受け取ると、再び麺をすすり、そのあと汁も飲み込むと目を大きく見開いてから再び硬直。

 麺を再度食べた所を見ると、その蕎麦の味に不満があった訳では無さそうだ。

 寧ろ……

 「お……美味しい……」

 「せやろ?」

 凛が驚愕したのは、料理が不味かった訳ではない。

 寧ろその逆、汚い店内からは想像が出来ないほど美味しかったのだ。

 麺自体は十割蕎麦なのだろう、口に含んだ瞬間からそば粉の香りが鼻まで抜け、喉越しは力強つそして軽やか。

 汁も鰹出汁が良く利いており、透き通った黄金色の汁は良い香りの湯気を昇らせている。

 「本当に美味しい……」

 凛自身殊更舌が肥えてる部類の人間では無い自覚がある、しかし、料理研究家なんていう肩書を持つ同居人のお陰で普段から、それなりに質の高い料理は食べ慣れている。

 そのため、この小汚く廃れた店から自身の想像を超えた味と出会えるとは思えなかったのだ。

 老婆の腕は想像を遙かに超えていた、それはこの器の中の料理だけに絞れば淘太のそれを余裕で追い抜くだろう。

 「うちはずーっと前からおんなじ味で勝負しとるさかいな、場所が場所なだけに人は来いへんけど、出前取ったお客さんからは贔屓されとるな。

 とは言うても、このまままだと今週中には暖簾もおろすけどな」

 「店締めちゃうんですか?」

 その声に怪訝な表情を浮かべる凛。

 「せや、なんせ人が来いへん、うちは出前だけで店回しとったんさかい」

 「そういや、おじいちゃんが腰壊しちゃったから出前が……」

 「せや、そやから店はもうすぐ終いや、贔屓しとったお客さんには悪いけんど、何せ私達ももう年やし、良い機会や」

 この時、赤い部屋がなぜこの店に凛を呼んだのか分った。

 『店を助けろ』その課題を、淘太や一孝では無く、頭の回転が悪いと自負する凛に掲げた理由に合点が付いた。

 この店が抱えている問題は、単に人が来ないからではない、出前が出来ない事にあるのだ。

 ならば解決策は簡単である。

 別の誰かが出前を担当すればいい、しかしこういった店の出前は大抵バイクを使う。

 つまり、車の免許だけでペーパードライバーの一孝や、そもそも免許自体持っていない淘太では無理であり、普段から大型バイクを乗り回し、二輪車の扱いに慣れている凛が適任だったのだ。

 「あの……もし出前出来る人が居たら店は閉めないですか?」

 凛はそっと呟いてみる、すると老婆は怪訝な表情を浮かべ、まるで品定めする様な表情で凛を見る。

 「そげは人おるんか?」

 「居ます、オートバイの扱いに慣れていて、都合良く、働ける場所を探している人間が」

 自身ありげに呟かれた声に老婆は目を瞬かせ、固定電話上に置かれていた紙切れを取り出し、その文面を何やら読み返す。

 「長年生きとったけんど、不思議な事もあるさかいな……」

 「そりゃそんな都合のいい人早々居ないよね」

 凛の言葉を否定すると、凛に持っていた紙を差し出し、口を開く老婆。

 「あんたタカナシリンって名前か?」

 「……? そうだけど、どうして知ってるの?」

 「それ見てみぃ」

 凛は渡された紙を開いて中身を読んでみる。

 それは電報の様で、味気ない書体の文字はこの店に働きたいと申し出る若者が現れると書かれていた。

 そしてその差出人を見て、凛はこれが誰の仕業か分った。

 「赤い部屋め……」

 「知り合いか?」

 「うん」

 「そう言うことか、なら話は早いな、ここで働きい」

 老婆は赤い部屋が送ったであろう電報により、前々から決めていたのか凛の意図を先読みして景気良く声を上げる。

 「良いんですか?」

 「構わん構わん、まぁ婆が死んだら店も終りさかい、それまでやけどな」

 老婆は明るくジョークを言うと、不意に鳴った固定電話に向かって歩き出す。

 「……ん?」

 凛は持っていた電報の最後に、妙な一文を見つけて視線を寄せる。

 そこに書かれていた一文には『忘れないように』の一文の後、『L 』とだけ印刷されていた。

 どうやらここで凛が働くと決めた事により、赤い部屋からの課題が達成されたらしい。

 もちろんこのアルファベットの意味は分らなかったが、凛は早々忘れないであろう簡単な一文字を記憶の中にしっかりと埋め込むと、先ほどよりは少しだけ温度の下がった蕎麦を啜り、舌鼓を打つ。

 「赤い部屋め……随分と手を回してたな……」

 凛は小さくため息を吐くと、店の中を見渡す。

 赤い部屋が与えた『課題』は、凛にとって有意義である事は間違いない。

 手に職も無く、日常と言う経験値を全て堕落に費やしていた彼女にとってこの事は転機であり、この出来事は赤い部屋が凛の事を心配しての行動である事は明らかだった。

 口では愚痴ってみたが、そう思うと凛の思いは赤い部屋への感謝で一杯になる。

 「はい……はい、かしこまりました」

 老婆は受話器を置くと、何か要件をメモしてたチラシを破いて凛へ差し出す。

 「何ですか?」

 「ここへよろしくな」

 老婆が渡したメモには、どこかの住所が書かれていた。

 「何がですか?」

 「出前や、やってくれるんやろ?」

 「まぁ……で何時ですか?」

 なんとなく嫌な予感がするのを感じつつ、凛は言葉を繋げると、やはり予想どおりな返事が返って来た。

 「もちろん今からや」

 「やっぱり?」

 凛は内心まためんどくさい事になった、そう思いつつも久しぶりにやって来た騒動に胸が高鳴るのを覚え。

 棚の中から老婆が取り出した割烹着を受け取ると、凛は空になった椀をカウンターに置くと立ち上がるのだった。






 普通に生きていれば後悔や憤りと言うものは幾らでも感じる事が出来る。

 そして今現在、大庭一孝という一個人を襲っている感情もそれらに分類される物だった。

 「なんで今まで気がつかなかったんだ……」

 大庭一孝という人間は漫画家である。

 しかし彼の書く漫画はどれもが人気無く、その原因は明らかだった。

 話にするネタがつまらないのだ。

 だからこそ、彼は漫画家としては半人前の烙印を押されており、日々話のネタになる出来事を探す日々に頭を悩ませる。

 しかし頭を幾ら捻ってもネタが生まれる事が無く、悶々とした日々を送っていたからこそ、目の前に転がっていた最高のネタに気がつかなかったのだ。

 「都市伝説の事をネタにすれば良かったんじゃねぇか……」

 そう、この町、緑川町の中の出来事。

 そしてこの烏合の衆を体現したような3LDKの中の出来事は、物語として十分面白いのだ。

 「赤い部屋め……早くこの事教えろよ……」

 色々愚痴っては居る彼に赤い部屋が与えた『課題』それは『この家の出来事を漫画にしろ』だった。

 そのため、言われた通り彼は今までの出来事を漫画という形で書きあげているのだが、まさかこんな形で自分に最高のネタが与えられるとは思ってもいなかった。

 だからこそ、このネタに気がつかなかった過去の自分を蹴り飛ばしたい気持ちになる。

 「あーもう!」

 一孝は愚痴りながらも書き終えた原稿を机の隅へ退けると、机の中から煙草を一本取り出して咥える。

 今まで書けた原稿の数は20枚、短期間で書いたにしてはかなり多い方だった。

 「だけど、何を思って赤い部屋はこんな事しろって言ったんだか……」

 煙草に火を付け、深く肺で吸い込んでもやっぱり疑問が解けない。

 一孝が漫画を書く事がコンパイラを再び作り出す事に繋がるとは思えないのだ。

 一応書いたか書いてないかを確認するためなのか、一応スキャニングした原稿を読みこませる為のページは用意されており。

 ここへ今回の漫画を取り込めば、ロックがかかっていたファイルを再生できるとの事だが。

 わざわざこんな手間を取らせる理由が一切分らないでいた。

 「大体こんな事させる前に、さっさとVRSを修理する方法教えろってんだ……」

 恐らく、ロックがかかっているフォルダの中には一孝が想像しているデータが入ってるのだろう。

 一孝の目の前で軽く火花を吹いて絶命した、この町の都市伝説全てを統括していた装置、それの修理方法がこの中に用意されており、わざわざこんな課題を用意する必要が無かった。

 しかし、彼がこんな課題をそれぞれに与えたのにはなんとなく想像がつく。

 赤い部屋はこの家に住む人間それぞれに課題を与えたが、恐らくその課題は、淘太、凛、一孝の三人にとって有意義な結果を生む筈だった。

 それは赤い部屋からの恩返しなのか、それとも伊達や酔狂なのかもしれないが、少なくとも事実として一孝は自身の半生で生み出した中の最高傑作を生み出そうとしている。

 「散々人を振りまわす連中だな、奴らは……」

 一孝は小さく煙を吸い込むと、ゆっくりと天井に向けて吐き出す。

 その煙がゆっくりと形を変え、そして目に見えない濃度にまで散るのを確認して、再び小さく呟く。

 「まぁ、それはそれで嫌いじゃないけどな……」

 一孝は短くなった煙草の火を灰皿に押しつけて消すと、大きく伸びをしてから書きかけの原稿を手に取り、ざっと目を通す。

 下書きの段階だが、そのページには人面犬と、それに対峙する一人の男が写されていた。

 犬夫と淘太である。

 もちろん本にするにあたって登場人物の名前はそれぞれ変えてあるが、このフィクションを売りにした物語は、細部に至るまでノンフィクションだ。

 「にしても、あんたに与えられた課題はなかなか意味不明だな? 淘太」

 一孝は、そのページに書かれた淘太をモデルにした登場人物を見て小さく呟く。

 「まぁ奴は奴、俺は俺だ、今は自分に出来る事をやるかな」

 一孝は再び大きく伸びをすると、中断していた作業に取り掛かるのだった。






 多少分りにくく伝えられていても、物事には理由があり、ある程度は想像でその目的と起きる結果を想定する事が可能だ。

 だが、今回赤い部屋が与えた課題に関しては、一切その理由が分らない。

 「大体……この坂をまた昇る事に……」

 淘太は長く続く石段を登りきると、膝の上に手を付いてから乱れた呼吸を整える。

 そこは、元々外出は好きだが体力に自信の無い淘太にとっては二度と来たくない場所だった。

 芒ヶ原神社、そう呼ばれているこの場所に、淘太は前にも来た事がある。

 その時は一孝と交互にキサラを抱いていた為かなり疲れた記憶があったが、軽い装備で一人ここに来たとしても、襲い掛かる疲労感はその時と大差無い。

 「とりあえず……時間には間に合ったか……」

 淘太は付けていた腕時計で時間を確認すると、一つだけため息をついてから辺りを見回す。

 赤い部屋が提示した場所は、間違いなくここであり、目的の行動を取るための場所も視線の中にあった。

 それは高台という立地を生かした簡素な展望台だ。

 一応安全の為に手すりは付いているが、もし落ちれば命は無いであろう切り立った崖の上からは緑川町の全景が見え、絶景では無いにしろ、それなりに綺麗な景色ではあった。

 だが今回淘太がここへやってきたのは景色を楽しむためではない。

 なぜなら、赤い部屋から与えられた課題は『芒ヶ原神社にある展望スペースで、靴を脱ぎ手すりに寄りかかり、その下に広がる崖底を身を乗り出す様に覗いてください』だったからだ。

 しかもその一文には事細やかに日時までも決められていた為、淘太は幾つかの仕事のスケジュールをずらし、息を切らせながら此処にやってきた。

 「とりあえず……靴を脱いで……」

 淘太は呼吸が落ち着いたのか、展望台まで歩み寄ると靴を脱ぐ。

 「そして手すりに……っと……」

 指示通り手すりに寄りかかり、崖底を見下ろしてみるが、さして特徴的な物は見当たらない。

 しかしそれもその筈だ、この場所から見える景色に何かヒントが隠されているのなら、わざわざ靴を脱がせる必要が無いからだ。

 じゃあ何の為にこの場所でこんな事をさせているのか、主観的から客観的思考に切り替えて物思いに耽って見ると、ふと妙な事が考え付く。

 「これって……傍から見たら自殺志願者でしょ……」

 口に出して見て再度思う。

 落ちたら命が危ない崖に身を乗り出す自分は傍から見たら自殺志願者のそれだ、しかも都合が良いのか悪いのか、自身は靴まで丁寧に脱いでいる。

 こんな光景を見たら、大抵の人間なら淘太が自殺をしようとしているように見ても間違いないだろう。

 「でも、それはそれとして俺が自殺志願者に見えた所で、赤い部屋と何の関係が……」

 ぼそりと呟いたとき、淘太の背中に強い衝撃が走る。

 どうやら誰かが後ろから掴みかかかったらしい、更にその衝撃の主は、淘太の肩を力強く掴むと強引に手すりから引き剥がして仰向けに倒れさせる。

 「……うぁ!」

 「ダメです!!」

 一気に動く視界に目を回す淘太に、男の声がかけられる。

 年齢はもう還暦間近なのだろう、遠慮がちな口調とは裏腹に、しゃがれた声は貫録がありそして力強い。

 砂利に転び、僅かに痛む背中をさすりながら起き上った淘太に掛けられたのは、再び同じ声の主だった。

 「何を考えているのですか!!」

 「……いや……ちょっと訳あって……」

 「生きていれば誰もが何かしら抱えます、だけど自ら命を落とすなんて事は……」

 「いや……別に自殺する気じゃ……」

 そう答えながら淘太は声の主を覗う。

 傍迷惑にも淘太を自殺志願者だと勘違いし、傍迷惑に力技で助けてくれた相手はスーツを着込んでおり、サラリーマンの類だと分った。

 声からも分る通り、淘太の知る人物では無い。

 ここは簡単に適当な事情を話せば何とかなるだろう、適当にあしらえば良いと思っていたのだが、その人物の顔を見て淘太は息を飲み硬直する。

 「……!? あなたは……」

 淘太はその人物の顔に見覚えがあった。

 自身の記憶よりも若干老けてはいたが、その人物の顔を忘れる訳が無い。

 浅黒く焼けた肌に、しっかりとセットされた髪、そして僅かにやつれた様にも見える表情。

 「あの時の……」

 その人物は、淘太の記憶で忘れられる事の無い出来事。

 瀬谷香夜子が命を落とした晩、彼女が命を落とした場所で見た人物だった。






 別れとは唐突な物だ。

 あまりにも突然であり、一切の前触れも相手はどこかへ消えてしまう。

 それはボトルに入った酒の様なものだ。

 ふとした拍子にボトルを傾け中身が無い事に気付くように、他人を意識した瞬間その人物との関係が終わっている事に気が付く。

 ボトルが空になる瞬間は気がつかない物だ、最後の一滴を誰が飲み干したにしろ、ボトルを傾けるその瞬間の記憶は覚えていなく。

 別れの瞬間すら跡形も無く消え、相手が欠損した現実が、一拍置いて別れがあった事を伝えてくれる。

 再び出会う瞬間が無いと悟り、別れを追体験する。

 別れとはそんなものだ、遅れてやってくる事後報告の様に、何も言わずに気が付いた時には結果だけが淡々と状況説明をする。

 もちろん例外はあれど、淘太自身もこの様な別れを経験している。

 それは今から数年前、自身にとっての恩人が何かの気まぐれで連れて行ってくれた海辺の公園で起きた出来事だ。

 人気の無くなった公園、淘太は何か胸騒ぎを覚えながら辺りを見回し、そして歩みを進めていた。

 探している相手は酷く気まぐれであり、好奇心旺盛だ。

 だからこそ視認性に乏しい夜の公園の中でも、何か興味を引くものがあればそれに手を引かれ、道草を食ってしまう。

 それだけなら良いのだが、彼女は恐らく今現在一人だ。

 夜の公園に不審者が多いと言えど、瀬谷香夜子と言う一個人がそれらに出会う可能性も低く、仮に暴行目的で彼女に襲いかかった所で、半べそかきながらこの公園から一目散に逃げ出すのは自慢げにガッツポーズを取る彼女では無く、本人が『護身術の成れの果て』などと呼ぶ謎の格闘術により、完膚なきまでにプライドと全身を傷つけた不審者なのは火を見るよりも明らかなのだが、それでも淘太は胸騒ぎを抑える事が出来ないでいた。

 その理由は数年経った今でも分らないで居たのだが。

 虫の知らせと呼ばれる物があるのなら、この時感じた感情がそれなのだろうとつくづく感じる。

 なぜなら、この時感じた淘太の嫌な予感は、不幸にも的中していたからだ。

 立ち入り禁止の崖の下、真っ赤なカーペットの下で寝息も立てずに眠った彼女は、物言わずに現実を突き付けてくれた。

 今となっては過去の出来事であり、いまだにその経験を引っ張るのは馬鹿げていると自分でも思いはするのだが、嫌な記憶と言うのはふとした拍子に脳裏を掠める。

 とはいえ、ここしばらくの出来事、主に都市伝説と呼んでいた友人が淘太自信を肯定し、この嫌な記憶すら過去の出来事だと認識させてくれたお陰で昔ほど胸を痛める事は無い。

 だが、それでも分らない事があった。

 それは淘太が冷たくなった彼女を見つける前、あの公園で見た男だ。

 夜の闇に溶け込む様な濃い色使いのスーツ、そして真っ青になった顔で何かから逃げるように公園を駆け抜けた一人の男。

 忘れられない記憶の一部であったためか、その人間の顔は鮮明に覚えており、淘太はこの人物と一度会話をしてみたいと思っていた。

 当初の理由は単に復讐心だ。

 自信にとっての恩人、その人物との別れの切っ掛けを作ったかもしれ無いその人物へ、淘太は根拠も無く怒りを覚えていたのだ。

 だが、これらの感情も香夜子の死を肯定し、胸の奥へしまう事が出来る様になったお陰で徐々に薄れ、男への復讐心は次第に姿を変え、別の感情に変化していった。

 それは疑問だった。

 香夜子の死と直接的な関係は無いにしろ、あの場所に居たのなら恐らくあの男は彼女の死に関する情報を持っている可能性が非常に高く。

 もしそうなら、直接会ってあの時の出来事の詳細を手に入れる事が可能だからだ。

 その為、男に関する情報を持ち合わせていなくとも、淘太はあの男の事を忘れる事が出来なかった。

 だからこそ、淘太は驚愕に目を見開き、直ぐに言葉が出てこなかった。

 「あなたは……あの時の……」

 そこまで呟かれた淘太の言葉に、僅かに首を傾げる男。

 「あれ? もしかしてあなたはテレビで……」

 男の言った言葉の意味は容易に理解出来た。

 淘太は一応はテレビでも見る事のある人物だ、もちろん今は若干人気が下火になっているとはいえ、淘太の顔を知ってる人は多いだろう。

 「……ええ……」

 「ダメです! 幾ら人気が途絶えて、今は見向きもしないしょぼい芸人になってしまったとは言え、自ら命を落としてはいけません!

 たとえ他人から『あーそう言えばそう言う人居たねぇ、一発屋だったけど』なんて酷い事言われたとしても、それ位で命を絶っては!!」

 「そこまで言わなくても……」

 淘太の痛いところを、言った本人すら気付いていない鋭い針でめった刺しにされ、プライドを蜂の巣にされた淘太は軽い頭痛を浮かべながら呟く。

 「でも大丈夫なんです、今は他人から見向きもされない時の人になって、途方に暮れていても、目を凝らせば幾らでも道は広がっているんです!

 諦めたらそこで負けなんです!!」

 「いや……だから俺は死ぬ気なんて更々無いですよ」

 淘太は自身の肩を力任せに掴み、論点を間違えた説教を熱弁する男に向け、小さく呟く。

 「確かにあの光景を見たら俺が自殺志願者に見えたかもしれないですけど、俺は死ぬ気なんてさらさらありません、ちょっと友達に頼まれてこの場所にやってきて、靴を脱いであんなポーズをしてただけです」

 「そんな適当な事を言って! 私がどこかへ行った隙に飛び降りる気じゃ……!」

 「メールには何て書かれていたのですか?」

 男の言葉の後半に被せられた淘太の言葉、それに男は眉根を寄せて反応する。

 どうやら淘太の言葉の意味を理解したのだろう。

 淘太は男の顔を見た瞬間、赤い部屋がなぜこんな課題を与えたのか分っていた。

 人の認識から生まれた彼らは、元々人の記憶や感情を共有するために作られた為、淘太の過去を知っていても不自然では無く、淘太があの出来事を未だに何かしらの形で根に持っている事も感じていた筈だからだ。

 だからこそ、何かしらの方法でこの男を探し出し、そしてこの場で淘太と対面させた。

 となれば、男の元へ赤い部屋からメールが届いた事位容易に想像できる。

 「メール?」

 「俺に自殺志願者の真似事をさせたのと、あなたに此処へ来るように指示した奴は同一人物ですしね」

 メールが届いたのは図星だったのだろう、男は頭の中で暴れる混乱に目を回したのか、目頭に手をやって深くため息をつく。

 「とはいえ……あなたと再会出来るとは思っていもいませんでした」

 淘太は深くため息をつくと、立ち上がり服を叩いてから男に手を伸ばす。

 「あの……あなたは何を? 仕事柄色々な人とはお話しますけど、芸能人とは……」

 「まぁ話しはした事ないですね、俺もあなたの名前も声も知りません、ただ知ってるのはあなたの顔だけです」

 淘太の手を掴み、立ち上がる男に淘太はケータイを差し出す。

 「なんで俺があなたと会いたかったのか説明する前に、彼女を知っているか確認する必要がありますね。

 彼女の顔に心当たりは?」

 「まるで警察の様ですね……っえ!」

 事態が理解できていない男は、小さく呟くと目を見開き硬直する。

 淘太のケータイに表示されていたのは、瀬谷香夜子の顔だった。

 彼女が生前、淘太に撮影しろと急かしてから撮られた一枚の画像。

 子供の様に観光名所の展望台で両手を広げ、不可解なポーズを取る香夜子の笑顔、それをを見てから男が息を飲む所を見ると、淘太の予想は的中していたらしい。

 男は、命を落とす直前の香夜子を知っている。

 「そこのベンチに座って、ちょっとお話しませんか?」

 淘太は何かを確信したのか、キサラが生まれた簡素なベンチを指差し、小さく口を開いた。

 その表情は複雑で、怒っているようにも、安堵しているようにも捉えられる淘太の表情に、男は頷きベンチへと足を進めるのだった。






 「か……完成……し、た……」

 一孝は背もたれに体重を掛けると、自身が先ほど完成させた原稿を手に取り、その内容をチェックする。

 デジタルで漫画を描くのが一般的になりつつある昨今、一孝の様にGペンに烏口と昔ながらの道具を使う漫画家は徐々に淘汰されているのだが。

 そんな背景を余所に一孝はアナログ原稿にこだわっていた。

 どれだけ古臭い技術だろうと、いつかはこの業界に食らいつき、自身の技術を世に知らしめる。

 そう固く誓って手に取ったペン軸はくしゃくしゃに丸められたティッシュの上、静かに横たえられている。

 一孝はこの瞬間が好きだ。

 インクの臭い、そして利き腕を中心に支配する心地よい疲労感。

 それらを全身で受け止め、完成した原稿を読み返す瞬間が好きだからこそ、自身の腕が認められなくともこの仕事を続けられた。

 「やっとか……」

 一孝は原稿をスキャナに掛ける作業に移ると、引き出しの中から一本煙草を取り出し、火を付ける。

 「いや、むしろ速度だけなら一番早いか?」

 夢中になって作業していた為時間の概念すら怪しくなってはいたが、事実として自身の執筆速度は異常なレベルだった。

 元々一孝は原稿を書き上げる速度は遅い部類であり、やっと契約が出来た出版社との仕事に追いつけず、原稿を落としてしまう事もしばしあった。

 だが、彼が本を書くのが遅い理由は、アナログで絵を描いているのではない。

 彼が漫画を描く際、最も神経を使い最も苦手とする事は、物語を考える事だった、物語に伏線を張りそれを回収し、魅力のある世界観を組み立てる。

 ジャンルや手段に違いはあれど、物語を作る上で最も重要とされるそれらの技術に乏しい一孝にとって、それは最も苦手な事であり、一孝にとって最大の弱点だった。

 しかし今回は違う、彼が書いているのはフィクションでは無くノンフィクションだ。

 だからこそ彼はこの物語を描き上げるにあたって、さして苦痛を感じず、寧ろ脳内麻薬に溺れる様な快楽すら感じていた。

 もちろん赤い部屋からの課題であったため、作業自体を急いだのは事実とは言え、彼が手に取った原稿に手抜きの類は一切無く。

 寧ろ自画自賛出来る高いレベルの作品だった。

 「にしても……赤い部屋め、いいネタあるならもったいぶるなよな……」

 一孝は愚痴りつつも、完成した原稿を全てスキャニングさせると、深く吸った煙を吐き出し、デジタル化された原稿を圧縮。

 そして赤い部屋が指定したページへ送る。

 「大体……原稿が出来た所で、赤い部屋は何に使う気だ」

 ぶつくさと呟く一孝は、パソコンの画面にメール受信の通知が表示された事に気が付き、メーラーを起動させる。

 あまり使う事の無い自身のメールアカウント、そこに送られるメールと言えば迷惑メールの類が殆どであり。

 飽きもせずアダルトサイトのリンクを提示する、ある種のピンク色のデータを削除しようと思っていたのだが、今回は違った。

 「ん? っちょっとまて……俺は原稿を投稿した記憶は……」

 ノートパソコンの液晶に表示されたメールの差出人は、一孝の知る中では最も名の知れた出版社の物だった。

 「『カミヤマ文庫漫画大賞 作品応募完了のお知らせ』……って、おい赤い部屋ァ!!!!」

 メールに書かれていたのは、自身の描いた漫画の応募が完了したとの知らせだった。

 どうやら赤い部屋は予め仕込まれたプログラムにより、一孝が描いた漫画を勝手に有名出版社へ応募したらしい。

 自動で送られた応募完了の知らせを知り、思わず静かな部屋で叫んでしまう。

 「てぇめ何勝手に!!」

 続けざまに叫んだ声に合わせてか、更にメールが一通届く。

 それは見た事の無いアドレスだったが、差出人に書かれていた名前を見て誰が送ったのか分ると更に絶叫、そしてゆっくりと鼻から息を吸い、気分を落ち着かせて文面を確認。

 「……で? 赤い部屋、俺にこれだけさせておきながら、教えてくれるのはその一文字か?」

 赤い部屋から送られたメール。

 その本文には『D』の一文字だけが書かれており、それ以外には何も書かれていなかった。

 しかし、そのメールが届いたと言う事は、恐らく課題が達成されたとの事だろう。

 一孝は呆れ、そして深くため息をつくと、仕事終わりの一服に勤しむのだった。






 「今となっては昔の事なんですけどね、昔私が経営してた会社は日ごろから続いていた不景気からくる経営不振の為、倒産する事になったんですよ。

 もちろん私の為に汗水流してくれた社員には退職金も用意し、法的な手続きも全部終わらせたんで店を閉める事になんのトラブルもありませんでした」

 淘太の説明を聞き終えると、男は俯き、小さな声で語り始めた。

 それは勿論淘太の知ることの無い事であり、淘太自身にとっては一切の関係の無い、他人の昔話。

 だが、その出来事が瀬谷香夜子と関係しているのか、男は俯いたまま小さく言葉を続ける。

 「ですけどね……

 店を経営していた私はどうなると思いますか? 小さい会社とは言っても、私はあの会社に全てを捧げるつもりでいました。

 しかし会社は倒産、私は職を無くしました。

 蓄えていた貯金は全て会社の借金返済と社員の退職金に消え、私自身の元には殆ど残らず、家族を養う事すら出来ない金額でした。

 もちろん私は新しく仕事を始めればいい、だけどそうするにも、私はもうこの年です。

 どこかの会社に就職するにも、そう簡単な事ではありません」

 こんな事良くあると言ってしまえばそれまでだが、事態の中心に居たであろう彼にとっては災難などと簡単に処理する事は不可能だ。

 企業において、ある程度年食った人間が大きな顔を出来るのは、長い経験から得られたノウハウのお陰だが。

 職場を変えればそうはいかない。

 経験も浅く、身体的なレスポンスも落ち、彼の様な人間は不必要な人材に早変わりする。

 言ってしまえば仕事が遅い癖に無駄にプライドが高い『役立たず』な人間なのだ。

 彼もその事くらい自覚していたのだろう。

 そうなると出来る仕事は日雇いのバイト位だ。

 もちろん一人暮らしならそれで生計を立てる事も可能だが、彼は一人では無かった。

 中学に上がる娘と、小学4年生の息子、そして愛する妻が居た。

 家族を守るためならどんな事でも出来る、そうは思っていたが、いざ愛する家族に辛い生活を強いる必要が出てくるとなると、話は変わってくる。

 自信が守らないといけない家族は、純粋に重荷に早変わりした。

 それは資金面でも精神面でも彼に重くのしかかり、そして彼を苦しめ眠れない日々を生んだ。

 そうなると次に取る行動は自然と検討が付く。

 「私は家族を守りたかった、とはいえそれも無理です。

 幾ら面接をやっても、私を雇ってくれる会社も無く、私は面接から帰る道すがら自殺を決意しました」

 「それであの場所に」

 淘太は男の懺悔に頷くと、懐から煙草を取り出して咥える。

 「そうです、あなたも知ってるあの公園の高台、あそこから落ちれば苦しむ事も無く、命を落とす事も出来る。

 今思うと馬鹿げてる考えですが、私はそう思いあの晩あの公園のフェンスを昇り、崖の上に靴を脱ぎ深呼吸しました。

 あと一歩足を踏み出せばこんな苦痛と縁を切れる、そう思った矢先。

 私に声を掛ける一人の女性が居ました」

 「香夜子さんですね……」

 「ええ……その通りです」

 やはり淘太の読みは正しかった、香夜子はこの男と面識がある。

 しかし、予想と反していた事と言えば、死のうとしてたのは香夜子では無くこの男だった。

 「あの時の私を見たら、容易に何をしようとしてたのか分った筈です。

 ですが彼女は、私の顔を見るなり、何故か小さく笑い、焦りもせずに世間話を始めました」






 男が知る香夜子は、フェンス越しにあと一歩踏み出せば崖底へ落ちるであろうその姿を見るや、少しだけ驚いた素振りを見せ小さく猫の様に笑うと。

 何を思ったのか『カレーは好きか』と尋ねた。

 彼女が何を考えていたのか、何を感じたのか今となっては分らないが、あまりにも突飛な質問に男は驚き、間抜けな声を上げたのは覚えている。

 どうせ『早まるな』『まだやり直せる』なんて安い言葉並べるだろうと思っていたものだから、男はぽかんと口を開けたまま、あと一歩の歩みを止めた。

 すると香夜子は、意味が分らずにいた男の元へ、彼女はフェンスを乗り越えてやってきた。

 そしてまた同じ質問を投げかける『カレーは好きか?』と。

 「ええ……」

 「そう! 良かった!」

 男の言葉に香夜子は再び小さく笑うと、男の元へ更に歩みを進めていった。

 そして香夜子は次の質問を投げかけた。

 「それじゃあさ、仮にあなたがカレーを作ろうと食材を切って、お鍋に入れて、お湯を注いで煮込んでいたとするでしょ?

 でもその時ふと大事な事を思い出すの、それは何でしょう?」

 「ルーが無かった」

 「正解! それじゃあ、あなたがその状況に出くわしたら次は何をするかな?」

 捉えようによっては、小馬鹿にしているようにも見てとれる香夜子の態度。

 だが、まるで子供とのやり取りの様なくだらない会話だったからこそ、男は脊髄反射で彼女の質問に答えていた。

 「車に乗り、最寄りのスーパーへ向かうとか」

 「それもいいけど、残念! あなたが日頃から使っている車は、突然空から落っこちた隕石によって木っ端微塵になりました!」

 「それじゃ自転車を使って……」

 「残念! あなたの自転車は突然地底人が現れ、どこかへ持って行きました」

 「あなた私を馬鹿にしているのですか?」

 無茶苦茶な香夜子の言動が僅かに癪に障った男は、軽蔑の表情を浮かべて香夜子に語りかける。

 しかし、肝心の香夜子は一切動じないで言葉を繋いだ。

 「もちろん歩いて行くのもダメ! あなたの家の周りは、突然起きた地殻変動により外界から隔絶されてしまいました。

 はい! 此処まで来たらあなたは家にある物で晩御飯を用意しないといけません」

 「あなた私が何をしようとしてるのか、分ってますよね! どういうつもりですか!」

 「おっちゃん職を無くしたんでしょ? で、再就職するにも良い職場が見つからず、そもそも雇ってくれる企業も無く、どうしようもないからこの公園で飛び降りちゃおう、って言うのが私の予想だけど合ってる? いや合ってるね」

 男の罵声にも一切動じず、男が抱えていた問題を容易に予想してから自身ありげに腕組みをした。

 少ない状況の中、神がかり的な推理力で男の内面を見抜いた香夜子、しかしその事を驕る事無く笑う。

 「家から出る事が出来ない、家にあるものだけで、鍋で煮込まれる食材を料理にしなくちゃいけない、さぁどうする?

 ヒントは戸棚の中、もう此処までヒント出したんだからわかるね?」

 「……それじゃシチューを……」

 どれだけ罵声をぶつけても、相手が折れないと悟った男は、彼女の楽しげな言葉に釣られて口を開いた。

 「おしい! いいえ残念、さっきまで戸棚にシチューのルーもあったんだけど、突然吹いた風に乗って、ルーはどこかへ飛んで行きました。

 さぁどうする?」

 「それなら、ハヤシラ……」

 「ハヤシライスのルーは私が食べちゃったから無理!

 おしいおしい、だけどまだ大丈夫! 戸棚の中には和風調味料各種がストックされています。

 さぁどうする?」

 意味不明かつ一方的ななぞなぞ、もしかしたら彼女は予め警察に通報しており、助けが来るまでの時間稼ぎをしている可能性はあったが。

 それならわざわざこんな不可解な会話をする必要が無い。

 今まで他人が自分にそうしてきたように、薄っぺらく前向きな言葉を述べればいいのだ。

 「それでは、肉じゃがでも……」

 どうせまた適当な理由でその選択を無しにするのだろう。

 そう思ってた答えは威勢のいい歓喜の声にかき消された。

 「凄い! その手があったね。

 まあ、しらたきとかインゲン豆とか色々足りないけれど、ちゃんとした料理になったじゃん」

 「あなたがそうさせたからです」

 「んーまぁ確かにそうかも、あなたはカレーを食べたかったのに、私は色々な策を講じて妨害をしたね。

 やりたい事は分ってるのに、全部妨害されて、思いもよらない結果に行き着いて。

 でもさ、肉じゃがも美味しいでしょ?

 私は好き、特に同居人が作ってくれるやつはね、冷蔵庫の中にある余った野菜でぱぱぱって作っちゃてさ。

 簡単に作る癖にこれがまた美味しいんだ」

 同居人と呼ぶ人間を思い出し、まるで自慢する様な口調で話す香夜子を見て、小さく男はため息をついた。

 「それで、あなたは何が言いたいのですか?」

 「そう言う事だよ」

 薄い癖毛を風に揺らし、軽く舌を出して笑う香夜子。

 「どういった……」

 「だから、人生何が起きるか分らないってこと。

 自分がやらかすのか、それとも他人に足を引っ張られるかとか別にしてさ。

 やりたい事があるのにそこに向かう道は全部寸断されて。

 しょうがないと別の方向に進路を変えてもさ、またその先にも大きな穴が空てて。

 散々目線を変えて、立ち位置を変えて。

 やっとたどり着いた足場も、色々な物が足りないちんけな場所でさ。

 此処じゃない、これじゃ無いって幾ら思っても、足りないものは足りないからずっとずっと辛い思いをしたりしてさ」

 そこまで聞き、持っていた懐中電灯を地面へ置いた相手が、何を言おうとしてたのか理解する。

 ゆっくりと歩みを進め、男の傍、崖の淵に足を掛け眼下に広がる景色を見てから、更に言葉を続けた。

 「でもさ、足りなくて良いじゃん。

 第一希望じゃ無くて良いじゃん。

 どんな環境でも、楽しくやろうと思えばいくらでも楽しめる物なの。

 どれだけ自分を取り囲む状況が理不尽でも、その理不尽さ加減を楽しもうよ」

 彼女がこれまでに何を抱えてきたのは分らない。

 少なくとも傍目からは何不自由ない生活を送り、明るく笑う彼女は子供の様に幼い笑みを浮かべる。

 「だから楽しもうよ!」

 その声に、男はなぜか肩の荷が下りるのを感じ、崖から遠ざかり始める。

 これから先、自身の生活が元通りと言う訳では無い事位分ってる。

 何にしても慣れない仕事を始め、自身より年下の部下に顎で使われるかもしれない。

 家族に迷惑を掛けるかも知れない。

 だからこそ、彼女は『理不尽を楽しめ』と言ったのだ。

 一見ネガティブな言葉に聞こえるが、恐らくは変化を楽しみ、自己嫌悪を無くすために自身が成長しろと言う事なのだろう。

 プライドも捨てで地位も捨て、一からやり直せば何かしら新しいものが見えてくると伝えたいのだろう。

 「それでは、私も理不尽さ加減を楽しみますかね」

 男は軽くなった心から、本心を述べる、それを聞いた香夜子は空に浮いた綺麗な月を見て、ぼそりと呟いた。

 「まぁ、この話は淘太にも言いたい事なんだけどね……」

 「トウタ? お友達ですか?」

 「まぁそんな所、さっき話した同居人なんだけどさ、まぁ面白い奴なんだよね……」

 その瞬間、香夜子が足場にしていた場所が崩れた。

 安全の為に柵がある事を鑑みれば当然ではあるのだが、その瞬間はあまりにも突然であり、柔らかいビスケットが崩れるように崩壊した足場は、香夜子を飲み込み一瞬にしてその姿を見えなくさせる。

 「っ!!」

 一瞬何が起きたのか分らずに立ちすくむ男だったが、瞬時に状況を理解して崖下を覗き込む。

 崖の隙間から姿を覗かせた、鋭い岩に服を引っかけ、宙吊でぎりぎり危機を免れた香夜子の姿が見えた。

 「だ! 大丈夫ですか!」

 「……無理」

 動かなければ暫くは大丈夫だろう、それなら救急隊を今直ぐに呼べばなんとかなるとの判断を、瞬時にはねのける香夜子。

 それもその筈だ、彼女は今自身では身動きが取れない状態であり、命綱になっていた彼女の服は裂け目を徐々に広げ、彼女を崖底に落とすまでの秒読みを始めていた。

 かといって、男が手を伸ばすにも距離が離れすぎているため、手が届かない。

 「今救急隊を……」

 「やめて!」

 香夜子は男の提案をはねのけると、深く深呼吸してから言葉を続けた。

 「もう無理、状況を見たら分るでしょ。

 だからあなたは逃げて」

 「逃げる!? どうして!?」

 「私一人なら、事故か自殺に見えるけど、おっちゃんが居たらそうはいかないでしょ?

 あなたには殺人の容疑がかけられるかも知れない、法廷でその容疑が晴れたとしても。

 周りはあなたに不信感を抱く、そしたら……後は分るでしょ?」

 香夜子の声に合わせるように、不快な音を立て命綱は裂かれていく。

 それなのに彼女は状況を冷静に分析し、男を自身から遠ざけていたのだ。

 「そんな……」

 「良いから行って! そして今日の事は全部忘れて」

 香夜子は半ば悲鳴を上げるように叫んだ。

 「何言ってるんですか!」

 頭上からは断固として香夜子の提案を蹴り倒す男の声が響くが、だからと言ってこれから先の事態を変える事は到底不可能だ。

 だからこそ香夜子は腹をくくり、瞳を閉じてその時を待つ。

 しかし、頭の中で一つの思いが湧き、小さく言葉にしてみるのだった。

 「『私の人生は素晴らしい物だった』っかあ……確かに文句は無いけど……」

 刹那、服が完全に裂け、香夜子は暗い崖の下に飲み込まれた。






 全てを聞き終えた後、淘太は鼻から深く息を吐き出し、口を開いた。

 「そういう事か……」

 「ええ、それから私は彼女の言葉を実行し、生活環境を全て変え、今はこんな小さな町で一人単身赴任ですよ」

 あの日の出来事を全て知った所で、香夜子が生き返る訳では無い。

 しかし、自身がどうしても知りたかった事を知り、頭の中でばらばらになっていた欠片が一つに纏まるのを感じた淘太は、煙草を加え火を点けた。

 「それで……あなたは今幸せですか?」

 深く吐いた煙と共に紡がれた淘太の言葉、それを聞いた男は、数回目を瞬かせた後、強くは無いがはっきりとした声で答えた。

 「ええ、私は今幸せです」

 一切の迷いの無い言葉、それは本心から生まれたのだろう。

 だからこそ、淘太はその言葉を聞き安心する。

 「ならよかったです、これはもともと彼女の持物だったんですけど、この羽の意味分りますか?」

 淘太は先ほど使ったオイルライターを男へ差し出すと、大きく刻まれた鳥の羽をモチーフにした柄を指差す。

 「羽、ですか?」

 「ええ、『自由の羽』って彼女は呼んでました。

 誰かが抱えた重荷を取り払い、自由を与えるんだって彼女は良く口にしてたんです。

 だから俺は安心しました、彼女は最後の最後まで、自身のやりたい事をやって天国行けた筈だから」

 口に出し、そして淘太も実感する。

 香夜子は自分にもその羽を授けていた。

 ただ、使い方が分らず、いつまでも死んだ香夜子の事を考え、引きずっていた。

 「俺も、そろそろ……」

 淘太は立ちあがると、再び煙草を大きく吸い込みライターを受け取る。

 いつまでも過去の出来事を引きずってはいけない、後悔しないように生きるにはほんの少しだけ先を見るべきだ。

 つま先よりも少しだけ先、変化に富んだ未来を見て、目を回しながら人生を楽しむ。

 「それも、自由の羽と言う訳ですか?」

 男の問いに、淘太は頷き反芻する。

 「『自由の羽』か……口に出してみると本当恥ずかしい言葉ですね」

 何故かはわからない。

 不意に心が軽くなったからか、妙に自身で呟いた言葉をおかしく思い。

 数年ぶりか、心の底から湧いて出た感情に大きく笑う。

 「あの? どうしたんですか?」

 男が心配するがそれすらおかしく思えてしまう。

 過去の事を引きずりいつまでもうじうじしていた自分が可笑しかった。

 そんな事で笑ってしまう自分が可笑しかった

 あまりにも笑いすぎたため、腹痛すら感じるが、それでも数年ぶりに襲いかかった笑いは収まらず、自身でもらしくないと思いながら淘太はその感情に身を任せるのだった。






 「それで、まず状況を整理しようか」

 一孝は夕食を終え、食器がかたずけられた食卓についたまま、状況整理を集めた。

 「凛、お前のその格好はなんだ?」

 「蕎麦屋!」

 凛は似合わない割烹着姿のままフルフェイスのヘルメットを被り、何故か仁王立ちでテレビの傍に立っている。

 「んで? 課題は?」

 「成功したよ、えっとね……なんだったけ……そうだ『L』だ」

 凛はヘルメットを外すと、持っていたメモ書きを一孝に差し出す。

 「それで淘太、お前の課題は何だったんだ?」

 「なんと説明すればいいのか……とりあえず自殺ごっこからのスーパー対談って感じでしょか?」

 「意味分からねぇよ!」

 頭をぼりぼりと掻く淘太に噛みつくようにつっこみを入れた一孝は、ここでこの話題を掘り下げても無意味だと悟り、話を進める。

 「とりあえず、課題は成功したのか?」

 「それは勿論ですよ『K』です」

 淘太は昼間の男から別れ際に伝えられた英単語を思い出し、自慢げに答えた。

 「またアルファベット一文字かよ……」

 「そう言うオオバカは?」

 「オオバカじゃない!! 大庭一孝だ!!」

 一応凛の言葉に訂正を入れると、一孝は僅かばかりな頭痛にうめきながら、続きを話した。

 「漫画を描けと言われたから、漫画描いた、んで成功。

 もらったパスワードは『D』だ」

 「『L』『K』『D』……この三つの組み合わせだと言う事は間違いないとして、順番が良くわかりませんね」

 「まぁ適当に打ち込めばどこかでヒットするだろ」

 一孝は出鱈目な順で三度キーを叩き、エンターを押す。

 しかし案の定打ちこまれた順番は間違いだったらしく、無機質な電子音の後、画面には素人には理解すら出来ないエラーコードが表示された。

 「間違いか……んじゃこっちで」

 一孝はエスケープキーを叩き、画面を戻すと再び文字を入力。

 だがその文字順も間違いだったらしく、同じ結果に行き着く。

 「順番なんて言っても、3×2×1……つまり6通りしかないんだから簡単にヒットすると思ってたんだけどな」

 一孝はぶつくさ呟きながら、別の順番を試すが。

 淘太は少し嫌な予感を感じていた。

 もしこのパスワードが文字列の順番が重要なら、赤い部屋は何かしらの形で正しい順番を伝える筈であり、こんな手の込んだ真似をする彼が、わざわざ総当たりなどという非合理的な行動を要求するとは思えない。

 その事を考えると、もう一つ嫌な予感がする。

 そんな彼のやる事だ、もしこのパスワードに順番が関係するのなら、恐らくはこの三つのアルファベットを一目見ただけで、この家の住人なら何かしらピンとくる組み合わせが分るように、アルファベットを選ぶ筈だ。

 しかし。

 「LKD……DLK、DKL……おかしい……」

 淘太にはその単語が一切分らないでいた。

 恐らく凛もその事に気がついたのか、手の平をメモ帳代わりに指でなぞり、幾つかの単語の組み合わせを試しているが。

 途中で首を傾げると暑そうなヘルメットを外し、テーブルの隅へ置いた。

 「さぁどれだ……残るはDKLかLKD……」

 一孝は焦る気持ちで『DKL』と入力、しかし結果は同じだった。

 「おかしい……いや、足りない……何かが」

 淘太の脳裏を一つの可能性が掠めた。

 もしかしたらアルファベットが一つ足りないのでは。

 それが何かは不明だが、恐らくもうひと文字足すだけでこのクイズの答えが分るのではないか。

 そうは思ってみるが、もうひと文字が何なのか検討もつかない、もしかしたら課題が完全に達成されていなかった為に、人文字足りないのではとも考えるが、幾ら思い返しても自身の行動にミスがあったとは思えず。

 文字が足りないと言う可能性は低いと考えるのだが。

 電子音とエラーコードを吐くパソコンが、淘太の推理が正しい事を証明した。

 「おい……ちょっと待って、全部試しただろ」

 一孝は一から単語の組み合わせを試し始めるが、淘太が黙って彼を制する。

 「なんだ淘太」

 「大庭さん、無理ですよ」

 「はぁ?」

 手を止め、喉を鳴らす一孝。

 「俺の予想だけど、多分パスワードは3文字じゃない、4文字です」

 淘太は静かに言うと、意味不明なコードを吐いたままのパソコンを見つめ、深くため息をするのだった。

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