コンパイラ

 彼らの住居は良くある一軒家だった。

 一階にはリビングダイニング、そして広いキッチンと6畳間が一つ、二階には洋室2部屋と物置、そして少し大きめのバルコニー、近くに大きな建物がないこともあってか、日当たり風通し共に良好で、築20年を過ぎていることさえ目を瞑れば過ごしやすい家だった。

 普通と違うところといえば、その家に住んでる2人とも血の繋がりは無く、職も、出身地もばらばらであり、共通点と言えば共にシェアハウスの仲間というだけである。

 そして、夕暮れ時の斜めに傾いた光を背中に受け、玄関前で鍵を懐から取り出す彼もまたその家の住人の一人だ。

 淘太は玄関先で重い買い物袋を左手に持ち替え、ドアを開いて家に入る。

 視界に広がるのはいつもの光景、備え付けで年季の入った靴箱、しっかりと並べられた靴。

 ヤニの匂いの染み付いた壁紙。

 そして、玄関前に突っ伏した女と思しき姿。

 何もない、いつもどおりの光景だと小さくため息をつくと、靴を脱ぎ家の中に上がり込む。

 淘太は自分の定位置でもあるダイニングキッチンへを足を進めようとするが、その足を誰かに掴まれた。

 今更驚くような事でもなく、むしろ素直に息をつけるわけないとはじめから思っていた淘太は、気だるげに、そして小さくため息を吐くと足元へと目線を落とす。

 「あえて触れないようにしてたんですけど、香夜子さんはこんな所で何をしてるんですか?」

 淘太は足元で突っ伏したままの香夜子を見つめ、呆れたような、そしてどこか嬉しそうな声で語りかける。

 「お腹すいたー、だから早くご飯ご飯!!」

 まるで子供のように駄々をこねる香夜子は、色の薄いくせ毛を揺らせながら淘太の持っていた買い物袋に手を伸ばす。

 もちろん彼の持っている袋の中には、調理せずに食べられるような物は何一つとして入ってはおらず、それを確認して残念そうにため息を突くと再びフローリングに突っ伏す。

 「まるで子供ですね」

 「人はみんな子供なの、遊び心を忘れたら人生なんてあって無いものと同じよ」

 「とはいえ、人間モップと化して床を這いまわるのは如何かと思いますけどね」

 淘太は彼女の手を引くと、立ち上がらせる。

 彼女が何を思ってこんな行動を取っていたのかは謎だが、少なくともこんな馬鹿げていて理解不可能な彼女の行動は嫌いでは無い。

 寧ろ、こんな行動に頭を悩ませる日々は、辛い事を忘れさせてくれるため好きだった。

 「とりあえず飯の準備しますから、これ冷蔵庫入れといてください」

 淘太はフローリングの跡が顔に付いたままの彼女に、買い物袋を手渡して袖を捲りつつキッチンへと向かう。

 後ろから自身の扱いに対する抗議の声が聞こえるが、楽しげに笑顔を浮かべる淘太は手を洗ってから、紺のエプロンを身に付ける。

 「ねぇ淘太、草は野菜室でいい?」

 「草って……野菜は文字通り野菜室ですよ」

 淘太は呆れつつ、包丁を取り出して答えるが、香夜子の声が食い下がる。

 「でもこれ、どう見ても草でしょ」

 「だから草って……それはネギでしょ……?」

 呆れつつ声の方向を見た淘太は、彼女があえて野菜を草と呼んでいた理由が分りため息をつきながら疑問符を浮かべる。

 「どう見ても知ってるネギと違うよね」

 「ええ……違いますね、それは花です」

 彼女が草と呼んでいたそれは、オレンジ色の花弁を持った一輪の切り花だった。

 「ディス イズ ア フラワー?」

 何故か英語で答える彼女から、その切り花を受け取ると、眺めては首をかしげてしまう淘太。

 なぜなら、彼は買い物の際にこんな物を買った覚えが無かったからだ。

 「珍しいね、こんな物買ってくるなんて」

 「ええ……でもどうしてこんな物を……」

 淘太自身園芸の類には興味が無い、家の中に観葉植物位ならあるが、わざわざ定期的に交換をする必要のある切り花をインテリアとして使う趣味も無く。

 かといって香夜子が花を見て歓声を上げる人間ではない事位知っていた。

 「もしかして、私へのプレゼント? それどうやって調理するの?」

 「花を見て食欲中枢刺激される人へ、わざわざこんなものプレゼントする訳ありません」

 「それじゃ、天国に居る大切な人へのプレゼント?」

 「そんな人天国に居ません」

 淘太は呆れながら答える、少なくとも彼に大切な人を失った経験など無く、彼にとって大切な人物は自分の目の前に居る。

 「これってなんて名前の草なの?」

 「ガーベラです、あと草じゃ無くて花です」

 淘太は呆れながら花をカウンターの隅に置くと、包丁を取り出しながら答える。

 「相変わらず沙汰知識は豊富ねぇ」

 「沙汰とは失礼な……俺だって花の名前になんか興味無いんですけど、この花の名前くらいは知っています」

 そう言いつつ、ふと妙な事に気が付く。

 自分で言うだけあって、花の事など興味無く、覚えている花の種類なんて、チューリップかひまわり位だ。

 ガーベラと言えば、多少植物に詳しい人なら誰だって知ってはいるが、興味無い人間が覚えているような物では無い。

 だったら、誰かから教わった事になるが、自身の記憶を掘り返してみても、なぜかその人物の名前と顔が出てこなかった。

 「どうしたの、妙な顔して」

 「いや、ちょっと妙な事考えちゃって」

 不意に動作を止めた淘太が気にかかったのか、香夜子は首を傾げるが、淘太は軽く流して冷蔵庫から取り出した野菜を切り始める。

 「ふーん、そういや今更だけどさ、この町っていい所ね」

 「そうですねぇ」

 不意に話題が逸れた事に驚きつつも、淘太は何気なく答える。

 この町に越して来て今日でもう1カ月になる、小さな片田舎のこの町だが、緑川町と名乗るだけあって、この町は草木が豊富で、そして閑静で過ごしやすかった。

 「ちょっとコンビニが遠いから煙草買う時は疲れるけど」

 「いっそ煙草なんて止めてしまえばいいんじゃないですか?」

 「それは止め無いのが私のアイデンティティ」

 淘太は自信気に答え、懐から煙草を一本取り出して咥える彼女を余所に、また妙な事を考えてしまう。

 「そういや、どうして俺こんな町に越して来たんだっけ」

 住めば都とは良く言った物だが、こういう環境にわざわざ身を寄せる理由が自分でも浮かばなかった。

 元々ここからそう遠く無い街に、香夜子の家があった。

 そしてその家は、今住んでいるこの家よりも大きく立派であり、家賃の節約なんて考える必要は無い程度の収入は二人とも持っている。

 「淘太が引っ越そうって言ったんでしょ」

 「そうでしたっけ?」

 不意に答えた香夜子の言葉に驚きつつ、淘太はまた妙な嘘をついたと、彼女の気まぐれさに鼻を小さく鳴らす。

 恐らく、彼女が酒に酔った勢いで提案したか何かだろう。

 それならあえてこんな片田舎に越してくる理由も納得がいく、本当に気まぐれで、そして常に変化を求めるのが彼女の生き方であり。

 そしてそんな変化にとことん付き合うのが自分の生き方だ。

 自分でそう思ってみると、なぜか納得が出来た。

 花の件なども気にかかったが、少なくとも香夜子がこうして傍に居る、そう思うと、そんな些細な疑問はどうでもよく。

 少なくとも自分は満たされているのだと実感する。

 「まぁそんな些細な事どうでもいいか……」

 淘太は小さく呟くと、水道の水で野菜を洗い、いつも通りキッチンでの作業に取り掛かるのだった。






 「ただいま……」

 凛はやたらと静かな家の中に、買い物袋を持って上がる。

 『おかえり』の一言が聞こえない所を見ると、どうやらこの家の住人は皆部屋に籠っているのだろう。

 最近家の中が一気に変化した、フローリングの隅は埃が溜まり、ダイニングには物が散乱し、キッチンのごみ箱には野菜の切りくずの代わりにカップ麺の空箱が増えている。

 ついこの間まではこんな事は無かったのだが、今まで家事全般をしていた人間働かなくなった途端こんな調子である。

 「相変わらずか」

 凛はため息交じりにテーブルの上に買ってきたばかりのカップ麺を積み上げると、冷蔵庫からミネラルウォーターを取りだして封を切る。

 その時、不意に部屋の奥から何か物音が聞こえる事に気が付き、床に積まれた荷物を踏まないように気を付けながらゆっくりと歩みを進める。

 「何してるのニュー?」

 「お掃除!」

 部屋の奥では、ニューが散らかったごみを分別している、恐らくこの家の住人の代わりを代行してくれてるようだが、底の破れたごみ袋を引きずって部屋を歩き回る物だから、大した効果を上げる事が出来ていない。

 「ありがとう、でもわざわざここまでしなくても大丈夫だよ」

 ニューの頭を撫でながら凛は答えると、ごみ袋の『上と下の口』を結んでから玄関へ投げる。

 「どうして? 散らかってたら淘太怒るよ」

 「怒らせるためにやってるの、これはあいつの仕事だからね」

 凛は小さく答えると、二階にある淘太の部屋を見てため息をつく。

 「でも部屋から出ないよ」

 「出てもで無くても最近はあまり変わりないけどね」

 この間の一見以来淘太の様子は劇的に変化した。

 いつもなら、こんな状態の家の中を見たら、じっとしてる訳無くせかせかと掃除を始める筈だった。

 しかし、この間の一件以来家に帰って来た淘太は、何と話しかけても『いつも通りですよ』『そうですか?』などと言った言葉を力無く言うだけだ。

 「って言っても、とりあえず様子でも見てくる?」

 凛は一口だけ飲んだボトルの蓋を閉め、ニューと共に階段を上り、淘太の部屋の扉をノックする。

 「……はい」

 淡々とした淘太の声が帰って来たのを確認すると、凛は扉を開いて中を覗う。

 その部屋の中にいつも通りの景色が広がっている。

 木製の机と、その上に置かれたノートパソコンと筆記用具、そして書きかけのレシピの載ったメモ帳。

 いつも通りの景色がだからこそ、異常な部分が手に取るように分る。

 その異常は淘太の姿だった。

 服装もいつも通りだ、椅子では無く、なぜかベッドに腰掛けている事も殊更おかしい事では無い。

 ただ、部屋の中に誰かがやって来たのにもかかわらず、椅子に座ったまま壁を呆然と眺めたまま居る事が不自然だった。

 彼の眼は力無く開くでも閉じるでもない、中途半端な状態で開かれたまま、ぴくりとも動かずに止まっている。

 「淘太、元気してた?」

 「……大丈夫ですよ」

 凛はとりあえずと声をかけてみるが、淘太は振り向きもせずに飽きもせず壁の一点を見つめたまま答える。

 「淘太! 部屋お掃除しよ!」

 ニューが元気に話しかけるが、やはり帰ってくるのは力の無い声だけだった。

 視線すら向けず、そして関心すら一切向いていない声に、ニューは小さく傷つき、凛の後ろに隠れてしまう。

 まるで機械の音声のように力無く、そして酷く淡々とした回答。

 良くできた機械に話しかけるような感覚になる凛、何かの手違いや悪戯だと信じたくもなるが、この状態がもう1週間以上続いているとなれば、心配や苛立ちを超えてある種の恐怖心すら感じてしまう。

 「淘太!」

 「……大丈夫です、いつも通りです」

 少しだけ強い口調で話しかけてみたが、やはり反応は同じだ。

 「凛……帰ろ?」

 何かを感じたのか、ニューが凛の手を引き、そのために後ろを振り返った凛は、扉の奥からこっちを覗う一孝に気が付く。

 「無駄だろ?」

 一孝は、凛の言おうとしていた事を先取りして言い放つ。

 きつい発言ではあったが、凛自信その言葉が間違っていない事は知っているため、何一つ反論出来ずに黙り込んでしまった。

 粘度の高い沈黙が部屋を取り巻き始めたのを感じてか、それとも初めからそのつもりだったのか、一孝はシャツの襟を直してから言葉を続けた。

 「赤い部屋が話しあるとさ、俺の部屋に来いあいつが待ってる」

 そう言い残し、自室に戻り人を招く準備を始めた一孝の力無い後ろ姿を見て、凛はため息をつく。

 暫く会話をしていなかった赤い部屋が、一体何の話があるのかは謎だった。

 恐らく新しい都市伝説の情報を掴んだか何かだろうが、自分の身の周りに起きたトラブルを解消できていないのに、他人の心配など到底できる気がしなかったが、こうして淘太の部屋の中で問答を繰り返すよりも、何か別の行動を取った方が、他人の為にもなる、そして自分自身の為にもなると判断した凛は、涙目を浮かべるニューを引き連れて淘太の隣の部屋を目指すのだった。






 「じゃじゃーん! 買っちゃった」

 昼過ぎに届いた荷物を受け取った香夜子は、リビングに戻るなり楽しげに箱を掲げて見せる。

 「一体何ですかそれは?」

 淘太は、まるで何かファンタジー作品の様に箱を頭上高くに掲げ、降り注ぐ太陽光の様にシーリングライトの明かりを受ける香夜子を見て、小さく答える。

 「それはねぇ」

 香夜子は箱の封を強引に切ると、中から一冊の本のを取りだす。

 「『都市伝説全集vol.4』? 何ですかそれ?」

 「読んでの通り都市伝説の事が書かれてる本、面白そうでしょ?」

 「そうでも……いや、寧ろ全然興味湧きませんね」

 淘太は楽しげにする香夜子を余所に、散らかされた空き箱を畳みつつ答える。

 「そう? 見た事が無いからって、都市伝説を信じないなんてつまらないでしょ? 存在しなそうだけど、もしかしたら存在するかもしれない。

 見た事無いから信じないなんてダメだと思わない?」

 「いや、事実だけを追求する検事がそんな発言しちゃだめだと思うんですけどね」

 淘太は眉根を寄せて答えるが、香夜子は小さく笑うと煙草の火を付ける。

 「昔から好きなんだよね。 怪談話とは違ってさ、こういう都市伝説ってちゃんとしたオチが無い代わりに、もしかしたら本当に起きた出来事かもしれない、そう思わせる内容の物が多いの」

 「そもそも、都市伝説って何ですか? 伝説って言う位だし昔話か何かです?」

 彼女の吐き出した煙に眉を寄せながら、淘太は疑問を浮かべる。

 昔から噂話やゴシップの類には興味が無く、都市伝説と呼ばれている物が一体何なのか淘太には検討が付かず、何気ない疑問を浮かべてみる。

 すると香夜子は少しだけ不機嫌そうに本を開くと、目的のページを開いて淘太に差し出す。

 そこに印刷されていたのは、首から上が人間の男の顔になった犬のイラストと、それにまつわる情報の類だった。

 見覚えのある絵に、淘太はその文字を目で追ってから答える。

 「『人面犬』……これって怪談話じゃ……」

 「都市伝説! いや、まぁこの手の話は怪談話でも良く使われる事あるけど。

 兎に角、こういう話って聞いた事位はあるでしょ、首なしライダーに口裂け女。 他にももろもろあるんだけど、そう言うもしかしたら実際にあったかも知れない作り話しの類を都市伝説って言ったりするの」

 楽しげに話す彼女の言葉を反芻しながら、淘太は本のページを捲り始める。

 確かにその本に書かれているイラストの内、幾つかは淘太も聞き覚えのある特徴を掴んでいる物もあったが、淘太自身殊更興味が湧かない物ばかりだった。

 しかし、そのページの幾つかに書きこまれた共通点が目に止まる。

 「都市伝説ねぇ……正直子供じみてると言うか……そもそも人面犬の名前が犬夫って……あと口裂け女の名前がさくらってのもなんか似合わないというか……」

 「犬夫? ちょっと貸して」

 香夜子は淘太から本を奪い取ると、彼が見ていたページからその名前を探し始め、口に出して読みあげる。

 「『この都市伝説は犬夫と名前が付けられている……』おかしいね、こんな名前他の本でも、噂話でも登場しない筈なんだけど」

 香夜子は本を捲り、時々登場する、妙なネーミングの書かれたページを探し始める。

 「都市伝説大好きじゃなかったんですか?」

 「ぐぬぬ……」

 淘太の皮肉に、大げさに悔しそうな表情を浮かべ、香夜子は本を閉じる。

 香夜子という人間は、興味がある物事にはとことん興味を示す人間であり、こういう本人すら知り得ない事があった事に驚きつつも、淘太は彼女から本を再び受け取ると、本のページを開いてみる。

 そこに書かれていたのは、体がゲル状になり、半分溶けかけている人間の絵だった。

 「シェープシフターねぇ、確かにこれなら身の周りに居ても気が付かないし、もしかしたら実在するかもって気にならなくも無いです」

 「でしょ? だから面白いの都市伝説って」

 香夜子は、紫煙を小さく吐き、同意を求める様に本のページを指差す。

 「えーと? 『シェープシフターは姿形を好きな物に変化させ、様々な人間に化けて町に潜んでいるとされている。

 また、この都市伝説では海外では妖怪としても親しまれており、しばし様々な物語にも登場する……』

 確かに面白いかも知れませんね、言われてみたらこんな奴がSF映画によく登場する気が……にしてもこれの愛称もなかなか面白いですよ。

 ニューって一体どんな理由があってこんな名前を……」

 淘太は本のページの隅に書かれた愛称を読み上げ、小さく笑い声を上げてしまう。

 恐らくところどころで見かけるこの愛称は、この本の作者が付けたものなのだろうが、このネーミングを考えた理由が全然予想出来ない。

 人面犬が犬夫なのはまだ良いとして、口裂け女がさくら、そしてシェープシフターが『新しい』と言う意味のニューと言う理由だけは、どれだけ頭を捻っても浮かびそうに無かった。

 「ホントにどんな作者なの、第一、前の刊まではこんな余計な嘘情報なんて書かれて無かったのに……ん? どうしたの?」

 香夜子は再び煙草に口を付けると、急に難しい顔をして黙り込む淘太を見つめる。

 「いや……この名前どこかで聞いた事あるんだけど……この本に書かれている、シェープシフターと仲の良い凛って誰なんだろうって思って」

 淘太は本に書かれた一文を指でなぞって香夜子に見せる。

 「凛? 聞いた事無い名前だけど」

 「そうですか……でもどっかで聞いた気が……」

 淘太は本に書かれたその文字を何度も読み返してみるが、やはり思い当たる節は何処にも無く、何か有名な本の登場人物の名前かもしれないと思った時、不意にケータイが鳴る。

 短い電子音に気がついた淘太は、メールを受信したケータイを確認すると、返信も押さずに机の隅に置く。

 「返信良いの?」

 「迷惑メールみたいです」

 「名前通り迷惑ねぇ、折角淘太が都市伝説に興味持ってくれたって言うのに……」

 「いや、別にそこまで重要な事じゃないですよね」

 拗ねたように煙草の火を消す香夜子の言葉に、小さく訂正を入れる淘太。

 最近やたらと届くようになった同じ差出人からのメール。

 差出人の名前には、どれも『赤い部屋』と書かれている事は気になったが、どうせどこかの出会い系サイトの類だろうと思った淘太は、いつもこのメールを受信しては、開く事もなくほったらかしていた。

 「えー、何事も興味持った方が楽しいでしょ?」

 「そりゃそうですけどね」

 淘太はコップに注がれた紅茶を一口すすると、時計を確認してから立ちあがる。

 「もうそろそろお昼ですけど、何食べますか?」

 「何でもいいよ」

 「いや、そういう何でも良いって答えが一番困るんですけどね」

 淘太は呆れながらも、冷蔵庫の中身を思い出してメニューを考える。

 「だって、淘太の作る料理全部美味しいでしょ? だったらあれこれ口出すのもあれかなと思っただけ」

 「御褒め頂き光栄です、それではあり合わせの材料で作った特製ランチを御持ちいたしましょう」

 「よろしく!」

 香夜子が反論代わりに言った言葉に、半ば小躍りしたい気持ちになるのを、ウェイトレスの様に礼をして誤魔化し部屋を出る淘太。

 捉えようによっては、彼女の都合がいいように踊らされていると考えも出来るが、少なくとも淘太にこの生活は満足のいく物である。

 しかし、こうして楽しい日常を送っていると、もしかしたらこの楽しい日常は、指をならせば霧のように消えてしまう物かもしれないと思ってしまう。

 もちろんそれは行き過ぎた杞憂でしかないのだが、不意に湧いたそんなネガティブな考えをかき消すように、淘太は紺色のエプロンを身に纏いキッチンに立つのだった。






 『呼ばれず飛び出る赤い部屋でござるよ (`・ω・)』

 「呼んだのはお前だろ」

 一孝は久しぶりに見る真っ赤な液晶に向かって小さくぼやく。

 『まずはそう言うなし、拙者だって色々面白いネタを見繕って来たのでござるよ、もちろんソースは信用できる物でござる』

 「はいはい……残念だけど、今はそんな気持ちじゃないの」

 相変わらずな調子で答える赤い部屋に、凛は呆れながら言葉を返す。

 赤い部屋には悪いが、今は都市伝説云々で騒いでいる余裕は凛には無く、今回ばかりは余計な悩みを増やしたいとは思えなかった。

 「おい凛、そう言う言い方しなくても」

 「でもそうでしょ? 今は淘太が……」

 一孝の声に力無く答える凛だったが、不意に鳴り響いた電子音に凛は音の主のパソコンを向き直る。

 恐らくは関心を示させるために、赤い部屋が音を鳴らしたのだろう。

 『今どうこう言う前に、拙者の話を聞くでござるよ!( ^ω^)』

 明るい表情のアスキーアートに向を見ると、今起きている現状を嘲笑っているかのように捉えた凛は、苛立ちの言葉を並べる。

 「あのね、今は都市伝説とか、そう言う事に構っている時じゃないの、ずっとこの家に居なかったあなたは分らないかもしれないけど、今淘太は……」

 そこまで言いかけた時、不意に切り替わった画面の文字に言葉を詰まらせる凛。

 『淘太の変化は、人為的な物です』

 「……!?」

 不意にいつもの調子とは違う、赤い部屋の文字、そして凛の言おうとした事を先読みした発言に驚きを隠せず、椅子に座り直す一孝。

 『私達はあなた達に沢山助けられてきました、だからこそ、今回は私達都市伝説があなた達の助けになりたいと思っているのですよ』

 「全部知ってたの?」

 凛は驚きつつも、急に様子の変わった赤い部屋に尋ねる。

 『知っていたと言うのは語弊があるね、正確には私が調べていた物事に、淘太さんが巻き込まれていたと言う事をついさっき掴んだのです』

 赤い部屋はこれまでと代わり、アスキーアートを一切使わずに文字列を重ね、自身の意思を示してく。

 『端的に述べると、淘太さんの意識は今別の所に閉じ込められています』

 「閉じ込められる?」

 先ほどからやりとりを見ていたニューが二人の間から顔を出して声を上げるが、その顔をカメラ越しに確認してか、画面を切り替える赤い部屋。

 そこに映し出される文字列、その一文を見てニューは再び疑問符を浮かべる。

 『これから先の話は、シェープシフター、あなたは知らない方がいいかも知れません』

 「どうして?」

 『私達都市伝説は、あまり知ってはいけない内容だからですよ』

 恐らく警告の意味が込められているのだろう、面白みに欠けたメイリオ体が液晶に表示されるのを見て、ニューは黙り込んでしまう。

 「ちょっとまって、どういう事なの?」

 『本人が求めない限り、これ以上の情報を与える事は不適切だと私は考えています、だからこそ、ここから先はシェープシフター、あなたはこの部屋から出ていく事を勧めます』

 次々と表示される文字に、ニューは指を噛んで悩むと、視線を少しだけ持ちあげて液晶に話しかける。

 「知ったらニューは痛いの? でも淘太の力にはなれるの?」

 何か迷っているのか、液晶の文字列が一斉に消え赤い背景だけを表示させる赤い部屋、そして暫く間を置いてから、再び文字が映し出された。

 『私自身、体が無いので解釈を間違えている可能性がありますが、恐らくあなたは、一般的に胸が痛いと表現される状態に陥るでしょう。

 しかし、その事を知れば、あなたは淘太さんの力になる事も可能だと私は予想しています』

 出来れば彼自身ニューを撒き込みたくないのだろう、しかし、あえて二つとも肯定した所を見ると、内心赤い部屋はニューの協力を求めているのが見てとれた。

 自分では判断出来ない状況、だからこそ、赤い部屋はニューに全ての判断を投げたのだろう。

 「淘太助かるならニューは大丈夫、痛くても、淘太居ない痛いより平気!」

 ニューは小さく息を吸い込むと、中性的な顔に精いっぱいの笑みを浮かべて答える。

 赤い部屋がこれからどのような言葉を言うのか、ニュー自身怯えてはいる、しかし周りを心配させないようにと精いっぱい作られた笑みを確認して、赤い部屋は液晶に文字を重ねた。

 『私自身、ここしばらくこの家に立ち寄ら無かったのには理由があります。

 それは私達出生の由来を探していたためです』

 「お前自身気になってたんだな」

 『ええ、それは勿論。

 そしてその事を知る上で、私は自分の特性を生かした方法を取る事にしました』

 一孝の言葉に短く肯定を示すと、更に文字を重ねる赤い部屋。

 『つまり、私は電子的な方向で都市伝説にまつわる情報を集める事にしたのです、そこで私は一人の人物を見つけました』

 「どういうことだ?……」

 短い一孝の言葉に赤い部屋は淡々と答えた。

 『端的に述べますと、彼女こそが私たち都市伝説の生みの親です、そして彼女が淘太さんの意識を閉じ込めた張本人である事は間違いありません』

 「おい、ちょっと待てどういう事だよ、人為的に都市伝説を作り出すなんてどうやったら出来るんだ」

 一孝は予想外な形で表面化した真相に驚き、息を飲む。

 そして凛は不意に怒りが沸き起こるのを感じ、不意にピクリと肩を揺らせる。

 都市伝説を生みだした事が事実だとして、幾つか気になる事があった、それは……

 「でもどうやって……」

 淘太の状態を赤い部屋は、淘太の意識が閉じ込められていると言った、確かに淘太の言動は、まるで白昼夢や幻覚を見ているようにも見てとれるが、その状況を人為的に作り出せる訳が無く。

 そもそも集団に見える幻覚の様な存在、都市伝説を作り出す技術など聞いた事が無かった。

 その疑問に答えたのもやはり赤い部屋だ。

 しかし、その文字列に浮かびあがる聞き覚えの無い単語に、部屋の中に居た3人は息を飲むのだった。

 『淘太さんの意識をどうやって閉じ込めたのか、その説明をする前に、まずは私達都市伝説、いや、正確には『コンパイラ』と呼ばれる存在の説明をする必要がありますね』






 「コンパイラ?」

 凛は不意に映し出された聞き覚えの無い単語を読み返し、自分でも間抜けだと思うような声を上げてしまう。

 もしかしたら自分が無知すぎるのかと心配になり隣を覗うが、一孝も口を開けたまま首を傾けるのを確認し、自分だけが知らない情報では無かったと安心する凛。

 『それが、私達都市伝説と呼ばれている物の正式名称との事ね。』

 「随分と味気ねぇ名前だな」

 一孝の声に合わせ、同意したのか小さく頷くと、ニューは首を傾げてふと湧いた疑問を投げかける。

 「おかしい……ちゃんと名前ついてるのに、桜井朝香はニュー達と話しした事無い。

 作ってくれたのに、全然ニュー達と会いたがらない」

 『それもそうね、彼女の目的は俺達を生み出す事では無いから。

 彼女がコンパイラを作ったのは、あくまでも途中経過、実験をするために作り出した存在だし、私達が好きなようにこの町で動き回るだけで、彼女の目的は達成されるのだから』

 「実験? 何の実験を……」

 ふとそこまで言って、脳裏を淘太の姿が映る。

 凛の考えを先読みしたのか、赤い部屋は再び画面の文字を消すと、新しい文面を表示させて答えた。

 『淘太さんに起きている事は、実験と言うよりはモニターに過ぎないね。

 そもそも、淘太さんに起きている事は、コンパイラよりも進んだ研究の成果なのだから。

 コンパイラの作られた当初の目的。

 それはあくまでも人間の脳を並列化して、複雑な演算を行ったり、記憶や感覚を共有させる事。

 ネットワーク上に置かれたクラウドファイルのように、どんな人間からもアクセス出来る感覚を作り出し。

 そして知識そのものを全く別の人間と共有する、VRSと呼ばれる装置を作る事。

 それが彼女の目的であり、コンパイラの利用価値ね』

 だらだらと画面いっぱいに表示された文字を読み、僅かな頭痛を覚える一孝。

 突然湧きだした、SF映画でも耳にした事の無い空論を、脳をフル回転させて飲み込む。

 「まてまてまて、そんなぶっ飛んだ事が……」

 そんな一孝の言葉を余所に、赤い部屋は淡々と文字を重ねる。

 『そのVRSを使い、町の中で発せられる大量の電波の中に彼女は、人間の脳に作用するプログラムを混ぜ、この緑川町の住人全ての人間の脳にインストールさせた。

 結果、この町の住人は無意識の部分で意識を共有させ、VRSを支える端末の一つと成り、他人と感覚を共有させるある種の力を持つことになった。

 そしたらやりたい事はただ一つ、実際に同じ感覚を共有させてみようと考えた訳だ。

 そうして出番になったのが、私達コンパイラ。

 怪談話や都市伝説ってのは誰もが一度は耳にした事があるからね、後はその認識を具現化させ、さも実在するかのような幻覚や幻聴という形でこの町を歩かせる事にしたんだ。

 とは言っても、突然都市伝説なんても物が、町中を闊歩しようものなら、ちょっとしたパニックを起こすのは間違いない。

 だからこそ、幾つかの安全装置を彼女は設けた』

 長々と表示される文字を読み。

 一孝は赤い部屋が何を言おうとしているのか予想してから、ぼそりと口に出す。

 「その存在を拒否する人間からは都市伝説は認識されなくなる……そして誰からも認識されない都市伝説は、いずれ消滅してしまう……」

 その声を聞き終え、赤い部屋は電子音で正解を告げると、更に画面に文字を続けていく。

 『それも正解、でもそれだけじゃ無い。

 コンパイラを認識出来る人間ってのは、早々多く無いってのも当てはまっているね。

 コンパイラを認識出来る人間、それは初めからある基準によって選別されてるんだよ、それはこの町に住む人間との接点の数。

 簡単に言えば、この町に住んで居ながら、この町の住人とはあまり会話をした事が無く、大きな騒ぎの元ネタになら無い。

 もしくは、騒いだ所で単純な妄想や嘘だと勘違いされやすい人間を選んで、コンパイラを認識出来る権限を与えたんだ。

 多いのは子供、そして単純に部屋に籠ってる時間の多い人間。

 そしてあなた達のような……』

 「引っ越してきて間もない人間……そう言うことか」

 一孝は前々から疑問だった謎が解け、小さくため息をつく。

 『その通りです。

 そしてこれまでの実験により、ある程度の情報を集める事が出来た彼女は、ふとある事を思いつた訳です。

 人の感覚を共有し、予め作られた人格、コンパイラを認識出来るのなら。

 逆に町に住む一人の人間の記憶にアクセスし、そしてその記憶の中にあった人間をコンパイラとして再現、他の人間からも認識させる事を試したのです。

 これまでと違い、誰もが持っている感覚では無く、一人の人間のみの記憶から作り出すコンパイラとなると、起きてくる問題も生まれてきます』

 そう文字を並べた後。

 画面に『?』マークを映し出し、クイズ番組のテーマソングを流し始める赤い部屋。

 恐らく二人に答えを出させるように仕向けているらしく、その画面を見ながら凛は頭を捻る事数秒。

 ふと、凛は浮かび上がった仮定を述べた。

 「たとえば、誰か芸能人の名前を上げればその人の顔を大抵の人は想像出来る。

 それと同じように、今までは都市伝説を作り出してた訳だけど、知名度の低い他人の兄妹や友達の特徴を聞いた位じゃ、早々顔を想像出来ないってこと?」

 僅かに首を傾げ、呟やかれた凛の声に反応して、正解を示す電子音を上げ、赤い部屋は続きの文章を表示させた。

 『その通り、だから彼女は少しだけ嫌らしい物を利用しました。

 人の持つ強い感情、具体的には劣等感や恐怖心などの記憶、それを手がかりに被験者の持つ記憶の中で、より強く印象付けられた人間の情報を洗いざらい引っこ抜く方法。

 そしてそのデータから作られた人間、瀬谷夕樹と銘打たれたコンパイラを制作、この町を歩かせ、被験者つまりこの場合の淘太さんの想像する瀬谷夕樹の行動を再現した』

 赤い画面に表示させられた『瀬谷夕樹』の文字を読み、凛は息を詰まらせる。

 その様子に気がついたのか、一孝は肩をゆすってから疑問符を投げかけると、凛は僅かに震える口で言葉を紡いだ。

 「瀬谷夕樹って……もしかして……」

 『そう、恐らく君達も会った事があるだろうね、この人物だけど合ってる?』

 赤い部屋は、確認の為に液晶に画像を表示させるが、間違い無くその人物は、この間この家に来た人物、夕樹の物だった。

 その顔を見て、一孝も凛が驚いた意味が分り納得する、そして全体像が見える彼の言ってた不可解な現象。

 「家に帰れる訳が無い……淘太があいつの家を知らないのなら、あいつも家の場所を知らない。

 タクシーを捕まえる事が出来ないわけだ、都市伝説いや、コンパイラは大抵の人間からは認識出来ない……そう言う事か」

 一孝は、夕樹が前に言っていた言葉を思い出して反芻する。

 町から出る事が出来ず、タクシーに乗るにも人を捕まえる事が出来ず、そもそも家への帰り道すら分らないと言っていた夕樹。

 それもその筈だ、コンパイラはこの緑川町の中でしか活動する事が出来ない、だからこそ他のコンパイラと同じように、この町を一歩も出る事が出来ない。

 コンパイラを認識できる人間は、この町の中でも他人との接触の少ない人間だけ、だからこそ、不特定多数の他人と会話をする職業のタクシーの運転手には認識する事が出来ず、結果としてタクシーを捕まえる事など不可能だった。

 そして、夕樹と名付けられたコンパイラは、元々は淘太の記憶を元に作られた存在だ。

 ならば、淘太の知る彼の情報しか持ち合わせておらず、夕樹の家を淘太が知らなかった場合、彼もまた家に帰る道順を知るわけが無いのだ。

 彼が無くしたケータイや家族の顔の記憶も同じだ、淘太が知らない限り、あのコンパイラも知るわけが無い。

 次々と欠けていたピースが揃うのを感じ、動揺を隠しきれない胸の鼓動をなだめるため、一孝は一本煙草を取り出して咥え、そして火を付けた。

 しかし、吸い込む煙に味は感じられなく、鼻を付く独特な煙が部屋に満たされるだけだった。

 『さてここからが本題です。

 そこまでの実験を成功させた彼女は、やっと本当の目的の為の予行練習を行う事にしました。

 誰かの認識する物を見て、そして自分が望んだものを実際には無くても作り出せる技術。

 それを応用し、次に彼女が作ろうとしたもの、それは人格を再現したコンパイラでは無く、世界そのものを再現したコンパイラ』

 「はぁ?」

 少しだけ間を開けて表示された文字に、思わず変な声を上げて驚いてしまう一孝。

 ただでさえ規模が大きすぎている上、目的や利用価値すら分らない大それた空論を目の当たりにして、驚かない方が不思議ではあった。

 「そもそも何の為に、いや、何処で使うためにそんな物を……」

 凛の疑問に、赤い部屋は文字通り声も上げずに答える。

 『何の為に? 何処で使う?

 使い道は彼女の希望を叶える為さ、そして何処で使うのか?

 それは自身の頭の中だよ、麻薬とか飲んだ人間が幻覚を見て、夢の世界に行くように。

 彼女は世界と銘打たれたコンパイラ、彼女にとって最も都合がいい世界での生活を夢見たのさ。

 でもいきなりそれを自分で試す勇気も無かった、だから淘太さんの弱みを利用し、そして彼が望む世界を用意すると言って、淘太さんを実験に参加させたんだ』

 ベッドに腰かけたまま、動かなくなった淘太の姿を思い出す凛。

 彼の薄く開かれた瞳は、まるでどこか遠くを見ている様な印象を受けたが、その印象は事実だった。

 彼は彼の望む世界、人工的に作られたそんな世界を見て、そして感覚すらその世界に依存させている。

 しかし、それはあくまでも感覚だけの物であり、現実の肉体は生きるために最小限の行動だけを無意識に行い。

 予め設定されていたのか、何を話しかけても、当たり障りのないテンプレートを並べて答える。

 今起きている現実が姿を現すにつれ、全身から汗が噴き出し悪寒すら感じる。

 『もちろん、そんな事をやるとして、淘太さんの体、いや、脳が無事な訳が無い。

 コンパイラの中で生活するだけの演算を行い、そしてその中で自身の意識までも溶け込ませていても、彼の体は現実に置いてけぼりだからね。

 飯を食わなきゃ餓死しちゃうし、それ以外にも、生きていく上には色々とやらないといけない事があるから。

 だからこそ、淘太さんの脳は、今二重の演算を行う事で生きているんだ。

 現実と、コンパイラの中の二つのね』

 赤い部屋の映し出した文字、それこそが朝香の作ろうとした答えだった。

 現実の世界で最低限の生存戦略を行い。

 そして実際の意識は、己が望んだユートピアの中での生活に依存させる。

 実際に自分が何を食べ、どんな場所で寝ていようとコンパイラの中で見れる世界では、常に満たされた世界が続いているのだ。

 それは麻薬の効果と良く似ていた。

 肉体がどれだけ痛み、そして疲労していようと、薬の影響で感覚は遮断され、苦痛の代わりに脳に伝わってくる情報は快楽のみになる。

 だからこそその依存に人は強く飲み込まれ、肉体はなお一層弱っていく。

 しかし、夢には終わりがあるように、都合のいい世界には際限がある。

 「脳が心配って?」

 これまで静かだったニューが疑問符を浮かべ、中性的な顔に眉根を寄せて口を開いた。

 『人間の脳ってのは、そこらのコンピューターとは比べるのが間違っているほど高性能だ。

 その性質を利用して、町一つ分の人間の脳で私達の存在を作りだすのがこの技術だ。

 でもそれをたった一人の人間の脳で動かそうとなると無理が生じる。

 数十台の車で一つの荷物を引っ張るのなら、運転している人間は荷物を引いている事すら気がつかないかもしれないけど。

 これはたった一台の車で、しかもこれまでよりも大きな荷物を無理矢理引っ張っている様な物なんだ。

 最初は重たいと感じるだけかもしれないけど、無理をさせすぎたエンジンは熱を帯び、そして焼けついてしまう事だってあり得る』

 限界が最初から分っているのなら、大した問題は無い。

 問題は、限界が見えない事実なのだ。

 何処まで続ければいいのか、何処まで行ったら安全の為に一旦手を引くべきなのか、その引き際、そしての上の負荷を減らす手立てを見つける為の実験。

 だからこそ、早かれ遅かれ淘太を待ち受けている事実は決まっている。

 使いすぎた脳が焼けつく瞬間、それはゆっくりとだが確実に淘太の元へと歩みを進めている。

 『恐らく、淘太さんはその事実を知った上でこの実験に参加しています。

 ですが、私はそんな事実を受け入れたくありません、彼に私達は救われたのに、私達の存在が彼を傷つける、そんな事実は絶対に避けたいのです。

 この気持ちは、彼の同居人であるあなた達も同じだと思っています。

 ですから、協力してください、彼を助ける為に』

 赤い部屋は感情が高ぶっているのか、これまでとは違い、やたらと早口で文字を重ね、そして最後の一行を画面の中心に表示させ、動きを止める。

 二人の返事を待っているのだろう、僅かに生まれた沈黙を破ったのは、凛だった。

 「言われなくても、初めからそうするつもりだもん、私だって淘太には沢山助けられたから……」

 「助けられたのは主に胃袋の問題だろ、お前の場合は」

 「……煩い」

 「ニューも頑張る!!」

 一孝のぼやきに軽く答えると、凛は画面に向き直り話の続きに目を向けた。

 そして一孝も、凛の意見には同感なのか、同じように画面に向き直り、懐からメモ帳を取り出す。

 「んで? 何をすればいいんだ?」

 『正直な所、あなた達は桜井朝香、本人の家に行き、この実験を辞めるように説得してほしいのです。

 実態が無く、そして彼女の所有物である私では、恐らく説得以前に彼女に良いようにあしらわれる可能性がありますから』

 「なるほどな、それで俺達の出番と」

 一孝は、これといってメモする内容が無かった為、メモ帳を仕舞うと咳払いをし、短くなった煙草の煙を吸い込む。

 「ニューは? ニューの出番は?」

 一人役目をもらえなかったニューは、焦ったように目を瞬かせ、赤い部屋に文面の続きをせがむ。

 すると、赤い部屋は画面を明滅させてから続きの文字を映し出した。

 『シェープシフター、あなたにはコンパイラにしかできない役目をお願いしたいと思っています』

 「コンパーラーにしかできない?」

 「コンパイラ……で? 何をさせる気だ?」

 一孝は小さくせき込み、ニューの言葉と訂正してから、話を続けさせる。

 『目には目を、歯には歯を。

 コンパイラにはコンパイラを……ですよ。

 淘太さんが居る世界も、コンパイラ、ならば私達もその中に入る事が可能な筈です、そして、その中で淘太さんと会い、説得する事が出来るのなら、彼を現実に連れ戻す事も簡単です。

 彼に今居る世界を、否定してもらえばいいわけですから』

 「結局はあいつの妄想なら、否定すれば消えて無くなり、こっちの世界に戻ってくる……そう言いたいのか。

 じゃあそれ位お前でも出来るだろ? あいつ説得する位」

 一孝は当然の如く湧いて出た疑問を口に出してしまう。

 しかし、赤い部屋は悲しむでもなく、淡々と現在に至るあらすじを説明する。

 『私は早い段階から、彼の居るコンパイラに干渉し、こちらの世界の情報を彼に与えてきました。

 しかし、こちらの世界を否定した彼にとっては、そんな事どうでも良い些細な疑問らしく、全然反応を示してくれないのです。

 直接会って話かけるにも、私には実態がありません、そして下手に何かしらの端末にアクセスし、彼に話しかけたところで『こんな事はあり得ない』と故障か何かだと捉えられるでしょう。

 ですから、私は実体を持ったコンパイラの協力を求めたのです』

 「だからニューの役目なんだね!」

 文字を読み取り、楽しげに声を上げるニュー、しかし表情は見えないが、その様子を見て赤い部屋は黙り込み。

 歯切れ悪く文字を表示させていく。

 『端的に述べるとその通りです。

 しかしシェープシフター、これには大きなリスクを伴っています。

 最悪、あなたの存在が消えて無くなる、朝香の言い方をすると、透明になってしまう可能性があります』

 「……え?」

 ニューは元気よく上げていた手を下すと、力無く疑問符を浮かべる。

 恐らく、赤い部屋が今回の件にニューを巻き込もうとしなかった理由、それがこれなのだろう。

 赤い部屋は、そんなニューに答えるべく、淡々と文字を表示させた。

 『淘太さんの居る世界、あちらのコンパイラは彼一人の想像によって作られた物です。

 つまり、彼の認識があちらの世界を制御しています、もし一言、彼がシェープシフター、あなたを否定するのなら、間違いなくあなたは消滅してしまいます。

 この世界からも、淘太さんの世界からも。

 そのリスクをあなたは受け入れる事が出来ますか?

 自己消滅、そうなる可能性は私にとって脅威であると同時に、あなたにとっても避けたい出来事でしょう』

 赤い部屋の表示させた文字。

 凛や一孝にとっては縁の無い感覚だが、彼らにとっての消滅は、人間で言うところの死と同等の意味合いを持っているはずだ。

 だからこそ、赤い部屋はニューを巻き込みたくなかった筈だ。

 『正直な所、仮に淘太さんが最悪な結果になったとしても。

 恐らく私達には影響は無いでしょう、なぜなら私達はすでに淘太さんの認識からは外されています。

 しかし、淘太さんの居るコンパイラに干渉した場合はそうはいきません、自分の身を守る為なら今回の件には一切関わらない事は正しい選択でしょう。

 だからこそ、私はあなたに強制はしません』

 正直、今回の件に関わる事は、コンパイラであるニューにとって、一切のメリットが無い。

 だからこそ、赤い部屋は淡々と尋ねた。

 期待するでも、不貞腐れるでもなく、ただ淡々と重ねられる、目を背けたくなる現実。

 「……淘太は助かるの?」

 長い沈黙を破ったのは、やはりニューだった。

 歯切れ悪く呟かれた言葉、凛がニューの背中を押せなかった理由は、ニューの一言と同じ、勝算の問題だ。

 成功する見込みがあるなら、ニューも迷わずに今回の件に協力するだろう、そして凛や一孝も喜んでその背中を押す。

 しかし、帰って来たのは冷たいメイリオ体だった。

 『その可能性は低いでしょう。

 さっき私が述べた通り、この件には私は皆さんよりも早い段階で策を講じてきました。

 淘太さんが本当の現実を思い出すよう、コンパイラの中で彼の住まいをこの3LDKに移し私の身の安全が保障される限り、あちらの世界にこちらの情報を混ぜました。

 ですが、あちらの世界を作る上で、淘太さんは自身の記憶にロックを掛けたらしく、一切の情報を受け付けてくれません。

 使い方の知らない道具を見せられ、それが何の道具か分らない様に。

 彼が自ら塞いだ記憶の断片を見せても、それが何の記憶かを思い出してはくれません。

 そもそも、今回の出来事は淘太さん自身が望んだ事なのですから』

 画面一杯に広がる絶望的な情報の羅列に、二人と一つは言葉を詰まらせる。

 初めから分りきった答えだった。

 なぜなら勝算があるのなら、初めから赤い部屋は何の躊躇も無く彼らに相談した筈で、それをしなかった。

 失敗すると分りきった事だから、ニューをこの話題から遠ざけようとした。

 しかし、落胆する一孝を余所に、ニューは元気よく口を開いた。

 「低くても助かるかも知れない。

 淘太が元気なるんだったら、ニューは頑張る!

 ニューは沢山頑張るよ、だからきっと上手く行く!」

 その声を、パソコンに取り付けられたマイク越しに聞き、赤い部屋は呆れにも似た、言葉にするにはあまりにも難しい喜びの感情に満たされるのに気づく。

 恐らく人間ならこんな時、小さく鼻で笑いながらため息を付くのだろう。

 そんな事を思いながら、画面に文字をスクロールさせた。

 『きっと話しを聞いたあなたは、私が止めてもこの事に参加したいと言いだすだろうと思ってました、だからシェープシフター、あなたには今回の話を聞かせたくなかったのですよ(´・ω・`) デュフフwwww

 後悔しても知らないでござるよ』

 肩の荷が少しだけ軽くなったのか、急にいつも通りの口調に戻った赤い部屋を見て、凛も少しだけ明るい気持ちになる。

 勝算は少ないが、それでも淘太の事を大切に思ってくれる仲間が居たのだ、ニューの言った『一人じゃない』の言葉を思い出し、凛は口元を押さえる。

 そして表情を隠す為に窓際を見た瞬間、悲鳴を上げて床に尻もちを付く。

 なぜなら、開けっぱなしになっていた窓から、さくらが顔を出していたからだ。

 二階なのにもかかわらず、どうやら先ほどからサッシにしがみ付いたまま話を聞いていたらしく。

 プルプルと細い腕を震わせながら、マスク越しに声を放った。

 「わたし……も、手伝います……大勢ならきっと……きゃぁ!」

 言い終えると同時に、真下へスライドするように姿を消した為、彼女がなぜ窓にしがみ付いていたのかを聞く事は出来なかったが、少なくとも彼女の意思は分った。

 「一人じゃない……か」

 「当たり前やねぇちゃん、それにワイを忘れたらあかんがな」

 小さく呟いた凛の言葉に、今度は別の声が投げかけられる。

 空いたままの扉の先には犬夫が居た。

 彼もまた、先ほどから話を聞いていたらしく、胡坐のまま組んでいた腕を解くと、肉球の付いた小さな手で、自身の顔を指差して笑う。

 「とりあえずウチのメンツは全員集合だな、赤い部屋、これでも今回の作戦は失敗すると言うつもりか?」

 一孝は煙草を灰皿に押しつけて消すと、何か得意げな、そしてどこか狡猾な表情を浮かべて口を開いた。

 それに赤い部屋は小さなブザー音で答えると、画面一杯に文字列を表示させて答える。

 『成功率は相変わらず低いね。

 しかし、拙者は失敗する事は無いと踏んだでござるよwwwww』

 赤い部屋の根拠の無い自身。

 本当に何処までいっても根拠が無いものだったが、ここに居る誰もが彼と同じ事を思い、小さく関の声を上げるのだった。






 薄暗い部屋の中、朝香はキーボードを叩いて状況を確認する。

 複数あるモニターの内、一つはVRSのログが表示されており。

 彼女の正面にあるモニターには、淘太の居る世界の情報が、淡々とした文字列で表示されている。

 高速でスクロールし、目で追うだけでも頭痛を覚える文字列を読みながら、朝香は口に咥えていた棒付き飴を取り出し、首なしライダーへ話しかける。

 「ねぇ、あなたのお友達、面白い事してるわよ」

 『詳細希望』

 朝香はアームを操作して、画面を首なしライダーに向けるが、当然内容が分らない彼は、メモ帳に小さく意思を示す。

 「首から上が無いからかしら? あなたはやっぱり感が悪いわね。

 あなたと同じ初期型のコンパイラ。

 えっと、そう赤い部屋と名づけた彼、どうやら自体を把握したらしいわ」

 朝香は、空いていたもう一つのモニターに、赤い部屋に関する情報を表示させ、言葉を続ける。

 「首の無いあなたは、現実面で人の行動を直接操作する為に作ったコンパイラ。

 赤い彼は、機械の操作に長けさせた、コンピューターウィルスの様な性質を持ったコンパイラ。

 あなたは結局他のと大して特徴は無いけど、赤い彼は特別製なの。

 人の脳に干渉して、機械を操作させる。

 それだけに特化してるからこそ、私の作ったVRS-2の存在にいち早く気がついたみたいね」

 半ば首なしライダーを中傷するような言い回しに、小さく傷つきながら彼はメモ帳に文字を書いた。

 『如何します?』

 これまで幾度となく使ってきた言葉。

 散々木偶の棒と呼ばれ、中傷の対象にされてきた彼だが、自身に構ってくれる唯一の存在である朝香。

 彼女の為にと首なしライダーは何時もこうして文字を重ねてきた。

 それが自身のアイデンティティだと言い聞かせ、自身の生みの親である朝香を喜ばせる為だと信じ、何時でも駒としてふるまってきた。

 道具としてでも、彼は朝香と共に活動出来る事を望んでいた、しかし、彼女自身はコンパイラの中での生活を望んでいる。

 本当は彼自身このような事は望んでは居ない、目の前から彼女が消えていなくなる事が怖い。

 しかし、朝香の望みはこの世界から消えていなくなる事。

 都合のいい架空の世界での生活を望んでいると知っているからこそ、彼は朝香にこうして今日も使い古したページを表示させるのだ。

 「何もしないわ、いいえ、何もしなくていいのよ。

 何かあなたに出来る事があるわけでも無いの、それに何もせず、彼らがどんな事をするのかを確かめたいの。

 だってそうでしょ?

 これでもっとたくさんの情報が手に入るのだから。

 それに、コンパイラが何かしたところでどうにかなるとは思っていないわ。

 彼はコンパイラ……いいえ彼の言う都市伝説の存在しない、ご主人様が居る世界を望んでいるのだから、何かした所で何の影響も無いわ。

 そうね、あなたの様に何も出来ないのよ。

 所詮役立たずな私の物なんだから……」

 長い言葉の最後に紡がれた言葉、それを聞いて首なしライダーはずきりと胸が痛むのを感じて俯く。

 その痛みの原因は、自身が役立たずと言われたからでは無い。

 想像もつかない技術で自分を生み出し、自分を傍に居させてくれる大切な存在が、自分自身を『役立たず』と言った。

 小さく呟かれた自身への自嘲と嫌悪感。

 それがどれだけ強いかを首なしライダーは知っていた、だからこそ辛かったのだ。






 「ちょぉぉぉぉぉっと!! いい加減にしろぉ!!」

 こめかみ横数センチの所を縁石が通過した直後、凛の後ろのシートに掴まったまま一孝は悲鳴を上げた。

 説明するまでも無く、彼らは今凛のバイクに乗っていた。

 一孝自身、彼女の運転が荒い事は知っていたが、二人乗りで乗ってみるとその無謀さが手に取るように、いや、寧ろ全身に体当たりをしてくる。

 しっかりと座れるシートと手すりがあり、シートベルトがある車ならまだ彼も頬をひきつらせて耐える事が出来ただろう。

 しかし、自転車の様にただ座っただけ、安全装置と言えば、頭にかぶったヘルメット一つだけなのだ。

 もし転ぶなり何かに衝突しよう物なら、一孝は宙を舞い、そしてヘルメットに守られた頭以外の場所に深刻なダメージを受けるのは目に見えている。

 だからこそ彼は後悔していた。

 幾ら急いでいるからと言え、彼女のバイクに乗るべきじゃなかった、これならいっそ貯金を切り崩してタクシーに乗るか、皮下脂肪の消費を兼ねて走っていくべきだったと後悔もするが。

 肝心の凛は、普段通りのカーディガンにチノパンという酷く軽装な物で、転んだ時の事など一切考えていないのか、アクセルを一気に開いて重心を落とす。

 「凛!! お前少しは冷静になれ!」

 「……集中出来ないから黙ってて」

 凛は後ろから投げかけられる言葉を軽くあしらうと、赤い部屋が示した住所までの道順を再度整理する。

 実際、彼女自身冷静さに欠けている事は自覚していた。

 だからと言って、彼女にアクセルを緩める気も無かった。

 そんな彼女の焦りに答えるように、図太いエンジン音を上げながら、彼女のバイクは地を這い、その巨体を加速させていくのだった。






 「ミミズバーガーって香夜子さん、今言う内容じゃないですよ」

 淘太は呆れながら口を開く。

 彼の手の中には、近くで買ったハンバーガーが握られており、パンズの間に挟まれたミートパテを見て食欲が失せていくのを感じる。

 「え? でも美味しかったら良いでしょ?」

 「いや、美味しいとかそれ以前に、ミミズで作ったハンバーガーの話しなんて、今する内容じゃ無いですよね?」

 散歩で近くの公園に出かけ、公園のベンチで昼食として買ったハンバーガーを一口齧るなり、彼女が言った言葉はそんな内容だった。

 彼女自身は、あくまでも好きな都市伝説について話しただけなのだろうが、比較的神経質な淘太にとってはたまったものではない。

 「でもタイトル言っただけで詳細分るなんて、淘太実はあの本じっくりと読んでるでしょ」

 香夜子の言葉に淘太はバツが悪そうに眼を反らす。

 時間にしては一瞬だったが、その僅かな仕草に香夜子は目を細めて頬をニィッと吊り上げて笑う。

 「……いやそんな……」

 「やっぱり読んでる、前は『都市伝説なんて子供じみた事興味無い』なんて言ってたくせに、今は読むんだ~」

 「ちょっと……そんな事言って……」

 「読んでる事は否定しないんだ」

 慌てて誤魔化そうとしたが、軽々と淘太の上げ足を取り、彼女はハンバーガーにかぶりつく。

 幾ら誤魔化そうとしても無駄だと言う事は知っていたが、にやにやと笑いながらこちらを見る視線に、全身から炎が噴き出しそうな気持になりながら淘太は目を反らす。

 本人達は否定するだろうが。

 第三者から見たら、仲の良いカップルにしか見えないその光景を、公園草木の垣根越しに見る存在が居た。

 「あれは誰でしょうか? 緑川町では見かけませんよね……?」

 「分らんちゅうねん、ワイとて……」

 「ちょっと狭いよさくら」

 それは、さくらに犬夫、そしてニューだった。

 彼らは口々に意見を述べながら狭い垣根の中もぞもぞと身をよじらせる。

 「それで何すりゃ良いんや? ワイがいきなり飛び出した所で失敗するんやろ?」

 「犬夫さんは犬ですしね……普通の感覚なら怖いです」

 「口裂け女が何偉そうに言っとるんや……」

 「ニューは? ニューは怖くない?」

 徐々に話題が逸れる一行の話題を調整させる為か。

 不意にニューが首から下げたケータイが小さく音を立てると、画面に文字列を表示させた。

 『そんな事はどうでもいいです。

 それよりも良いですか? この世界じゃ、淘太さんからあまり距離を置かないでください』

 「どして?」

 『この世界は淘太さんの認識が全てです、つまり彼のいる周辺の空間しか生成されず、あまり距離を置くと、彼の認識下から外れてしまう恐れがあるからです』

 赤い部屋はニューの持つ端末の中、現状の説明を始める。

 とりあえず、彼らをこの世界に連れ込む事は主言っていた以上に上手くは行った、しかし、これからが大変なのだ。

 「でも……淘太さんに近づきすぎてもダメなんですよね?」

 『いいえ、正確には常軌、と言うか彼の認識を超えない姿で近づくのは問題ないです。

 普通の人間を見て、淘太さんが『お前は存在しない!』なんて事思う訳ありませんからね』

 赤い部屋は遠まわしにニューの背中を押した。

 暫く頭に疑問符を浮かべるニューだったが、彼の意図を確認すると、体を水の様に溶かして姿を変える。

 しかしその姿を見て、犬夫が小さく呆れて言葉を紡ぐ。

 「なんでそげな有名人がこげなとこ居るねん……」

 「え?」

 ニューにしては一般的な人の姿を真似たのだろうが、目の前に屈みこんだままの姿勢で目を丸くする、この国の総理大臣の姿をしたニューをカメラ越しに見て。

 赤い部屋は頭は無いが頭痛を覚えるのだった。






 『役立たずな自分』その一言を何気なく口走り、そのあと、少しだけ間を置いてから湧きおこる後悔の念。

 もやもやと形が無く、ぶつける相手のいないそんな感情誤魔化す為に、朝香は手に持っていた棒付き飴を再び咥えてから、自分の体格に付図り合いな大きさの背もたれに体重を預け、鼻でため息をして天井を見上げる。

 口の中でゆっくりと溶けてゆく飴玉を舌で転がし、そして思う。

 自分が生み出した技術は、こんな安物の飴玉と良く似ているのだ。

 鼻をつまんで食べてみれば甘いだけの砂糖の固まり、あまりにも少ないその個性を埋めるように色を付け、そして果物の匂いを混ぜる。

 そうする事でただの砂糖の固まりは、それぞれ意図した果物の味に生まれ変わる。

 机の横で僅かに駆動音を上げる機械、VRSも基本は同じ発想だ。

 人がそれぞれ持っているであろう、何かしらの認識、それに機械的なスパイスを加える事で、意図した存在として確立。

 そして共有する事が出来る。

 そうする事で可能になる、人間の知識のクラウド化。

 この技術を使えば、言葉のあやなど気にせずに他人に知識を与え、感情のやり取りだって可能だった筈だ。

 あくまでも机上の空論に過ぎないが、このVRSを介してなら、人と人との細かい諍いは消え、誰もが素直に笑い、そして誰も傷つく事の無い世界を作る事も可能な筈なのだ。

 「そうね、私は役立たずなの、みんながこんなガラクタの存在を良く思うはずは無い、ねぇ、あなたもそう思うでしょ?」

 朝香は隣で何か言いたげに突っ立て居た首なしライダーを見て、小さくぼやく。

 「だってそうでしょ? こんな物不気味よ、人の脳をいじりまわす道具……」

 この機械を作り出したのは、つい最近の事では無い。

 大学で研究をしていた際、この理論を打ち立てた。

 しかし、彼女の理論では、このVRSを起動させるのに必要な脳の処理能力は、町一つ分にも相当した。

 もちろんこんな大規模な実験の実行許可が下りる訳が無く。

 彼女の打ち立てた理論は机上の空論と笑われ、そして無言で破り去られた。

 幾ら理論上可能でも、どれだけ実用性があろうと、現実味に欠けた理論ほど役に立たない物は無い。

 だからこそ彼女は笑われ、そして侮蔑された。

 『役立たずなフリンジ科学者(疑似科学者)』と。

 自分がどれだけの情報を集め、どれだけの仮説を立てようとも、一度そっぽを向いた人間が自分の事を振り返るなどありえなく、彼女は一段と孤立し、研究の為の予算が下りなくなった時、彼女は大学を辞め、この町へ移り住んできた。

 その後、彼女は近くの店などで働いたりもしたのだが、些細なミスを切っ掛けに仕事を辞め、次第に家に引きこもる様になっていった。

 何をやっても上手くいかない、結局自分は役立たずなのだ。

 そんな先入観は次第に強くなり、人との交流すら恐怖を感じる毎日。

 そんなある時だった。

 生活費を補うため、彼女は家にあった持物を売りに出そうと物置きを漁った際。

 一つの大きな段ボール箱を見つけたのは。

 自分でも半ば忘れかけていたその中身、そこにあったのは、使い古したレポートの数々、過去に彼女が挫折した研究データが詰まったディスク、それらは全てVRSに関係する物だった。

 「私は悪く無い、悪いのはこの世界なの、だってそうでしょ?

 みんなもそう思うわ、だったらこんな世界に居る必要なんてない、都合の良い世界に引越せばいいのよ」

 不意にその時に湧いた感情を口に出した彼女は、鈍い稼働音を響かせるVRSを見てため息を付く。

 「ええ……結局私の理論が正しい事は証明できたわ……だけど。

 だけどね……これが私にとって都合の良い現実だと思う?

 結局他人の認識を間借りするだけのこの技術じゃ、私の望んだ世界を生み出すなんて不可能よね?

 本当馬鹿みたい……」

 朝香は、口の中で小さくなった飴をかみ砕き、棒を引き抜いてごみ箱へ投げる。

 寄せ集めの偽物で、多少は自分の空腹は多少ましになった。

 しかし本物があるからこそ、この飴玉の様な味があるだけの偽物じゃ満たされない事だと悟ってしまう。

 だったら、この現実を見なければいい、自分の意思だけでも別の世界に送ればいいのではないか。

 彼女は思った、そしてそのために研究した。

 VRSよりも自分の理想を生み出してくれる新技術の開発に。

 『馬鹿 否定』

 首なしライダーは静かにメモ帳にそう書くと、彼女にゆっくりと差し出すが。

 そんな事気にしないのか、朝香は一瞥しただけでそっぽを向き、目を閉じてしまう。

 そうする事で完全に沈黙に満たされる室内。

 誰も動く事無く、ただ家の外の住人の生活音が響くだけの昼下がり。

 現実と隔離された様なそんな室内で、首なしライダーはゆっくりとメモ帳を仕舞うと、目の前の椅子に腰かけたまま子供のように瞳を閉じた生みの親へ意識を向け、悩ましげに俯くのだった。






 「だぁぁぁ!! いい加減にせぇちゅうねん!!」

 犬という生き物の特性として、その優れた脚力がある。

 早いものでは時速70キロ、一般的な雑種でも人間より早い事は言うまでも無く、しばし人間は狩りや羊追いなどに利用してきた。

 もちろん犬が狼の子孫である事を鑑みれば当然であり、別に驚く事ではないのだが。

 仮に今住宅街を全速力で走っているのが、引き締まった肉体を持った野良犬では無く、皮下脂肪をその身に纏った、人面犬だとなれば話は別である。

 そう、今現在、犬夫はこれまでの人生でも稀に見ない速度で走っていた、追いかけているのは前方に見える白のSUV。

 見晴らしの悪い住宅街である事を鑑みてか、それとも助手席に座る淘太がそうさせているのか、その車との距離は先ほどから開いてはいないが、ふと視線を後ろに向けると安堵の表情を浮かべられない理由が広がっていた。

 「大体……これに巻き込まれたら何が起きるっちゅうねん……」

 視界の先、距離にして約15メートル先から景色は一変していた。

 アスファルトの地面、そしてコンクリート塀に街灯、そして民家や空の景色までもが、まるで完成したジグソーパズルを分解するかのようにばらばらに砕け、真っ白な虚無に吸い込まれていく。

 まるで巨大な掃除機が世界そのものを飲み込むかの様な光景、その世界の崩壊は目の前のSUVを追いかけるように距離を広げるでもなく、縮めるでもなく安定した速度で追いかけていた。

 これはこのコンパイラを無意識下で生み出し、そして管理する淘太の意識の限界を示す境界線だった。

 「えっとね……『消えて無くなっちゃう』だって!」

 普段の姿に戻り、なぜかさくらに背負われて犬夫の横を駆け抜けるニューが、ケータイ電話の画面を確認して大声で返事をする。

 「んじゃあずっとあの車追っかけなきゃいけないんか!?」

 「そうみたい」

 自身の力では走っていないおかげか、それとも単に状況を楽しんでいるのか、明るく答えるニューに、犬夫は言葉にならないため息をついて叫ぶ。

 「あんなぁ! そげん適当に答えとうてもな、ちゅーか、さくら! お前さんどないしてそげ足が速いねん!」

 「えっと……私口裂け女だから……100メートル走る3秒で走れますよ」

 真っ赤なコートを身に纏ったまま、高速で走るさくらは涼しい顔で答える。

 「あんなぁ! そげん軽く言われてもやな! ワイはあくまでも犬やさかい、そげな速度は無理や! ワイはこれが精一杯やねん!」

 一応は愚痴ってみるが、愚痴る相手が違う事位分っている。

 公園で淘太を見かけた時、いち早く彼とコンタクトを取っていれば、彼が車に乗り移動する事など無かった。

 しかし、いち早く決断しなかった為に、淘太は車に乗り、公園を後にした結果、淘太の意識を離ればらばらに崩壊していく公園を慌てて飛び出し、今の現状に至る。

 彼らが何処に向かっているのかは不明だが、この見晴らしの悪い住宅街を抜け、大通りに出てしまった場合、さくらはいいとして、自身の脚力では追いつける自身が無かった。

 「どげんかしてあいつら止める事出来んのか?」

 「うーん……ちょっと待ってね考えてみるね……」

 そう言って、一人考えに耽るニューではあるが、出てくる作戦が現実的ではないと直感的に悟った犬夫は、悪態をつきつつ、地を駆ける。

 「そもそもやな、こげな道じゃ信号なんて無か……んじゃどうするちゅうねん……」

 「あの! 私があの車ノックしてきたら……」

 「あんな! 人一人抱えてんのに、車に追いつけるほど足早い女何処におるんや!」

 淘太とコンタクトを取る際、あまり不自然な出会い方では問題がある。

 この世界が淘太の都合が望む世界として作られているため、淘太が望まない結果や、予想すら出来ない自体の場合、淘太の認識から外れ、最悪自身の存在も真後ろで広がる景色の様に消えて無くなるリスクがあった。

 そのため、背に腹も変えられないと思ったのか、それとも犬夫の言葉に含まれた警告に気づかなかったのか、さくらは一気に加速した。

 あまり知っている人は多く無いが、口裂け女は数ある都市伝説の中でも三本指に入る俊足という特徴を持っている。

 もちろんその脚力は地域や年代ごとにまちまちであるのだが、その特徴の一つを引き継いだらしいさくらもまた、おっとりとした外見に似合わず脚力は人間のそれを遙かに超えていた。

 ロングコートの下に揺れる細い脚は、アスファルトの地面を掻き、背中にニューを抱えたままなのにもかかわらずその小柄な体は弾丸の如く住宅街を駆け抜け……そして小石につまずき、前のめりに転んだ。

 「きゃぁ!」

 さくら自身は慌てて手を突き出して受け身を取るが、背中に掴まっていたニューは、急に襲い掛かる横Gに耐えかねて宙を舞う。

 「だから言わんこっちゃない……」

 犬夫は半ば呆れながらも、一旦開いたさくらとの距離を詰めつつ、宙を舞うニューの様子を息を飲みながら見守る。

 先ほどのさくらの脚力を自身の質量に乗せ、宙で一回転したニューはそのままゆっくりと弧を描きながら地面に近づき、そして目の前を走っていたSUVのリアウィンドウに直撃。

 水風船の様にその姿を爆ぜさせ、本来の液状の姿になって地面に着地、遅れて落ちてきたケータイを間に合わせに作った腕で受け止めると、ゆっくりと人の姿になってゆく。

 ニューとしては災難ではあったが、この出来事で何か異変を感じたのか、車は急ブレーキをかけて止まった。

 「止まってくれました……ね?」

 「なんで得意気なんや」

 呆れながらさくらの声に反応すると、目の前の車から姿を現した二人に注目する。

 一人は淘太、そして運転席から姿を現した小柄な女性、色の薄いくせ毛を揺らせながら、状況が掴めていないのか、それとも現状を楽しんでいるのか、妙に楽し気な表情を浮かべている。

 その人物、瀬谷香夜子は車の後ろで完全に人の姿に化けたニューを見て、心配そうに歩み寄る。

 「大丈夫!?」

 「……びっくりした……」

 「大丈夫そうね、とりあえず一安心、前方不注意なんてのは良く聞くけど、後方不注意なんて事になるとはね」

 「そもそもどうやったら走ってる車に後ろから体当たり出来るんですか……」

 香夜子は尻もちを付いたままのニューに歩み寄り、ぼそりと呟かれた淘太の言葉に笑って答えるが、ニューの姿を見て一瞬、風船が爆ぜる瞬間よりも短い僅かな間、淘太の表情が変化したのに気が付いた。

 「どうかした?」

 「いや……なんか見覚えがある気が……」

 そう言う淘太の目の前でニューは、凛の姿に化けていた。

 悪く言えば気の強そうな、良く言えば溌剌としたその顔を改めてじっと見つめると、結論が出なかったのか小さくため息をついて頭を掻く。

 「いや……気のせいですね」

 「それは残念、淘太の彼女かと期待したのに」

 「居ませんよそんな人は!」

 「私は香夜子、そしてそのひょろいのが淘太、あなたは何て名前?」

 淘太を軽くおちょくると香夜子はニューに向き直り、頬を吊り上げ、猫の様に笑うと挨拶をした。

 要点だけをまとめたような、端的で細かな部分を省略したような言い回しなのにもかかわらず、その言葉に威圧感や嫌味を感じない不思議な口調にニューはなぜか安心し、表情を明るくして答えた。

 「ニュ……凛ちゃんです!」

 「凛はああいう喋り方ちゃうやろ……」

 電柱の奥に隠れた犬夫の悪態を余所に、ニューは大きくVサインをするニュー。

 「凛……? どこかで……いや気のせいか」

 やはり彼女の名前を聞いてか、淘太は一瞬だが反応を示す。

 「凛ね、さっきはどうして車にぶつかって来たの?」

 「えっと……その……」

 「まぁいいけど、体とか怪我してない?」

 香夜子は現状に至る経緯よりも、ニューの体の怪我を心配するが、ニューは首を横に振って自身の無事を示す。

 とりあえずは上手く行った、そう安心した刹那、犬夫の耳は香夜子の言った不自然な言葉に息を飲む。

 「そう……それじゃちょっとお話しようか、都市伝説さん」

 そう香夜子が言い終えた瞬間、世界が一変した。

 いや、正確には世界の時間が止まった、住宅街に響いていた生活音も空中を舞う木の葉も、そして香夜子の横で曖昧な表情を浮かべる淘太すらも。

 更に動きを止めたそれらは、モノクロ写真の様に色素すら抜かれてただの景色になる。

 「え……一体……」

 「何起きたっちゅうねん……」

 犬夫とさくらの声には、変わった景色への驚きの他に、もう一つの意味が含まれていた。

 「口裂け女に人面犬、そしてシェープシフターと赤い部屋ね」

 香夜子は横一列に並んだ一同の表情を覗い、小さく笑う。

 そう、電柱の陰に隠れていた彼らは、瞬きするほど一瞬の間に香夜子の前に整列していたのだ。

 もちろん自分で移動したつもりなど無い、寧ろ自ら進んで隠れていたのにも関わらず、瞬きをするよりも一瞬の間にこうして整列していた。

 世界そのものが意識を持ち、彼らをこの場所に立たせそして辺りの時間を止めた、そう思えるほど不自然な現象に訳が分らず後ずさりしたニューの懐で、不意にケータイ電話が鳴る。

 『侵入した痕跡は綺麗に消したつもりでした、しかしそう簡単ではないようですね』

 「ええ、淘太の意識とは別の認識がこの世界に入ったら、嫌でもこちらの世界は感づく物なの」

 ニューが取り出したケータイの画面を見て、小さく返事をする香夜子。

 その表情には、自分の世界を荒らされた苛立ちも、そして無駄なあがきをする一同への侮蔑も含まれていなかった。

 威圧感も親しさも感じさせない口調で、静かに言葉を紡いだ。

 「あなた達が知っている通り、この世界は淘太の意識が作り出したもの、だからそこに居る淘太だけでなく、私も、そしてこの車もこの空も、全部彼の意識を含んでいるの。

 だから初めからあなた達の事は知ってたわ、でも悪さしなきゃ放っておこうって思ってたのに」

 「お前さん、ワイらを追い出す気か?」

 「いいえ、そんなつもりは初めから無いよ。

 人の体に、随意筋と不随意筋があるように、意識の中にも随意的な部分とそうでない部分があるの。

 そこにある淘太の姿をした部分が随意的な彼の意識の集合体。

 そして私は彼の不随意的な意識の集合体。

 ただ結果を見るだけ、そして彼の望む、彼が意識している瀬谷香夜子を演じるだけの存在」

 香夜子は静かにそう言い終えると、懐から煙草を取り出すと口に咥え、火を付ける。

 その手に握られていたオイルライターに刻まれた、鳥の羽根のイラストを見つめ、さくらが言葉を繋げる。

 「淘太さんを……返してください……」

 さくらが言ったその一言に、香夜子は吐きだした煙から顔を反らし、何かを吟味するような表情を浮かべながら上半身を乗り出す。

 そしてさくらの精いっぱいの強がりで作られた表情を見つめ、鼻を鳴らすと驚くほどあっけなく答えた。

 「いいよ、別に私達に彼を止める義務なんてないからね、それに淘太が求めているのはそんな瀬谷香夜子だし」

 自分の存在意義を奪われるのにも関わらず、香夜子は猫の様に笑うと、薄いくせ毛を揺らして一同に歩み寄る。

 「案外単純やな、せやけど、ここからが大変なんやろ? にいちゃんはこっちの世界を望んでるんやさかい」

 「ええ、その通り、こちらに留まるリスクを知った上で、こんな決断をしてるのだから。

 でも、私がこうしてあなた達と話をしたって事は、恐らく彼も心のどこかで元の世界に帰りたいと思ってる証拠なの。

 だから大丈夫でしょ、私も手伝うし」

 「ほんと? 本当に!? ニュー達を手伝ってくれるの?」

 「共犯者が居たら怖くない……でしょ?」

 驚くほど好意的な反応を示す香夜子の反応に胸を撫で下ろす犬夫だったが、一つ気になっていた事があった。

 普段はやたらと話す事、もとい筆談が好きな赤い部屋が、先ほどから画面を固めたまま一切の言葉を紡がない事。

 冷たい電子機器に入った彼の感情を読み取るなど、初めから無理な事ではあるのだが、今回の沈黙には何か裏がある気がした。

 そしてその理由は、予想外な形で知ることになる。

 「それで? 彼を助けるのには私は賛成だけど、みんなはそれでいいの?」

 「……えっと、どういう事ですか?」

 「だから、淘太がこっちの世界からいなくなる事は、あなた達にとってはデメリットしかないでしょ?」

 香夜子は、そこまで言っても釈然としない反応を返す一同の顔を見ると、首を傾げて煙草をまた一口吸った。

 そして煙を吐き出し、詳細を説明する。

 「私の勘違いなのかな……淘太が知っている情報しか私も知らない訳だけど、香夜子の話ではこっちの世界から彼を助ける方法はひとつしか……」

 そこまで言った時、不意に激しい電子音が響き渡る。

 不意な事で驚き、ケータイを落として再び拾い上げたニューの目に映ったのは、真っ赤な液晶に表示された赤い部屋の文字列だった。

 『ここから先は私に説明させてください』

 耳をつんざくほどの音を立てたのは、自身の意思を示すためではなく、香夜子の声をさえぎるためだったらしい。

 『ここに皆さんを連れてきたのは、淘太さんを助ける為に必要だった訳ではありません。

 正直、彼を救うだけなら私一人でも可能でした』

 「なんや急におまえさん、そんならちょちょっとやればよかろうに」

 犬夫は不信に思いつつも、言葉を投げかける、しかし、返事をしたのは浮かない文字列だった。

 『ですがその前に私は凛さん達と話がしたかった、そしてこれからする話を二人に聞かれたくなかった。

 だからこそ、私はあなた達をこの世界に連れて来て、そしてちゃんとこれからの事を話す必要があると思っていたのです』

 「なんですか? その話って……」

 さくらも画面を覗きこみ、小さな声で返事を急ぐ。

 香夜子と言えば、恐らく彼が言おうとしている内容が分っているのか、気の毒そうな表情を浮かべ、煙草のフィルターに口を付けるだけだ。

 『まず最初に謝らせてください。

 私はあなた達に嘘をつきました』

 この言葉の次に続いた長い文字列。

 それを読み、一同は言葉を無くし、しかしそれでもその作戦を実行に移す準備を始めるのだった。






 「ここね……」

 バイクを降り、マンションの三階へと続く階段を登り終えた凛は小さく呟く。

 そこは赤い部屋が示した部屋だった。

 この中に朝香が居る、淘太をあんな状態にした張本人が居ると思うと、胸の奥から苛立ちが募るのが分った。

 しかし、淘太の身に何かがあれば、ここへ誰かがやってくるのは初めから相手も分ってるだろう。

 無論、今回の事は赤い部屋の情報が無ければここまでやってくる事など不可能ではあったのだが、不意を突いて家に押しかけた所でノックの一つで戸を開いてくれるとも思えなかった。

 しかし、家のチャイムを押すよりも早く、金属製の簡素な扉はあっけなく開いた。

 『お久しぶりです』

 開かれた扉の先、照明を付けていない薄暗い玄関から伸びたのは、そんな一文の書かれたメモ帳だった。

 「本当に久しぶりね」

 凛は予想外な人物との再会に少しだけ驚きつつも、淡々と答える。

 「凛、知り合いか?」

 「一応命の恩人って所、それで? あなたはなんでこんな所に居るの?」

 凛は一孝の疑問に答えると、腕組みをして首から上の足りないコンパイラ。

 首なしライダーを睨み据えた。

 少なくとも凛は過去に彼に命を救われている、だから本来なら彼に感謝の言葉の一つくらい返したい所だったが、状況が状況だけにそういう訳にもいかない。

 彼がこの家に居るとなれば、今回の一件に彼も一枚噛んでいる事になるからだ。

 『彼女が望んだ』

 首なしライダーは少しだけ肩をすくめる様なポーズを取ると、メモ帳にそう書き足して広げる。

 これといって驚く様な素振りを見せない所を見ると、なぜ二人がこの場所にやって来たのも分っているらしい、ならば次に取る行動も分る。

 朝香がこの場所に首なしライダーを待機させた目的は、恐らく二人の行動を阻害するためだろう。

 その考えが脳裏をよぎり、僅かに眉根を寄せつつも、少しだけ強い口調で一孝は口を開いた。

 「あんたは首なしライダーで合ってるか? この際それで無くても構わんけど、素直にそこを退いてくれると助かる」

 何気ない言い回し、しかし僅かに含みのある一言。

 もちろん強気な言葉を使ってはいるが、これがハッタリの類なのは一目で分るだろう、もし首なしライダーがその言葉を無視して何かしらの行動を取った場合は、一孝は力づくでも彼を取り押さえ、凛を部屋の奥に追いやるつもりだった。

 唾を飲み込み、僅かな一瞬すら見逃すまいと集中力を高める一孝だったが、帰って来たのは予想外な一文だった。

 『退く 否定 案内 肯定』

 恐らくは彼が朝香の居る部屋まで案内するつもりらしい、予想外な行動に戸惑いつつも、凛と一孝は揃って靴を脱ぐと、先をゆっくりと歩く首の足りない後ろ姿を追いかける。

 付けていないのか、それとも蛍光灯が切れているのかは不明だが、長い廊下は薄暗く、玄関横の小窓から差し込む僅かな光に照らされるその光景に凛は少しだけ息を飲む。

 一言で言えば散らかっている、そう言えば簡単なのだが、この家の中にはそれだけでは説明できない雰囲気が広がっていた。

 廊下の両端には埃が新雪の様につもり、玄関の隅には洒落っ気の無い靴が一組無造作に置かれている。

 そのくせして、玄関の隅にはしっかりと分別されたゴミ袋が3つ積まれており、掃除をしない割に良くある生活臭や生ごみなどの匂いは一切せず、電化製品店にありがちな、精密機器特有の匂いが充満していた。

 そう、この家には生活感が一切なかったのだ、まるで企業のオフィスや公共施設の一室の様な独特な雰囲気。

 少しだけ注意深く家の中を探索すれば、キッチンにはコンロが設置されて無く、風呂場には洗濯機や洗剤の類すらこの家には無く、玄関に積まれたゴミ袋の中身のほとんどがクリーニング店のビニール袋が殆どなのも分ったであろう。

 それが生活感がこの家に腰を落とさない理由だった、食事は家の外で済まし、洗濯も自分で行わず業者任せ。

 だからこそ掃除をしなくとも家の中に余計なごみは出ず、キッチンから漂う有機物の匂いすらしないのだ。

 衣食住と言う当たり前な生活をとことん効率化し、そして有機的な要素すら全て捨てた様な家の中。

 凛は自身の住まう家を構成する要素に-1で掛け算をした様な家の光景に、少しだけ息を飲んでしまう。

 『この先です』

 首なしライダーはぴたりと立ち止まり、そう伝えると空いていた手でその先にあった扉を指差して壁に寄る。

 恐らくここから先は自分で行けとの事だろう。

 なんて事の無い、ごく普通の扉を一孝は生唾を飲んでからゆっくりと掴み、一気に開いた。

 彼の居る空間と朝香の居る空間を隔絶していた壁は、音も立てずに開きその先に広がる光景を露わにした。

 まず目に付いたのは30インチはあるであろう大きなモニター3つ、そしてそれらに囲まれるようにして鎮座する一脚のオフィスチェア。

 幾つものケーブルを生やし、部屋の角でゆっくりと稼働する大きな機械。

 部屋の中の照明は殆ど切られており、部屋の中はモニターからの光と、厚手の遮光カーテンのの隙間から入るごく僅かな太陽光に照らされてはいるが、何分この部屋を照らすには力不足らしく、朝香と思われる人物の姿は何処にも見えない。

 「居るか?」

 その一孝の声に反応してか、不意に部屋の中心にあった椅子がピクリと揺れ、半回転してその背もたれに包まれていた人物の姿を露わにした。

 最初は単に部屋が暗いせいだと思っていたが、朝香が小柄な為に、単純に背もたれにすっぽりと姿が埋まり、その姿が見えていなかっただけらしい。

 「思ってたよりも遅いものね、赤い彼があなた達の味方なら、もう少し早い物だと思ってたけど」

 薄闇に包まれた朝香の印象を一言で述べると『陰気』や『ミステリアス』などと言う言葉が先に思い浮かぶだろう。

 だが、この続きになる特徴を述べろと言われたら、大抵の人間は歯切れが悪い言い方をする筈だ。

 薄暗い光の中、朝香は先ほどまで寝ていたのか僅かにうるんだ瞳を擦り、膝に乗せていた眼鏡の蔓を甘噛みして広げると、顔に掛け切れ長な瞳をしっかりと開く。

 服装と言えば、流石にいつもの下着姿では無いのだが、ラフに着付けられたワイシャツの隙間からは胸元が僅かに見えてもいる。

 言ってしまえば彼女を構成するもう一つの要素は『官能的』だった。

 その要素は彼女が狙って醸し出しているのか、それとも単にガードが緩いだけなのかは不明だが、朝香は少しだけ唇を舐める様な仕草をしてから椅子に深く座り直して口を開いた。

 「どうもはじめまして、私があなた達の探していた桜井朝香よ」

 彼女の口調は、どこか自信に溢れていた。

 まるでチェック(王手)の掛かったゲームに招く様な、そんな口調に凛は静かに返事を返す。

 「はじめまして、私の名前は小鳥遊凛、って説明しなくても知ってるんでしょ?」

 「ええ……全部知ってるわ、私があなた達からも色々な情報を探っては居るのですから……でもあなた達から探った情報はあくまでも表面的な物、だから心配しなくていいわ、私はあなた達の内面を突く気も、突く方法も持ち合わせて居ないのだから」

 朝香は懐から棒付き飴を取り出すと、その包装をゆっくりと解きながら答える。

 「ならもう俺達がここに来た理由の説明も必要無いな」

 「ええ……分ってるわ、お友達を返してほしいのでしょ?」

 朝香は悪びれる様子も見せず、飴玉を咥えると鼻を鳴らして答える。

 その姿を見ていると、この場所に来る時から膨らんでいた苛立ちが一層大きくなる気がした、大切な相手を私利私欲の為に利用しておきながら、当の本人は罪悪感の欠片も感じていないのだ。

 まるで借りていた本を返しそびれ、今になって思い出した様な軽い口調。

 わざわざ謝る必要も無いと感じているのか、彼女は飴玉を口から抜き取ると、文字通り甘い吐息を吐いて言葉を重ねた。

 「彼はきっとあなた達にとってとても役に立つ人なのね、だからそんなに怖い顔してここまでやって来た。

 だってそうでしょ? きっとそうなのよ、彼は私みたいな役立たずじゃない、だから必要とされているのよ、それってとっても素敵な事よ」

 簡略化されたグレープの匂いが少しずつ広がる室内、彼女は舌舐めずりの様な仕草をすると、再び飴玉を咥えてキーボードを叩き、液晶画面の表示を切り替える。

 「データ取りだけじゃホントに勿体ない人材ねぇ、佐野淘太って人間は、役立たずで必要とされない私とは大違い……」

 目を細め、液晶に吐きだされ続ける文字列を読み取りながら、朝香は小さく呟く、その一言で凛の頭の中で何かが爆ぜた。

 「ふざけないで! 役に立つ? データ取り? 人をまるで道具か何かみたいに言わないで!!」

 「……っ! おい凛」

 半ば悲鳴にも似た罵声、苛立ちがついに堰を切って溢れだした事を、怒鳴った後に気が付く凛。

 先ほどからの朝香の態度が気に食わなかったのもある。

 しかしそれ以上に、淘太に向けられたであろう言葉、それが何よりも気に食わなかった。

 「へぇ……」

 朝香は最初こそは驚いたものの、椅子から身を乗り出すと、息がかかるほどの距離まで近寄り、凛の瞳を凝視する。

 そしてレンズの奥、瞳を細くし口端を吊り上げると、再び椅子に腰かけて何か悟った様な口調で呟いた。

 「さっきのは訂正するわ、大切な人ってのが正しいのかしら? それは同居人として? それとも……一人の女として?」

 「……っ!」

 不意に付けたされた最後の一言の意味が分り、凛はピクリと震える。

 「正解のようね……そうね、確かに彼は優しそうだし、見た目も悪くないしね。

 当然な事と言えば当然な事だから、私もお手伝いしてあげたいんだけど、そう簡単にはね?……」

 「どういう事や」

 やたらと粘り気のある視線で、凛を品定めするように見つめていた彼女に、一孝は言葉を返す。

 どうせ『実験の邪魔になる』そう答えると一孝は思っていたのだが、帰って来た言葉は違った。

 「だから、私は淘太を返してあげるつもりなの……いいえ、返そうとしているのよ」

 「じゃあどうして……」

 「あら? あなた達何か勘違いしているみたいね、私はこの実験は一時的な物として始めたつもりよ?

 彼が死んでしまうまで続ける気なんて初めから無いの、最初の数日、それが過ぎたら私は彼を解放するつもりだったの、でもね……厄介な事になったの」

 ため息をつき、悩ましげに額に手をやると、朝香は言葉を続けた。

 「いいえ、彼が自分でこの自体をややこしくしたと言えばいいのかしら?

 あなた達も知ってるかも知れないけど、彼の意識をあっちの世界に連れて行った道具、それはこのVRS-2の影響ね、もちろんこれはサンプルであって、彼に装着されている物とは若干違うけど……」

 朝香は机の隅に置かれていた小さな機械をつまみあげると、一孝の手の中に投げ、そして言葉を繋いだ。

 「そしてその隅で動いている大きなのがVRS……私は無印と呼んでるその機械で、この町のコンパイラを作り出した。

 そこまでは分ってると思うけど、実はそのVRS-2は、そこの無印の端末の一つにしか過ぎないの、彼の意識をより確実に取り出すためのね、そこから送信された情報を元にこの無印が意識を操作。

 だから彼の意識はこちらからモニター出来る、そしてこの端末を操作する事で、彼の意識を安全かつ確実にこちらへ呼び戻す事だって可能な筈だったの……」

 「それなら早く戻してくれよ、早くしないとあいつは……」

 一孝の一言、それを上書きする様に、朝香は言葉を紡いだ。

 「だからさっき言ったでしょ? 厄介な事になったって。

 VRS自体、機械的なプログラムを人の意識に書き換える道具、だからこそ逆の事も可能なの、意識をプログラムにして機械を操作する。

 あなた達も知っての通り、赤い部屋の見せる特技がそれよ。

 そして淘太が無意識で行った事もそれね、彼は意識の奥底で、VRS-2が他人から操作されない事を願った。

 だからそれに答えVRS-2は自身のプログラムを操作、その影響で私からのアクセスを全部拒否、結果私の力では彼の意識をこちらに呼び戻す事が出来なくなったの」

 朝香は自嘲気味た様子で言いきると、飴をかみ砕いて目を閉じる。

 「だったら、淘太に付いているVRS-2を直接外せば……」

 「無理よ……VRS-2が装着されている場所は、彼の口の中、本人の意思が無い限り容易に取り出す事は出来ないの、それに彼の防衛本能は健在よ、無理に押さえつけようったって、暴れてそれどころじゃなくなる、暴れる彼の口の中に手を突っ込んで、彼を傷つけないで機械を外せる訳が無い……同じコンパイラなら彼の世界に干渉する事は可能かもしれないけど、それだけじゃ彼の意識をこちらに連れ戻す事なんて無理なの」

 朝香は淡々と話し続けるが、先ほどとは違う口調から彼女が内心では反省しているのが見てとれた。

 悪びれる様子が無いわけでは無かった、強気に、そして無関心を装っていなければ自分のやった事の罪悪感に押しつぶされてしまう。

 だからこそ彼女は現状を面白がるように、そして他人の不幸など気にも留めない口調で語っていたのだ。

 「ただ一つ……彼を助ける方法はあるわ」

 短い沈黙の後、朝香は口を開いた。

 そして再び、何か判断に迷うような素振りを見せ、黙り込んでしまう。

 「助ける方法って?」

 「……それは……」

 朝香は部屋の入り口で立ちつくす首なしライダーを見てから、歯切れ悪く言葉を紡ぎ、今度はVRSを一瞥して黙り込んでしまう。

 「早く話して、時間が無いんでしょ?」

 凛の急かす声に反応してか、朝香は爪を噛み目を明後日の方向へ走らせてしまう。

 単に話したくない内容と言うよりは、先ほどからちらちらと首なしライダーを気に留める仕草をしているところを見ると、寧ろ彼に聞かれたくない内容らしい。

 「ちょっといい加減に……」

 しびれを切らした凛を止めるように、首なしライダーが彼女の肩を掴んでからメモ帳を差し出す。

 『私達を殺す事です』

 「……どういう……」

 『VRS-2を制御しているのは私達を作り出した無印です。

 つまり、そこにあるVRSを破壊すれば淘太さんを救う事が可能です』

 予め用意していたページを開く首なしライダーを見て、不意に朝香は立ち上がり、金切り声で叫んだ。

 「それはダメ! 絶対に……それは絶対に……」

 演技や伊達では無い悲痛の言葉、彼女自身首なしライダーが自らこの事を伝えるとは思っていなかったらしく、予想外の展開だと見てとれた。

 そして彼が伝えた事実こそ、彼女が言え無かった真実だった。

 淘太を救う為にVRSの機能を停止、首なしライダーを含んだ全てのコンパイラと引き換えに彼を救う方法。

 もちろん、これを実行した場合、ニューも犬夫も、そしてさくらやキサラまでもがこの世界から消えていなくなる事を示していた。

 『私達作られた物にすぎません、悲観する必要なんてありません。

 そして何より、私達の存在が誰かを傷つけるなど避けたいのです。

 佐野淘太を救うために、私達を捨ててください、それが私の願いであり、淘太を知る全てのコンパイラの願いでもあるでしょう。』

 「それは嫌……それだけは……」

 置いてけぼりにされた子供の様に涙を浮かべ、悲痛な表情を浮かべる朝香の元に、首なしライダーは歩み寄ると、そっとその肩に手を添える。

 優しく彼女に手を添える仕草は優しく、恐らく彼に顔があるのなら笑顔を作っていた事だろう。

 彼はメモ帳のページをめくると、予め用意されていたテンプレートを見せる。

 『私はコンパイラですが、VRSを止める力などありません、だからこそあなたの手で停止させてください。

 そして最後に一つ聞かせてください。

 私はあなたの役に立てたでしょうか? もしあなたが肯定してくれるのなら私には何も未練はありません。』

 「そんな事出来るわけ……」

 朝香は震える指で顔を覆い、床に座り込んでしまう。

 彼女だって分っていた、首なしライダーが伝えた事を実行するのが正解だと。

 だが、そんな事出来るわけがない。

 その気持ちはその部屋に居た全ての人間も感じ、一同が黙り込んでしまったその時だった。

 部屋のモニターの一つが不意に赤く染まった。

 最初はスクリーンセーバーの類かと思ったが、だらだらと見覚えのあるメイリオ体が並んだとき、それが赤い部屋だと気がついた。

 「赤い部屋……?」

 呟いては見るが、その画面は声に反応せずにただ一つの単語を表示させている。

 その文字は。

 『Bye Bye』

 だった。

 なぜ不意にそんな文字を表示させたのか、その意味が分った刹那の時、画面が真っ黒に染まり部屋の隅で何かが弾ける音が響く。

 音の主は先ほどまで羽虫の様にか細い音を立てていたVRSである、ポップコーンが弾けるような、さほど大きくは無いが明らかに電子機器から聞こえる事の無い音。

 VRSはあちこちで光らせていたランプを消すと、部屋の中に基盤の焼ける不快な臭いと煙を流して完全に機能停止に陥る。

 刹那部屋の中心に居た首なしライダーの体が、ジグソーパズルの様に崩れ、その破片は床に落ちる事無く色素を失って消えてゆく。

 初めは手や足の末端、そこから徐々に中心に亀裂は広がるが、その様子に焦りの色は見えない。

 事態をいち早く悟ったのか、朝香は彼の体にしがみ付くが、亀裂の進行は止まることなく広がり、そして音も立てずに崩れ消え去ってしまう。

 「あ……ああ……」

 「何が……」

 一孝は小さく呟いてはみたが、本当は何が起きたのかは分っていた。

 赤い部屋が淘太を助けた、自身らの存在と引き換えにVRSを破壊して。

 凛もまた部屋の隅で僅かに白煙を上げる機械を見て、呆然としたまま黙り込んでしまう。

 首なしライダーが消えた様に、恐らくこの町に住まう全てのコンパイラも同じように消え去ったのだろう。

 だからこそにわかには受け入れられない事実なのだ、いや、受け入れたくない事実が正解なのかも知れない。

 焦げくさい臭いの充満した室内、これまで誰も感じた事の無い沈黙を破ったのは、朝香の悲痛な叫び声だった。

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