スワンプマン

 「ちょっと待って!」

 暗がりに消えるその影を止めるため、自身が声を発してた時、初めて自分が重い沈黙に満たされた部屋を飛び出していたのだと気が付いた。

 淘太に『女は殺された』そう伝えた男は、あの後何も言わずに家を出て行った。

 彼が一体何者なのか、そして淘太とどのような間柄の人間なのかも分らない相手の事が気になったのも事実ではある。

 しかしそれ以上に気になった事は、淘太自身の過去である。

 時折困ったように眉根を寄せ、苦笑いを浮かべる淘太の姿を見かける事はある、そしてそのあとに続くのは人懐っこい笑顔なのも知っている。

 しかし、彼があそこまで露骨に他人に怯え、そして何か後ろめたい気持ちに脂汗を浮かべる姿は見た事が無く。

 その感情はこの男自身ではなく、彼の言った姉の存在が関係している事も直ぐにわかった。

 「……なんだお前か」

 男は凛の声に気が付いたのか、ゆっくりと振り返ると、色の薄いくせ毛を揺らせる。

 「あの……えっと……」

 凛は呼び止めたたはいいが、何と声をかければいいのか分からず、乱れた呼吸を整えながらしどろもどろに話し始める、しかしまともな言葉は出てこない。

 「さっきの話だろ?」

 「……そう!」

 「やっぱり本人からは聞いてないのか」

 男は大きくため息をつくと薄暗い街灯の下、鋭い目つきで凛を貫く。

 「何を? ねぇ、淘太は一体……」

 「お前はあいつの何だ? 先にそれだけ聞かせろ」

 突然の問いに驚きつつも、凛は口を開く。

 「それは……同居人なのかな、私たちシェアハウスしてるの、それで……」

 「だったらあいつに近づくのはやめとけ」

 男は凛の言葉を最後まで聞かず、それだけを言うと再び歩き始める。

 「待って! 訳が分んないよ、まだ話は途中でしょ!」

 そんな男の背中に食いつくように、凛は大声を上げて抗議する。

 本当に咄嗟の事ではあったが、男の歩みを止めるには十分な効果があったらしい。

 しかし、気だるげに振り返る男の威圧感に恐怖を感じ、思わず後ずさりをしてしまう。

 「めんどくさい女だな……」

 「よく言われる」

 強がって見せるが、自分の声が少しだけ震えているのが分った。

 「……今度のご主人さまはこいつか……」

 「ご主人様?」

 「まぁいい、あんたホントにあの駄犬の話を聞きたいのか?」

 「うん……」

 男の言った『ご主人様』の意味が分らなかったが、とりあえずは話を進めようと凛は頷いて答えた。

 すると、男はまた大きくため息をついてブロック塀に背を預けると、ゆっくりと話を始めた。

 「俺の姉の名前は香夜子だ、自分で言うものあれだが、正直よくできた姉だったよ。

 俺なんかとは違い高そうなスーツ着て、数々の難事件を解決して、そして誰にでも明るく接して、誰からも好かれて。

 そこに何処の馬の骨かもわからないような奴が転がり込んできた。

 そいつがあんたの知ってる淘太だ」

 夕樹は腕を組み直し、街灯の明かりの下再び口を開く。

 「姉貴は大層あの男を気に入ってな、今あんたらがやってるような生活を始めた、家族や恋人でもねぇのに一つ屋根の下暮らして、仲良くテーブル囲んで何さまだよって思ったよほんと。

 とは言っても、姉貴のやる事にいちいち口出しする訳にも行かねぇし、ほったらかしてたんだ、そしたらある時妙な事が起きた……

 突然俺が住んでたアパートに警察が電話してきて、妙な事を言い出すんだよ。

 『あなたのご家族はお亡くなりになりました』ってな。

 警察の話によれば、姉貴は夜中崖から落っこちて滑落死したらしい」

 「でもさっき殺されたって……」

 凛はふと気になり声を上げる。

 「最初はあくまでも事故か自殺って思われてたからな、だけど今さらになって目撃証言が上がったんだ、だからその事を俺は伝えに来た」

 「それだけじゃ、あなたが淘太を嫌っている理由がよくわかんないんだけど……」

 「だろうな、だけど、姉貴が死んだ時、同じ場所にあの男が居合わせていたってなれば話は別だろ?

 さらに言うと、あの男は姉貴の葬式にも顔を出さなかった……いやそれどころか、事故起きてから直ぐにあの男はどっかに消えた。

 俺に連絡も入れずに『香夜子は自殺なんかじゃない』なんて散々ぬかした後にな」

 「それはきっと何か理由が……」

 凛の声が罵声にかき消されたのは次の瞬間だった。

 「ああ! 理由はあっただろうな、いや、理由が無くなったからあいつはどこかに消えた! 尻尾振って紐で繋いでいるご主人が居なくなったから、野良犬みてぇに恩も返さずにあの男は消えたんだよ! 

 あいつは誰だって良かったんだ、頭撫でて『よしよしいい子だね』って言ってくれる奴なら、誰でも良かった!」

 怒り任せの激しい罵声に思わず身を竦めつつも、凛は彼が言った『ご主人様』の意味がわかり納得する。

 夕樹は満足したのか、それとも怒鳴った事で気まずくなったのか、小さく咳払いをすると、凛に背を向けて歩き始める。

 初めからこんな事話すつもりじゃ無く、この場所にも長居する気も無かった。

 後ろからまだ声が響くが、自分には関係の無い事だ。

 もう二度と会わない相手、夕樹にとっては赤の他人に過ぎない。

 そう思っていた背中を、今度は別の声が叩く。

 聞き覚えの無い女性の声、夕樹はため息交じりに再び振り返るが、そこにはやはり見覚えの無い人間がいる。

 そしてその女の後ろに居る存在に驚き、息を飲んだ。

 首から上の足りないライダー、首なしライダーである。

 見なれないその異形に恐怖し、地面に落ちていた空き缶につまずいて尻もちをつく、それでもこの異形から距離を取ろうと地面を掻くが、思うように進む事が出来ない。

 「怖がる必要な無いの、あなたは知らないんじゃない、忘れただけ。

 この首なしはあなたの兄弟のような物よ、何も怖がる必要は無いの……」

 首なしライダーの前に立っていた女が、艶のある声を響かせ夕樹に歩み寄る。

 「あいつは……あいつはなんだよ!」

 「彼? 彼は首なしライダー……それが正しい呼び名みたいね」

 「なんだよそれ……」

 状況が飲み込めず、呼吸困難に陥っているかのように口を動かす夕樹の姿に、女は狡猾な笑みを浮かべると、首なしライダーの持っていたメモ帳を取り上げ、彼の横にしゃがみ込む。

 「ねぇ……知ってる事教えてちょうだい」

 「なんだよ……俺に何の……」

 「だから知ってるでしょ? 全部、あの家の男、名前は確かトウタって叫んでたかしら?

 私は見てたのよさっきのやり取り……全部知りたいからあなたに聞くの」

 一体何を聞かれるのか、恐怖に取りつかれていた彼の思考を、彼女の問いは予想外な方向から撫でつけていた。

 「あんたに話す義理なんて無いだろ」

 目の前の女が一体淘太とどのような関係なのかは不明だが、夕樹は震える喉を押さえつけ、精いっぱいの強がりをして見せる。

 しかし、返ってきたのは妙に余裕のある、女の不敵な笑みだった。

 「いいから話しなさい、どうせあなたは私に嘘をつく事なんて出来ないの……だってそうでしょ? あなたは元々透明なのだから」

 女の意味不明な言葉、夕樹にはその意味は分らなく、普通なら首を傾け悪態をつく筈だったのだが……

 「あの男の名前は佐野淘太……俺の姉貴の家に居候させてもらってたんだ……あいつ……だけど姉貴がある時誰かに殺された……その時からあいつは……家を出て……俺とは連絡も取らず……」

 自分自身この話は誰にでもしたいわけじゃない、ましては素性も明らかではない上異形を連れた人間に話しかける義理も無い。

 その筈なのに、なぜか彼女の問いに答えてしまう。

 途切れ途切れで力の無い声、それが自分の意識を無視してあふれ出て行く。

 「そう……それであなたはどうして彼に怖がられてるのかしら?」

 更に言葉の続きをせがむ女の声、それを聞いた途端、自分の意思を無視した声が自分の中から溢れてくる。

 「俺は……香夜子の弟だ……淘太は姉貴を置いてどこかに消えた淘太を……毛嫌いしていると思っている……昔から仲が良かったわけでも……無い……」

 「それで? 彼はどうやったら私の物になるかしら? あなたのお姉さん……それが必要?」

 何が起きているのか訳が分らなかった、自分の意識を無視して口を突いて出る回答の羅列、ある種の催眠術にも似た得体の知れない現象。

 正直逃げ出したくてたまらない状態なのにもかかわらず、夕樹はその言葉に反応してしまう。

 まるで自分の中にもう一人の誰かが乗り移ってるかのように、言葉は続けられる。

 そしてそのもう一つの自分は、彼女の問いかけの意味を全て理解したかのように、小さく口を開いた。

 「……必要……それなら可能だ……」

 「そう……」

 女は満足したのか、小さく鼻を鳴らすと立ち上がり、首なしライダーを連れてその場を後にする。

 時間にしてはほんの数分……そんな出来事だったのにもかかわらず、夕樹は全身の汗が噴き出すのを感じていた。

 「なんだよ今のは……」

 疲労からでは無い、得体の知れない恐怖にさらされたせいか、自身の足は動かず、ただ去りゆく二人の背中を見る事しか出来ずにいた。






 「そこに居るんですよね? 凛さん」

 早朝、まだ僅かに肌寒さも残る駅前で淘太は振り返り、破かれたビラの端が申し訳なさそうにへばりついた電柱を見る。

 本人は隠れているつもりなのだろうが、電柱一本のスペースは人が隠れるには狭かったらしく、淡いオレンジ色のパーカーの裾が電柱の隙間からはみ出している。

 「……」

 だんまり決め込んだ凛の無言に対し、小さく淘太はため息をつく。

 「そこに居るのはわかってるんですよ……小鳥遊凛さん」

 「……わ、私は凛さんじゃないですよ!」

 「昨日の事、気にかけてくれてるのはわかってます」

 淘太は凛の苦し紛れの言葉を無視すると、どこか諦めたような声で答える。

 「……」

 「昨日あの男が言った事の意味が分らなくても、俺にとってどれだけ重要な事なのか、あの場に居たら分りますよね。

 俺がこんな町に住んで、誰ひとりとして知り合いをあの家に招こうとはしない、その理由があれですよ。

 だからこそ約束してください、あの件に関しては一切触れないと」

 今までとは違う、静かだがどこか高圧的な声、それを聞いて凛は申し訳なさそうに電柱から顔を出す。

 「私は淘太が……」

 「あんなもん見たら首を突っ込みたくはなると思います、だけど俺は何も話す気はありません。

 心配するも同情するも凛さんの勝手ですけど、これ以上触れないでください」

 昨日の一件以来淘太の様子がおかしい事は目に見えていた。

 昨日来た男は明らかに淘太の古傷を抉っていた、凛の知らない淘太の過去、そこを強引に引っ掻くように。

 「でも……」

 「幾ら同じ家に住んでるとは言っても、あなたは他人なんです。

 最初に約束しましたよね、必要以上の事は干渉しないって」

 「……」

 淘太の短い言葉、それは今まで彼が口にしたどの言葉よりも鋭利だった、まるで割れたガラスのような、本人すら意識していないであろう透明な凶器。

 それを眼下に突き付けられ、凛は胸がズキズキと痛むのを感じる。

 そんな凛の心情を察してか、淘太は誤魔化す様に言葉を繋げる。

 「それに、ただ仕事に行くだけなんですよ、ちょっと遅くなりますけど夜には帰ってきます、晩御飯は何がいいですか?」

 不意に作られたいつも通りの笑顔、今まで気づく事が無かったが、この表情は淘太の本当の顔ではなかったのだと凛は気が付く。

 あまりにも使う頻度が多すぎたために、それがある種の感情を誤魔化すために作っていた物だと気が付かなかったのだ。

 「……私は……」

 「大丈夫ですよ、俺はいつも通りです」

 淘太の笑顔に押され、凛は胸の奥にあった言葉を無理矢理飲み込むと、ぎこちなく笑い淘太に短い別れを告げる。

 「夜にはちゃんと帰ってきてね、じゃなきゃ飢え死ぬ」

 無理矢理作ったいつも通りの馬鹿らしい会話。

 その返事に満足したのか、淘太は小さく手を上げて返事をすると、改札へと足を進める。

 「いってらっしゃい!」

 「いってきます」

 淘太に初めて言った短い別れの言葉、それを言い終えると凛は大きく手を振る。

 それに背中で答え改札へと消えて行った淘太を見つめ、ふとその視界がぼやけていくことに気が付いた。

 訳が分らずおろおろとしながら目元をぬぐって、ぼやけた視界の原因を見つけると、静かに彼女は足元に視線を落とす。

 行き場が無くなり落とした視線の先には、当たり前のアスファルトの地面が広がっているが、再び歪んでゆくのを感じて再び凛は目元を袖で拭う。

 初めから分っては居たのだ、所詮は他人同士だと、たまたま同じ場所に住んでいたために少しだけ仲良くはなれた、それだけの事だ。

 凛に彼の内面に触れる権利など無い。

 淘太が言った『あなたは他人』という名前の言葉の刃物。

 その言葉を受けた凛はずきりと心が痛んだが、それ以上にそんな事を口にした淘太の心情を考えると、凛はひと際胸が痛んだ。

 夕樹から大雑把な事情は聞いていたが、その時の出来事が淘太にとってどれだけ辛い事だったのか、それは予想を大きく上回っていた。

 少なくとも誰かに悟られるのを避けるように、正確には誰かに悟られ自信があの出来事を再び思い返さないようにしていたのだ。

 気だるげに見える人懐っこい笑顔、それは彼にとっての盾だった。

 淘太を襲った過去は、それだけ武骨な盾を持ち歩かないといけないほどに淘太を傷つけ、深く心を衰弱させていたのだ。

 強がりに言った言葉で誤魔化してはいたが、誤魔化す相手が居なくなった途端、凛は涙をこらえる事が出来なくなっていた。

 「……あんまりだよ……」

 小さな凛の嗚咽は、静かなホームに広がる電車の走行音にかき消されていった。






 『昨日の出来事』

 首なしライダーは薄暗い部屋の中、メモ帳を掲げる。

 部屋の中には所狭しとケーブルを延ばす機械の駆動音と、思い出したように鳴っては止まるキーボードを叩く音だけが響いている。

 首なしライダーは肝心の相手がメモ帳に気づいていないと判断し、椅子に座り、目前に広がる文字列を目で追っていた女の肩を叩く。

 「ん? なぁに?」

 それに答えるように目の前に差し出されたメモ帳を見ると、彼の言いたい言葉を理解して口を開く。

 「思ってた以上に上手くいったわよね、私も正直予想外」

 『やりすぎでは?』

 「そうかしら? どうせあの男だって透明なのよ? だったら私の好きにしてもかまわないでしょ?」

 『如何な物かと』

 首なしライダーは困った様にメモ帳を広げると、肩をすくめるような動きをする。

 もちろん首から上の足りない体では、若干意味が分りにくい仕草だったが、彼の意図を読み取った女は小さく笑って答える。

 「彼は初めから私の物なの、だから好きにしてもかまわないでしょ? それよりも私は淘太が欲しいの、あなたにはその意味が分るわよね?

 でもいくら欲しくても彼は私の物には早々ならない、だって透明じゃないでしょ、だから色々と策を練るの、そのために私はあの男を使っただけ……」

 『感情 否定?』

 「当たり前よ、全部私の物なんだから。

 それよりもさっきからあなた五月蠅いわね、あなたは私の言いなりでいいの、わかる?

 わかったならそのメモ帳捨てなさい、私がいいと言うまでね」

 首なしライダーの反発が気に入らなかったのか、女は少しだけ強い口調で言い放つ。

 それに対して首なしライダーは反抗しようとしたが、自身の意思とは反して手帳を彼女の机の上に置いてしまう。

 「お利口さんね……」

 女はまるで犬か何かに言うように軽く褒めると、パソコンのモニターの一つに手を掛けて引き寄せる。

 金属製のアームで固定されていたそれは、バネ仕掛けで音も無く動き、首なしライダーの本来なら顔がある場所の真ん前で止まる。

 「念の為の確認だったけど、やっぱり死んでるわね、瀬谷香夜子。

 原因は事故死、崖から落っこちてね。

 ほんとロマンチックだと思わない? 自分に幾らでも尻尾を振ってくれる相手を捨てて一人崖底にキスをしたのよ

 熱い熱い口づけ、頭がおかしくなるくらい熱い口づけよ、だから彼女は本当に頭がおかしくなって飼い犬を捨てて何処かへ行ったのよ」

 モニターに表示されていたのは、数年前のニュース記事だった。

 被害者の年齢と性別、そして名前の欄に書かれた『瀬谷香夜子』の文字。

 「あら? 不満そうね。

 でも大丈夫よ、誰も損はしないの、確かに最初は痛いかもしれないけど、私の物になったら淘太は幸せになれるの、ずっとずっとね。

 そして彼が幸せになれたら、次は私の番、まずはあなた達を透明にして、そのあと私も透明になっちゃうの。

 そうしたらもう誰も辛くない、素敵な世界に行けるのよ?」

 女は酷く澄んだ瞳を右へと動かすと、棚の中に置かれた小さな機械を見つめる。

 大きさは親指大の小さな金属と樹脂の固まり、空豆のような形をしたその機械は、本体には不釣り合いな長さの針を数本備えていた。

 「透明になっちゃうの……幸せになっちゃうの、こんな世界を捨てて私は幸せに……ねぇそれって素敵だと思わない?

 嫌いな物は捨てればいいの、ほしい物は作ればいいの、そんな世界に行けるのよ?

 だから早く淘太が欲しいの、きっと彼は私と同じだから……」

 女は小さく笑うと、その機械を手に取り、ケーブルでパソコンと繋ぐ。

 すると機械の接続を確認したパソコンはあるソフトを起動させ、液晶に『VRS-2』の文字が写し出す。

 そして、少しだけ遅れて表示された大量の文字列を読みとり、彼女はキーボードを叩き始める。

 首なしライダーはどこか楽しげで、使命感のような物も感じさせる彼女の後姿から、後ろにある大きな機械に視線を動かす。

 元々は企業用のサーバーを改造して作られたその機械を見つめる。

 その機械の隅に小さく書かれた『VRS』の文字。

 自分が意思を持った時には、すでに僅かな駆動音を響かせていたその機械。

 その武骨な機械の外装を見て、首なしライダーは複雑な思いを寄せるのだった。






 「違う違う! これじゃないだろ……」

 一孝は一人レポート用紙を丸めると、部屋の隅に置かれたゴミ箱へと投げ込む。

 部屋の隅には彼が投げたと思われるレポート用紙が散乱しており、先ほどのごみ箱もまた、一人大きく口を開け、その中身を溢れそうにしながらぽつねんとしていた。

 一孝が先ほどから書いては捨ててを繰り返している用紙、それには鉛筆で殴り書きされた箇条書きの文字列が並んでおり、その文字列を目でなぞれば、そこに書かれているのは彼の書く物語のあらすじだと分る。

 そう、彼はこれから書こうとしている物語のストーリーを練っていた。

 「こんなんじゃつまらねぇだろ……」

 一孝は一人ぼやくと、また一枚ページを破り捨てる。

 こうしてストーリーを考えていると、自分の頭の固さがひしひしと伝わってくる。

 彼自身良くわかっていた、自分が書く話はつまらなく悲観的な物ばかりだ、だから自分の本は受け入れられない。

 だったらもっと面白い内容を考えればいいと、彼はこうして今日も机とにらめっこをして知恵熱を出しては唸る。

 それが彼の日常であり、現実だ。

 「おいにいちゃん、あんましムキなってると、出来るもんもできへんで」

 いつの間にか空いたままだった扉から犬夫が入り込んでいたらしく、その声に驚きつつもゆっくりと振り返る一孝。

 「余計な気遣いありがとな」

 一孝は聞きようによっては皮肉とも取れる言葉を呟くと、背もたれに体重を預ける。

 そんな彼の疲れた表情を見て犬夫は気まずそうな表情を浮かべ、犬がそうするように、彼のベッドに駆け上がってため息をつく。

 「なんやお前さん……妙に疲れとんな」

 「プロット考える時が一番つかれるんだよ……俺に頭脳労働は不向きだ、それに……いや、何でもない」

 一孝が一瞬言いかけてとどまった言葉、その続きが気になった犬夫は話を掘り下げる。

 「なんや、なんかあったんか?」

 「いや、昨日色々あってだな、それよりおやっさんは随分と暇そうだな」

 一孝は僅かに含みのある言葉を言った後、会話の向きを変えるために話題を作る。

 犬夫は更に疑問符を浮かべるのだが、一孝の意図を読み取ったのか小さく唸ると、ベッドの上で器用に胡坐を組んで小さく唸る。

 「ワイは暇やで、なんせ都市伝説やさかいな」

 「随分と呑気なこった」

 「せやかて、ワイとて無駄な時間を過ごしとるわけやなかで、ちゃんとお前はんの家の周り見回りしとんのやで」

 犬夫の行動範囲はここ最近で大きく狭まった。

 昔は緑川町を隅々まで自由気ままに歩き回り、そしてただ目的も無く時間を潰していた。

 しかし、この3LDKの住人と知り合ってからは、この家を中心に出歩く事が多くなり、暇となれば毎日のようにこの家に上がり込んでは雑談に花を咲かしている。

 「パトロールねぇさすが犬だ、おやっさん警察犬目指したらどうだ?」

 「人の顔した警察犬なんておるわけ無か!」

 犬夫は小さく突っ込みを入れると、鼻を鳴らしてベッドへ仰向けに寝転がる。

 「で? 最近町に変わった事あったか?」

 「特に目立った事は無かよ、いつも通りの緑川町やこれとておもろい事も無か小さな町や……いや、そういや……」

 「ん? 何かあったのか?」

 不意に何かを思い出した犬夫は、顔を上げて一孝に向き直る。

 「ワイは一応犬や、せやから鼻はごっつう利くねん、せやからこの町の匂いもちゃんと覚えとるし、誰が何処を歩いたのかも大概はわかるんや」

 「お前気持ち悪いな……」

 一孝の小さな言葉に、『五月蠅い』と言って反発すると、彼は言葉を続けた。

 「あんな、最近妙な匂いするねん」

 「匂い?」

 「せや、人の匂いや、この辺に最近までは無かった人の匂いがするねん」

 一孝は犬夫の言葉が気になり、少しだけ身を起こすと懐から煙草を一本取り出して咥える。

 「どんな人の匂いなんだ? というか、普段来ない人間もここには来るもんだろ」

 「せやな……女の匂いや、そんでワイが妙に気になっとるのは、その匂い、前にもどこかで嗅いだ覚えがあるねん、昔懐かしいような、兎に角妙な匂いするねん」

 「女の匂いがどうのこうのってお前ホントに気持ち悪いな……」

 一孝は小さく笑うと、机に置かれていたマッチで煙草に火をつけて立ち上がる。

 「失礼な……ん? どっか行くんか?」

 「飯だよ飯、腹減って仕事ならねぇ」

 一孝は時計を指差すと、開けたままになっていた扉から部屋を出る。

 その後ろ姿を慌てて追いながら、犬夫は言葉を続ける。

 「せやから、その匂いが妙なんや、ホントにワイが良く知ってる匂いなのに、どうしようにも思い出せないねん」

 「雌犬のフェロモンに反応してんじゃねぇの?」

 一孝は小さく皮肉を言いながら、階段を下り、キッチンの前に立つ、そして半分ほどの長さになっていた煙草の火を、シンクに溜まった水で消すとゴミ箱へと投げ込む。

 「つくづく失礼なやっちゃの」

 「正直者だと言ってくれや、なぁ犬夫、これ作り方分る?」

 一孝は彼の言葉を軽く流すと、棚の中にあったレトルトカレーの容器を犬夫に見せた。

 「そげなもん、お湯に入れたら完成やろ、お前さんそげなことも出来んとか」

 「いや、普段キッチン立つ事無いからねぇ」

 一孝はポットの中にあるお湯を鍋へ移し替えると、IHコンロへセットして加熱を始める。

 「そういや、あのにいちゃんは出かけとるんか?」

 犬夫はふと気になった事を問いかける、この家に来た時、庭で自身のバイクを無言で磨いている凛は見かけたが、淘太の姿は何処にも無かった。

 一孝がこうして慣れないキッチンに居る事を見ると、恐らく淘太はどこかへ出かけているのだろう。

 「仕事に行ってる、あいつなんだかんだ言って売れっ子だからねぇ」

 「そういう事な……ってお前さん!」

 「ん?」

 犬夫は一孝の行動を見て愕然とする。

 一孝は犬夫の説明通り、お湯の中にレトルトカレーを入れていた。

 「どうした?」

 「どうしたや無くてやな、どうしてお湯の中に入れとんのや!」

 「さっきおやっさん言ったでしょ? お湯の中に入れろって」

 「ワイが行ったのはそう言う事やなか、封を切らずに入れろと言ったんや!」

 一孝はレトルトカレーをお湯の中に漬けこんではいた。

 問題は、彼が丁寧に封を切り、中身だけをお湯に漬けていた事である。

 「え!? まじで?」

 「ほんまや! なんでそげな事も分らんねん!」

 犬夫の叱咤浴びながら、出来そこないのスープカレーになった昼食を見つめてため息をつく一孝、とりあえず空になったパックは捨てようとした時、妙な事に気が付いた。

 「あ……」

 「今度はどげんした」

 「淘太、包丁忘れてる、あいついつも仕事の時は持っていくのに」

 一孝は、レトルトの封を切るのに使った包丁を犬夫に見せると、首をかしげるのだった。






 車窓から見える景色は、右から左へと駆け足で過ぎて行き、その姿を次々と変化させて行く。

 最初に電車に乗った時は手入れもされず、好き放題に枝を伸ばした木々の中、小さな商店やら民家などがひっそりと身を潜めているだけの物だったが、暫く時間が経てばその草木は防風林へと姿を変え、明るい日差しの抜ける隙間からは、青く澄んだ海辺の景色が姿を現す。

 遠くには白い灯台と風力発電の風車、風に乗りゆっくりと力強く回るその羽を瞳に写し、淘太は物思いに耽っていた。

 凛達には仕事だと言ったが、今回の外出の目的は違う。

 もちろん嘘をついた事に僅かな罪悪感は感じてはいたが、だからと言って本当の目的を丁寧に話す間柄でも無いと自分にいい訳をして、自身の家を後にしていた。

 「乗車券を確認します」

 不意に頭上から掛けられた声に反応して顔を上げると、淘太は懐に仕舞っていた切符を車掌に見せ、何も言わずに懐に戻そうとして、そこに印刷された文字を見つめる。

 「本柳町(もとやなぎちょう)……」

 淘太はその文字を小さく声に出して反芻すると、しばらく大人しくなっていた胃が痛むのを感じ、なぜ自分が緑川町へ越してきたのか後悔する。

 元々緑川町は嫌いな町では無く、栄えてこそいないが落ち着く静かな町は淘太自身気に入ってはいたが、本柳町とそう距離の離れていいない場所である。

 二度と戻るつもりなど無いと自分に言い聞かせるため。

 戻りたくても戻れないと自分に言い訳をするためにも、もっと離れた場所に新居を構えればよかった。

 そう思っていても、過去の自分に説教する術など無く、ただ一人後悔するしか出来ず、一緒にその事を悩む相手も、適当な言葉並べて気を紛らわしてくれる相手ももう居ない。

 視線を再び車窓へ向け、淘太はまた小さく息を飲む。

 窓の先に広がる景色、そこで一瞬だけ見えた小さな高台、そしてその上にある小さな土産物屋と簡素な展望台。

 高い防風林がすぐにその姿を隠したものの、その場所が何なのか直ぐに分った。

 淘太は気を紛らわせるため、懐から煙草を一本取り出してはみるが、自分の居る席が禁煙席だった事を思い出し、向かいの席に座っていた家族連れの白い視線に申し訳なさそうな笑みを浮かべると、代わりに今度はオーディオプレイヤーを取り出す。

 電源を入れ、明るく光る液晶を頼りに曲を選んで再生ボタンを押し、物憂げな表情を浮かべながらイヤホンを耳に嵌めるが、小さく顔をしかめてイヤホンを強引に引き抜く。

 「……こんな時に……」

 淘太は小さく悪態をつくと、壊れたイヤホンを強引に丸め、鞄の中に詰め込んでため息をつく。

 何をやっても落ち着かない。

 何を食べても味がしない。

 何を耳にしても気が乗らない。

 ある種惚れた腫れたの初恋のような状況とも取れなくは無い状態だが、これがそんな安っぽい感情ではない事位とうに検討が付いている。

 左腕に付けていた時計の文字盤を確認し、下車する時間が間もなくだと判断すると、膝で挟むように固定していた缶コーヒーの中身を飲み干して溜め息をする。

 昨日からロクに食事も取っていないせいか、口にしたコーヒーの中身は酷く苦く感じ、これまでも痛んでいた胃が、ひと際大きな声で合議の意思を表すのが感じ取れた。

 その痛みに小さく眉を寄せていると、電車がスピードを落とし始め耳障りな金属音の悲鳴を響かせ始める。

 誰かが糸を引いてると思えるほど、何をやっても裏目に出る。

 しかしその糸を引いてるのは自分自身だ。

 不安定な精神状態でやる事は全て上手くいかない、ロクな判断も出来ないから、自分で墓穴を掘っては飽きもせずに散々足を取られ悲鳴を上げる。

 本当に最低な気分で、自分自身でも飽き飽きしているのを淘太は感じ、空になった缶コーヒーを握りしめると、止まった電車の中立ちあがる。

 そして自動扉の前まで歩き、開いた扉の先の景色を見て息を飲む。

 目の前に広がるのは数年ぶりに見た事のある景色、その時は自分を痴漢の犯人だと勘違いした女の罵声が響いた場所だ。

 もちろん今回はそんな事は無く、むしろ淘太自身そんなトラブルが起きるのならそれでも構わなかった。

 もちろん、また彼女がやってきて自分を助けてくれる、そんな前提の上でなら。

 しかしそんな事はあり得ない、彼女は先ほど見えた景色の先で命を落とし、自分の元を去った。

 だからこそ、確かめなければいけない、本当の事を確認しなければいけない。

 自分の過去を知る人間と会い、今度はちゃんと話を聞く必要がある。

 淘太はそんな思いを胸に寄せ、小さく深呼吸をすると、足を一歩進めホームの硬い地面を踏んだ。

 瀬谷香夜子が生まれ育ち、そして楽しげにけらけらと笑い、生きる事の楽しさを教えてくれた町、本柳町の地面を。






 窓越しに外の世界を覗うように。

 防犯カメラのチェックを大量のモニター越しに行うように。

 赤い部屋は実体を持たない体で、0と1以外で出来た外の世界を覗う。

 あるときはコンビニの防犯カメラ越しに、あるときは街ゆく人のケータイのカメラ越しに、あるときは車の追突防止用のセンサー越しに、赤い部屋はいつものようにこの小さな田舎町、緑川町を散策していた。

 まるで大都市の高速道路のようにめまぐるしく情報が行きかう電子の世界、その中を泳いでいると、自分の存在と言うものが酷く曖昧に思えてくる時がある。

 しかし、姿こそ曖昧で不確かな定義でしかないにも関わらず、彼の自我と呼ばれる物は鮮明に存在している、その根幹となっているのは記憶だ。

 場所を変え、取りつく機械を変えても自分に蓄積されてきた記憶は後を追ってくれ、自分の積み上げてきた情報は間違いなくその場に存在しているのだと再確認する。

 だからこそ、彼は己の記憶をより濃い物にするために、町を行きかいその情報を次々と蓄え、そして形の無い足を止めてはその思いを反芻し、自信の存在を確かな物にしていく。

 そうして町の情報を蓄えて行くうちに、少しだけ妙な事に気が付く。

 町の中に流れる電子情報、それらは人間が何かしらの端末を操作する事によって放たれるのだが。

 ふと、人間の意思とは別に流れる、僅かな規則性を持った情報がこの町に流れていた事に気が付いた。


 『ipcomfig/midorikawa……』

 『sudo:\'c:sat dir』

 『人面犬』

 『欠伸』

 『format \annown\ VRS』

 『都市伝説』

 『牛の首』

 『右下に座り込む』

 『x:231.115.1351……』

 『口裂け女 ≪funny 15≫』

 『VRS ≪指定されていない人格≫』

 『達磨女』


 これらの情報がゆっくりと、しかし確かにこの町に流れている、それは木の根のように濃密であり、そして奥深くに入り込んでいた。

 赤い部屋自信これらの情報が何なのかは不明だったが、それらの情報に含まれる聞き覚えのある単語、それらは間違いなく自分達都市伝説に関係する物だった。

 そしてこれらの情報が発信されている場所を探し、ここしばらく町を忙しなく漂っていた時、ふとその中心らしき物を発見した。

 その場所はこの町にある中では比較的大きなマンション、そこの最上階に位置する一室だった。

 天気も良く、乾いた空気が流れている晴天の日にも関わらず、窓は閉め切られ分厚い遮光カーテンで覆われているその風景を、マンション内に設置されたカメラ越しに見つめ、意を決すとその赤い部屋はその中に意識を送り込むのだった。






 久しぶりにこの町にやってきた淘太は、乾いた空気にライムグリーンのマウンテンパーカーをなびかせながら、目の前に建つ大きな一軒家の前で足を止める。

 自分の記憶よりも少しだけ色あせたアイボリーの外壁、そしてニ階の出窓に、中途半端に手入れされた庭の芝生。

 開きっぱなしになった車庫には、自分の記憶とは違い黒いバンが居座っていた。

 「やっぱりか……」

 それは淘太が過去に居候させてもらっていた、香夜子の家だった。

 彼女の死後、管理する人間が居なくなったこの家は競売にかけられたらしい。

 そして今の住人は、子育てに忙しい家族連れの人間だと言う事を、庭で干されたチャイルドシートが教えてくれる。

 もともと自分の物では無いとは言え、こうして居る所を見るとなぜか大事な物を取られたような気分になり、淘太は小さく喉を鳴らす。

 「他人の幸せ祈れない奴が幸せなれるわけ無いよな……いや、むしろ香夜子なら……」

 『豚に真珠、持ち主死んでるんだから欲しい奴にくれてやればいいでしょ』なんて事を笑いながら言ってのけそうだ。

 少なくとも彼の知る彼女はそう言う人間だ。

 明るく笑い、自分の立場すら他人事のように扱い、その場に居る人間全てが幸せになれる方法を選ぶ。

 そうは分っていても、今の淘太にその考えを真似る事は到底出来ない。

 新しく取り付けられた『長谷川』の表札を見て、なぜ『瀬谷』の文字が無いのか、そう思い、今さらながらイライラが募るのを感じる。

 誰も悪く無い、少なくともこの家には持ち主など存在しなく、淘太がどれだけ抗議しようが、法的に順当な手段でこの住まいを得た人間にかなうはずなど無い。

 そもそも香夜子自体この事を望む事だって分っている。

 しかし、大人げなく淘太はこの事を飲み込めず、まるでベッドのニ階を奪われた子供のように駄々をこねている自分の姿に苛立ちが募る。

 誰も悪くない、悪いのはこの状況を飲み込めない自分自身だ。

 「他人の幸せ祈れない人間が何へらへら笑ってるんだ、他人の幸せ祈れない人間が、何子供みたいに我儘言ってるんだよ……くそ……」

 淘太自分自身に言い聞かせるように、彼女が過去に言った言葉を反芻して目をそむけて歩き始める、苛立ちを誤魔化すために一本煙草を取り出して咥えてみるが、それすらもなぜか虚しく思え。

 彼女が愛用していたオイルライターを取り出すよりも早く、煙草を掴むと握りつぶして道端に叩き付けていた。

 「くそ! ああもう! じゃあどうしたらよかったんだよ!」

 淘太は地面に落ちた煙草の残骸をスニーカーのそこで踏みつぶし、そしてまた足を上げては再度踏む。

 苛立ちをぶつけるように、煙草の葉が形を無くして散り散りなるまで散々踏みつけては誰に向けられたわけでもない罵声を吐いてから動きを止める。

 こんな町に来るのが間違っていたんだ、自分には居場所なんて初めからない、たまたま側溝にはまった虫の死骸のように、少しだけ人目に付く場所につっかえていただけ。

 そう言い聞かせると少しだけ気が楽になる。

 昔のように心を閉ざせば少しは気が楽になる、世界から自分は淘汰された人間だ、だからこそ、何をやっても他人の関心を引かない。

 それはいい意味でも、そして悪い意味でもだ。

 しかし……

 『一人じゃない、あなたは自分で思っているよりも誰かに愛される才能を持っている』そう香夜子は言った。

 だからこそ彼女を失ってからも自分は頑張る事が出来たのだ。

 だからこそ自分は前に進まないといけない。

 そのためにこの町へ自分はやってきた。

 自分の過去のしがらみを切るために、自分の中の曖昧な命綱を切るためにここに来たのだ。

 淘太はゆっくりとした足取りで歩み始めた。

 目的の場所まではそう遠くない筈だ、淘太はケータイを開き、自分の現在地を表示させると、検索画面に目的地の住所を打ち込み道順を確認する。

 淘太は視界の隅に広がる景色を頼りに、ケータイを眺めたまま住宅街の角を曲がる。

 歩道の無い狭い道だが、ケータイを操作しながとは言え、ゆっくり歩く分には事故の心配も無いだろう、そう思っていた淘太の耳を不意に何かの悲鳴が響いた。

 甲高く、耳を覆いたくなる不快な音。

 最初こそ子供か小動物の声だと思ったのだが、ゆっくりと視界を上げた先に居たスクーターを見て、その音が悲鳴では無くタイヤが地面を擦る音だと判断した時には、淘太は目の前のスクーターと接触し、胸を強く打って両足を地面から離していた。






 「ねぇねぇ、淘太は何処?」

 昼過ぎになって、何の前触れも無く、ニューが家にやって来た。

 元々他の都市伝説よりも気まぐれな一面があるため、ニューがこの家にやってくるときは酷く限られている。

 「お仕事みたい、お茶でも飲んでいく?」

 正直、今はあまり他の人と会いたくない、ましてや都市伝説となると尚更である。

 凛は朝方起きた事を悟られないように何気なく答えるのだが、玄関先でニューはぴたりと動きを止めると、凛の顔をじっと見つめ、首を傾げて外見と同じ子供のように無垢な言葉を呟く。

 「凛、今日何か変」

 凛が都市伝説と会いたくなかった理由がこれだった。

 都市伝説は揃いも揃って、なぜか皆感が鋭いからだ。

 彼ら自身自覚は無いのだろうが、ふと何かの拍子で凛達が思っていた事を直ぐに悟る。

 「え? いつも通りだけど」

 「だって、凛はお茶なんて何時も出さない、何かするのは淘太が全部やってくれる、なのに、今日は自分からお茶出すって言った」

 やはり凛が放った一言から、彼女の精神状態を直ぐに拾い上げている。

 「そんなこと無いでしょ、私はいつも通り」

 「ほらやっぱり変! 凛おかしい、いつもは『私だってお茶くらい作れる!』って言うのに」

 ニューは凛の言動から不自然な点を幾らでも見つける、人の概念が凝り固まった存在だからなのか、どうやら多少違う点があっただけで直ぐに分ってしまうらしい。

 「だから、私だってやるときはやるの、淘太が居ない時くらいしっかりしないとね」

 凛はそれでも誤魔化す様に返事をするが、その言動の意図すら読み取ったのか、開きっぱなしになっていた扉を閉じて、食い下がる。

 「何かあったの?」

 他人のトラブルに無理矢理でも首を突っ込む、それがニューにとっての気の使い方なのか、それとも単に好奇心を満たすだけなのかは不明だが、少なくともニューは凛の心境を察していた。

 「ちょっと昨日から色々あってね」

 凛は手短に、そして当たり障りのない部分だけ話せば納得してくれるだろうと思っての行動だったが、それが余計にニューの関心を引いてしまった。

 「話して、ニューは話聞きたい、ちゃんと話さなきゃ帰らない」

 ニューの無垢な瞳に押され、凛は眼を反らしてしまう。

 「ニュー、一つだけ約束しよっか、この家の中では必要以上に相手の事を知ろうとしたらいけないの」

 凛は目頭を押さえてから小さく紡いだ言葉。

 その内容は、朝淘太から聞かされた物であり、同じ事を自分自身呟いている事に妙な罪悪感を感じてしまう。

 しかし、この家のルールとして、彼女が言った言葉も含まれていた。

 もちろんそれはちゃんと皆が直接会って交わした約束では無い。

 同じ家に住み、どこか肝心な部分を煙に巻くようにして交わされた暗黙の了解。

 それをいざ口にしてみると、酷く心が痛んだ。

 「どうして?」

 「どうしてって……みんな色々あるの」

 「色々って?」

 ニューがわざと質問を繰り返しているのか、それとも本当に意味が分らなかったのかは分らない、しかし、明るい表情が徐々に暗くなるのを感じて、凛は誤魔化しは必要ないと判断して言葉を続ける。

 「生きていけば楽しい事もあれば辛い事だって沢山あるでしょ? 大抵の事はどうにか出来ちゃうけどさ、それでもどうしようも無い事だってあるでしょ?

 その事をどうすればいいかってなると、やっぱり無かった事にするのが一番なの、手に棘が刺さって、自分では引っこ抜けない時は、なるべくその指を使わないようにしてれば、少なくともその時は痛くないでしょ?」

 「ニューには痛いは分らない」

 「そりゃそうだったか、兎に角ね、痛くてどうやっても直す事が出来ない傷が付いた場所は使わない方がいいの。

 それ以外の部分でも慣れればなんとかなるし、どうしようも無い事って沢山あるからね」

 凛は皮肉交じりに笑顔を作るが、ニューの表情は暗くなる一方である、徐々に粘度を増す空気を吸い込み、ニューはその中性的な顔で笑顔を作ると明るく口を開いた。

 「治せなければ、一人では多すぎるなら、みんなで半分こしたら良いって淘太が言ってた。

 だからニューも半分こする」

 作りすぎた菓子類を皿によそいながら、淘太が良く言っていた言葉。

 『作りすぎたから半分いりますか?』その一言をニューが真似たのだと気が付いた凛は、首を振って答えた。

 「どんな事でも分けるのは良くない事なの、知った事で他人を傷つける事だってあるの。

 それに他人を傷つける事も、知りたくない事を他人に話す事も、その人にとって辛い時だってあるの。

 だから……」

 「一人占めなんてずるいよ! 楽しい事も辛い事も全部半分こする!

 楽しい事も辛い事も一緒にしたい、ニューは一人じゃない、凛も一人じゃない。

 そうやってみんなの事心配するのに、自分の心配出来ない凛なんて大嫌い!」

 凛の否定をかき消すように放たれたニューの言葉。

 元々子供のように明るく、人懐っこいニューが初めて見せたある種の怒りの感情。

 それを目の当たりにして凛は驚くが、ニューの手が僅かに震えているのを見て、さっきの対応が酷く自分勝手だったと気が付く。

 「……一人じゃないか」

 ふと玄関に飾られた一輪挿しの花が目に止まる。

 家事こそ器用にこなす淘太だが、園芸の類には一切関心を示さない、そんな彼が定期的に交換している花。

 なぜ彼がここに花を飾るのか、その理由が視線に揺れるオレンジの花弁から明らかになる。

 「真っ直ぐで凛としたガーベラの花が好き」

 昔この家に越してきた時、自身が口にした一言を再び反芻する。

 花に疎い凛が唯一覚えていた花の名前。

 殊更好きではないが、一孝の『男みたいだ』の一言に少しだけ腹を立てた凛は、この花を好きだと言った。

 もちろん本当にガーベラが好きな訳でもない、ただ誤魔化すように薄っぺらい知識を使ってついた嘘。

 しかし……

 「覚えててくれたんだ……」

 目線の先には、彼女がそんな嘘をついた次の日から今までずっとこの花が飾られている。

 オレンジ色のガーベラ、それを視線に収めた凛は大きく息を吸い込むと、頭に『?』を浮かべたままのニューの服の袖を掴み、強引に家の中に上げる。

 「ちょっと凛! どしたの?」

 「さっき半分こしたいって言ってたよね」

 「凛の事知りたい、楽しい事も辛い事も……」

 「じゃあ黙ってついてきて」

 凛はテレビだけが付いたリビングをニューを引きずったまま横断すると、その奥にある扉を開けてニューを放り投げる。

 ニューが小柄なためか、それとも凛がよっぽど力を込めたは分らないが、ニューの体は僅かに宙を舞ってその奥にあったベッドの上に、仰向けで倒れこむ。

 「ねぇ凛! ちょっとどうした……」

 「いいから黙ってて」

 そこは凛の部屋だった、淘太の気遣いか、男二人の部屋からなるべく距離を置いて用意された6畳間、電気が付いていないため部屋の中は薄暗く、彼女が好んで使う香水と煙草の匂いが充満していた。

 「ここ凛の部屋?」

 「……そう」

 身を起こし、脱ぎ散らかされた服をどかして上体を起こすニューは、突然腹部を襲った衝撃に再び倒れる。

 「……凛、どうしたの?」

 「ごめん、だけどちょっとだけこのままでいて……お願い……」

 ニューは、倒れ込むようにして自分の体に抱きつく凛を見て、再び首をかしげる。

 「大事な人がとても傷ついてるって知ったの……だけど、私にはどうする事も出来ない、私の為に、私を喜ばせるためにずっと私の嘘を覚えてくれていた人なのに、私はどうする事出来ないの」

 「それって淘太の事?」

 「黙ってて! 馬鹿……半分こするんでしょ……だったら女一人泣いてる時くらい胸貸してよ」

 「それって男の役目って言うのかな? ニューは男じゃないよ」

 「女でも無いくせに!」

 ニューは困った様に、鼻を鳴らすと、まるで子供をあやすかのように、小さな手で凛の頭を撫で始める。

 存在自体が曖昧なニューのその行動が、どれだけの意味を成すのかは不明だったが、初めて本当の顔を見せた凛の泣き声を聞き、どこか大人びた表情を浮かべるのだった。






 自身の昼食を文字通り水に流してしまった一孝は、最寄りのコンビニでサンドイッチを買った帰り道、妙な光景を目にする。

 公園のベンチで力無く座り込む男。

 最初はリストラされたサラリーマンか何かだと思ったが、その人物が昨日家にやって来た夕樹だと気が付き、公園の入り口にあった自動販売機でコーヒーを買うと、歩み寄る。

 「飲むかい?」

 一孝は、彼の隣に座り込むと、缶コーヒーを差し出す。

 「あ……お前は……」

 「昨日の事は俺とは無関係な事なんだろ? だったらお咎め無しだ」

 一孝は自分の分のコーヒーを見せると、強引に渡して缶を開ける。

 「すまん……関係無いのに嫌な思いさせた」

 「だからお咎め無しだって言ってるだろ? 俺はただのこの町の住人、気にすんなや、いや、もう少ししたら大先生になるかもしれねぇけど」

 一孝は缶の中身を一口飲み込むと、懐から煙草を一本取り出して火を付け、煙を吐きながら言葉を紡ぐ。

 「そんでなんだが、そんなお前さんがなんでこんな町にまだ居るんだ? 終電乗り過ごした訳でもねぇ時間だし、かといってついでの観光にしては物足りない街だろ」

 すると、夕樹が気まずそうな表情を浮かべるのを見て、一孝は小さく笑う。

 「なんだぁ? なんか訳がありそうだな」

 カエルのように口を吊り上げ、顔を覗きこんできた一孝の顔を見て、夕樹は気まずそうに口を開いた。

 「家に帰れないんだ」

 「は? 家に帰れない? お前どうやってここに来たんだよ、来た道もどりゃ良いだけだろ」

 けらけらと笑い声を上げるが、暗くなる彼の表情を見て、さっきの一言が伊達や酔狂では無いのだと知り、笑い声を止める。

 「ここへは電車で来た筈だ、だけど、この町の駅に入れない、足を踏み込もうとしたらなぜか急にその気が失せる。

 帰りたくてしょうがないのに、足が動かなくなるんだ、どういうことだよ全く……」

 「なんだぁ? 電車にトラウマでもあるのか?」

 「無い、それにおかしいのはこれだけじゃない、タクシー呼んで帰るにも、俺のケータイはなぜか通話が出来ない。

 タクシー直接捕まえようにも、運転手が全然俺に気が付いてくれないんだ」

 「なんか妙だな……もしかして……おい、赤い部屋居るか?」

 一孝はケータイを取り出すと、その画面に声をかけた。

 しかし、画面はなぜか赤く染まる事は無く、代わりに夕樹が眉根を寄せて質問をした。

 「なぁ、都市伝説でも信じてんのか?」

 「お! お前赤い部屋で分るのか、だったら話は早い、この町はな……実は都市伝説が実在する町なんだ、でもおかしいな、赤い部屋今日に限って出てこねぇ」

 一孝がケータイを仕舞うと、夕樹の表情が急にこわばるのを見てため息をして答える。

 「あのな……幾ら非現実的な事俺が言ったからとしても、その反応はねぇだろ、少なくとも笑う位しろよ」

 困った表情を浮かべながら、缶コーヒーをまた一口飲む一孝を見て、小さく夕樹が口を開いた。

 「さっきのは本当か?」

 「ん……都市伝説の事か? まぁ忘れてくれ、信じてない人間に話しても意味ねぇ」

 「違うんだ……昨日見たんだよ、都市伝説」

 「あん? 体溶ける奴か? それとも人面犬? いんや……その反応だと口裂け女か?

 まぁ大丈夫だ、あいつらは悪戯こそしても悪さしねぇからよ」

 一孝の反応を覗い、その言葉が嘘ではないと察する夕樹。

 「んまぁなんだろうな、正直俺も最初は驚いたけどよ、慣れたら案外愉快な奴らだぞ?」

 「なぁ……他にもあんな奴らが居るのか?」

 「居るさ、沢山な、人面犬に口裂け女、あとメインブラックやシェープシェフターだったけな……」

 微妙に覚え間違えした名前を言いながら、自分の記憶にある都市伝説を思い出す一孝、その意識に、今までとは違う都市伝説の名前が吹き込まれた。

 「それじゃ首なしライダーも……」

 「ん? もしかしてあいつと会ったのか? こりゃまたレアな奴見たな、あいつだけは俺達と会話もしようとせずにどっか逃げちまう奴だぞ、何処で会った? これはあいつらにも教えてやらねぇとな」

 ベンチに座り直し、姿勢を整える一孝、凛の話から首なしライダーは大きな道を走っていると思っていたが、夕樹の声がその予想を否定する。

 「お前たちの家の直ぐ近くだよ……妙な女と居た」

 「予想外だな、それに誰だその女って、凛か? あ、凛ってのは昨日お前が見たあの家に住んでる山猿女の事だ」

 僅かな皮肉交じりに明るく答えた一孝の言葉、それを再び夕樹が否定する。

 「違う……会ったこと無い妙な奴だ、幸薄そうな黒髪伸ばして、黒ぶちの色気のねぇ眼鏡した奴だよ、なんなんだいったいあいつは……」

 「そんな奴知らねぇな……俺達以外にも都市伝説とつるんでいる奴が居るのか……いや、寧ろそいつも都市伝説か?」

 「良くわかんねえんだ、兎に角あの女訳が分らねぇよ、なんか催眠術みたいなので俺に好き勝手喋らせて、何か良くわからんうちに一人満足してどっか消えてよ」

 一孝は淘太から聞いた色々な都市伝説の特徴と照らし合わせていくが、どうしてもその正体が何者なのか分らないで居た。

 そもそも他人に好きな事を喋らせる都市伝説など聞いた事が無い、かといって、生身の人間にそんな事が出来る検討もつかない。

 「なぁ、そいつとどんな話をしたんだ?」

 「一方的に俺と佐野の事を聞きだして、散々『透明になる』とかぶつぶつ気持ち悪い事言って、そのあと妙な事言ってたな、佐野をどうしたら自分の物に出来るかって……」

 「淘太を自分の物に? また熱狂的なファンが居たもんだ……いや、それなら良いんだが……」

 一孝は一人思案する、淘太がこの町に知人を連れてくる事など無かった。

 そんな淘太の事を知ろうとする妙な女。

 偶然夕樹と出くわす訳も無く、恐らくは自分達の家の周りで何かしらの情報を集めていたのだろう。

 それは少なくとも今から数日前の事。

 その時一孝の記憶の隅に置かれていた犬夫の一言が弾ける。

 「『女の匂い』……?」

 なぜか妙な予感がした、最近妙な事が続いている。

 自分達と接触を拒む謎の都市伝説。

 町から出られなくなった夕樹、そして赤い部屋の不在に淘太に近づく妙な女の存在。

 少なくともこれらの出来事は一つに繋がっている気がした。

 理屈も無ければ推論でも無い、ただの直感にすぎなかったか、一孝は懐からケータイを取り出して淘太に電話をかける、しかし、スピーカー越しに答えたのは、不通を伝える無人案内の機械的な声だった。

 「なぁ、どうしたんだ?」

 「いや……ちょっと嫌な予感がしてな」

 一孝はケータイを懐に仕舞うが不安が拭えない。

 しかし、行き先も分らない彼の行方を追う手段も無く、一人黙り込んでしまうのだった。






 ふと眼を開けた時、見なれない天井が広がっていた。

 恐らく自分はどこかに寝かされているのだろう、目線の先には淘太の家の物とは違う古臭い電灯がぶら下げられていた。

 「……痛っ」

 上体を起こしてあたりを窺おうとした時、不意に走った後頭部と右ひざを走る痛みに思わず声を上げてしまう淘太。

 時間を確認しようと、枕元に置かれていたケータイを手にするが、液晶がひび割れ電源すら入らなくなっている。

 そこで淘太は自分の身に何が起きたのかを思い出す。

 「確かバイクに……」

 自分が寝かされていたのは古いアパートの一室だった、家主は一人暮らしの男なのか、カップ麺や真空パックのご飯がテーブルの上には散乱してる所を鑑みると、どうやら自分と事故をした相手がこの家まで運んでくれたらしい。

 「飲めってことか……」

 テーブルの上にはそれらのインスタント食品のほかに、コップに注がれた水が用意されており、ずきずきと痛む頭をさすりながらその中身を口に含んだ時、部屋を仕切る扉が開いた。

 「大丈夫か?」

 「……すまん、俺の不注意だ」

 淘太は引き戸から顔を出す相手に頭を下げ、そして相手の顔を確認してから淘太は息を飲んだ。

 「にしても、あんただっとはな」

 「……本当にごめん」

 「何辛気臭くなってんだよ、俺だって前をよく確認しないで交差点飛び出したんだしよ、にしても、こんな形で再会するなんてな。

 体大丈夫か?」

 「……大丈夫」

 男は部屋の奥から湿布を持って来たらしく、淘太の前に座り込むと封を切り始める。

 「にしてもホント久しぶりだな、あれからどうしてたんだ?」

 「それは……」

 事故をした事にあまり腹を立てていないのか、明るく話す相手に、どうしても歯切れ悪くしか返事が出来ない淘太。

 普段ならなるべく相手を気遣わせないようにと自身も明るく返事するのだが、今回はそれが上手くいかない。

 相手の顔を見るとどうしても後悔や疾しい気持ちが湧いてしまう。

 「お前にも色々あった事位察してる、だからそんな暗い顔すんなよ、なぁ」

 「……ごめん」

 「だからそんな一々謝るなよ、辛気臭いだろ、姉貴生きていた時みたいにニコニコしてりゃ良いだろ」

 「……ごめんなさい……」

 男は一気に暗くなる空気を誤魔化すためか色の薄い髪を揺らし、一際様気にしているが、その顔を見ていると淘太は一段と暗い気持ちになる。

 なぜならその相手が『自分が会わなくてはいけない』『会いたくない人物』。

 瀬谷夕樹だったからだ。






 「ねぇ、スワンプマンって知ってるかしら?」

 女は、眼鏡をかけ直してそう言い、机の隅に置かれていた板チョコの銀紙を外し始める。

 作業の合間に放たれた小さな質問。

 それを聞き、首なしライダーは足りない首をかしげて答える。

 『知りまさせん』

 「あなた、やっぱり頭が無いだけあって知識足りないわねぇ、まぁ良いわ。

 今の私はとっても機嫌がいいの、だから教えてあげる」

 女は下着の上からTシャツ一枚という酷くラフな格好のまま、足組みをして板チョコに齧りついて話し始める。

 「ある男がハイキングに出かけたの、だけど突然天気が崩れて、彼のいた場所に二つの雷が落ちたの。

 一つは彼の傍にあった沼地に、そしてもう一つはその男自身に……

 もちろん男は雷に打たれたんだからそのまま命落としちゃったけど、ある偶然が起きたの。

 その偶然って何か分るかしら?」

 『不明』

 首なしライダーは少ない情報の為予想すら出来ず、メモ帳にその意思を示して答えた。

 その様子を見た女はさも面白そうに笑い声を上げ、そして話の続きを紡いだ。

 「それはね、もう一つの雷が落ちた沼が化学反応を起こして、死んだ男と全く同じの分子構造の存在を作りだしたの。

 分子レベルで同じ構造をしてる存在なら、死んだ男と同じ記憶も持ってる事になるわよね?

 ってことは、この先その泥から生まれた男、スワンプマン(泥男)は何をしたと思うかしら?」

 『帰宅した』

 「正解! あなたもちょっとは頭働くのね、見なおしたわ。

 スワンプマンは何事も無かったように、ハイキングからの家路を急いで男の家に帰宅して、そしてさも当たり前のようにシャワー浴びて布団に入って眠って。

 そして次の日は自分では無い男の職場に顔を出して、自分自身も気づかないまま死んだ男と入れ替わって日常を続けるのよ?

 これって面白くない?

 いいえ、と言うよりも似ていると思わない?」

 女は板チョコの端を咥え、そして溶けて形が崩れたそれを取りだすと首なしライダーに見せる。

 「スワンプマンはね、自分が醜い泥だったと言う事すら忘れて、いいえ知らないのに、自分はオリジナルだと思いこんで生活しているのよ?

 もしその事に気が付くと気があるとすれば、このチョコのように溶け始め、形すら変わっていくその瞬間だけ。

 自分がどうして生まれたのかも。

 そしてどうやって透明になってしまうかも分らないまま、オリジナルの途中の人生を模写しているのよ」

 女は醜く歪んだ板チョコの一片を噛み切ると、目を瞑って飲み込む。

 「もちろんこれは机上の空論でしかないわ、でも……似てると思わない?

 あなたに、いいえあの男に」

 首なしライダーは心なしか背筋が冷たくなる感覚に襲われ、一歩だけ後ずさってしまう。

 「このプレゼント、淘太は気に入ってくれるかしら?

 いいえ、きっと気に入ってくれるわよね。

 だって大事な人と一緒に居られるんだから。

 今はいないご主人様に尻尾を振る事が出来るのだから、透明になってしまったって、淘太はきっと喜んでくれる。

 それでいいの、そしたら私は次の段階に進む準備ができるのだから」

 女は食べかけのチョコを机に置くと、ゆっくりと立ち上がり素足のまま部屋の中を歩き始める。

 その先にあるのは、例の大きな機械。

 僅かな稼働音を響かせるそれに手を添えて、そして額を当てて彼女は眼を閉じる。

 「これは大事な宝物よ、だって沢山沢山努力して作ったんですから……

 だけどね、まだ足りないの、これじゃ私の望んでいる事は出来ない。

 いいえ、出来なかった。

 だから全部を透明にするために私は新しいおもちゃを作った。

 もう少し……もう少しよ……」

 ファンの回る音こそ鳴らしても、決して言葉を話さないその機械に対して、彼女は小さな声で呟いた。

 「そうよ、これは全部実験なの、実験なのよ……」

 繰り返し彼女が呟く言葉。

 その意味を知っている首なしライダーは、自分の存在意義を反芻しては胸が痛むのを感じる。

 しかし、彼女が望む事をするのが、もうすぐ終わってしまうであろう自分の存在意義だと言い聞かせ。

 そして懐からメモ帳を取りだしていつもの言葉を書き込む。

 『私にお手伝い出来る事はありますか?』

 再三繰り返してきたこの文面。

 テンプレートと化したその質問を掲げる事が、自分に出来る事。

 犬が飼い主に尻尾を振るように、メモ帳を広げて見せる。

 振り返り、その文字を見て少しだけ嬉しそうにする彼女の表情を見て。

 首なしライダーは今自分が追っている男。

 淘太に妙なシンパシーを感じるのだった。






 久しぶりに会う人間の人柄が突然変わっている事は良くある。

 理由はまちまちだが、人は年を取り年齢を重ねる事によって丸く角が取れ、より落ち着きを持った人格へと成長する。

 それは川辺に落ちた石が、流れる水に表面を削られていくように。

 または、使い込まれた革製品が綺麗な飴色の艶を持つように。

 結果として、若いころはバーで飲んでは喧嘩ばかりしていた人間が、数年後には子供を優しく抱きかかえたままスーパーで粉ミルクを買い求める。

 暴力を振るう事でその存在を主張していた不良が、その経験を生かして優良な教師になる。

 なんて変化もしばし見かける事がある。

 無論、それだけの変化を起こすには長い年月が必要であり、ここ一日二日で変化するほどではない筈だ。

 しかし……

 「姉貴が死んだ時、あんたがどっかに消えた事は最初こそむかついたさ。

 そりゃ同じ家に住まわせてもらった恩人の葬式にも顔を出さないんじゃな、だけど、あれから俺も色々お前の事考えた。

 もし俺があんたと同じ立場なら、俺もあの家から出ていくだろうな。

 あんた、あそこに居た時が一番楽しかったんだろ。

 恩人との楽しい思い出が詰まった家の中が、どんどん崩れていく、楽しかった思い出がどんどん風化していく様を見ての生活なんで俺も嫌だね」

 昨日家を訪れた時と、今の夕樹は別人のように変化していた。

 少なくとも今の夕樹は昨日のように、いまだに自分の事を嫌いそして罵声を浴びせる物だと思っていたが、どうも様子が違った。

 「そして、葬式に顔を出して、棺桶の中眠る姉貴だって見たくなかった。

 見なけりゃ、彼女の『死』を『行方不明』にしておけるからな。

 そして姉貴が『行方不明』の理由が自殺だと認めたら、あんたにとってそれは自分が必要じゃない人間だと認めるような物だ。

 だから家を出ていくその瞬間まで、あんたは他殺だと言っていた訳だ」

 責める訳でも無く、寧ろ自分のやった行動を許すような言葉の羅列。

 彼の言う言葉の一つ一つが淘太の心理を貫いており、その事に淘太は思わず黙り込んでしまう。

 「そこまで分って……」

 「あったり前だろ、俺はあの香夜子の弟だぞ、同じように頭だけはしっかりしてるんだよ」

 夕樹は頬を吊り上げ、香夜子と同じ色の薄いくせ毛を揺らして笑みを浮かべる。

 何があったのかは謎だが、やはり夕樹は変わっていた。

 昨日は淘太の事を『顔も見たくない』などと言い、そして罵声を重ねていたのにもかかわらず、今日は人が変わったかのように明るく、そして様気に話している。

 実際に一日で彼の心境が変化していたとしても、昨日のような出来事が起きたのならこうも自然に彼に話しかける事は無い筈だった。

 「だけど、昨日の分じゃ俺の事許すつもりなんて無いかと思ってたから」

 「はぁ? 昨日って何時だよ、俺とあんたが再会するなんて何年ぶりだと思ってんだ、第一、あんたは俺に連絡なんてくれねぇし、俺もあんたの連絡先も居場所も知らないんだからよ」

 本人は笑いながら言ってはいたが、不意に言われたその言葉に息が詰まる淘太。

 明らかに自分の身に起きた出来事と矛盾していた。

 昨日夕樹は間違いなく自分の家までやってきて、そして会話をした。

 それが自分が夜中に見た夢などでは無い事は、その場に居合わせた凛と一孝の存在が証明している。

 だったら、自分の目の前に居る男は何者なのか、夕樹に双子の兄弟など居なく、顔が似ているだけと言っても、彼には香夜子以外の姉弟は居ない。

 「俺は今緑川町に……」

 「あん? 何処だっけそこ……あ、あの町はずれの田舎町だろ、またどうしてあんな辺鄙な所に」

 目の前の夕樹が本物だとしたら、昨日会った夕樹は何者なのか。

 その疑問が一気に膨らみ始め、目眩すら感じる。

 「あそこでシェアハウスしてるんだ、家賃も安いし住んでみると結構いい所だから」

 「いい所ねぇ、なんか普通の町と違う所でもあるのか?」

 『普通の町とは違う』その単語が淘太の頭で弾けた。

 これと言った特徴も無い小さな田舎町、しかしあの街には一つだけ普通じゃない出来事が起きている。

 それは都市伝説の存在だ、当たり前のように曖昧な存在を主張させ、彼らはあの街に溶け込んでいる。

 「いいや……特には……」

 曖昧に答え、頭の中で考える。

 昨日の出来事が可能な都市伝説はニューくらいだろう。

 ニューなら姿を変え、そして夕樹の声すらも真似る事が可能だ。

 事実あの場所にはニューを含め、他の都市伝説は誰一人として居なかった。

 ならば昨日の件もニューの悪戯だと仮定は出来るが、足りないピースが幾つもある。

 一つは、ニューが夕樹の存在を知らない事だ、淘太が自分の過去を話した相手、それは紫の鏡一人だが、彼が他の都市伝説と会話をしているところなど見た事が無く。

 そもそも紫の鏡に夕樹の存在は話していない。

 もし話していたとして、淘太の言葉だけでは外見や声などを真似る事など不可能である。

 そしてもう一つの足りないピース。

 ニューに今回の行動を起こす理由が無い事だ。

 悪戯が好きではあるが、少なくとも本気で他人が嫌がるような事などしない。

 だとしたら、考えられる可能性が浮上する。

 それは別の、淘太の知らない都市伝説の存在だ。

 しかし、姿を変えたりする都市伝説などシェープシフター位しか浮かばない。

 もし居たところで、夕樹の存在を誰が教えたのか。

 あの街で、夕樹の存在を知っており、そしてその事を他人に教える事が出来るのは淘太自身しか居ないのだ。

 それなら何がこの自体を引き起こしたのか、その答えはどれだけ考えても出る事は無さそうだった。

 ただ、一つ確かな事は、今回の出来事はなぜか第三者が故意に起こしているような予感がする事だ。

 「どうしたんだよ、難しい顔して」

 「いや……ちょっと変な事考えて」

 不意に投げかけられた言葉に、淘太は曖昧な意識で返事をする。

 「これから物凄く変な質問をしてもいいですか?」

 「……? なんだ、真面目な顔してよ」

 夕樹は不意に掛けられた了承の確認に眉根を寄せて答えるが、淘太は彼に不振がられても確認したい事があった。

 もしこれからする質問に、夕樹が肯定の意味を示したら淘太の杞憂は全部無くなる。

 単に自分の聞き間違いであり、夕樹が1日で人が変わったと証明するための質問、それは……

 「香夜子の死因は、他殺ですか?」

 その瞬間、夕樹の頬がピクリと動き、舌打ちが聞こえてきた。

 「まだそんな事を言ってんのかよ、いい加減状況を理解しろ、姉貴の死因は自殺だ、崖から飛び降りてな、あんたも知ってるだろ」

 「……いや、ごめん……そう言うつもりじゃなかったんだ」

 苛立ちが込められたきつい声だったが、淘太の予想通りの答えが返ってきた。

 昨日淘太が聞いた情報と違う答え。

 少なくともこれで一つの可能性が潰れた、やはり昨日の夕樹と今自分の目の前の夕樹は別人である。

 だとしたら考えられる可能性は一つ。

 昨日の夕樹は都市伝説である、しかもその都市伝説は淘太の過去を知り、そして何かしらの方向に淘太を走らせようとしていた。

 「ごめん、ちょっと急いで家に帰らないといけなそうだ」

 淘太は痛む腰を押さえながら立ちあがり玄関へと向かう。

 その背中を叩く夕樹の声。

 「ちょっとまて! お前体大丈夫なのかよ」

 夕樹の言葉は鋭かったが、やはり昨日の夕樹とは違い淘太を気遣うような柔らかい感情も含まれていた。

 「大丈夫……」

 淘太は家を出て、アパートの階段を駆け降りる。

 元々は夕樹と話し、香夜子を殺した犯人の情報を聞き出す事が目的だった。

 しかし香夜子の他殺の説が嘘だと分った以上もうこの場所に居る必要は無い。

 そしてそれ以上に、自分の住む町の方が気になった。

 明らかに悪意のある都市伝説の行動、彼が知る他の都市伝説とはまったく違う行動を取った夕樹の偽物。

 その正体が疑問だった、そしてあの家に住む人間の事が気にかかった。

 淘太に話しかけたあの都市伝説が近づこうとしているのは自分自身だと分った。

 だからこそ会って話がしたい、何をしようとしているのか。

 そしてなぜ自分の過去を知っているのか。

 淘太はアスファルトの地面に立つと、駅までの道順を検索しようとしてケータイを取り出すが、その液晶が割れている事を思い出して苛立たしげに鞄へ仕舞うと、当てもなく夕暮れ時の住宅街を駆け抜けていった。






 「もしかして淘太の事か?」

 隣に座る夕樹の声に振り返る一孝。

 「いやな、ちょっと妙なんだ、お前さんが家に帰れない理由もなんだが、それ以外にも……」

 「なんだよ、俺の事はどうでもいい言い方だな」

 「いや、寧ろそのおかげでこの謎が目に付いたんだがな、お前さんが言った変な女、もしかしたら、そいつ前々から俺達の事を探っていたかも知れない」

 一孝は空になった缶に、煙草の灰を落としながら答え、そして咥え煙草のままケータイを取りだして夕樹に見せる。

 「なんかそいつはここ最近俺達の家の周りを徘徊してるらしくてな、ちょっと嫌な予感するから淘太に連絡してみたんだが。

 なんでかあいつに連絡が出来ない、お前からも声かけてくれないか?」

 「あいつの連絡先なんて知るわけねぇだろ……いや、だけどあいつがこのタイミングで出かけたって事は、恐らく俺の実家か俺の家だろうな……

 ちょっと待ってろ、家に電話してみる」

 夕樹はケータイを取り出そうと胸ポケットに手を伸ばし、そして何か驚いた表情を浮かべて今度は太もものポケットにも手を当てるが何かを悟ったのか、慌てた様子で立ちあがり、全身のポケットを確認しだす。

 どうやらケータイを無くしたらしい。

 「すまん、ケータイどっか落としたみたいだ」

 「おいおい……案外ドジだなお前、どんなケータイだ? 見つけたら送ってやるよ」

 一孝は呆れたように答える、純粋な親切心からの言葉だったが、その時夕樹の表情が硬くなっていくのが見てとれた。

 「俺のケータイ……どんな奴だ? どんな柄だ? 機種は? 電話番号は……?」

 「おいおい、なんだそのボケは、自分のケータイ位分るだろ、まぁ落としてるとしたら俺の家にある筈だからそれっぽいのあったら送るさ、それで? あんたの家はどこだ?」

 一孝は少しだけ話を進めるが、その一言が再び夕樹の胸を貫く。

 「俺の家は……」

 「おい、どうした? 家に帰れないどころか、家の場所分らないってか?」

 「何処だ……俺の家……どんな所住んでた? 確か本柳町なのは間違いない……だけど住所も……外観も、自分の家の中の景色も……思い出せない」

 「はぁ……?」

 最初こそきつい冗談かと思った一孝だったが、彼の表情を見てそれが伊達や酔狂ではない事を悟る。

 「俺は誰だ? 俺は誰なんだよ……」

 夕樹はめまぐるしく動く思考に、目眩すら感じたのか膝を突いてしまう。

 その様子がただ事ではないと悟った一孝が立ちあがり手を伸ばす。

 「おい大丈夫か? さっきから何を……」

 「分らない……誰だ……俺は……なんでこの町に……そうだ、俺は淘太に会って伝えるために……なんでその事を俺は知ってる?

 誰から聞いた話だ? 誰から俺は姉貴の死因を聞いてこの場所にやって来た?

 何時の電車に乗った? どの線に乗った?」

 夕樹の知っている知識、それは殆どが欠けており、大雑把な部分だけを残して齧り取られていた。

 自分の家の場所。

 香夜子の葬式は何時あったのか、何処でどのような式が行われたのか。

 自分と香夜子の幼い時の関係はどうだったのか。

 自分は何の仕事をしているのか。

 疑問が滝のように降ってくる。

 その疑問の答えを出す事が出来ない。

 いや、正確には初めから無かったのかも知れない。

 モザイク絵のように酷く曖昧で省略された自分の記憶、それを細目で見て、実際の記憶として捉えていたような。

 骨組みしかないマネキンに服を着せて体を隠すような。

 一旦目を見開き、手で触れた瞬間それが出鱈目だと分った。

 だったら自分は何者だ、自分は何者なのかが急に分らなくなった。

 「お前さんの名前は?」

 「……瀬谷 夕樹……」

 「んじゃあ夕樹だな、自分が分らないって? 名前持ってるだろ」

 彼を落ち着かせるために言ったつもりの一言だったが、夕樹は自分の頭を掻きむしり始める。

 「夕樹……本当に夕樹か? 俺は……この名前は誰の物だ? 俺は偽物か? いやそんあ、でも、俺は誰だ? 俺は……あああああああああああああぁ!!!!」

 「おい、ちょっと落ち着け!」

 一孝は血が出てもおかしくないほど頭を掻き毟るのを止めるために、その腕に掴みかかったが力任せに解かれる。

 その力にバランスを崩した一孝は傍にあった空き缶用のごみ箱に転んでしまう。

 「おい!……幾らなんでも……」

 空き缶の中から顔を出して、抗議の言葉を言う一孝だったが、その視線の先には何処かへと駆け出す夕樹の背中が見えており。

 追いかけても無理だと分った一孝はため息をする。

 「なんだあいつ……っていうかどういう事だよ……」

 一孝は一人ぼやくが、もちろん答えてくれる人気は何処にもいなかった。






 考えれば考えるほど疑問が増えていく。

 知らない事を知るために頭を動かしても、何も答えてくれない。

 ただひたすらに疑問だけが膨らみ、そして自分の頭をきつく締め上げていく。

 自分がどれだけの距離を走ったのかも分らない。

 日は大きく傾き、辺りは一面黒く染まっていた。

 それなりの時間が経過したはずなのに、息すら上がっていない事が不思議だった。

 第一、ふと記憶を掘り返してみてもここまでの道順や景色を思い出せない、走ったという記憶はあるのに、その途中経過を鮮明に思い出せない。

 そう感じた時、また大きな疑問が生まれた事に吐き気をすら感じる。

 しかし、自分の足を止めようとは思わなかった、何かをしなければ、無理やりにでも体を動かさないと自分自身が消えてなくなるような、妙な恐怖心が湧いてくる。

 しかし、その足に近くの垣根から延びていた雑草の蔓が絡まり、激しく転んでしまう。

 咄嗟の事でまともに受け身すら取れず、そのまま硬いアスファルトに顔を擦りつけて歩みを止めた夕樹。

 顔面と左手を襲う激しい痛みに、そのままうずくまってしまうが、また妙な事に気が付いた。

 顔を覆っていた手を確認するが、なぜか血が出ていなかったのだ。

 痛みからしても、そしてこの転び方から鑑みても普通なら激しく血を流す筈、しかし冗談のように手には血が付かない。

 妙だと思ってカーブミラーで自分の顔を確認してみると、そこに映るのは怪我ひとつ無い自身の姿だった。

 「どうして……」

 その時ふと激しく痛んでいた左腕を見て確認してみたところ、左腕の指関節あらぬ方向を向いていた。

 恐らくは着地の衝撃を上手く流せず、折れてしまったのだろう。

 その事に激しく動揺する夕樹だったが、その動揺が次の瞬間恐怖へと変化する。

 「なんだよ……これ……」

 普通なら手術してゆっくりと時間をかけてから治療する骨折。

 しかし夕樹の左手の指は、まるで逆再生の映像を見てるかのような動きを見せた。

 音も立てず、逆方向に向いていた関節が戻り、そして数秒後には何事も無かったようにいつも通りの姿に戻る。

 自分の体がおかしい、普通ならこんな事ありえない。

 人は自分の想像を超えた出来事に会うと恐怖を感じる、その出来事が今まさに自分の身に起きているとなると、その恐怖は計り知れない。

 「あああああぁぁぁっ!!!!」

 夕樹は左腕から来る恐怖につられ、左手を力任せにアスファルトに叩きつけた。

 何なのかは分らない、しかしこの手が化け物にすら見えていた。

 アスファルトに叩きつけられた指は再び音を立てて折れるが、それも数秒の事で、直ぐに元通りになってしまう。

 「なんだ……おい……どういうことだよ……」

 その時、耳を足音が突いた。

 力無く顔を上げてみると、その先には淘太が居た。

 「夕樹……いや……夕樹と名乗るあなたは何者ですか?」

 淘太は昨日とは打って変わった、鋭い表情で口を開く。

 「分らねぇよ……教えてくれ!俺は何者なんだよ! あんたなら知ってんだろ!」

 夕樹は立ちあがり、治ったばかりの指で淘太の襟首を掴むが、不意に走った痛みに手を離してしまう。

 淘太は彼の手を捻ったまま言葉を重ねる。

 夕樹に対する罪悪感が無いからか、淘太は表情も変えずに苦痛を与えていた。

 「教えてください、あなたはどうしてこの場所に居るのですか? 何が目的ですか?」

 「ふざけるな!! 俺は……俺は夕樹だ……てめえに用が会って来たんだよ!!」

 力任せに手を振りほどく夕樹、だがその耳を淘太の力強い一言が叩いた。

 「私はさっき本物の夕樹さんと会ってきました、そう、あなたがここに居るのはおかしな事なんですよ。

 夕樹さんは双子では無い、かといって他人に化ける事が出来る存在が、俺の過去を知ってるとも思えない。

 一体何が目的ですか? 俺の過去引っ掻きまわして何をする気ですか?」

 「煩い……黙れ黙れ黙れ!!!!」

 夕樹は完全に錯乱したのか、右手を握りしめると大きく振りかぶった。

 しかし淘太は少しだけ上体を反らし、彼の拳を避けつつ足をかけて夕樹を転ばせる。

 地面に抱きつくような姿勢になった夕樹は、再び上体を起こして拳と言葉を放つ。

 「俺は夕樹だ! 瀬谷夕樹だ!!」

 追い詰められた狂犬が見せるような血走った眼、それに物恐じせず、淘太は息を吸い込むと鋭く言い放った。

 「この町に瀬谷夕樹は居ないんだよ!!」

 淘太は放たれた拳を掌で受け止める。

 しかしその時不可解な感触が襲った。

 淘太の右手の中で、夕樹の手が崩れた。

 「何が……!?」

 夕樹の拳は色素を失い、砂のように崩れ、そしてその欠片の一つ一つは地面に落ちる前に消えて無くなる。

 しかもその変化は彼の掌から肘、肩、そして胸へと広がっていく。

 「おい! どういうことだよ! 助けて……く……」

 自身の体が崩壊する恐怖に夕樹は悲鳴を上げながらもがくが、その崩壊が顔すら覆った瞬間声すら出なくなり、そしてその2秒後には足先までが消えて無くなっていた。

 「何が起きたんだよ……」

 淘太は現状が分らず立ち尽くす、少なくともこの現象は相手すら予想していなかった出来事なのだろう、自分の耳に残る悲鳴の残響をかき消すように口元を押さえて考え込んでしまう。

 「あーあー、あなたが彼を否定しちゃうから透明になっちゃった、でもしょうがないわよね……あなたは透明じゃないんだから……」

 不意に後ろから掛けられる声、そこには黒いバイクに跨った首なしライダーと、その隣に居る女の姿があった。

 「誰ですか……」

 「私? 私の名前は桜井 朝香(さくらい あさか)、朝香って呼んで」

 「聞いた事無い名前ですね」

 自身ありげに答える朝香の言葉に、淘太は鋭い目線を向ける。

 「それでなんだけど、さっきの出来事、そして透明になっちゃった彼が何者なのか知りたい?」

 「ええ……全部知ってそうですね」

 淘太は折りたたんだ言葉で返事をする。

 恐らくこれまでの一連の出来事を全部知っているのだろう、彼女は首なしライダーの後ろに隠れるように抱きついたまま、彼の脇から顔を出して答えた。

 「でもその前に、私の実験に協力してくれないかしら? ちょっとだけ危険かも知れない実験、でもいいでしょ、あなたにだってメリットがあるわ。

 いいえ……そうじゃない、あなたに用意したご褒美を知ったら、きっと土下座をしてまで協力したくなるはず」

 「実験? どんな実験ですか?」

 淘太は虚勢交じりに答えるが、朝香は物恐じした様子も無く、猫のように笑ってから眼鏡をかけ直し、首なしライダーの前に立つ。

 「それは秘密……だって知ってからじゃつまらないでしょ? あなたは忘れたんじゃない、知らないの、だから自分で体験して覚えないといけないのよ……」

 「随分と妙な言い回しを使いますね」

 「少しくらい楽しげに話さないと、でも素敵だと思わない? だってそうでしょ? 私はあなた達の言う都市伝説のお母さんなんだから」

 不意に飛び出した都市伝説という単語、それに息を詰まらせる淘太。

 朝香はここ数日の出来事の原因だと思っていたのだが、そうでは無く、実際はこの町で起きている全ての出来事の発端になっている。

 そもそも、彼女が言う『都市伝説のお母さん』と呼ばれる物が何なのか検討が付かなかったが、少なくともこの町の都市伝説の中心に立つ存在。

 その事を知った淘太は一層興味を引かれた。

 「なんとなく人為的な物を感じてはいたけど、そう言う事ですか」

 「そんな事あなたにとっては些細な事に過ぎないわ、それで、どうする? 実験してくれる? ねぇ、協力するなら全部教えてあげる、それに、あなたはとっても幸せになれる実験なの、だから断る理由なんてないでしょ?」

 淘太は上手く続かない言葉のやりとりに苛立ちを感じ始めていた。

 「一体何で俺が幸せになれるんですか? 意味が分りませんね、第一俺が何を望んでいるのか、何が起きたら喜ぶかなんて分らないですよね?」

 その自嘲気味た言葉に、朝香は大げさな仕草で淘太の周りを歩きながら答える。

 「ある日ある日、一匹の野良犬が居ました。

 その野良犬は、大変醜い姿だったから、誰からも目を向けられず、ごみ箱を漁りながらそれはそれは醜悪な生活を送ってました」

 童話を子供に読み聞かせるように、楽しげに猫撫で声で紡がれる話。

 「そんなある時、野良犬に転機が訪れました。

 突然現れた美しい女神が、その野良犬に首輪を付けて、お風呂に入れてご飯を与えて、そして柔らかなベッドで寝る生活を用意してくれました。

 おかげでもう寂しくありません、だってもう野良犬は野良犬じゃ無くなったのですから。

 だけど……そんな幸せもつかの間です。

 飼い主になった女神は、突然命を落としてしまったのです

 まぁこれは残念、だけどその犬はもう野良犬には戻りたくはありませんでした。

 そんな犬が取った行動が分るかしら?」

 質問の意味が分った淘太は、表情を変えずに冷たく答える。

 「古い首輪を付けたまま、醜い姿で飼い犬の真似事をした……」

 彼女が語る物語、それはまさに淘太の半生だった。

 どのような手段を使ったのかは謎だが、彼女は淘太の過去を全て知っているらしい、だからこその余裕、そして淘太の心境を捉えた抽象だった。

 「正解! やっぱり物語の主人公は冴えてるわね。でも、この物語はまだ続ける事が出来るの?

 物語ってのは一度終わっても、続編を書く事が出来る」

 「いいや、彼女は死んだ、もう続けようが無い物語なんだよこれは」

 「それはどうかしら?

 昔々あるところに醜い野良犬が居ました、古い首輪を付けて、自分は野良犬じゃないと吠えながら、必死でその醜さを誤魔化す野良犬が。

 そんな彼の努力を神様が見ていたのか、ある時奇跡が起きました。

 再び空から女神が舞い降りて、その古い首輪を新しい物と交換して『よしよしいい子だね』って言って頭を撫でてくれたのです。

 それからは犬と女神はずっとずっと幸せに暮らしましたとさ。

 めでたしめでたし」

 朝香は楽しげに物語を締めくくると、淘太の頬に息がかかるほど接近して、耳元で言葉を続けた。

 「素敵なエンディングだと思わない?」

 「現実ならそうかも知れませんね、だけどそれは物語ですよ、いい加減本題に進んでください」

 話を進めるために相手に合わせた言葉、しかし、その疑問の答えは予想外な方向から淘太の胸を貫いていた。

 「瀬谷香夜子、彼女を作ってあげるって言ってるの、どう? もう土下座してでもお願いしたい条件でしょ?」

 不意に響いた懐かしい響き、それを聞いた淘太は全身から汗が噴き出すのを感じ、そして藁にもすがる思いで彼女の話の続きを聞くのだった。

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