Rery
人の原始的な本能として、黒い物、苦い物、大きな物には恐怖感を感じる性質がある、それらの情報は比較的大きな確立でなんかしらの危険性へと繋がっている。
『黒い』それは情報量を得られない闇という状態に繋がり。
『苦い』それは、アルカリ性の物質を主とした何らかの毒素を指す。
『大きい』それは自身よりも体格の大きな物、すなわち天敵を現す。
これらの情報から身を離せば、おのずと危険から身を離す事に繋がり、個体の生存率の上昇にも繋がる、子供がそれらの情報を嫌うのはそのためである。
しかし、これらの性質は成長を重ね、知識を深めるにつれ徐々に薄まってゆき、大抵の人は『黒い』スーツを身に纏い、『苦い』コーヒーやアルコールを口にし、『大きな』車を運転するようになってゆく。
もちろんそれまでに感じていた不快感や恐怖心は今となっては過去の物になる事が当たり前ではあるが、目の前の光景は例外だった。
目の前にいたのは『黒』ずくめの『大』男だった。
全身を黒いスーツで覆い隠し、顔も色の濃いサングラスによって大きく隠されている、しかもその男はサングラスの下に付いた薄い唇を吊り上げ、わずかな笑みを浮かべる。
手には刃が真っ赤に染まった包丁を握っている。
そして男は刃に付いた赤い雫をゆっくりと掌ですくい取ると、舌で舐めとり「これは美味しい」と呟いて、さらに頬を歪めて笑みを浮かべる……
そんな光景を見て淘太は口を開いた。
「なんでしょうね、至って普通の行為なのに、あなたがやってるとどこかのホラー映画に見えますよ」
「確かに……」
続いて凛がそれに相槌を打つ。
彼らが今居る場所は巨大かつ豪華な一軒家、俗に呼ばれる豪邸である。
「客を驚かせるな馬鹿!!」
大男の背中をまだ幼さが残る声が一喝する。
「せっかくだから切り分けようかと……」
「煩い馬鹿! お前が要領悪いから怖がるんだ」
間髪入れずに放たれる罵声、それを聞いてため息をつきながら淘太は机の上で切り分けられたラズベリーケーキを眺める。
男が客人の為にケーキを切った、それだけの行為ではあるのだが、どうやら声の主はその事が気に食わなかったのか、執拗に暴言を吐いている。
声の主は、大男の後ろの椅子に座った少女の物だった。
気の強そうな吊目に、長いがしっかりと手入れをされた髪の毛、作り物のように整った顔立ち、それらの特徴に加え、やや古臭いものの品のあるドレスを身に纏っているせいか、どこか人形のような雰囲気を放ってはいるのだが。
口から放たれているのは先ほどから暴言と罵倒の嵐である。
「丸ごと食べたかったのですか?」
「煩い! 切るだけ切っておいて、取り分ける皿も用意してない! 早く皿の準備もしろ馬鹿!」
ひっきりなしに繰り出される罵倒に押されるように、大男はスーツの端を揺らせながらキッチンの方向へと消えてゆく。
『馬鹿』と言う単語を今日は何度耳にしたのだろうか……そんな事に思いを巡らせつつ、淘太は隣に座った凛と向き合うと、二人揃って仲良くため息をつくのだった。
座り慣れない高級なソファ、そして踏みなれない高価なカーペット、使い慣れない大きなガラス製のテーブル。
どれも一目で高級品だと分るが、そんな豪邸の中に響き渡るのは一に罵声、二に罵声、三四は無くて、五もやはり罵声。
正直訳が分らない。
「それで? 私に何の用なの?」
やっと聞けた罵声以外の彼女の声、それに僅かに安堵を浮かべて向き直ると淘太は口を開いた。
「俺達は今この町の都市伝説について調べているんだ、ここにいる人面犬のようなね」
淘太は膝の下でぶつぶつと悪態をついていた犬夫を持ち上げると、少女に見せる。
「都市伝説……まためんどくさそうな事ね」
「ただ、俺達と面識のある都市伝説を頼りに情報を集めようにも、どうも情報が集まらなくてね、だから他にもこの町に住む都市伝説と色々話をして、少しでも多くの情報を集めようかと思って今回、ここに来たわけです」
少女は犬夫、そして部屋の隅で走り回るニューを見てため息をつくと、嫌味っぽく言葉を繋いだ。
「それでわざわざ私の所って事、確かにこいつら馬鹿だからね」
「なんやと!!」
「まぁまぁ落ち着いて」
淘太は大声を上げた犬夫を落ち着かせると、小さく息を吸って少女に向き直ると、改めて疑問を投げかけた。
「それでまず最初に聞きたい事なんですけど、あなたは『達磨女』……それで合ってますか?」
淘太が呟いた都市伝説の名前、使う相手によっては暴言以外の何物でもない淘太の言葉、それを聞いて少女は小さく息を吸うと、『中身の無い袖』を揺らして答えた。
「そう、見ての通り私がこの町の達磨女、一体何が聞きたいの?」
「あら! 佐野さんじゃないの、今日はテレビのお仕事は休みなの?」
「いえ、今仕事帰りですよ」
「そうなのー、たいへんねぇ」
仕事帰りのスーパーで淘太の背中を叩いたのは、この近所に住む主婦の物だった。
本来ならあまり一緒になることの無い組み合わせなのだが、自炊をして普段からよくスーパー通いをしている淘太とこの主婦は、比較的良く顔を合わせる事もあり自然と仲良くなっていくのはさして珍しい事ではない。
「あ! そう言えば見てたはこの前のテレビ見てたわ、あの時作ってたコロッケ、ほんと美味しそうねぇ、旦那はこれくらい自分でも作れるだろ! なんて言っちゃって、ほんと主婦をなんだと思ってるのかしら、ほんと佐野さんみたいな旦那だったらよかったのにねぇ」
「……はぁ」
一方的に繰り出される話題、淘太はそれに曖昧に頷いて答えるが、出てくるのはもう再三聞いて飽き飽きしている内容だった。
「そうだ佐野さん、今度家寄ってきなさいよ、私の家そこの郵便局の近くの空き地の真向かいなの、お茶くらいごちそうするから、あ! もうこんな時間、晩御飯の支度しなくちゃね」
「はぁ……家事頑張ってください」
淘太は一方的に交わされた約束と宣言に応援で答えると、彼女の後を追うようにレジ袋をぶら下げて店を出る、すると今度は店の出口付近で呼ぶ声に振り返った。
「大庭さん」
「よ!」
喫煙場のベンチに腰掛け、手に缶ビールを加えた友人の姿が目に映った。
彼の名前は大庭一孝、淘太の住まう3LDKに住まう3人目の住人だ。
「昼間っからこんなところで……ここは居酒屋じゃないんですよ」
「わーってる、淘太は仕事帰りか?」
「まぁそんなところですね」
「いいねぇ、ちゃんと仕事ある人は、俺ももうちっとで有名人なれるかも知れないんだけど」
一孝の声に相槌を打ちながら淘太は彼の横に腰かけると、懐から煙草を一本取り出して咥える。
「ん? お前煙草変えた?」
「まぁね……」
淘太はライターで火をつけると、最近吸い始めた煙草の煙を肺に入れて吐き出す、いつもとは違う香り。
これまでとは違う香りの煙、まだ慣れないが紫の鏡との一件以来密かに変えた日課、それにいち早く気が付いたのは一孝だった。
「どうした? 前はやたらと細いの吸ってただろ?」
「心境の変化ってとこかな」
淘太自身、あの一件が解決したとは思ってはいなかった、しかしあのままずっと縋っていてはいけない、なぜだかそう思え、彼は香夜子の吸っていた煙草を吸わなくなっていた。
もちろん変化を望むのなら銘柄を変えるのではなく、煙草をやめた方が健康的にもいい事位分ってるのだが、そうは出来ないのがニコチン中毒患者の辛い宿命である。
「それで? 一孝さんはどうでしたか? 原稿」
「見ての通りだよ、俺がこんなところにいるときは原稿が蹴られたか、通帳の中身がすかすかになった時か、美人に次から次へと求愛されて気が滅入ってる時のどれかだろ?」
「まぁ3つ目はあり得ないとして……」
「失礼だなおい」
「はいはい……それじゃ俺は先帰ってますね」
淘太は冗談交じりに明るく答えると、煙草を灰皿に落として立ちあがる、しかしその袖を掴まれて動きを止めた。
「どうかしたんですか?」
「ちょいまちーな、俺ももう帰る……」
そう言った一孝は、空になった缶を握りつぶすと、立ちあがろうとして激しく転ぶ。
「ちょっと! 大丈夫ですか!?」
「大丈夫……大丈夫や……」
硬いコンクリートに土下座するような姿勢のまま答える声、さっきは気が付かなかったが、その足元には彼が飲み干したであろう缶ビールが大量に転がっていた。
酔っ払いはいつも嘘をつく。
酔ってないと言ってる時は酔っている。
大丈夫という言葉の意味も直ぐにわかった。
「大丈夫じゃないでしょ、ほら肩持って」
淘太は彼の腕を肩に回すと立ちあがった、プンとアルコールの匂いが鼻つくところを鑑みても、彼がやたらと泥酔している事は明らかあった。
冗談交じりに返した質問の答え、それはどうやら最初の『原稿が蹴られた』が正解だったらしい。
彼が努力しているのは間違いなく事実だった、それは淘太が今の自分の立ち位置を作るよりも果てしない努力なのは見てとれたが、その手助けをすることは淘太には出来ない……
現実は厳しく、結局は運次第なのだ、努力した人間が必ず報われるとは限らない、報われるのは運を持った人間なのだ。
しかし、その結論は理不尽だと思いながら、淘太は地面に置いていたレジ袋を飽いた手で掴む。
そしてぶつぶつと呟く一孝の声を気の毒に思いながら、淘太は家路への道を歩き始めた。
「わりぃ、やっぱ飲みすぎたみたいだ……」
「みたいですね、何があったかは聞かないですけど、あまりそういうのはどうかと思いますよ」
耳元で呟かれる言葉に悲観交じりのため息と言葉で返しながら、淘太は考える。
彼に何があったのか、なぜこんなになるまで飲んでいたのかは容易に想像出来ていた、だけど彼はそれ以上の事には首を突っ込まず、当たり障りのない部分にだけ触れる。
「すまん……」
二つ折りにされた一孝の一言、それを耳にしながら歩む道のりは酷く重く感じる、事実として一孝の体が重たいのは事実だったが、彼の感情が重かった。
無駄に明るく能天気な彼ではあるが、彼は努力家の一面もある。
ある種彼は天才の部類だ、それは努力の天才と呼ばれる物ではあるが、努力だけではどうにもならない事が多い、幾ら努力したからと言って彼の努力が評価される事は無い、評価されるのは作品であり、その作品を生み出すために流した汗や涙の数ではない。
分ってはいるからこそ、投げかける言葉が浮かばない。
そんな事を考えつつ、淘太は静かになった一孝を抱えたまま家の扉を開け、玄関の段差に彼を腰かけさせて彼の靴を脱がせ、自身も靴を脱いでまた抱え込む。
ワックスのしっかり利いたフローリングを引きずり、綺麗に掃除された階段を無理矢理昇らせ、彼の部屋に送る。
無駄に大きな机と、ペン立てに鎮座する大量のコピックをはじめとした大量のペン、小さなオーディオデッキの上におかれたパース人形、そして壁一面に張られた何かのメモ書きと、ごみ箱からあふれ出し床を埋める失敗作の原稿の山。
淘太の部屋と大きさは同じなのだが、小物や原稿用紙が散乱しているせいかやたらと狭く見える。
部屋の隅に置かれた小さなパイプベットの上には、漫画本が大量に横たわり、ベッドの下に転がるのは破かれた不採用通知の手紙と、彼の書いた数ページのある週刊誌。
人によってはダメな大人の部屋、そのように映るかも知れない部屋だが、部屋の主にとってはある種の戦場だった。
「ほら、部屋着きましたよ」
「ん……んあ?」
「だから部屋に着きましたよ、しばらく横になって休んでてください」
「あー、そうだな……疲れた」
そんな声に気まずい笑いで答え、淘太は部屋を出ようとした時に声をかけられた。
「そういや……ニューはどうしてる?」
「今は凛とどこか出かけてたはずですよ」
凛は淘太と家を出る際、ニューを連れて一緒に家を出た。
いちいち他人の事を気に掛ける義理でもないのだが、部屋を出ずにモップのように部屋の中を転がり、埃を身に纏っていた彼女が少しでも外に出かけるようになったのはいい事ではある。
「都市伝説とは何かを探す旅ってとこかね……いや、バイトの面接か?」
「まぁどっちでもいいですけどね、どちらも重要な事ではあるし」
「だな……それでなんだが……都市伝説についてなんか分った事は?」
「分った事ですねぇ、まず都市伝説を認識できる人間と、認識できない2通りの人間が居る事、そして認識できる人間も、都市伝説に対して何かしらのコンタクトを取らないと時期に都市伝説の姿を確認できなくなる、って事ですかね」
ニューや犬夫、そして赤い部屋などの話ではそうだった、現に彼らを確認出来た人間は昔はもっと居たとの事だが、彼らとのコンタクトを取らない場合、次に顔を合わした際は一切の反応を示さなくなったとのことだ。
「なんかしらのコンタクトってなんだ?」
「よくわからないですけど、一番手っ取り早いのは会話みたいですね、彼らが言っている通り、都市伝説が集団で見える幻覚だとしたら、その存在の居る場所は見ている人間の心の中に存在しているのかと、だから故意に認識しないようにしたら昔の出来事を忘れるように無かった事になるのかと」
「色々と曖昧すぎるな、それで……奴らは何時ぐらいからこの町に存在してるんだ?」
「それは正直良く分らないみたいです、彼らは気が付いたらそこにいたとだけ言ってますね、仮にその自我が生まれた瞬間に彼らがこの町に誕生したとしても、みんなその時期はばらばらです、一番その時期が早かった赤い部屋で5年前、さくら……いや口裂け女は一番早くて、だいたい4カ月前です」
「尚更良くわからんなん……ある日時空の歪みが発生してそこから彼らがやってきた……みたいなファンタジーな事を考えてたが、それも違うか……」
一孝は漫画家特有のファンタジーな考えをしていたようだが、おそらくそれは違うと判断してため息をつく。
「それで? 他に……分った事は?」
「分りません……みんなが持っている情報が少なすぎて」
「確かに自分たちの元にやってくる都市伝説なんて全体量からすると少ないだろうからな……まぁ……全部でどれだけの都市伝説がこの町に居るかは謎だけど……」
アセトアルデヒドによる酔いから来る吐き気を抑えながら紡ぐ言葉は途切れ途切れだが、彼の考えは的を突いてはいた。
事実として淘太はこの町に住まう都市伝説がどれだけ居るのか知らない。
その時ふと一孝にある考えが浮かんだ。
「あのさ……都市伝説仲間について一番詳しいのは都市伝説自身じゃないのか? 同じ穴の狢っていうか……兎に角奴らの知り合いに聞けばもっと正確な情報が出てくるはずだろ?」
「あ……」
考えてみれば盲点だった、新たな情報がほしければ、都市伝説から新たな都市伝説を紹介してもらえばいい、現にニューは赤い部屋と昔から面識があったわけだ。
ならば同じように仲間を紹介してもらい、話を聞けばいいのだ。
「お前ときどき抜けてるよな……」
「否定はしませんよ」
淘太は苦笑いを浮かべて扉を開いて外に出る。
そして真向かいにあった扉を開き、自分の部屋に入った。
「なんや兄ちゃん」
「なんやじゃなくて、そこは俺の部屋ですし、その机も俺の机です」
犬夫が椅子に座り、短い手足で机に置かれていたノートを見ていた。
「随分と細かく書かれとるにやな……お前さんのレシピちゅうのは」
「料理ってのは作るときの火加減とか、微妙な調味料の配分で味が変わっちゃうものなんですよ。 もちろんその違いを家庭の味だって言ってしまえば楽なんですけど、その味の違いを無くすためになるべく細かくわかりやすいニュアンスでレシピ書いて、レシピ通りにやれば誰が作っても同じ味にする必要がありますからね」
「大変やなプロっちゅうのも」
「まぁプロになる気はなかったんですけどね」
淘太は犬夫が呼んでいた、作りかけのレシピ本を取り上げると本棚に仕舞い、犬夫を床に下ろす。
「なんや兄ちゃん、勝手に本読まれた事が気に食わなかったんか?」
「そうじゃなくて、ちょっとやりたい事があるからどいてもらっただけ」
そう言うと、淘太じゃノートの代わりにパソコンを取り出して電源を入れる。
「そうだ犬夫、犬夫は友達って居る?」
「失礼な質問やな」
「いや、そうじゃなくて、俺達の知らない都市伝説仲間って居るかってこと、もしいるなら紹介してほしくてね」
一瞬声のトーンが低くなった犬夫を慌てて落ち着かせると、淘太は細かな説明をする。
「わりぃな兄ちゃん、生憎ワイが知っとるんは、お前さんの知ってる相手位や、なんせあまり他の都市伝説には興味無いさかいな」
「やっぱり寂しい人でしたか……いや犬か……」
「失礼やな!」
淘太は軽く犬夫をからかうと、やっぱりといった表情でパソコンに向き直り、物言わない筈の液晶に言葉を投げかけた。
「赤い部屋、居る? ちょっとこっち来てくれ」
本来音声操作などという機能は着いていない彼のパソコンだったが、彼の声に反応してか、画面が真っ赤に染まり、味気ないメイリオ体の文字とアスキーアートが映し出された。
『呼ばれて飛び出て赤い部屋参上でござるよw (´・ω・`)』
パソコンを操作して思いのままに文字列を表示させている主、それは赤い部屋だった。
「ありがと、突然だけど、俺達が知らない都市伝説を紹介してほしいんだけどいいかな?」
『そんなのお安い御用でござる、もう赤子の腕を捻るほど簡単でござるけど、実際に赤子の腕を捻るってどれだけ鬼畜な発言でござるよwwwwwww
さすがにそんな趣味はないぞよwwww
そもそも……』
「そう言うのはいいから」
『……(´・ω・`)』
淘太の質問を無視して続けられるどうでもいい内容の話、付き合っていては幾らでも話が長くなりそうだったので彼は話の腰を折ると、無理矢理本題に戻す。
『……(´・ω・`)』
「だから、その都市伝説の名前は?」
『しょうがないでござるね……その都市伝説の名前は達磨女、拙者と同じく変態な淘太氏なら聞いた事あるでござるね?』
「達磨女については知っているけど、変態では無い!!」
犬夫は珍しい淘太の怒鳴り声を聞き、小さく鼻を鳴らすのだった。
達磨女は巷に広がる噂話では、深い山奥の集落に住む存在と言われている。
『昔その場所に観光に訪れたとある男は、現地の人間から面白い物を見せると言われついて行った先の小屋の中で、あるものを見る。
それは、手足を切断され一糸纏わぬ姿で見世物として飾られていた女だった』
そういった内容の都市伝説である。
もちろんこれは都市伝説であり、実際には存在しない物だが、都市伝説が現実になるこの町で彼女のような存在が生まれるのもさして珍しい事ではない。
ただ、幾つか違う点があるとすれば……
「私が達磨女、あんた目が付いてるの? 目が付いていたら私の手足が無い事位直ぐにわかるでしょ」
まず噂では涙を流し必死に助けを求めている筈の彼女は、とても偉そうであり、そして異常なほど口が悪い事。
第二に、彼女が居る場所が古びた見世物小屋ではなく、真新しい豪邸である事。
第三に、噂では一糸纏わぬ姿だった筈の彼女が煌びやかなドレスを身に纏っている事。
そして最後に。
「はい、あーんして」
「……ん」
スーツ姿の男が丁寧にフォークで彼女にケーキを食べさせる。
そして口に付いたクリームを丁寧にハンカチでぬぐい取り、まるで着せ替え人形のように櫛を使って髪を解き、べたべたと頭を撫で始める。
どう見ても巷で話される達磨女と違い、やたらと奉仕されている事。
いや、正確には奉仕というより、何か愛玩動物のように愛でられている。
「すごい溺愛っぷりですね」
「え? 普通じゃないですか?」
淘太のため息交じりの声にすっとんきょに答えるスーツ姿の男。
彼は自分の名前を檜山と名乗っている。
「普通じゃない、馬鹿!」
再び彼を一喝する達磨女の声。
檜山の話によると、達磨女に一目惚れをした彼は、ある日神社の境内に居た彼女を抱えて持ち帰り、こうして家に住まわせているのだという。
「いや、普通ですよキサラ」
「キサラってのは彼女の名前?」
凛が気になった事を質問する。
「そうですよ、名前が無いと言ったので私が考えました、如月、つまり2月に彼女と出会ったのでキサラ、いい名前ですよね?」
「自画自賛するな馬鹿!」
若干異常な雰囲気はあるものの、黒ずくめの怪しい男と共に生活をするキサラを見て淘太は安堵する。
どうやら彼女は一人ではないらしい、少なくとも名前をもらい、そして若干異常ではあるが彼女は愛されていた。
そして口は悪いが、キサラ自身も檜山に対して感謝しているのがよくわかった。
「ところで、さっきの質問に答えてもらえますか?」
「さっきの? ああ、私が都市伝説について知っている事?」
キサラは檜山が差し出したケーキの切れ端にかぶりつきながら答える。
「私たち都市伝説について調べてるの、だからお願い」
凛が手を合わせてお願いをすると、キサラは踏ん反り返るような姿勢になって鼻を鳴らす。
「まぁ私ならそこの馬鹿とは違う事も知ってるよ、だって私は賢いからな」
「自分で言うなや」
犬夫が不機嫌に呟くのをちらりと一瞥して再び口を開くキサラ。
「だけどその前に……おい檜山! 紅茶が飲みたい」
「あ! キサラが私の名前を呼んでくれた! えっと、紅茶おかわりですね!」
「いちいちそんな事で喜ぶな馬鹿! それとおかわりじゃない! 違う葉っぱがいいって言ってるんだ、アールグレイだ、今はアールグレイが飲みたい」
「はい! 喜んで!」
罵倒されながらも嬉しそうな表情を浮かべ、部屋の奥へと走っていく、その背中をちらりと見てキサラは再び口を開いた。
「あんたたちにとって役に立つかは分んないけど、私が知っている事を教えてやる、だけどその前に一つだけお願いがあるの、それを聞いて」
「お願いですか、面倒な事です?」
「それはかなり面倒だろうな、まぁそれが出来なきゃあんたたちも馬鹿って事」
強気な言葉、自分達を完全に見下したような物言いに淘太は困惑する。
「一応内容だけは聞きます、一体何をしてほしいのですか?」
「それはな……」
キサラは再び後ろを振り返り、檜山がこの部屋にいない事を確認して口を開く。
しかしこの時は、これまでに見せてきた強気な態度ではなかった。
あくまでも強気な姿勢では居た物の、どこかしゅんとした、しおらしい物を淘太の目は捉える。
これまでの強気な態度から彼女が五体不満足な体で何一つ不満の無い生活を送っているのは見てとれた、そんな彼女がしたお願い、それは……
「お願いだ、助けてほしい」
だった。
日も傾き、僅かに辺りがオレンジ色に染まり始めた緑川町の住宅街。
沢山の人がそれぞれの家路を進み、これといった特徴の無い閑静なその場所は少しずつ賑やかさを増してゆく、そんな中双眼鏡越しに遠くを見る女の姿があった。
「あの人たち、またあんたのお友達にちょっかいを出してるみたいね」
双眼鏡を外し、眼鏡越しの視界に切り替えた彼女は、横に居る男に向き直る。
『ちょっかい→否定 会話』
男は内容だけが伝わればいい、それだけを求めたような言葉を持っていたメモ帳に書き込む。
筆談をしていれば普通に話すよりも会話の速度は落ちる、そのためこのような書き方をするのだろう、ならば普通に声を出せばいいのだが、それが出来ない理由は彼の姿を見たらすぐに分かる。
男は黒ずくめのライダースジャケットで身を包んではいるがこれと言って異常な訳ではない、ただ一つ異常な点は、彼の首から上が鋭利な刃物で切り取られたかのように無い事だ。
そう、凛が以前バイクで追いかけまわした首なしライダーである。
「どちらでもいいわ、でもちょっと面白くはなってきてるとは思わない? あそこは少しだけ特別な都市伝説が居る場所よ? 」
『肯定 阻止する必要は?』
「別に、私は彼らを止めようとは思わないわ、だってそのうちみんなみんな透明になっちゃうのよ、彼らがあの都市伝説から情報を得た処で私の目的は変わらないの、私には関係の無い事、でもね……ちょっと私面白い事考えちゃったの、だから彼らを調べてるのよ」
女は交差点越しに建っている豪邸の中を双眼鏡で再び覗き、小さくため息を漏らす。
「ねぇ……あの達磨女、素敵だと思わない? 自分では何にも出来ないの、出来ないからあんな男を顎で使ってるのよ。
使ってるなんて言うのはおかしな事ね、あの男は彼女の事が大好きなのよ、いいえ同族愛かしら? そんな相手だからこそ精一杯奉仕してるの、手足が無くて弱々しいあの姿が大好きなのよ。
自分が何かをしてあげなきゃ彼女は死んじゃうかも、自分に全てが掛かっている、まるで水槽の中の魚のようね。
全部世話をしてあげなきゃいけないから、愛着がわくのよきっと。
でも馬鹿よねぇ、都市伝説なんて死ぬことは無いのに……全部透明になっちゃうだけ」
『素敵なのかは分かりません』
「そう? そうねぇ人はみんな自分の魅力に気が付かないわね、でも私は好きよ、貴方の断面はとても綺麗。
きらきらしててみずみずしくて、そして頭が無いからとっても不都合で素敵なの。
欠けているからいいのよ、都合の悪い事は全部欠けている方が素敵なの。
そう、貴方の頭のようにね。
そうだ、私も達磨になってみようかしら、そしたら貴方が全部面倒見てくれるかしら?
首から下が不完全な人間と首から上が不完全な人間、素敵だと思わない?」
女は双眼鏡を懐の鞄に詰め込むと、傍らに止めてあった黒いバイクに歩み寄る。
『理解できません』
「そんな事は無いわ、私が分かっているのだからね、貴方は理解できていないのでは無くて、忘れてしまっただけ、だって私の頭の中には入っているんだから。
まぁいいわ、情報は集まった……そろそろ帰りましょ」
『情報 詳細』
「情報を集めるための情報よ、相手を動かす鍵を見つけるための、鍵を見つけたの。
とっても素敵だとは思わない?」
女は眼を首なしライダーに向ける。
彼女はコーヒーゼリーのように黒く澄んだ瞳をしていた。
都合の悪い事から全て眼を背け何も反射せず、全ての光を受け止めず何処かへ流しているような、そんな印象すら感じる澄んだ瞳。
そんな瞳を持った彼女は、バイクに跨った首なしライダーの後ろに掴まると、音を立てずに住宅街を後にする。
勿論首なしライダーが誰かと話しているところを凛が見ていたのなら、すぐに駆けより話しかけていただろう。
だが残念ながら肝心の凛が豪邸から出てきたのは、首なしライダー達がこの場を去ってから数分後の事だった。
「檜山にばれることなく、あの家から暫く抜けだしたい……ねぇ」
淘太はリビングのソファーに座ったまま考えに耽る。
キサラがした願い事、つまり『助けて』の次に出てきた言葉は『外の景色を見たい』だった。
普通なら簡単な事だが、手足の欠けた彼女にとってそれは酷く困難な事である。
じゃあ誰かの力を借りればいいだけの事ではあるが、一番力になってくれそうな相手である檜山は頑なに協力を拒むらしい。
「どうしてあの男……そう檜山は彼女を家から出したがらないの、家の中じゃあんなにべたべたして、何度馬鹿と言われても喜んでいるような人間なのに」
凛の声に、いつの間にか体調が回復した一孝が声をかける。
「よくわからんけど、その檜山ってやつは達磨女を他人に見せたくないんだろ」
「どうしてですか? っていうか誰から檜山さんの事を聞いたんですか?」
淘太はライターを取り出し、眺めながら問いかける。
「一連の話はニューから聞いた。
そのキサラとかいう達磨女を溺愛してんだろ? だから彼女の喜ぶ事を檜山はやりたい。
だけど、大抵の人間からは都市伝説は認識されない。
檜山だけには周りの人間が反応するのに、都市伝説であるキサラだけは居ないことにされるんだ。
そんな状況に置かれたら……普通傷つくだろ?」
一孝は水の入ったコップを持ったまま、淘太の横に腰かけ、一口飲んでまた一言。
「いや……むしろ何かしらの独占欲か?」
「独占欲? 彼女を?」
「いや、俺は二人がどういう状況だったかは知らんけど、檜山ってやつはなんかしら性癖の歪んだ人間なのかって思ってな。
正式な名前知らんけど、手足欠けてるやつが好き、みたいな奴ら居るらしいだろ?
もし檜山がそんなタイプの人間だったとしたら、キサラは最高に好みの容姿をしているわけだ。
仮にだ、飴玉が一つだけお前のポケットに入っていたとする。
その飴玉はお前の大好物であり、この一つを無くしたらもう二度と手に入らないかもしれない、そうなった時にその大事な飴玉を人前にさらして歩けるか?
俺なら隠すね、誰かに取られちゃいやだから家の中に大事に仕舞っとく、他人に見せびらかす事はあっても、他人の手には絶対に触らせない」
一孝は再びコップの水で口の中を濡らすと、ソファーにふんぞり返るような姿勢になってくつろぎ始める。
彼が言った言葉も一理ある。
いや、むしろ理に叶っていた。
数が少ない物こそ独占したいと思うのは人の本能だ。
大事なものだからこそどこかに隠し、自分だけがそれに触れる権利を保持する。
「それなら、キサラが家を出るときの条件として『檜山にばれないように』って言ったのも分かるね。
もし『貴方の大事なお姫様をお借りします』なんて言ったらあの男は血相変えて抵抗しそうだもん」
凛は冷蔵庫から缶ビールを取り出し、蓋を開けてからそう呟く。
「俺達以外に都市伝説が見える人間とコンタクトを取れた事はいい事だけど、今回は随分と厄介そうだな、そもそもどうやって檜山さんの目を掻い潜ってキサラを家から出すかな……
家から出すだけの時間ならどうにでもなるだろうけど、彼女が外出している間も含め、彼からばれないようにするとなると、そう簡単な事じゃ無さそうだ……って凛さん? その手に持っているのは何ですか?」
淘太はふと気になって、彼女が持っている缶ビールを指差す。
すると凛は。
「発泡性リキュール、クリーミーな泡と香ばしい香りが売りのクリアラガー! 美味しいよ」
「っておい! それ俺のやつだろ! これで何度目だ」
一孝は凛が持っていた物が自分の物だと気が付き、ソファーを立って声を荒立てるが、凛は悪びれる様子も無く缶の中身を胃に納めて一言。
「だって、飲み過ぎて気持ち悪いんでしょ? だから消費するの手伝ってあげてるの、感謝してよね」
「感謝しない! 断じて感謝できない、あのな、それは俺の物だ、今は確かに飲みたくも見たくもないが、だからといって勝手に飲むなよ……」
一孝はあきらめがついたのか席に座りなおすと、再び自身の持っていたコップの中身を口に含む。
「あ! ごめん、見るのもいやだったか、それじゃ隠しながら飲むね……」
「そういう問題じゃない!」
再び席を立つ一孝だったが、淘太の『まぁまぁ』という一言を聞き、再び席について自身と会話の腰を元に戻す。
「それで? なんかいい案ある人」
「檜山をどっかに誘って、その隙にキサラを拉致するとか?」
「拉致なんて物騒な……そもそも、檜山がその誘いに乗るかがそもそもの謎でしょ」
淘太は凛の意見を否定して、自身の思考にふける。
「それじゃ、檜山を拉致して、キサラを誘うとか」
「檜山さん拉致しちゃだめでしょ、って言うか後で絶対問題なるからやめてくださいね」
「んじゃあ、私がバイクであの家に飛び込むから、その隙にキサラを……」
「いいんですか? それで凛さんいいんですか? あなたのバイク……確かGTX250が絶対壊れますよ」
「GTX1100! かわいい私の相棒の名前を間違えちゃだめ!」
自分の入れたツッコミを、ツッコミで返された淘太はため息をついて、懐から煙草を一本取りだす。
「大事な相棒なのに扱い酷いですね……まぁ犬夫を走ってる最中にぶん投げる人間ですしね……凛さんは」
「我儘ばかり言ってるけど淘太はなんか浮かんでるの? いい作戦」
「……正直なところ、これと言っていい手段が浮かびませんね」
淘太は煙草に火をつけ、2口ほど吹かしてから天井を眺める。
単純に彼女を家から連れ出す事自体はそう難しい事ではない、問題は檜山の方だ。
昼間の檜山の行動を見ても、彼がキサラの居ない事実をそうそう見落とすとは考えられない。
彼の行動からしても、キサラの存在は彼にとって無くてはならない存在であり、一日の中で彼の視界からキサラが外れる時間はごく僅かだろう。
しかもキサラ自身が自力で身動きできる存在ではない事は、火を見るよりも明らかであり、そんな彼女の居場所はずっと彼の頭の中に刻まれている。
おそらく数メートルの距離を移動しただけでも彼は不振に思う筈だ。
「一体どうやれば……」
「これだから素人さんはダメだな」
突然口を開いたのは一孝だった、彼は得意げに腕を組むと、席を立ちあがって説明を始める。
「こういう時こそ俺の力を発揮する時だ、いいか? 漫画とかでこういう時に主人公が取る行動ってのはだいたい決まってるもんだ。
それが何か分るか?」
「……さぁ……」
「だめだなぁ、マクガフィンのすり替えってのはストーリー作りの中でも基本的なテクニックの一つだろ?」
「専門用語を使われても正直ド素人の俺達には全然分らないんですけど」
淘太はあきれながら再び煙草を咥えると、わざとらしく冷たい視線を一孝に送る。
「つまりだ、ダミーを用意しとくんだよ、偽物のキサラをな、そんでそいつが檜山の相手をしている間に彼女を外に連れ出しちまえいいだろ?」
「ちょっと一孝、それじゃ私の案と同じくらい現実味がないでしょ、そもそもキサラの偽物ってどうやって用意するの?
淘太の大事なドールでも抱えて家に上がりこめばいいわけ?」
突然とんでもない発言をする凛に驚き、淘太はせき込みながら煙草の火を消すと、完全に冷め切った表情で凛を見て口を開く。
「あの凛さん、今の発言はどうかと思いますよ……」
「あ! ごめん淘太、あんたが押し入れの中に隠してるアレの事話しちゃった」
「そんなもん持ってません!」
そんな淘太のツッコミを余所に、一孝が再び口を開いた。
「確かにそう簡単に偽物なんて用意できないよな。
そこでなんだが、少年漫画でよくある展開をヒントにしてみよう」
「少年漫画?」
「ああいう漫画ってのは、大抵バトル物が多いだろ?
そしてバトル物で多い展開として、敵と同じ力を使う主人公って奴だ。
闇の力を使い闇と戦う戦士……よくある展開だろ?
これを俺達も真似てしまえばいい」
毒を制するには毒を、油汚れを落とすには油性の洗剤を。
一孝が言いたいのはこういうことなのだろう。
つまりは、都市伝説の問題には都市伝説を使えばいい。
この場合、キサラのダミーを用意するのが目的であり、その適任者と言える都市伝説を淘太達は知っていた。
つまりは……
「私たちもスーツ来てサングラスしてればいいって事?」
「違う……ニューを使うんだよ、シェープシフターなんだろあいつ?
どんな物にも化ける事が出来るなら、ニューがキサラの振りをしてればいい」
凛のボケを投げやりにかわした一孝は、自慢げに腕を組むのだった。
そしてその光景を見た淘太は、昼間とは違い少しだけ元気になった彼を見て胸をなでおろすのだった。
もちろんそれが虚勢だと知ってはいるが、虚勢を張る事で気が楽になる事も淘太は知っていた。
ただ、一つ分らない事と言えば、今日一日汚れるような場所に行ったのでもないのに、凛と淘太の靴に土汚れが付いており、玄関が汚れていた事。
大した問題ではないのだか、この事が気になっていた淘太は話題を切り替えようと考えたものの、とりあえず今話す内容ではないと判断し、彼の表情に合わせて小さく笑うのだった。
「さっぱりしましたか?」
「……うん」
キサラにとって、檜山はかけがえのない存在だった。
食べ物を用意してくれ、身の回りの世話も全部してくれる、何時でも話しかけてくれ、そして自分に対して好意を向けてくれる。
都市伝説にとって、食事などという行為は無くても困らない好意ではあるのだが、こうして人間と同じように生活できる事は、都市伝説である彼女にとってはありがたく。
自分と交流を取ってくれる相手の存在は、自分自身への肯定にも繋がる事だ。
「私の顔に何かついてますか?」
「……その似合わないサングラスしかついてないわ馬鹿!」
何気なく檜山の顔を見ていた事に気づかれたらしく、慌てて声を上げて感情を誤魔化すキサラ。
いつものやり取りではあるのだが、檜山はうれしそうに頬を吊り上げて彼女の顔にタオルを当てる。
いつもよりも長い間眠っていたらしく、檜山に洗面所につれて行かれた時にはもう昼前だった、そんな彼女は顔をタオルで拭かれながら、寝坊してしまった事に焦りながらも、内心わくわくしていた。
今日は客人が来る。
その相手はこの間来てくれた人達だ。
この家を出る事の無い彼女にとっては、檜山以外では初めての友人であり、そして今一番話したい相手でもあった。
「檜山……髪を結って」
「……?」
「今日は客が来るだろ馬鹿」
檜山はその一言で彼女の意思を理解し、彼女の長い髪の毛を3つ編みにする、あまり彼自身器用ではないらしく、櫛に彼女の髪をひっかけながらも少しずつ編む姿に相変わらずの悪態をつきながらも。
彼女は小さく微笑んでいた。
「これでかわいくなりましたよ。それと朝ごはん、今から食べます?」
髪を結い終えた檜山は、櫛を棚に仕舞いながらそう尋ねた。
「……うん」
満足気に鏡に映る自分の姿を見ながら、キサラは控えめに答えた。
彼女は檜山に抱かれたまま長い廊下を歩くと、つものリビングにやってくる。
「それじゃ、ちょっと待っててくださいね」
彼女を椅子に座らせた檜山は部屋を出て行き、その後ろ姿をなんとなく眺めるキサラ。
部屋の中に飾られているのはぱっと見でも高価だと分る調度品の数々、彼が一体どのような仕事をしているのか、そしてなぜこんな片田舎にこんな家を建てたのかは謎だが。
少なくとも彼がサングラスにスーツという怪しげな姿に似合わず、やたらと大金持ちなのは間違いない。
「はい、出来ましたよ」
しばらくして檜山は出来上がった朝食をトレイに載せて持ってきた。
3角に切られ軽く焼かれた食パン。
白い皿に乗ったサラダとウィンナー、そして目玉焼き。
コップに注がれたオレンジジュース。
絵に描いたような朝食であり、殊更手の込んだ物ではないが、器から昇る香りが食欲を刺激する。
「はい、あーんして」
「……ん」
絶妙な加減に焼かれた卵を噛みながら、彼女は鼻を鳴らす。
事実としてその料理は美味しかったが、彼女が鼻を鳴らした事には別の理由がある。
自分ではこの目玉焼きを切り分けることすらできない、でも檜山がそれをしてくれる。
その事が嬉しかった、都市伝説である自分の為に、他人が己の時間を割いてくれる、それが嬉しかった。
すこしだけ遅い時間の、いつも通りの朝の楽しみ。
自分自身は身動きの取れない存在だが、彼女は不思議と不便も不満も感じてはいなかった。
不便もなく満たされて、そしてその環境が自身を縛る重荷にもならず、彼女にとってそれは幸福そのものだった。
もちろん彼女がその事を口に出すことは無く、代わりに出てくるのは照れくささを誤魔化すための暴言ではあるのだが。
「……ん?」
「どうかしましたか?」
「お前はどうしてここに居る?」
不意に告げられた謎の問い。
この家の主は檜山自身であり、この部屋の中に自分がいる事は何も不自然な事ではない。
蛇口からジュースが出てきたような、不自然極まりない問いかけに檜山は首をかしげる。
「どうしてと言われましても……」
「お前の事じゃない……馬鹿!」
「私の事ではない?」
そう疑問符を浮かべ、彼女の視線が自分では無く、テーブルの先に向けられている事に気が付き、その視線の先を追ってみると。
「凛、お前はどうしてここにいるんだ?」
「呼ばれたから!」
視線の先にはなぜか凛が居た。
彼女は中途半端に開かれた扉の隙間から、顔だけを出してあいさつをする。
「そうじゃなくて、なんで勝手に家の中に入ってるんだ馬鹿」
「鍵空いてたから……」
「勝手に入ってくるなって言ってるんだ! 靭帯削れろ馬鹿! 檜山……もうご飯はいい! ニルギリが飲みたい」
不機嫌そうな声で、ソーセージを切っていた檜山の動きを制すると彼女は凛を部屋に招く。
「え? もうお腹いっぱいですか?」
「そうじゃない! 客が来たんだからお茶くらい用意しろって事だ馬鹿! 神経ニューロン外れろ!」
訳のわからない暴言で檜山を叱咤するキサラに苦笑い浮かべつつ、席に着く凛。
「ニルギリって何?」
「葉っぱの種類だ、そんなことも分んないのか」
「葉っぱ?」
「そうだ、紅茶の葉っぱだ」
彼女が言ったニルギリという言葉の意味が分らないのもさして珍しい事ではない。
凛が普段口にするのは缶ビールか缶ジュース、そしてパックのお茶と既製品がほとんどであり、こういった趣味を彼女は持ち合わせていなかった。
「紅茶の葉っぱか、あ! 私一つ知ってる、えっとなんだっけ……ダーリン人だっけ?」
「ダージリンだ馬鹿! ……それで、この前の話だけど、なんとかなりそうか?」
彼女はあらぬ方向に向いた話題を修正すると、体をくねらせて器用に椅子に座りなおす。
「それはもちろん、窓を見て」
凛が指差した方向、そこにはニューの顔があった。
「あの変な奴がどうかしたのか?」
「ニューはね、シェープシフターなの」
「シェープシフター? なんだそれは」
キサラは聞き慣れない言葉に首をかしげていると、ニューの顔が突然歪み凛の顔に変化した。
「見ての通り、あの子は好きな姿になれる都市伝説だから、キサラの姿に化けてしばらくの間影武者になってもらおうと思って」
「なるほど……馬鹿なりにいい考えだな」
「失礼ね……」
凛はわざとらしく眉を歪めて意思表示をすると、それを見たキサラとニューが小さく声を上げて笑う。
「だから、ちょっと檜山の気を引いてるうちに入れ替わればいいかなってね」
「それ位なら簡単だ、私に任せて」
キサラは得意げに鼻を鳴らし、綺麗な髪を揺らしながら小鳥のように小さく笑うのだった。
「それで、私自身は歩くことも出来ないぞ、誰が私を運んでくれるんだ?」
その問いに凛は指を鳴らして答える。
音に合わせてか、開かれたままの窓から二人の人物が顔を出し、小さく手を振る。
淘太と一孝だ。
「なるほど……一人は淘太だが、もう一人の方は誰だ?
いかにも週末は電車の中で痴漢を嗜んでそうだな」
「毎週そんな事の為に電車に乗る金なんてねぇよ……」
「金があったら嗜む予定なんですね……」
小さな声で一孝の上げ足を取る淘太。
実際に一孝はこれと言った時しか電車に乗らず、移動方法はどれだけ目的地への距離があろうと徒歩であり。
仮に痴漢なんていう疾しい気持ちがあったとしても、彼は痴漢など出来る人間ではなく。
むしろ冤罪とはいえ、痴漢で留置場に放り込まれたのは淘太の方なのだが、小ざっぱりとした衣装に身を包んだ淘太と、無精髭を伸ばし、大量の指紋にラッピングされたメガネをかけ、よれよれな服に皮下脂肪を隠した一孝のどちらが犯罪者面かと問えば、100人中100人が一孝を指差すだろう。
「あの人の名前は一孝、見た目はあれだけど、最低限の良識を持った人間だから安心して、でももし変な事されたらちゃんと私に相談してね」
「ちょっと待て、なんで俺が何かやらかす事前提なんだよ、しかもあんな小便臭いガキ相手に……」
「臭くないわ馬鹿! 膀胱爆ぜろ!」
不満げに悪態を垂れる一孝を余所に、凛は話を進める。
「それで全体の予定なんだけど、キサラはタイミングを見て檜山さんをどこかの部屋に行かせてくれる? その隙にニューと席を交代してもらってそのまま緑川町ツアーに行くの、それで帰ってきたらまたニューと交代してから私たちはこの家を後にしたら今回のミッション成功」
「檜山は感が鋭い、だからあまり長い時間は無理かもな……行き先を今のうちに決めておこう」
「そうだね、何処に行きたいかな?」
「……芒ヶ原神社」
キサラは短い間考えると、小さな声でリクエストを述べる。
彼女が言った場所は、この町を見下ろせる高台に建てられた小さな神社だった。
「別に構わないけど……どうしてあんなところに? もっといい場所あるんじゃないの?」
凛がそう言ったのも無理は無い。
芒ヶ原神社は、立地こそはいいのだが、そこに向かうための急こう配や、町から随分と外れ近くに商店も無いため、人はほとんど立ち入らない場所だった。
「どこでもいいだろ馬鹿……私はあそこに行きたいんだ」
「分った、それじゃそういう事で……聞こえた二人とも」
「ういー」
一孝は一連のやり取りを聞いて軽く右手を上げて返事をすると、部屋の中に檜山が戻ってきた事に驚き身をひそめる。
「今……誰かいませんでしたか?」
「誰もいないわ馬鹿!」
一瞬だけ窓から見えた一孝の姿を確認しようとする檜山を、キサラは相変わらずの暴言で制する。
「それで……どのタイミングで彼女を連れ出せばいいのですかね……」
「知らねぇよ、さっきのやり取りで檜山は席を外したから、もう少ししてからが妥当だろ? 茶のおかわり用意するタイミングでもいいだろうし」
窓の下に屈んだまま、淘太と一孝は小さな声で会話をする。
あまり不自然な動きを取ると檜山に怪しまれる可能性もある事位凛やキサラも分っているだろう。
そう判断していた二人は、ケータイを取り出して目的地への順路を調べる。
「結構な距離ありそうですね、こういう時につくづく思うんですけど、なんで俺達揃いもそろってまともな移動手段持ってないんでしょうか」
淘太はケータイを仕舞うを小さく皮肉を言う。
彼自身車などには興味が無く、免許すら持っていない。
一孝と言えば免許こそ持ってはいるが、肝心の乗り物を維持できるだけの財力が無く、自慢の免許証はゴールドなのだが、一度も使われた事の無い文字通りのペーパーのままだ。
「やっぱこの役目は凛が正解だったんじゃないのか? あのバイク使えば何とかなるだろ?」
「あんなもんに彼女乗せたら、運が良くてもPTSD(心理外傷後ストレス障害)コースですよ、凛さんが同乗者の身の安全に気を使ってくれるとは思えません」
「まぁ確かに言えてるか……それにこの前事故ったんだろ?」
「事故と言うべきかは謎ですけど、山道走る首なしライダー追っかけて転びましたね。
一応気をつけてと言ってあれですから、二人乗りなんてさせたらどうなる事か……」
淘太は大きく傷ついたバイクに跨り、よろよろと帰宅したこの間の凛の姿を脳裏に浮かべ小さくため息をつく。
「確かに……まぁ運ぶのは俺達だからどうにかなるか……後はあいつらが変なタイミングで作戦を始めなければ……」
一孝も淘太につられるようにため息をつく。
うまいタイミングで合図を出してくれれば計画は成功する、そう思っていた二人の期待が裏切られたのこの瞬間でもあった。
「おい檜山! スコーンが食べたい!」
「スコーンですか? 今は家に無いですけど……」
「それじゃ今から焼け!」
家の中から聞こえるキサラの罵声。
「今からですか? しばらく時間がかかりますけど……他のお菓子なら家の中に……」
「スコーンが食べたいと言ってるんだ! 焼きたてのスコーンが食べたい気分なんだ馬鹿!」
あまりにも突拍子のないキサラの声、あまりにも不自然すぎる提案に半ば押されるように同意する檜山の声を聞き、淘太はひと際大きなため息をつき、出発の支度を始めるのだった。
男二人で交代に彼女を抱えながらならそう骨が折れる作業でも無く、彼女が望めばどんな場所にでも連れて行く予定ではあった。
しかし、家を出る直前までそんな事を思っていた過去の自分を、激しく叱咤したい気持ちになりながら淘太は歩みを進める。
「この坂、どれだけ続くんですか……」
淘太達が歩いているのは、芒ヶ原神社の境内まで続く長い階段だった。
蛇のように僅かに身をくねらせながら延々と続くこの坂を上るとなると気が遠くなる。
ましてや人を抱えてとなると尚更だ。
「お前男だろ! この位で泣きごと言うな馬鹿! 視床下部焦げろ!」
「視床下部って……ちょっと一孝さん、交代です」
「おいおい! もうかよ!」
淘太はラグビーボールのように胸元で抱えていたキサラを、横を歩いていた一孝に渡すと大きくせき込みながら呼吸を整える。
「お前は嫌だ! なんか汚い!」
「相変わらず失礼だな女王様は……」
一孝は露骨に嫌がる彼女を担ぐと、軽快な足取りで歩み始める。
普段から大荷物抱えて長い距離を歩く一孝にとっては、彼女一人の重さなど大した事ないのか、危なげのない足取りで淘太との距離を広げてゆく。
「ちょっと待ってください……」
淘太は負けじと二人の後を追っていくが、その後ろ姿の先に広がる長い坂道に悪寒すら感じる。
「そう言えばあいつらは上手くやってるかね、頭のネジ緩めな二人に任せてきたけど、正直心配だ……」
「どうでしょうね……まぁ凛さんはなんだかんだで真面目だし、ニューは子供のフリをしてさくらをだました実績だってありますし……」
息を整えながら淘太は一孝に返事をする。
「だれださくらって」
「ああ、話してませんでしたっけ、都市伝説の口裂け女が居たんですよ、その時にニューには小さい子供の格好をしてもらったんですけど、その時は上手くいったんですよね」
「なるほどな……って言っても、あいつ自身ガキみたいな頭してるから外見だけ変えれば完全に子供になれるだろ」
「確かに……」
二人はどうでもいい会話をしていると、しばらく静かだったキサラが一孝の肩に顎を乗せたまま口を開く。
「上手くいかないとだめだ……檜山はちゃんと騙さないと大変だぞ」
「そうですか?」
「お前たちも知ってる通り、あの馬鹿は私にかなり執着してる、あそこにいるのが私じゃないとばれた時が心配だ」
「その事くらいちゃんと手を打ってる、もしばれたとしても、対して問題にはならないだろ普通」
一孝の気軽は声に、キサラは神妙な面持ちで返事をした。
「だから言っただろ、あいつは私に執着している、可能かは別として仮に断りを入れてから私を連れ出したのだったら大した問題にはならない。
ただ、突然私があの家から居なくなったら……
おそらくあいつは私が取られたと勘違いするだろうな」
「まぁ分らなくは無いですけど、勘違いした所でどうって事なさそうですけど……」
「淘太、あなたは自分の大切な物や人を奪われて平気でいられるの?」
突然的を得たキサラの言葉に息を飲む淘太。
大切な人を奪われた時、その瞬間を淘太は経験している。
その時自分が何を感じ、自分を埋めた感情が何なのかも知っている、そしてその感情はこの間の一件で多少は和らいだとはいえ、彼の胸の奥でずっと渦巻いていた。
「取り返せる物ならば、無理にでも取り返そうとしますね」
淘太は胸ポケットの中で揺れるライターの重みに意識を向けながら小さく答えた。
「何きな臭い事言ってるんだお前ら、そろそろ登り切るぞ」
何かを悟ってか、不意に一孝が話題を切り替えた。
延々続くように思えた階段はいつの間にかほとんど登っていたらしく、彼らの目線の先で途切れていた。
「やっとゴールですか……ってあれ?」
「私を家に送ってゴールだ馬鹿、ここはまだ折り返し地点だぞ」
すこしだけ歩むペースを速めて頂上に登りきった淘太の背中を、キサラの声が叩く。
そして少しだけ遅れて彼女も一孝に抱えられたまま階段を登りきると、その先の景色を視界に納める。
まともに手入れされていないのか、落ち葉がその領土を広げる粘土質の地面。
形ばかりの簡素な鳥居。
親から餌をねだる雛のように口を広げた賽銭箱。
そしてその上に腰かける赤いコート姿の女。
「もしかしてさくらさん?」
いち早くその存在に気が付いた淘太が声をかける。
その相手は声が聞こえたのかゆっくりと振り返り、マスクに隠された口を開いて返事をした。
「えっと……私綺麗?」
「いや、そう言うのいいから」
淘太はさくらこと、妙な場所で再開した口裂け女を見て曖昧な表情を浮かべるのだった。
「はい、綺麗に焼けましたよ」
キサラのリクエストしたスコーンの乗った皿を持って、スーツの上からエプロンという非常に妙な格好の檜山が部屋にやってきたのは、ニューとキサラが入れ替わってからだいたい30分ほど経った頃だった。
「お! 旨そう」
凛はテーブルに置かれたそれを遠慮なしに掴むと、齧り付いて舌鼓を打つ。
大抵の焼き菓子は焼き立てが美味しい、その事は気が向いたときだけ焼かれる淘太の焼菓子のおかげで知っていた。
表面はサクサクなのに中はしっとりとした生地、そして既製品ではあまり感じられない濃厚なバターの香り、檜山が自慢げに用意したスコーンはまさに一級品だった。
「わぁスコーンだ! どうしたのこれ?」
そんな中繰り出された、ニューの声に意表を突かれ激しくせき込む凛。
「ニュ……じゃなくてキサラがさっき食べたいって言ったんでしょ」
凛は慌てて取り繕いながらニューにウィンクで合図をする。
「あ、そうだった……私も食べたっ!」
無理にキサラの口調を真似たニューは、突然椅子から転げ落ちた。
「大丈夫ですか!?」
「大丈夫……」
慌てて駆け寄ってきた檜山に起こされるニュー、どうやら今の自分に手足が無い事を忘れ、スコーンを手に取ろうとしてバランスを崩したようだ。
「ちゃんと取ってあげますから……」
檜山はニューを椅子に座らせると、スコーンを一つ小皿に移してフォークで切り分ける始めた。
「ありがとう……」
ニューにしては反射的でごく自然な礼だったが、本物のキサラの発言としてはあまりにも不自然だと気が付いた凛は小さく咳払いをしてニューに合図を送る。
「そうか……馬鹿! ありがとう馬鹿! 鎖骨繋がって!」
本人にしては上手くなりきれているつもりらしいが、正直訳が分らなかった。
幾らなんでもあまりにも不自然過ぎる言い回しだ。
もちろんオリジナルであるキサラの言葉使いが自然かも怪しいところだったが、少なくともこんなに不自然に彼女は暴言を吐かないだろう。
そもそも鎖骨繋がれという言葉が暴言かすら怪しい。
「そ……それよりも檜山さん! この家随分と立派ですよね」
凛はこのままではまずいと判断し、慌てて話題を切り替える。
「この家ですか? そんな大したことは無いですよ」
「いやいや! 大してる! 普通こんな家無いから!」
一口大に切られたスコーンにフォークを刺しながら答えた答えた檜山の声に思わず席を立って突っ込みを入れる凛。
「まぁ……正直な事を言えば、この家自体は私の物ではないんですよ」
「どういう事?」
「正確には私たちはここに住まわせてもらってるんです……それは置いといてキサラ、やっぱりお腹すいてます?」
「……ふぁ?」
怪訝な様子で檜山が視線を下した先にあったのは、キサラの姿に化けたニューの顔だった。
その口からはフォークの柄が伸びている。
つまりは、取り分けたスコーンに身を伸ばしてニューが齧り付いていたのだ。
「……キサラ」
凛は瞳以外で作った笑みでニューをにらみ、極力角を落とした声で叱る。
「お腹が空いてるんだ馬鹿! 美味しいんだ馬鹿」
無理矢理誤魔化すニューを置いておき、再び凛は話題を戻す。
「住まわせてもらってる、つまりは誰かから借りてるの? この家他には人い無さそうだし……」
「まぁそんな所ですね、相続問題とかに巻き込まれたりで色々と訳ありな家なんですよ」
檜山はサングラス越しの視線で、意味深な笑みを作る。
「ちょっと気になる内容だけど、これは深入りしちゃっても大丈夫?」
あまり他人の事情に首を突っ込むのは関心できないと思いつつ、何気なく尋ねてしまう凛。
すると、檜山はフォークを置き、ニューをちゃんと椅子に座らせて口を開いた。
「まぁヒント位なら大丈夫ですよ、ただし……一つ私からも質問よろしいですか?」
改まってニューの横にあった椅子に座りなおす檜山、僅かに変化した声色に凛は気づき、少しだけ背筋を伸ばす。
「何? なんでもいいよ」
サングラス越しで感情が読み取り辛い顔を見つめ凛は答え、檜山はゆっくりと……
「先ほどから気になっていたのですが、この子……キサラじゃないですね」
と答え、ニューの頬に手を添えるのだった。
「こんな所で会うなんて……」
さくらがそう言ったのも無理は無い。
場所は芒ヶ原神社、元々片田舎である緑川町自体、観光地や人が集まるような場所は無いのだが、これほど人が集まる事の無い場所はこの場所を含めても数えるほどしかない。
「そういうあなたはどうしてこんな辺鄙な場所に?」
「ここは町を見下ろせるから……私は好きなの……」
そんな彼女の答えに、ベンチに下ろされたキサラが言葉を重ねる。
「私も好きだ、ここは景色がいいからな」
「まぁ確かにいいちゃいいけど、もっと色々あるだろ」
一孝は、マナー違反とは分りつつも、煙草を取り出して火をつける。
「だって……ここは人があまり来ないから……」
そんな言葉に、さくらは遠慮がちな言葉で返事をした。
「まぁ人はあまり居ないだろうけど、もっと他に……そういうことか」
淘太は何かを悟ると言葉の腰を折る。
さくらが言いたかったのは、人ごみが苦手と言う意味では無い。
人から無視される事が苦手だと言いたかったのだ。
大多数の人間から認識すらされない都市伝説、そのくせして、彼らはそろって孤独を嫌う。
ならばこのような人の少ない場所を嫌うと大抵の人は考えるだろうが、実際は逆だ。
人が少ないという事は、人から無視をされる可能性が低いということ。
明るい照明に当たってる時ほど、自身の影はより濃く映し出されるように、人があふれかえっている場所の方が、自身が一人である事を再認識させられる。
「それにほら……私口裂け女だから気持ち悪い……みんな怖がるから」
「あなたは沢山の子供たちを守っていたんです、そんなあなたを俺は怖いとか気持ち悪いとか思いません」
淘太は不意にマイナス思考になったさくらの肩に手をやる。
さくらのように他人から無視をされ、望まない形で『通行人B』を演じさせられた淘太には彼女の気持ちが痛いほどよくわかる。
だからこそ安っぽい言葉だと分っていながらそんな事を口にしてしまう。
「それで、お姫様はどうしてここに来たかったんだ? 景色云々だけじゃないよな?」
一孝は携帯灰皿に灰を落としながらキサラに問いかけた。
そして僅かな間の後、彼女は口を開いた。
「確かにここからの景色は綺麗だ……だけど、私はこの景色が大嫌いだ」
「好きじゃないとは言わず、大嫌いとはまた大層なこった」
「煩い馬鹿! ……ここからの景色は残酷だ、日が昇るとみんな楽しそうに家を出発して、日が暮れる頃にはみんな家に帰って、家の明かりの中楽しそうにご飯を食べて……そして少しずつ明かりを消して暖かい布団で眠る。
私は同じようになりたかった、でも都市伝説の私には無理だ。
気が付いた時にはこんな場所に一人で居たんだ。
時々やってくる人からは、当たり前のように無視されて、私はみんなと一緒にはなれない。
そう言ってるみたいでこの景色が大嫌いなんだ……馬鹿」
おそらくこの町に住む大抵の都市伝説が抱えているであろう嫉妬心。
その感情にまみれた言葉を聞いて、淘太はふと気が付く。
「もしかして……この場所ってキサラが生まれた場所ですか?」
「……そうだ、ここは私が生まれた場所だ……そしてあの馬鹿に私が拾われた場所でもあるんだ」
キサラの言葉は、彼女たちが手を伸ばしても届く事の無かった筈の景色を背景に、ゆっくりと霧散していった。
「この子……キサラじゃないですね」
檜山の一言に息を飲む凛、この分では直ぐにキサラが本物じゃないとばれるとは知っては居たが、あまりにも早すぎる。
「もう一度聞きますよ、この子はキサラでは無いですね」
檜山は声色を変えてもう一度尋ねる、その声からは確信だけが滲んでおり、幾ら嘘を並べた所で彼の見解は変わる事は無いだろう。
「……そうなの、この子はキサラじゃなくてニューっていう都市伝説」
凛は諦めの表情で答えると、檜山は落胆したように肩を落とす。
「やはりですか、この部屋に戻ってきた瞬間から分りましたよ、いいえ……怪しんでいたのはあなた方が来る前からです」
「いや……入れ替わったのは私が来てからだけど」
凛が言葉の矛盾を突くと、檜山は少しだけトーンを落とした声で説明を始める。
「それも分ってます、私が言ってるのは、朝から彼女の様子がおかしかったという事ですよ、罪悪感と言えば大げさですけど、少しだけ後ろ髪を引かれるような表情を少しだけ浮かべていました。
そして彼女の言い回しや、あなたを見つめる目線からも、彼女が何か嘘をついていると分っていました」
「随分な推理力だこと……」
話の流れが分らずに目を泳がせているニューを余所に、小さくため息をつく。
朝から少しだけ嫌な予感はしていたが、こうもまぁ見事に的中するとは思ってもなかった。
「それで? 何時くらいには戻ってくる予定ですか?」
「そこまで分ってるとは大したものね、多分夕方位には彼女は戻ってくるから安心して、一応電話掛けてみる?」
そういうと、懐からケータイを取りだすが、直ぐに檜山が止めに入る。
「それは必要ありません! いえ、彼女にはこの事を知らせないで居てください」
檜山にしては珍しい焦りの声に、凛は驚きケータイを取り落とす。
「彼女が戻ってきた時は、上手くあなたたちの計画が成功したと伝えてください」
「どうして?」
凛は床に落ちたケータイを拾い上げ返事をする。
この時、なぜかケータイに僅かに付いた土汚れが気になってはいたが、今進んでいる会話を優先させることにした。
「キサラは前々からこの家の外に出たがっていました、ですが私は彼女の力になる事ができません。
だからあなたたちを頼ったわけですが、少なくとも彼女は私を頼らなかった事による罪悪感を抱えているはずです」
「檜山さんが助ければいいんじゃないの?」
もう化けている必要が無いと判断したニューは、垂れた袖の下から手足を伸ばしつつ、檜山に問いかける。
すると檜山は何かばつが悪そうに首を横に振る。
「先ほども言いましたけど、私は彼女の力になる事はできません、いいえ、私が協力すると彼女はより一層傷付くでしょう」
「なんとなくは話が見えてきた、それで正直気になっていた事だけど、あなたはなぜキサラを助けたの?
いや、確かにあんな姿の女の子が一人で居る所見たら助けるかもしれないけど、あなたの執着はそれだけでは説明できないの」
すると、檜山は自分の顔のサングラスを指差し、小さく笑うと答える。
「同族愛……でしょうかね」
凛は彼が指差したサングラスの先、そこに何が隠されているのかをなんとなく想像し、小さくため息をつくのだった。
キサラに自我が目覚めた、つまり自身がこの町に存在を始めたのは今から1年ほど前の事だった。
この殺風景や寂れたなどという言葉以外の言葉の似合わない小さな神社。
その境内の隅に設置された簡素なベンチの上、そこでふと気が付いた時彼女は大雨に打たれ身を震わせていた。
そしてその雨から身を逸らそうと身をよじった時、自身に手足が欠けている事を知った。
ベンチの先に広がる景色は靄に隠れてはいたが、彼女の目に傘を差して家路を急ぐ人の姿を届けるには十分な視界を残しており。
夜も更けた頃に雨が止んだ時、何時までも頬が濡れている事を感じ取り、自身が涙を流しているのだと初めて知った。
その涙は、一人孤独を感じていたからではない。
自分が町を歩く通行人と同じような生活を送る事が出来ない、その事を直感で悟っていたから流れた物だった。
自身がどれだけ涙を流しても、誰も手を差し伸べてくれる事は無く。
自身がどれだけ声を上げても、誰も振り向きもしない。
それは自分が居る場所に人があまり来ないからではなく、自分が他人から認識されない存在である事だと自覚して何日も涙を流した。
そんなある日、彼女にも展期がやってきた。
檜山との出会いである。
彼は落ち葉に半ば埋もれた彼女を見つけると、何も言わずに彼女を抱きあげると自身の家に連れ帰って、暖かな紅茶を差し出して話しかけた。
これが彼女と檜山の出会いである。
「約束はまだ半分だけど、私が都市伝説について知ってる事を離してやるからよく聞け馬鹿」
「ついに本題か……」
昔を思い出していたのか、口を閉じたまま景色を見ていたキサラが口を開いた。
「馬鹿なお前たちにはあまり縁の無い事かもしれないけど、私は考え事が好きだ。
それに私は自分じゃ身動き出来ないからそんな時間も自然と長くなる。
だから私は気が付いたんだ、私の思い出はあちこちがおかしいってな」
「失礼な言い方だな、記憶なんて曖昧なもんだろ、あまり関心が無い事は忘れちまう」
一孝は投げやりに答えるが、キサラは首を振って話を続ける。
「そういう意味じゃないんだ馬鹿! 私が言いたいのは忘れるとか忘れないとかじゃなくて、思い出自体がおかしいんだ、何かをやった記憶はあるけど、その詳細はどれだけ努力しても思い出せない時がある。
どんな内容の話をしたのかは覚えているけど、その時の話の流れを思い出せない時があるんだ。
もっとひどい時は、何かをやった形跡はあるのに、そこまでの記憶自体も無かったりする。
そして思い出がそうなる時は大抵決まっているんだ」
キサラは身を捻って淘太達を見つめると、神妙な面持ちで言葉を続ける。
「最初は時間が関係してると思ってた、大抵夜中や早朝の出来事に関係していたからな。
でも違ったんだ。
私の思い出が曖昧になっている時は、私が一人の時なんだ」
「一人の時?」
淘太は思いもよらない言葉に眉根を寄せる。
「そしてその一人と言うのは、私が誰かと話をしている時じゃない、本当に自分の周りに誰も居ない時の記憶が無いんだ」
「まってください……ちょっと意味が分りません」
「あーもうこれだから馬鹿は、記憶が無い時は私たち都市伝説が誰からも認識されていない時なんだ!
もしかしたら、そういう時、私たちは存在ごと無くなっているんだ。
そして誰かが私たちを認識した時、後付けの思い出を本当の思い出だと勘違いしてこの町に現れている気がするんだ」
彼女自身、この考えに確信と呼べる要素が足りない事を自覚はしていたのだろう、僅かに迷いの見え隠れする彼女の言葉を反芻すると、淘太の頭の中に一つの言葉がよぎった。
「『世界五分前仮説』……」
「なんだその変な単語は、私には分んない! 分りやすく説明しろ馬鹿!」
キサラは微妙に矛盾する言葉を使って、淘太に説明を仰ぐ。
「昔からある哲学だよ、この世界は5分前に作られた物だという仮説は誰も壊す事が出来ないというね。
5分以上前の記憶があるのだからこの世界は5分以上前から存在している、そう説明しようにも、その記憶すら5分前に作られた物ではないかというパラドックスに陥ってしまうんだ」
「パラドックスと言うのはなんだ馬鹿! 意味が分らないぞ」
「お姫様は馬鹿じゃなかったのか?」
冗談交じりに皮肉を言い、キサラから激しく叱咤される一孝を余所に、淘太は一人物思いを進める。
「犬夫が前に話していたみたいに、都市伝説自体の存在が本当に大多数の人間に見える幻覚だったとしたら、その考えにも納得が出来る……」
「また始まったよ……」
一人ぶつぶつと呟く姿を見て、一孝はあきれ顔を浮かべてぼやくが、淘太はそんな事気にも留めずに推論を膨らませてゆく。
「そもそも、人の意識が凝り固まって都市伝説が生まれるのではなく、その場に偶然居合わせた複数の人間の意識が偶然にも一致した時、その場に都市伝説が存在するんじゃ……もしそれなら欠けた記憶の説明だって出来る」
「おいちょっとそれは突飛過ぎるだろ、たまたま同じ場所に居た人間が、たまたま同じ認識をして、たまたま同じ事を考えるだと? それは幾らなんでも突飛過ぎる」
一孝の反論を余所に、淘太は何気ない仕草で自分の頬を掻きながら口を開いた。
「ここは虫が多いみたいだ、どうも蚊に刺されたらしい」
突然話題を変えられた事を怪訝に思い、一孝は首筋を何気なく掻きながら眉根を寄せるが、次に淘太が取った行動に息を飲む。
淘太がゆっくりと伸ばした指の先には、一孝の左腕、正確には自身の首筋をなんとなく掻く彼の腕があった。
「認識や考えってのは、案外簡単に伝播するものなんだ」
「おい待て、今のは偶然だ……」
意識を覗かれているような気持ち悪さに一孝は反論するが、淘太はさらに追い打ちをかける。
「一孝さんは蚊に刺されたわけじゃないですよね? 俺の話と仕草でなんとなく首が痒くなって、なんとなく掻いた。
今やった事は少しだけ特殊な物ですけど、良くある事なんです。
目の前で嬉しそうにしている人間を見ると、自分まで浮かれた気持ちになった。
隣で欠伸をしている人間を見たら自分までまで眠くなった。
傍で体調悪そうに咳をしている人を見たら、自分まで気持ちが悪くなった。
そういう経験ってありませんか?」
淘太の言う言葉に息を飲む一孝。
普段はあまり見せない、確信を突いたような鋭い視線の意味をだんだんと理解し、一孝は淘太の言葉に耳を傾ける。
「そしてそういう現象は、俺達のように同じ場所で生活をしている人間ならなお一層起きやすい。
俺達の中で一番最初に都市伝説を認識したのは凛さんです。
そして俺、一孝さんの順です。
つまりは凛さんの『都市伝説は実在する』という認識が俺達にも伝播したおかげで、俺達は都市伝説と会話すら可能になった。」
考えてみたら、都市伝説を認識できる人間は少ない筈なのに、同じ家に住んでいる全くの他人である淘太達が揃って都市伝説を認識できる事は不思議に思ってはいた。
だが、もし淘太の仮説が正しいのならこの説明も付く。
微妙な沈黙の中、一孝は手の中で短くなった煙草を、懐の携帯灰皿に押し込んでため息をつく。
「私たちを寄生虫みたいに言うな馬鹿! アニサキスに噛まれろ!」
その沈黙を破ったのはキサラだった。
彼女は都市伝説が伝播する、という淘太の言い回しが気に入らなかったのか、長い髪を振り乱して怒鳴るが、それを止めたのは三人から少しだけ距離を置いて経っていたさくらだった。
「あの……髪が解け……解けてます……」
話の内容を一人聞いていなかったのか、それともそれ以上にキサラの髪が気になったのか、不意に指差された先には、髪が解けてストレートヘアになったキサラの動揺する姿があった。
「……!! 馬鹿! 早く戻せ!」
おそらくは、檜山に今回の外出がばれる事が心配だったのかと思われる発言だったが、淘太の目は何か違う物を捉えていた。
髪型が変わった先が心配なのでは無く、髪型が変わった事を気にかけているような、前の髪型を惜しんで居るような雰囲気が彼女の言葉から僅かに滲んでいた。
「俺達が人の髪の毛弄るのが得意な人間に見えるか?」
「……馬鹿……」
一孝の声に失望したのか、小さく愚痴を言って俯く彼女を見て、淘太は小さくため息をつく。
人の髪を結うなどやった事は無いが、やって出来ない事ではないだろうと彼女に歩み寄った淘太は再び歩みをとめた。
「私……やってみます」
さくらは少しだけ自信ありげにキサラの横に腰かけると、細くしなやかな指で彼女の髪を整え始める。
「器用だな……まぁ女だし出来るか」
「……ポマードって付けますか?」
「それはお前の弱点だろ」
一孝の声に、なぜか少しだけ頬を赤くする彼女を余所に、淘太は煙草に火をつけて吹かす。
ゆっくりと吐き出された煙が目に見えない風に乗って空を舞い、少しずつ色が薄れてゆき、しばらくすると存在自体が無かったように景色に溶け込んでゆく。
少なくとも都市伝説には感情がある。
風に舞ったこの煙のように、見えない人間には認識すらされない存在ではあるが、確かにその場所には存在しており、今見せたような複雑な感情も持ち合わせている。
単に偶然同じ認識をする人間が集まったからとはいえ、それだけでここまで複雑な感情や認識、そして記憶を持つのだろうか?
そんな疑問を掘り下げていく淘太の耳を、不満げなキサラの言葉が叩いた。
「お前髪結うの下手だな、馬鹿」
「……え?」
突然の不満に手を止めるさくら、彼女の手つきは慣れており、傍目からにも上手に髪を結ってると分るほどだったが、それでも彼女は不満を漏らした。
「檜山と比べたら兎に角下手だ! 全然髪の毛引っ張らないし……痛くもない……お前は下手だ……檜山はもっと……」
「それは檜山の方が下手だと言わねぇか?」
そう言った一孝の背中を軽く小突いて黙らせると、淘太は彼女に歩み寄る。
「檜山さん不器用そうですもんね」
何気ない仕草でさくらから首を背けるようにしたキサラの顔を覗くと、淘太は彼女の顔をハンカチで拭う。
「そうだ! あいつは……馬鹿だ……馬鹿で不器用で……何時もにやにやしてて……あんな馬鹿……」
「キサラ、そろそろ帰りますか?」
淘太は彼女の涙で僅かに濡れたハンカチを懐にしまうと、提案をする。
「……当たり前だ……馬鹿……」
キサラがなぜ涙を流したのか、なぜ『馬鹿』という言葉が弱々しくなったのか、それを全て理解した淘太は、優しく笑顔を見せるのだった。
日も暮れ始めたころ、家の前で淘太は凛達と合流した。
彼が知る限りでは今回の作戦は上手くいった、檜山が少しだけ席を離した隙にキサラとニューを再び入れ替えた、もちろんその間の出来事は檜山には感づかれていなかった。
ただ一つ気になる物が淘太の目に留まった。
それは家の前に掲げられた表札である。
「この家に住んでる人って、檜山さんとキサラだけですよね?」
「そうみたいよ」
「じゃあこの表札はなんですか?」
淘太が首をかしげて指した先、そこにあったのは『磯野』と掻かれた白い表札である。
「ああそれね、なんか檜山さん、この家を知り合いから借りてるみたい」
先ほど檜山から聞いたのか、凛は驚く素振りも見せずに明るく答える。
「道理で……とは言ってもこんな家を貸す知り合いってものすごいですね」
淘太は檜山の知り合いがどういう人間なのか、想像を膨らませながら足を進める、その時、背中を叩く声があった。
それは凛でも、一孝でも、ニューの物でも無かった。
「あら淘太さん、こんな所で会うなんて! なに? お友達とお出かけ? 3人揃って仲良いわねぇ」
年の割に元気よく駆け寄る一人の人物、それは淘太が度々スーパーで顔を合わせる、主婦だった。
「どうも」
「どうもー! だれ? 淘太の知り合いなの!?」
淘太に合わせるようにニューも声を発するが、ニューの言葉を無視して淘太に話かける。
「この辺ほんと何も無い所でしょ? 私ずっと前からここに住んでるけど、ほんとスーパーが遠くて大変なのよねぇ、そうそう佐野さんはどうしてこんな所へ? 若い人が遊べる場所なんて……」
淘太は軽く会釈をして答える、この主婦口は恐ろしく滑らかに動き、会話の腰を折らせずにあっという間に時間を消費する呪文を唱える。
その事を知っていた淘太は、なるべく会話を早く途切れさせる方法を模索しつつ、彼女の言葉に返事をした。
「そこにある家の方にちょっと用事があって」
淘太は檜山が住む家を指差し、なるべく簡潔に答えたつもりだったが、返ってきたのは妙な視線、そして遅れてやってきた笑い声だった。
「もう淘太さん面白い人ねぇ! あそこに家なんて無いじゃないの、あそこはねぇ、もう4年も前からずーっと空き地なのよ、全く面白い冗談言う人なんだから」
「……そこの豪邸の事ですけど」
凛が会話に割って入るが、やはり主婦は大声で笑う。
「この人も面白いわね、この辺に豪邸なんて無いわ、あれ? でもこの前山本さんもそんなこと言ってたかしら? 場違いな豪邸があるとか……もう! もしかして話を合わして私をからかうの? 全く面白い人たちなんだから……あ! タイムセール遅れちゃう! それじゃ佐野さんまたスーパーでね」
彼女は大声で笑うと、用事を思い出し慌てて話を切る。
握りしめられたエコバックを振り乱しながら駆けてゆくそんな主婦の後ろ姿を眺めつつ、一孝は口を開いた。
「どういうことだ? どう見ても目の前には豪邸があるのに……」
「その前に、彼女は3人そろって仲良いと言ってた……ここに居るのはニューを含めて4人なのに、って言う事は彼女は都市伝説が見えない人間な訳ね」
淘太はそれらの情報と、表札に書かれた文字を思い出し、頭の中で繋ぎ合わせ、胸の奥に氷が落ちるような感覚に陥るのだった。
「『磯野家』っていう都市伝説があるんだ、相続問題によって一家殺人の事件が起きて、そのまま取り壊されずに家だけが残ってるってね、つまりあの家は都市伝説そのものだったんだ、これがその証拠」
そう言い淘太は玄関に並べられた靴を指差す。
三人分の靴の内、一足だけがなぜか汚れていた、それは檜山の家に居て汚れる筈の無かった凛の物である。
「凛が居た場所は豪邸じゃなくて、本当は空き地だったんだ、だから手入れもされていない荒れ地の土がこうやって靴に付いている」
淘太が言った言葉の意味を理解し、土汚れがまだ僅かに付いている自身のケータイを思い出して納得する凛。
「つまり、あの家は全部都市伝説そのものだったんだ、そしてキサラも檜山の存在も」
「キサラは見ればわかるが、どうしてあの男もなんだ」
すると、淘太はケータイで何かの画像を検索して二人に見せる。
「これが彼の正体だ」
淘太が差し出したケータイに表示されていたのは、サングラスにスーツ姿の男のイラストだった。
「これって檜山さん?」
「正確には、海外で有名な都市伝説『MIB』だよ、正式名称はメン・イン・ブラック」
「ほんとに全部黒ね」
「いや、メイン・ブラックじゃなくてメン・イン・ブラック、宇宙人騒動があった場所に現れると言われる、黒服の謎の男たちって内容だね、その男は常にサングラスにスーツという全身黒ずくめの格好で、なぜか揃いもそろって不器用だって噂も流れているんだ」
自身の的外れな言葉を訂正されつつ、凛は檜山の言った『同族愛』の意味を再度理解した。
「顔に傷があるとかじゃなかったのね」
再びリビングに戻った二人に、淘太はコーヒーを淹れると差し出す。
「つまり、あそこに居たのは全部都市伝説だったって事、一つじゃなくて3つのね」
「お姫様と怪しい男と家か……今回の都市伝説は色々例外ばっかだな」
「確かに……でもキサラの話から収穫もあった」
淘太も自分のカップを手に取り一口だけ飲み込むと、得意気に口を開く。
「ああ、あれか……」
「え? どんな話?」
あの場所に居なかった凛は一人身を乗り出して興味を示す。
その子供のような仕草を見て、淘太は小さく笑うと話を始めるためにカップをカウンターに置く。
「キサラが話していた事なんだけど、都市伝説は……」
突然家の中にチャイムの音が響き渡る、それを聞いた凛は『いいところだったのに』と一人ぼやきながらも玄関に向かう。
「一体誰だ?」
「さぁ、犬夫ですかね?」
そんな会話をする二人の元に、凛が気まずそうな顔で戻ってくる。
「この人淘太に用事あるみたいなんだけど……」
凛が部屋の中に招いた相手、その人物を見た瞬間淘太がびくりと震えた。
まるで虐待を受けた犬が、恐れている相手を見たような、そんな印象のある仕草を一孝は不振に思う。
「どこに消えたかと思えば、女一人捕引っかけてこんな所に居たとはな」
その人物は鋭い視線で淘太を強く睨みつけ、色の薄いくせ毛を揺らしながらリビングの中に入ってゆく。
その動作に合わせてか、淘太は僅かに後ずさりをして距離を取る。
目線は僅かに泳ぎ、呼吸が速まっている居るのも傍目に分った。
そう、彼は怯えていた、目の前に立つ小柄な男を見て。
「……違う……」
淘太は僅かに震える声で否定を述べるが、その男は最初の言葉がどうでもよかったのか小さくため息をついて淘太を睨みつける。
「正直俺はてめえの顔も見たくないし、てめえがのうのうとテレビ映ってる姿を見ると吐き気がする、だがな、一つだけ話があるからあんたの事調べまわしてここに来た」
男はどんどん歩みを進めると、淘太の胸倉を掴んで顔を寄せる。
淘太は自分の目前に迫った相手の顔に怯えながら、震える声で答える。
「いいか、二度は言わないからよく聞け……俺の姉の死因は他殺だ」
「……それは……どうい……」
「だから! てめえが惚れた女は誰かに殺されたっつってんだよ!!」
これまで明るい空気に満たされていたリビングを、露骨な嫌悪感で満たしながら瀬谷夕樹(せや ゆうき)の罵声が響き渡ったのは刹那の事だった。
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