「強盗にでも入られたんですか?」

 思わず口をついて出た言葉だったが、それは口に出した後でも間違いない例えだと分かった。

 所狭しと置かれたゴミ袋に段ボール箱、何かの近代アートのように積まれた煙草の吸殻、彼女の商売道具らしい分厚い本や資料の数、そしてその上からまんべんなく敷き詰められた缶ビールの空き缶。

 招かれてみたは良いが、広い10畳間に広がっていたのは、足の踏み場もない悲惨な光景だった。

 「失礼な」

 「いや、確かに失礼かも知れませんけど、この惨状はどう見ても……」

 淘太は鼻を突く酷いアルコールと煙草の匂いに眉根を寄せながら、小さく悪態をつく。

 「これでもちゃんと掃除してるんだから……」

 「いやどこがですか! 兎に角喚起しましょう、喚起、留置場の方がまだ快適ですよ」

 そう言いゴミの山をかき分け、窓へと向かう淘太。

 途中何かの割れる音が足元から響くが、気のせいだと自分に言い訳をして窓を開ける、すると秋口らしい乾いた風が部屋を抜け、少しずつだが堕落と怠慢によって生み出された匂いが和らいでいく。

 「乙女の部屋を勝手に荒らすなんて……きゃ! 強引!!」

 「どこが強引なんですか! 荒らしたのはあなたでしょ!」

 淘太は数時間前に出会ったばかりの相手に向き直る。

 色の薄いくせ毛を揺らし、飾りっけの無い服装に身を包んだ彼女の名前は、瀬谷香夜子。

自身の冤罪を証明、もとい冤罪を被るきっかけを作った人物は猫のように笑うと、懐から何かを取り出す。

 「っていうか、煙草……」

 「私の部屋、悪い?」

 「いや、悪くはないですけど」

 淘太自身煙草は嫌いだった、鼻を突く独特な刺激臭、そして目にしみる煙に部屋中を黄色く染めていくヤニ、普段ならやめてくれというところだが、彼女の部屋であり恩人である事から我儘は言えないと我慢する。

 「じゃあ私の勝手」

 香夜子は手に持っていた煙草をくわえると、銀色のライターで火を付ける。

 「オイルライターってずぼらな性格の人にはあわないんじゃ……」

 「ずぼらとは失礼な」

 香夜子は手の中のライターを淘太に投げ渡す。

 「ちょ!……」

 「よく手入れしてるでしょ? もう4年になるの」

 突然飛んできたライターは淘太の手に当たりゴミの中へと埋もれる。

 「まだ見てません……」

 淘太はゴミの中からライターを拾い上げると、そのフレームを見つめる。

 ライターの表面には、細かい傷の中にデフォルメされた羽が描かれていた。

 「自由の羽、そんな気がしない?」

 「自由……」

 淘太は金属製のキャンパスに描かれた羽を指でなぞり、言葉を反芻する。

 「私の仕事は厄介事を背負わされた人たちを解放する事、その羽みたいに、誰かの背中に付けてぱたぱたってね」

 「メルヘンですね、このへ……」

 「部屋の割にとは失礼な」

 淘太の言おうとした言葉を先読みした香夜子は、不満げに煙を吐き出し大げさな仕草で淘太を睨みつけるが、淘太は小さく笑い口を開いた。

 「それでなんですけど、自分に翼をくれる部屋ってのはどこにあるんですか? まさか、そこもこんな風にゴミだらけじゃ……」

 「ゴミだらけ」

 淘太の言葉にかぶせるように呟いた彼女の言葉は楽しげだったが、淘太は内心また厄介な事になったと眉根を寄せるのだった。






 「……」

 暖かい春の光に当たりながら、机に向かって作業しているうちに、自分は寝ていたらしい、そう気がついた淘太は僅かに残った睡魔を欠伸をして意識の隅へと追いやる。

 最近妙な出来事に振り回されてばかりでどうも疲れがたまる、人面犬である犬夫にシェープシフターであるニュー、そして赤い部屋に口裂け女のさくら。

 この町には普通はあり得ない存在がいくつもある。

 そして彼らは皆自分の居場所を求め、いつも迷い、自分に力を求める。

 彼らの知りたがる、この町の都市伝説の原因はいまだにつかめてはいないが、少なくとも彼らに羽を与えてやる事くらいは出来ているのかと淘太は考え、手の中のライターを見つめる。

 「自由の羽……ねぇ」

 このライターの持ち主はそう言っていた。

 自分の使命は重い首輪を付けた人たちを自由にする事、彼女はそんな言葉を恥ずかしがる事も無く、堂々と言ってのけた。

 そしてその言葉の通り彼女は次々と行動し、沢山の人から首輪を外していった。

 ふとその後ろ姿を見ている内に、淘太自身、いつの間にか首輪が付いていた、だけどその首輪だけは特別で、淘太自身外す気にはなれず、普通のそれとは違う、暖かな首輪の感触に今まで縋っていた、だけどある日を境にその首輪の先に続く紐が切れていた。

首輪から続く紐を掴む人間がいなくなった今、いつでも首輪を外せるはずだ、だけど。

淘太は自分についた大きな首輪を外す事は出来ず。

 その首輪の先に続く紐をいつまでも手繰り寄せ、いつまでも縋っている。

 この紐の先はもうとっくに切れている、そう分かっていても首輪を外す事は出来ず。

 いつもこうやって飼い主の持ち物に縋っている。

 「ん?」

 ふと視界の隅に不自然な物が写りこんでいる事に気が付く。

 目線の先にあったのは手だった、女性の物と思われる、華奢な右腕。

 それが開けっ放しにしていた窓から伸びていた。

 一軒家の窓に女の腕、別に理解するのが難しいわけではない、しかし淘太は眉根を寄せて低く唸る。

 「えっと……待てよ、どういう状況だ?……」

 なぜなら淘太が居る部屋は、家の2階だったからだ。

 「ここ……2階だよな……」

 もしや壁伝いに家をよじ登り、この部屋まで来ているのだろうか?

 そう考え、淘太は窓の先を確認する。

 「……よう!」

 「……えっと……やあ」

 家の壁には、赤いスーツの女事、口裂け女であるさくらがぶら下がっていた。

 彼女は戸惑いながらぎこちなく返事を返す。

 淘太はため息をつき、彼女の襟首を掴むと一気に部屋の中に引き上げる。

 「わわ!」

 床に転がり込むようにして部屋に入った彼女は、ぺたりと床に座り、ずれたベレー帽を被り直す。

 「で? なんで窓にぶら下がってたの?」

 「その……淘太さんに会いたいって人が……」

 もじもじとしながら彼女はマスク越しに口を開く、望んでないとは言え、口裂け女として町を一時期恐怖に陥れた存在の筈なのに、こうしていると全然その威厳が伝わってこない。

 「玄関から入ってこればよかったのに」

 「でも……凛さんが居たから……」

 「いや、知ってる人でしょ」

「でも……怖かったから……」

そこまで聞いてふと、凛が彼女に麺棒を向けたのを思い出した。

「あのな、あいつもお前の事が怖くてあんな事したんだからな、今は大丈夫だよ」

「でも……」

そう言い、彼女は黙り込んでしまう。

もう怖い相手じゃないと分かっていても、一度恐怖を覚えてしまった相手には上手く話しかけられないらしい。

「まぁいいや、それで、その俺に会いたいって人はどこのどいつかな?」

 淘太は彼女が登ってきた窓の先を眺めるが、それらしき人物は居ない。

 「あの……この人です」

 そう言って彼女は手鏡を取り出す。

 「あ……なるほどね」

 淘太は手鏡を見ただけですぐに彼女の言いたい事を理解し、その手鏡を受け取り、机に置く。

 「そ……それじゃまた!」

 1階からの足音が響き、こちらに近づいているのが分かったからか、さくらは立ち上がり窓に向けて突然駆けだす。

 「あ! ちょっとさくら! そっちは……」

 淘太が止めようと声を上げるが、間に合わずに窓から飛び出す。

 少しの間があって、家の敷地に置いてあった物が激しい音をたて、彼女が地面に激突した事を知り、淘太は小さくため息をつく。

 窓の先を見ようと淘太が歩き始めた時、今度は背後から激しくドアをノックする音が響き、淘太が返事をするよりも早く扉が開かれた。

 「淘太! また都市伝説見付けた!」

 出てきたのは凛だった。

 「あのですね、凛さん? 突然部屋に入ってくるのはどうか……」

 「これ!」

 彼女は淘太の言葉を無視してケータイの画面を向ける。

 「首なしライダー?」

 淘太は画面に映し出された文字を読み上げ、ため息をつく。

 「赤い部屋が教えてくれた、この近くの道に出てくるみたい」

 「そりゃ首なしライダーは人気のない峠に現れるのは有名ですけど、通り過ぎるだけですよ、どこかに座り込んで待ってくれてる相手なら良いにしても、相手はバイクに乗って猛スピードで走りまわってるんです、どうやって話しかける気ですか?」

 淘太は呆れ、小さくため息をつく。

 首なしライダーが実際に現れても、相手はスポーツカーすら追い抜く腕前を持っているはずだ、そんな相手を道端に突っ立って呼び止めるなんて不可能である。

 「相手は確かにバイクで一気に走り去る、だったらこっちも追いかけたら良いでしょ」

 凛は得意げに組んでいた腕を解くと、淘汰の目の前に鍵をちらつかせる。

 「まさかとは思ってたけど、やっぱりそうですか」

 淘太はそのキーを眺め、凛が何をする気か想像し、気が重くなる。

 「目には目を、歯には歯を、首なしライダーには首ありライダーを」

 凛は自身気に言いきると、鍵を胸元にしまいこむ。

 「無駄だと思いますけど、無茶だけはしないでくださいね、首無しライダーを見た人間は事故をするって有名なんですから」

 「そのくらいはさっき勉強した、大丈夫、転ぶのには慣れてるから。それと、出発は8時過ぎからだから車も少ないし」

 「分かりましたよ、こっちでも出来るだけサポートはします」

 淘太は呆れながら椅子に座りこむと、煙草を咥える。

 「ってことで、私は準備してくる」

 凛が足取り軽やかに部屋を出る足音を聞いて、淘太は煙草に火をつけ直すと、大きく煙を吸い込む。

 「またややこしい事になったな」

 ぼそりと呟いた独り言、小さな部屋に反響して消えていく、それだけ言葉だったが……

 「あんたもなかなか大変だな」

 その声に対して、返答があった。

 聞こえたのは自分の背中、丁度机を置いていた場所からである。

 声が聞こえるはずの無い場所からの声、普通なら驚きを隠せない筈だが、淘太はやはりかといった表情を浮かべ、椅子を回して机に向き直る。

 そこにあったのは、ペンと紙と、そして先ほど口裂け女からもらった手鏡だけ。

 声を発する物は無いはずだが、淘太はその中の手鏡に向き直る。

 紫色の縁の小さな手鏡、男の部屋にあるのは若干の違和感はあるものの、別に珍しい物でもない、ただ、ひとつ違う事と言えば、その手鏡に映し出されていた光景だった。

 「紫の鏡……であってる?」

 淘太が呟いた先、鏡に映し出されていたのは自身の顔だった。

 ただ、何かが違った。

 映し出された淘太の物だったが、今現在淘太が咥えていた煙草はその鏡面には映っておらず、鏡の中の彼は小さく親指を立てて口端をにぃっと釣り上げていた。

 「正解!」

 しかもあろうことか、鏡の中に映し出された彼は声を発していた。

 そう、この鏡に映る、淘太の姿をした存在こそが都市伝説である、『紫の鏡』だった。

 「というか、紫色の鏡を見たときにすぐには想像ついてたけど、紫の鏡って本当は自分の死に顔を見せる存在だったよな」

 「そりゃねぇ、だがな。おどろおどろしいお前の死に顔見せたところで、ちっとも怖がりそうにねぇし、お前の未来の死に顔は、ベッドの上で安らかに目を閉じる、白髪のじじいだ、これじゃ怖くないっつの」

 紫の鏡は淘太の言葉に肯定の意思を示し、そして小さく肩をすくめて見せる。

 「まぁよくよく考えたら、普通は大抵そういう死に方か」

 「この国のエンバーミング(死後処理)は万全、ただ寝てるだけにしか見えないじじばばの姿見せたって誰もおどろかねぇんだよなぁ、あーもう、一度でいいから驚かせたい!!」

 紫の鏡は、文字通り鏡の中で頭をかきむしり、普通の人には理解できない悩みを口走る。

 そんな理解できない拘りを耳にして、淘太は質問を投げかけた。

 「それで? 俺に会いたいって言ってたけど」

 「そうそう! 最近俺達の事を嗅ぎまわってる人間が居ると聞いてだな」

 「嗅ぎまわってるとは失礼な……」

 淘太は先の短くなった煙草の火を、灰皿に押しつけて消すと、ぼんやりと否定し、目の前でゆらゆらと揺れる煙を目で追う。

 数年前までは嫌いでしかなかったこの煙、鼻をついて兎に角臭いだけだと思ってた匂いを嗅いでいるとどこか落ち着く。

 人の死に顔を見せると恐れられていた紫の鏡に恐怖を覚えない理由は、口裂け女の紹介という信頼もある、そしてこの煙の臭いがどこか懐かしく、そして暖かく感じていたからだ。

 記憶と匂いは密接な関係を持っていると言われるが、淘太はこれは事実だと思っていた。

 まるでこの匂いを嗅いでいると、すぐそばで、信頼を寄せている相手が居るような錯覚に陥る、だから彼は不安に駆られた時によく煙草に火を付ける。

 「いやさ、俺たちは大抵シカトされるか、気味悪いと扱われるかのどっちかなのに、あんたらは自分から好き好んで俺たちに話しかけてる気がするわけだ。

 それで気になって話をしてみたいと」

 「暇だな」

 「俺たちは毎日休日だからな」

 鏡の中で、紫の鏡は小さく肩をすくめ、手を開いてみせる。

 「大抵の人間は俺たちを嫌うのに、どうしてあんたは俺たちにそんなに関わろうとしてるんだ?」

 「自分関わろうとしてるよう、見えた?」

 淘太は引き出しの中にボールペンをしまいこみそう答える。

 「見えては居ないさ、なんせ俺は鏡の中だから、だけどな、話を聞いてみるとなんか気になってな」

 「どれもこれも、一方的に巻き込まれているだけだろ」

 「まぁ確かに、人面犬はあいつから話しかけたらしいし、シェープシフターの件はあいつが盗撮魔のふりをしてた、だから追っかけた事態だったのは分かる。

 だけどな、どっちも気のせいにしてしまう事だって可能だ、普通体が犬のじじいに水みたいに体が溶ける生き物、そんなん存在しない筈、きっと見間違いだと思ってそれ以上は関わろうとしないからな。」

 「そんなん見たら追いかけるし、正体を知りたくなるだろ」

 「怖いとは思わなかったのか?」

 矢継ぎ早に返答は返ってきた。

 「そんなん普通にホラー映画の域だぞ、そして怖くなかったにしてもそんなの存在するわけがないっしょ、俺が言うのもなんだけど、都市伝説ってのは朝のニュースでやってる占いよりも出鱈目すぎる存在だ」

 「確かにな……普通は信じないかもな」

 「そんな出鱈目な相手を追いかけた、つまりあんたは俺たちの存在を初めから知っていた、もしくはこんな空想じみた出来事を信じていたってなるわけだが。

 最初の仮定は口裂け女を2度も追いかけ、わざわざ飴玉まで用意して話しかけた事で否定できるな。

 俺たちが何者であるか知ってるのなら、わざわざ2度も合う必要なんてないからな。」

 「俺が夢物語を信じるファンタジーな脳みそしてるって?」

 すると紫の鏡は、虚空から分厚いメモ帳を取り出してメモを取る仕草をして見せる。

 「いや、正確には信じていない、存在しない誰かが存在している、そう信じたいんだ。

 俺たちが幻覚や幻聴ではなく、現実だと証明できれば、他の何かも信じる事が出来るからな」

 へらへらと笑いながら、淘太に向けて言葉を紡ぐ紫の鏡は何故か確信を捉えていた。

 どういう理屈かは分からない、だが、彼は淘太の心を覗いているかのように、淘太の胸中を広げていく。

 「俺たちが都市伝説を追いかける理由がそんなに大事か?」

 淘太は誤魔化すように言葉を繋ぐと、再び煙草を咥え、ライターを手に取る。

 「やたらとペースが速いんだな」

 「好きにさせてくれ」

 「そこは構わない、だけどちょっと気になるのは、あんたが吸っている銘柄が女向けだという事、そしてそのライター、あんたの部屋のレイアウトからして趣味は予想できるが、その柄は好みじゃなさそうだ、なんでそんなもの使ってるんだ?

 そんなにボロボロになってるのに」

 「……」

 淘太は言葉に詰まり、ライターを紫の鏡に見えないようにしまいこむ。

 まだ僅かに煙の臭いが充満した部屋、その沈黙を破ったのはやはり紫の鏡だった。

 「いくら吸っても満足できない位軽い奴を無理して吸うくらいなら、もっと重い銘柄を選べばいい、趣味じゃないライターを使う必要だってない。

 だとしたらこれにもなんか理由がありそうだな」

 「……何を知った風に」

 淘太は苛立ちを覚え、鏡に向けて鋭い目線を向ける。

 「正直に言わせてもらうと、今のあんたは俺の目には捨て犬に見える。

 大好きだった飼い主の古着にうずくまり、僅かに残った飼い主の残り香を励みに寒い段ボール箱の中で丸くなったな」

 「捨て犬? まぁ噛みつくのは案外得意だったりするかもな」

 淘太は嫌味を込め、そして警告を込めた言葉を紡ぐ。

 「自分の好みじゃない煙草を吸い、自分の好みじゃない道具を使う。

 それって、あんたが都市伝説を信じたい理由と繋がっているのじゃないか?」

 「……」

 「まぁ、この辺の予想は今思いついた事だけどな」

 「あんたの前で嘘を付くのは難しそうだな」

 淘太は煙草を箱の中にしまうと、大きくため息をついて机に肘を置く。

 「そりゃ、鏡はだませないからな」

 紫の鏡はけらけらと笑い、鏡の中で小さく呟いた。

 「鏡はだませないか、じゃあ鏡の中にどうでもいい昔話をするか」

 淘太は大きく伸びをして、椅子を回して紫の鏡に背を向ける。

 一見何気ない仕草だったが、最初の一言を紡ぐ瞬間だけは胸の奥がずきりと痛んだ。

 「……瀬谷、香夜子ってやつが居てな……」






 「さて……始めるか」

 淘太は先ほど買ってきたゴム手袋を付けると、小さく気合いを入れる。

 掃除をすること自体は嫌いではない、むしろ几帳面な性格の彼は、散らかっている個所を見つけると手を伸ばさなくては居られない性分である。

 だが、今回の相手は格が違った。

 「一体どうやったらここまで……」

 目の前に広がっていたのは文字通り地獄絵図だった。

 最初に目についた物が何かを説明するにも、説明するのにはそれなりの文章力が必要になる、腐敗と変色を繰り返したそれは、『フライパンらしきものに、真っ黒な物が乗っている』どれだけコンパクトにまとめてもこれくらいが限界である。

 ついでに言えば異臭を放つ、『見ているだけで悪寒がする』『この世のものとは思えない』。

 などといった言葉が後を付いて出てくるが、豊かすぎる個性を全て説明するとなれば一日では語り明かせないだろう。

 「第一これがキッチンってどういうことですかね……」

 淘太は一人ぼやくが、愚痴を言いたい相手は現在外出中だ。

 そんな暇な時間、淘太は自分に住む場所を与えてくれた相手への恩返しとして部屋の掃除をすると言いだしたは良いが、先ず手始めにと立ったキッチンがこの様子ではこの先思いやられる。

 淘太はとりあえずシンクの上に山積みになった、異臭を放つそれらをまとめてゴミ袋に詰め込む。

 そして次に広がるのは、何故かシンクにまんべんなく敷き詰められた黒いヌメリ、そしてその中に埋もれるもとは白かったであろう布切れ。

 「なんでここまで……」

 淘太は埋もれていた布を手に取り、広げてため息をつく。

 「なんで靴下がシンクに入ってるんだよ」

 淘太は油やらヘドロやら何かの薬品やらにまみれたそれをゴミ袋に投げ込み、シンクにこびりついたそれらを流そうと水道の蛇口をひねる、長い間使われていなかったのか、蛇口から出てくるのは真っ赤な赤さびまみれの水だった。

 「一人暮らしの男の部屋というか、廃墟かなにかじゃないか……」

 淘太は少しずつ透明度を増していく水でシンクを洗い流すが、排水溝が詰まったらしく水かさが増していく。

 「ったく、一体何が詰まって……ってまたこれか」

 淘太は排水溝の中からも出てきた靴下をゴミ袋に投げ込む。

 瀬谷香夜子という人物は、頭脳明晰、運動神経抜群なある種の超人ではあるらしいが、性格はひどくずぼら、一人暮らしには広すぎる家の中はゴミで溢れかえり、足の踏み場すら存在しない。

 そんな彼女の為に部屋の掃除をしているが、この家が普通の衛生レベルに達する時期がいつになるのか想像すると頭痛すら覚える。

 とりあえずシンクははどうにかなったので今度はコンロの手入れをすることにした。

 元栓すら締められていないコンロの上には何故か段ボールが置かれており、淘太はそれをどかすと、洗剤を吹きかける。

 口では散々愚痴っているが、淘太自身の精神面はひどく落ち着いていた、これまで不安でしかなく、どこにも味方が居なかった彼にとって、こうやって愚痴りながらも力になりたいと思える相手が出来た事、それがひどくうれしかったのだ。

 だからこそ、しっかりと恩返しをしようと淘太は小さなブラシを取り出して、刺激臭を放つコンロを磨き始める。

 しばらくそのような事をしていると、家の玄関の開く音が聞こえてきた。

 家主の帰宅である、思いのほか時間がかかっていた事に気付いた淘太は、ヤカンに水を入れるとコンロにかける。

 「ただいま」

 「お帰りなさい」

 淘太は彼女の声に背中を向けたまま答える。

 「お帰りなさいませご主人様、でしょ?」

 「なんでそんな痛々しい事を好き好んでやらなくちゃいけないんですか」

 淘太は大きくため息をついて振り返る。

 その視線の先にいたのは、見慣れた香夜子のスーツ姿だった。

 「スーツだけは綺麗にしてるのに、家の中はほんとに悲惨ですね」

 「仕事柄第一印象は大事だからね」

 「完全に上っ面だけですね」

 淘太は香夜子の言葉に小さく笑みを交えて答えると、炊飯器の状態を確認し、冷蔵庫の中身を取り出す。

 「ご飯、今から作るけど良かったですか?」

 「よろしく、手料理はどんなやつかなー」

 香夜子は淘太の持っていた物を見て、うれしそうにしていた表情を崩す。

 「サバ……」

 「はい、焼きサバです」

 「ちょっと手抜きすぎない? 焼くだけでしょ? 焼いて皿に載せて、以上!でしょ?」

 その抗議の声に淘太は小さくため息をして返答をする。

 「フライパンを計8枚消し炭にした貴女が何言ってるんですか、それに今までキッチンの掃除に時間がかかったんですよ、そんな手の込んだ料理は……」

 「作れないかぁ……まぁ良いけどね」

 「そういうことです、明日はもうちょっとしっかりしたの作りますから」

 そう言って、淘太はふとある事を思い出して恐怖を感じる。

 「そういや、グリルはまだ洗って無かったな……」

 シンクの上には得体の知れない化け物に変貌したフライパン、コンロの上には段ボール箱、換気扇には何故かティッシュペーパーが大量に付着していたこのキッチンのグリルが普通の訳が無い。

 そう思いつつも、まずは洗わないといけないと思った淘太はグリルを引き出す。

 「あれ? 案外綺麗……」

 そう言ったは本心だった。

 腐った魚が出てくると思ったグリルは新品同様の綺麗さで一度も使った形跡はなかったからだ、しかし、ひとつ妙な物が網の上に乗っていた。

 「きゃー!! 淘太私のパンティー盗むなんてエッチ!!」

 「知りませんよ!! なんでこんなものが入ってるんですか!!」

 淘太は、香夜子がグリルから取りだした下着から目をそむけ、必死に抗議の言葉を繋げるのだった。


 兎に角馬鹿げていて、疲れる毎日、だけどこの生活は楽しく、いつまでも続けばいいと思った。

 それは自分が尻尾を振る事しかできない駄犬だと証明する行為だったとしても。

 醜い野良犬に首輪を付けてくれた相手が居た事、それが何よりもうれしかったのだ。






日も暮れて、真っ暗になった住宅街にひと際大きなエンジン音が響き渡る。

こんな時間に迷惑でしかない音を奏でるそれは、凛の持ち物だった。

GTX1100、その鉄の塊はよっぽどのバイク好きでしか乗らないような代物だった。

コンパクトカーと変わらない排気量に、車を引きずって回れるだけの馬力、それは先ほどから響いているエンジン音が証明しており、オンロードに特化したボディーを僅かに揺らせながら持ち主がまたがる瞬間を心待ちにしているようにも見えた。

「長い間ほっといてたから、どっかしら壊れてると思ってたけど、案外普通に動くものね」

凛は数カ月ぶりにエンジン音を響かせる相棒を背に、自身気に鼻を鳴らす。

 「毎度のことですけど、その格好、無茶する気ですよね」

 淘太は凛の服を指摘する。

 彼女が着ているのは、全身にピッタリとフィットした革製のツナギであり、その要所要所には転倒時の、怪我軽減の為にプロテクターも取り付けられている、俗に言われるレーシングスーツだった。

 普通ちょっとしたツーリングでこのような服装をすることも無い、ロングツーリングをするにしてもここまでの装備をする事は無く、脱ぎ着の不便なツナギではなく、厚手のジャケットなどを着ていれば十分だからだ。

 大抵このような服装をする人間と言えば、スポンサーの元、商売の為に自らの運転技能を披露するプロライダーか、人通りの無い峠で己の限界を極める命知らずな人間くらいであり。

 つまり彼女がこのような服装をしているという事は、本気で『攻め』るつもりだということだ。

 一ついつもと違う点と言えば、彼女の手には中身の入っていないリュックが握られている点である。

 「それで、リュックなんて持ってますけど、何を運ぶ気ですか?」

 スクーターなどと違い、彼女の持っているようなバイクには通常荷物を入れるスペースが無いため、バイクの燃料タンクに専用のバッグを固定したりするものだが、あえてそれを使わずリュックを用意しているという事は、それなりに大きな荷物を運ぶつもりだという事であるが、淘太には何を運ぶ気なのか不明であった。

 「そりゃ……夜道を乙女一人じゃ心細いから」

 「レーシングスーツに身を包んでリッターバイク深夜に乗りまわす乙女なんて聞いたことがありません」

 淘太は呆れため息をつき視線を足元に落とすと、犬夫の姿が目に映った。

 「そもそもねぇちゃん、心細いっつっても、そげな鞄で何さ運ぶ気やねん」

 そう、少しだけズレた論点を戻した犬夫を見て、淘太が小さく声をあげる。

 「あ……そういうことか……」

 「なんやにいちゃん、分かったんか?」

 そんな二人のやりとりを見て、凛がグローブを手に付けて言葉を繋げた。

 「そういうこと、一人じゃ心細いからね」

 その言葉を聞いて、今すぐに逃げるべきだったと犬夫が痛感したのは、これから僅か数秒後の事だった。






 「なんやこれは」

 「後ろ、ちゃんと見ててね」

 凛は真後ろから聞こえた犬夫の声に返事をする。

 「犬夫……多分大丈夫だから」

 淘太の声が余計に不安を助長させる。

 なぜなら今犬夫は、凛が背負うリュックから顔だけを出す形で固定されていたからだ。

 「まさかと思うけどなねぇちゃん、そげなこと……」

 「それじゃ淘太! 行ってくる!!」

 凛がバイクのアクセルを開くと、クラッチを緩めた。

 これまで以上にエンジンが吠え、最大200馬力という規格外な力がリアタイヤに加わり、一気に車体を押し進める。

一瞬リアタイヤを地面に滑らせた鉄の塊はあっという間に家の前を走り去っていく。

 「言っとらんでわいのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉおお!!!!……」

 犬夫の声がドップラー効果をもたらしながら住宅街の奥へと飲み込まれていくのを確認して、淘太は一人家の中に入るのだった。

 ニューは出かけており、凛も犬夫も居ない家の中、しんと静まり返った玄関を上がると、2階にある自室へと足を進める。

 木製の扉を開け、綺麗に整理されたデスクに腰を下ろすと、机に置かれた紫色に縁取られた鏡に向き直る。

 「こりゃ騒音ってもんじゃないな」

 「確かに言い訳できないな……」

 「噂じゃ麺棒振り回す怪人だと聞いたけど、暴走族だったんか……」

 「いや、彼女の数少ない特技の一つということ以外は、正直分からない、だけど間違いなく暴走族ではないね」

 鏡の中で呑気に缶ジュースを飲んでいる自分の顔に、淘太は向き直ると会話を始めた。

 「それで、どこまで話したっけ?」

 「瀬谷香夜子との日々は楽しかったって散々おのろけ聞かされてる処だったな」

 「そうだったな、まぁ俺はそんな日々がずっと続くと思ってた、あんたが言った通り、俺は犬みたいなもんだよ、薄汚れて腹すかせて、拾ってくれる相手がいたから懐いた、首輪で繋いでくれる相手がいたから、必死に尻尾を振ってた」

 淘太は懐からライターを取り出して眺める。

 「彼女がどういう風に俺を思ってたのかは正直分かんない、都合のいいペットだったのか、家の中を掃除してくれる執事だったのか、もしくはなんかしら利用しようと計画してたのか」

 「男と女の関係ではなかったと?」

 紫の鏡は鼻を鳴らし、ある種の嫌味を込めて言葉を放つ、もちろんそれは淘太をおちょくる為に言った言葉だったが、返答は予想と違っていた。

 「それは間違いなく違うね、いや正確には俺自身がそういう関係を望んでいなかったってのが正解かな」

 「はぁ? ひとつ屋根の下、男と女が住んでたんだろ? そういう風になっても……」

 淘太は紫の鏡の前に手を開いて言葉を制すと、話を続けた。

 「そういう存在じゃなかったんだよ彼女は、好きか嫌いかで言えば間違いなく好きだった、だけど恋愛感情とは違ったんだよ、ほんとに変な言い方をすれば犬と飼い主だな。

 彼女が俺に踊れと言えばいくらでも踊れたし、一晩中寝ないでいろと言ったらもちろん寝なかった、今すぐに死ねと言われたら喜んで死んだ、むしろ彼女に殺されるなら本望だったさ、そのくらい俺にとって彼女は絶対的な存在だった」

 「死ねと言われて死ぬ犬はいねぇけどな」

 紫の鏡は缶ジュースを一口飲むと、飲み終わった空き缶を虚空に投げ捨てる。

 「何をするにも彼女が俺の上を行ってた、今のあんたみたいに、俺の考えている事は全部お見通しで、彼女が言う事は全部正解で間違いが無かった。

 だからこそ安心していたんだよ、安心していたからこそ、彼女と一緒にいる事は心地よかったしずっとそばにいたいと思った。

 そして彼女の為になることをしたいってね」

 淘太は懐から煙草を取り出すと、口に咥える。

 「それで料理か?」

 「正解だね、大抵の事は器用にこなす彼女にも苦手分野があった、それが家事全般、そしてその中でもひと際ひどかったのが料理だったわけ、そうなりゃ俺のやることは決まるわけだ。

 尻尾振る事しかできない犬が、飼い主の為にできる事を見つけて、やっと人として彼女に役立つ事が出来る、そう思った俺はある日からキッチンに立つことにしたわけ」

 「あの女みたいだな」

 紫の鏡の言う『あの女』が凛の事だと分かった淘太は、小さく鼻を鳴らして言葉を続ける。

 「まぁ凛もある意味似たような処はあるけどね。兎に角俺は汚いキッチンを先ずは磨いて、俺自身慣れてもない料理を作ることにした。

 まぁ最初は時間も無くてほんとに手抜きなメニューだったけど、彼女はおいしいおいしいっていって喜んで食べてくれた。

 ほんと誰が作っても同じ味になる料理だったのにな」

 「まさか、それがうれしくて腕を上げたとか言うんじゃないだろうな」

 「いや、そのまさかだよ、いや、正確には俺が真面目にこういう仕事についたのはある意味彼女の仕業でさ、香夜子は自分のコネを使って、どういうわけか俺のレシピを本にして売り出した……

 そしたらあら驚き、あっという間に知名度が上がって、今現在の俺の姿があるわけだ」

 淘太は自嘲気味た笑い声をあげて話を切った。

 仕草はこんな感じだが、内心淘太がその事を感謝している事は紫の鏡にも手に取るように分かっていた。

 「普通そういう事ってあり得るか?」

 「常識的に考えたらあり得ない、どこの馬の骨とも分からん男が作ったメニューが本になる地点も、そして何故かそれが大ヒットし、芸能界デビュー。

 どっかのケータイ小説みたいにあり得ない出来事だけど、それを実際起こしてしまうのが彼女の凄い所でさ。

 その度に何故こんな事をしたのかと聞いたら、いつも同じ答えが帰ってくるわけ。

 『面白そうだったから』ってね」

 「ずいぶん変な奴だったのね。 ある種の馬鹿だろ」

 「言い方を変えたらそれも正解……」

 天才と馬鹿は紙一重と言うが、よくできた言葉である。

 奇抜な発想を出来るの人間は天才か馬鹿位、その二つの違いを上げるとすれば、努力の有無ではなく、結果を残せるか残せないか位だ。

 「で? 留置場からあんたを出したり、あんたを有名人に仕立てるだけのコネってのは一体何の?」

 「彼女の仕事は検事、色々な人間との面識があってもおかしくないよな」

 それを聞いて、鏡の中で、紫の鏡は曖昧に驚いて見せると、小さな声で訂正を入れた。

 「いや、それがほんとでさ、さっき話した通り、彼女は酒を飲みながら車を運転するわ、魚焼きグリルに下着を突っ込むわ、ほんとにめちゃくちゃな性格してるくせに、あんな堅い仕事してたんだよね」

 「どう考えても腕は悪そうだけどな」

 「それがその逆、本当に敏腕ってやつなのかな。

 彼女は一度相手を見ただけで、その相手の本心や行動を先読み出来るだけの洞察眼を持ってたわけ、ほんとに人間離れしててさ。

 大抵の会話は俺が言う前に、なんて言うかを先読みしてるわけだ」

 「お前ドMだろ?」

 「……」

 淘太は思わず口を噤む、気に食わない返答だったからではない。

 紫の鏡の言葉が図星だったからだ。

 「正解か」

 紫の鏡は腹を抱えて笑い始める、淘太が決してすることの無い姿、だけどそんな自分の姿を鏡越しに見て、奇妙な感覚に襲われる淘太。

 「こりゃ傑作だ、テレビの前じゃ紳士的な立ち振る舞いが人気な、料理研究家、そいつの本性はドM、今度お前SMクラブにでも行けよ!!」

 「煩い……」

 「まぁ! 安心しな! お前の本性を知ってる相手は鏡だ、お前自身のようなものさ」

 紫の鏡はひとしきり淘太をネタに笑い声をあげると、咳払いをして呼吸を整える。

 「それでだ、今さらだけど、その女王様ってのはどこに居るんだ?

 喧嘩でもしたか? それとも放置プレイか何かか?」

 紫の鏡は冗談交じりに疑問を投げかける。

 なんてことの無い、軽い気持ちから来た疑問。

 だけど、その答えは予想を上回っていた。

 「……死んだ」

 これまで笑っていた紫の鏡はぴたりと笑いを止め、急に全身を襲った寒気のような感覚に息を飲む。

 軽い気持ちだったが故に、自分の言った言葉の重く感じる。

 パクパクと口を開くが、なんと言えばいいのか分からない、そんな静寂が一瞬だったがとても長く感じられた。

 返答に困る淘太の言葉、たった3文字の言葉は紫の鏡に、そして淘太自身の胸に深く刺さる。

 「おい……冗談は……」

 「死んだんだよ、いや、もしかしたら殺されたのかもしれない」

 淘太の小さな声は小さな6畳間の中、夜の静けさにシンと溶け込んでいった。






 絵に描いたかのように何もない田舎の駅。

 駅長もいなければ、売店も無く、ほんの気持ちとばかりに光る照明の下。

大庭一孝はケータイを確認する、画面に映し出されているのは、最近流行りのSNSのホーム画面。

味気のない文字列の中に連なっているのは、ひたすら仲間に向けられ書き込まれた自分のコメント。

いつもはなんかしらの返答があるはずなのだが、ここ暫くそのやりとりの相手は書き込みを行っていないらしく、一切の反応が無い。

烏合の衆をそのまま形にしたような組み合わせの為、こういった事はしばしばあるのだが、ここまで自分のコメントを無視されるといささか不愉快な物だ、とはいえ直接メールを送るにしても、そこまでする必要はなく、家路へと向かえばいずれ顔を合わすことができる事から、彼は疑問に思いつつもこれ以上の行動せずにいた。

「それにしても、淘太のやつ、最後の書き込みが『後でゆっくり説明する』とは……その後ってのは何時になるんだか……」

 一孝は一人、夜風に冷えたベンチに腰掛け、荷物を脇に置くと懐からシガレットケースを取り出す。

 中から電車の中で巻いておいた手巻き煙草を取り出すと、一本だけ咥えて火を付ける。

 「犬がどうのこうのって言ってたよな……犬でも買う気か? それとも捨て犬拾ったとか……」

 疑問を言葉にしてみるが、やはり答えらしい答えは出てこない。

 出てくるとしたら、自分の口から出てくる紫煙位である。

 僅かに甘い、独特な香りのする煙を吐き出し、脇に置かれていた添えつけの灰皿の上に火のついたままの煙草を置く。

 最近は健康のためにと禁煙を訴える人間が増えてきたせいか、ゆっくりと煙草を飲む場所すらない、長い電車での移動の間、ずっと煙草を我慢していたため、せめて一本だけでもと火を付けたは良いが、流石に夜は肌寒く、あまりのんびりと煙草を嗜む気も起きなかった。

 やっぱり家に帰りついてからにするか。そうは思ったものの、節約の為に手間のかかる手巻き煙草を吸う人間としては、今火を付けた一本が勿体ないと、再び手を伸ばして口に咥えどうでもいい思案に耽る。

 「何をしてるんですか?」

 ふと自分の真後ろから声が響き、一孝は振り返る。

 その先に居たのは、警察だった。

 「ん? 一服、こっからまたちょいと歩かないとね」

 こんな夜中、人気のない駅でふてくされる男は奇異に映ったのだろう。

 どういうわけか、しょっちゅう職務質問を受けている彼としてはもう慣れた事であり、これといった驚きも見せず、彼はやる気無く答えるのだった。

「歩くですか……一体どこまで?」

「2丁目……それで白バイさんはどうしてこんなところに?」

一孝は駐輪場に置かれていた白バイを視線に入れ、質問に質問を交えた答えを送る。

「いやぁ、ちょっと見回りの最中にお手洗いにと、それにしても2丁目って大分遠くありませんか? ここからだと歩きじゃ……」

「タクシー乗る金がもったいなくてね、こっちはあんたらの給料払うために節約してんのさ」

 一孝は皮肉を小さく呟く、警察と言えば露骨な嫌味に最初こそ眉根を寄せたが、言い争ってもしょうがないと判断したのか、曖昧な苦笑いを浮かべつつ、その場を離れ白バイに跨る。

 もう慣れてると言えば慣れている、気まずい空気の中、警察がセルモーターを回した時、耳障りな轟音を纏いながら、高速で何かが目前の道路を走りぬけて行った。

 暗がりであり、命知らずな速度を出している事もあってか、走り抜けた物の正確な姿形は分からなかったが、それがトリコロールカラーの大型バイクであると判断し。

 一孝は紫煙と共に大きくため息をつくのだった。

 「おいおい!! 速度違反してんじゃ……」

 警察はバイクのサイレンを鳴らせると、急いで後を追おうとする、しかしその背中を一孝の声が叩く。

 「おまわりさん!! いい事教えてやんよ」

 「なんだ?」

 一孝は苛立ちの表情を浮かべる警察に、明るい笑みを浮かべると。

 「りんちゃんタイム発動!!」

 と訳のわからない事を言う。

 勿論警察にはその言葉の意味など分かるはずが無く、悪態をつきながら白バイを急発進させるのだった。

 「凛ちゃんなんだよねぇ……」

 一孝はケータイを手に取ると、SNS画面に何かを書き込むと、煙草を灰皿に押し付けるのだった。

 なんてことの無いその一瞬、先ほど先を走った2台のバイクのエンジン音に耳を塞がれ、視線は薄汚れた灰皿へと向いていた一孝は、その後を一台のバイクが走り抜けていった事に気が付かないでいた。






 獣のように低く唸るバイクに跨ったまま、凛は車通りの無い山道を一気に走り抜けていく。

 目の前に広がっていた景色は次々と自分の脇を通り抜け、ステップ越しに路面の状態が自身の足に伝わってくる。

 そしてグリップには自分の相棒が放つ振動を感じていながら、凛は少しだけ視線をずらして速度を確認する。

 時速150キロ、法定速度を90キロ以上オーバーした速度を出していながら、彼女はまだのんびり走っていると自分の後ろで悲鳴を上げる相手をなだめる。

 「なんいっちょるねん!! 150なんて危ないやんか!! はよ速度落とせ!!」

 「大丈夫だって、この道そんなにカーブとか無いし、壁にぶつかるような事は無いから」

 「そやなくてやな! 道に何か飛び出してきたらどうする気や!!」

 「そんときは転ぶね、でも大したことないって、転がるだけだから」

 「あんな!! 姉ちゃん転んだらワイは姉ちゃんの背中でつぶされるっちゅうねん!」

 犬夫は何故あの時逃げなかったのかと後悔しつつ、ヘルメット越しにけらけらと猫のように笑う凛に対して罵声を浴びせる。

 逃げようにもこの速度だ、そして自分の体は今彼女の背負うリュックの中であり、そこから顔だけを出して時速150キロで遠ざかる景色を見ている状態である。

 ちゃんと前を向いているのならともかく、自分の向かっている景色がどうなってるかもわからないままこの速度で山道を走り抜けるのはかなりの恐怖心を伴う。

 ましてや彼女が背負う袋カーブを曲がるたびにはぶらぶらと揺れ、下手な絶叫マシーンよりも怖い。

 『死ぬほど怖い』とはよく言うが、人生稀にしか経験しない、『死ぬかもしれない怖さ』にさらされ続けた犬夫は、若干恐怖心が麻痺し、舌を噛まないようにと気を付けながら話しかけるが、返答は気の抜けた声だけだ。

 犬夫が知っている限り、凛は部屋の中を転がるモップや自動掃除機のような生活を送っている人物だったが、一旦バイクに乗るとまるで別人のようだと感じる。

 時速150キロで走るバイクごと地面を転がるリスクを、まるで料理の味付けの濃さを気にする程度の感覚でいる彼女の口調に、得体の知れない恐怖心も感じつつ、犬夫はふと視線を前に、正確には進行方向の真後ろに向けた。

 「一体どこまで行くっちゅうねん」

 走りやすい分殺風景な山道、変わり映えに欠ける似たような景色が続く、しかしその景色が一瞬赤く染まったように見えた。

 「なんや?」

 ほんの一瞬だったが、再び木々や道路が赤く染まる。

 犬夫は目を細めてその光景を見詰めると、その現象の正体がわかった、赤い光に照らされ、景色はその光を反射させていた。

 しかも明滅を繰り返していたその現象は、次第に周期を速め、瞬く間に暗い夜道は真っ赤に染まっていた。

 「ねぇちゃん、後ろみてみ!!」

 「何ー?」

 気だるげに答えると、凛はミラーを覗きこむ、そこに映し出されていたのは、パトライトを懸命に光らせながら距離を縮める一台の白いバイクだった。

 「お! 首なしライダー」

 「どう見てもちゃうやろ!! 首ついとるわ!」

 犬夫は本日数度目の突っ込みを入れつつ、追いかけてきている相手を凝視する。

 白塗りにされた大型バイク、カウルの両サイドに取り付けられたパトライトで周囲を赤く照らしながら徐々に距離を縮めているのは、間違いなく白バイだと判断した犬夫は凛に止まるべきだと指示を出すが……

 「大丈夫大丈夫」

 帰ってきたのは気の抜けた声だった。

 「なに言っちょるねん!! 警察が止めろっつうてるんやから、さっさ止めんとやな……」

 「あーもう……だから言ったでしょ、ノーヘルでバイク乗っちゃだめだって犬夫……」

 「お前さんが鞄にワイを突っ込んで走ったんやろが!! どないしてヘルメット被るちゅうねん!」

 犬夫に完全な濡れ衣を被せると、一人だけ被ったヘルメットの下で、凛は口端を吊り上げる。

 「犬夫……バイクの安全運転の為の豆知識その一、バイクに乗るときはヘルメットをかぶりましょう」

 「そう思うんやったらワイにも被せてくれや」

 「その二、バイクに乗るときは、制限速度を守りましょう」

 「90キロオーバーやがな」

 「その三、これが一番大事な事だから良く聞いててね」

 2連続で的確な突っ込みを言った犬夫は、次に凛が言った言葉に自分の耳を疑い、そしてやっぱりあの時逃げておけばよかったと深く後悔するのだった。

 「幾ら自分の腕に自信があっても、無茶な運転はしないように!!」

 そう言いきると、凛はアクセルを一気に開く。

 大量の燃料が送られたエンジンは激しく唸り、これまで以上の爆発的な力を吐き出す。

 急な加速に追いつけなかったフロントタイヤは地面から浮きあがり、まるで暴れ馬のように前輪を大きく浮かせたまま、一気に車体を前に推し進めていく。

 「そげな事言っとらんで、早よ止まらあぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!!」

 もちろん意識してこの行為を行った凛は平気だが、突然暴れる車体、そして一気に目前へと迫る地面に対し、犬夫がバリトンボイスで悲鳴を上げたのは言うまでも無い。






 「よし、海に行こう!!」

 香夜子の思いつきはいつも突拍子が無かった、テレビで観光地の紹介があれば、いきなり音楽のCDを買いに出かける。

 風呂上がりに牛乳を一口飲んだと思ったら、そのまま深夜の牧場に淘太を連れて車を走らせる。

 本を一冊読み終えると、読み終えた本のページを破いて折り鶴を作り始める。

 彼女に言わせれば、どれもが関係性のある行動らしいのだが、一般的な思考回路を持った淘太にとってはどれも突拍子が無く、そして不可解な行動としか言いようがなかった。

 しかし、その行動に半ば巻き込まれるように付きあってみれば、結果としてどれもが楽しく、不思議と安心できる時間が生まれる。

 変わり映えに欠けた毎日に嫌気を感じていた淘太にとって、突然向けられる突拍子もない変化。

 そんな日常を、子供のようにくるくると表情を変える彼女が与えていた。

 仕事帰りの香夜子に、淘太がコーヒーでも淹れようと立ち上がると、不意に彼女の言った、『海に行く』という提案。

 「どうして海に行くのですか?」

 「コーヒー、海で飲もう」

 香夜子はふと立ち上がった淘太の背中、それを見ただけで彼の行動を先読みし、少しだけ説明を足した提案を投げかける。

 「立っただけなのに良くわかりましたね」

 「顔に書いてあるの」

 「いや、そういうレベルの分析じゃないでしょ、どうやったらそんな簡単に人の脳みその中覗けるのか……」

 「私を誰だと思っているの?」

 香夜子はスーツ姿のまま誇らしげに自分を指差すと、子犬のように小さく口端を吊り上げ、席を立ちあがるのだった。

 その仕草を見て、口喧嘩ではかないそうに無いと確信した淘太は、曖昧な笑みを浮かべ、棚の奥から取り出したトートバックを取り出して準備を始めるのだった。






 暗い夜道を歩くのは気が滅入る。

 昼間以上に変化に乏しく、夜風の冷たい晩は尚更だ。

 どんな場合においても、目印や基準となる物の存在は重要であり、今歩いている道に目印があるかと問われたら、首を傾げるしかない。

 スタート地点が分らず、途中経過の目印も無ければ当然距離を示す基準と言うものもあやふやな物になっていき。

 結果として沢山の距離を歩いたとは言っても、今までに自分がどれだけの距離を歩いたのかまでは分らず、ゴール地点までの距離すら不確かな物になっていく。

 自分が連ねてきた足跡の数は分らず、そして目的地まであとどれだけの足跡が必要なのかも分らないこの夜道。

 それは今の自分の状態と良く似ていた。

 具体的な夢という物はあっても、自分がどれだけそこに近づいているのか不明であり、気休めに自分の功績を見て見ようにも、どれもが不確かであり、積み上げてきたものがあるのかすらわからない。

 それゆえに自分がどれだけ高い所にいるのか、夢まであとどれだけの距離なのかすら分らない。

 そう一孝は考えていた。

 一人で体を動かせばどんどん不安は大きくなり、風船のように膨らんでいく。

 「……って事ばっか考えてるからいけねぇんだよな」

 大庭は必要以上に自己主張をする不安を意識の隅へと追いやると、相変わらずのペースで足を進める。

 手に持ったスーツケースをガラガラと引きずり、なだらかな山道をゆっくりと歩く。

 「暇だ……」

 気分転換にと音楽を聞こうと思ったが、生憎ケータイは電池切れを起こしており、高級文珍と化している。

 億劫な気持を押し殺しながら、歩みを進めていると、ふと視線の先にこれまでとは違う物が映った。

 「ん?」

 なだらかに続くアスファルトの道の先に一人の人物がいた。

 性別も年齢すらも不明なその容姿をラフな服装で包み、のんびりとした足取りで進み、大庭の前で立ち止まる。

 「……?」

 わずかに口端を吊り上げるその人物の表情に疑問を持ちつつも、軽く会釈をしてその横を抜けてゆくと、突然袖を掴まれた。

 「うお!!」

 突然の行動に驚きを隠せなかった大庭の前に、その人物は顔を寄せると、コケティッシュな笑みを浮かべて口を開いた。

 「ねぇ! 見えるの?」

 「……はぁ?」

 「やっぱり見えてるよね!! ニューの事見えてるよね!!」

 「ニューってなんだよ……」

 「やっぱり見えてる!! ニューって自分の事、ニューの事見えてるんだね!」

 中性的な声で無邪気に喜ぶニューにの手を解くと、一孝はため息をついて、歩みを進める。

 「おいおいそういう電波系かよ……」

 「電波じゃないよ、ニューだよ」

 「はいはい、ニュー君……いやニューさんか? 兎に角俺は今疲れてるの、そういうのは余所でやってくれると助かるね」

 なぜこんなところを歩いていたのかは不明だが、こういうわけのわからない人物を相手にするのは疲れる、今は特に相手にしないのがいいだろうと思っていたのだが、そういうわけにはいかないという事実を、奪われたスーツケースが告げる。

 「おいお前!!」

 いきなり自分の荷物を奪われた事に腹を立てた大庭だったが、その目前に満面の笑みが現れる。

 「疲れてるんでしょ!! それじゃ荷物持ってあげる!!」

 「あのなぁ」

 鞄を取り返そうとしたものの、ニューのうれしそうな表情に負け、小さくため息をつく。

 どうやらそう簡単に自分を解放してくれる気は無いらしい。

 「どこまで持っていくの? 家まで?」

 「そう家だ、って言うかお前はどこまで付いてくる気だ、行き先逆だろ」

 「大丈夫、ニューの家もこの先だから」

 「それは分かったけどだな、お前の行き先は逆だろ」

 「散歩してただけだから大丈夫」

 なぜこんな夜中に人通りの無い道を歩いていたのか疑問に思ったが、これを聞くと余計ニューの気を引いてしまうと判断した一孝は、話題を変えた。

 「それで、あんたの名前はニューだっけ? 外国人か? 妙な名前してるけど」

 「違うよ」

 「じゃあ日本人か……」

 と言った時、再びニューが口を開く。

 「そういうことじゃなくて、妙な名前じゃないよ」

 「そうか、悪かったな、あまり聞きなれない響きだったもんで」

 一孝は小さく謝罪をするが、その耳を予想外な言葉が叩いた。

 「ニューって名前はね、淘太が付けてくれたの、だから大事な名前、妙な名前じゃなくて大事な名前なの」

 「淘太って、あのひょろ長いもやし男か?」

 「もやしじゃないよ、凛と一緒にいる淘太だよ」

 再び湧いて出た友人の名前に息を飲む一孝。

 見知らぬ変な人物から出てきた二つの名前が、自分の知る人物だった事に驚きを隠せないでいた。

 「ちょっとまて、お前誰だ?」

 「だからニューだよ」

 「そういうことじゃなくてだな!! 淘太と凛の名前なんで知ってるんだ!?」

 そう問いかけた時、突然ニューの姿が消えた。

 正確には、何もないところでつまずき、派手に転んでいた。

 「って、大丈夫か?」

 起き上がらせようと手を伸ばした時、一孝は絶句する。

 地面にニューが倒れた場所にはなぜか人型の水たまりが出来ており、しかもあろうことかそれがうねうねと動き、人の形になっていく。

 「なんだよこれ……」

 一孝が自分を落ち着かせようと深く深呼吸するのに合わせてか、その液状の物は完全に人間の形になり、ニューの姿に戻っていた。

 「びっくりした……」

 転んだ拍子に形を崩し、再び元の姿に戻ったニューは立ちあがると、再び何事も無かったかのように鞄を掴み、ごろごろとキャスターを使って道を引きずっていく。

 「ちょっとまておい!! 今のはなんだ!?」

 ごく自然に、当たり前の事のように行われた一連の行動に一孝は驚くが、ニューはなぜ一孝が驚いているのかすら分らないといった表情を見せ、照れくさそうに笑う。

 「何って?」

 「さっきお前なんか溶けただろ! どういうことだ」

 「えっとねぇ、ニューはシェープシフター、都市伝説なんだよ」

 そのごく自然な自己紹介に、一孝は間抜けな声をあげる事が出来なかった。






 「それはどういう意味だよ……」

 淘太の6畳間に響いたのは、明るい音楽でもなければ、風にそよぐカーテンの衣擦れ音でもなく、紫の鏡の声だった。

 日も暮れて、シンと静まりかえった住宅街の一室には、小さいその声ははっきりと広がった。

 「そのまんまの意味だ、瀬谷香夜子は死んだ、そしてその死んだ理由に、人為的な物を俺は感じている」

 淘太は自分の声が、少しだけ震えている事を自覚していた。

 思い出すだけで震えが止まらない事実。

 一人の人間との永遠の別れを嘆いているだけではない。

 悲しくて辛い、だけどそれ以外の感情が日を追うごとに膨らんでいる。

 「人為的な物って、病気とかそういうのじゃないのか?」

 「一応彼女は単独での事故、もしくは苦労を嘆いての自殺、そう処理はされてる、なんせ崖から一人落っこちたんだからな」

 「じゃあなんで殺されたって思ってるんだよ」

 「確かに彼女が居た場所は危険と言えば危険な場所だ、海沿いの切り立った崖、まるでサスペンス映画に登場するような場所だしな。

 だけど、足場を踏み外しただけで柵を飛び越えて崖まで落ちてくとは考えにくい。

 じゃあ何か彼女が思い悩んでいたのかと言ったら、答えはノーだ、俺は彼女の事は全て知ってる、仮に自分の余命が後数日だと医者から宣告されようが、世界が今日中に終末迎えるなんて言われようが。

 それなら今を楽しもうとするような人間だからな」

 淘太が知る香夜子は、そういう人間だ。

 分かりやすい位にポジティブで、裏表が無い、そもそもそれだけ思い悩んでいたところで、わざと明るい演技をしているのだとしても、いつかはボロが出るし、淘太自身が真っ先にその異常に気が付く。

 だが、それ以上に淘太が自殺では無いと確信している根拠、それは……

 「悩みなんて誰しもが持っている物だろ、そしてその悩みを大抵の人間は器用に隠して生きている。

 それに押しつぶされそうになっていても、そうそう気が付く事は出来ない、そんだけの理由で他殺だなんて考えるのは安直すぎんぞ」

 「彼女の仕事は検事って言っただろ、誰かから恨まれて居ても不思議じゃない、それに……見たんだよ、あの場所に男が居たのを」

 あの時淘太は見ていた、よっぽどの物好きでしか行かないようなあの場所に。

 淘太と香夜子以外に居た人物を。

 そして、その男が血相を変えてその場から立ち去る姿を。

 「勿論確信なんて無い、証拠を上げろと言われても用意なんてできない、だからこそ話を聞きたい」

 「それで『イエス』って答えたらお前は激しく復讐に燃える気か?」

「恐らくな」

 淘太は小さく返事をする。

 「それで、復讐したら気分が晴れてめでたしめでたしってか? そんなんじゃ誰も得をしないだろ、女だって生き返るわけじゃない、俺みたいな存在が言うのもなんだが、死んだ人間が天国で喜ぶわけねえだろ」

 確かに紫の鏡が言う通り、復讐は何も生まない。

 復讐したところで誰も得をしない、死んだ人間の気分は晴れず。

 満たされるのは自分の自尊心だけだ。

 「確かにそうかもな、それでも、俺にとっては自殺だった場合の方が怖い、それならいっそ復讐心に燃える悲劇の男の方が幾分ましだ」

 「はぁ? なんで自殺よりも……」

 「他殺だった場合、それは誰かのせいにしてしまえば終わる、少なくとも、俺は必要とされて居ながらにして、こうして取り残された事になる、だけど……」

 逃げ道の無い苦悩、それを回避する一番楽な手段は『誰かのせいにする』だ。

 自分は悪くない、自分は関係ない、そう思える事は、経過はどうであれ、結果は自分の心の重りを簡単に取り除いてくれる。

 「お前な、そんなんエゴもいいところだろ、彼女がどれだけ優れた人間だったにしろ、死ぬ時は死ぬ、病気なり事故なりな、それを勝手に都合よく他人のせいにして、それで『俺は彼女の為に!!』ってのはどう考えてもおかしいだろ!」

 「そんなん分かってる!! だけど……俺は……怖いんだよ」

 淘太は普段上げる事のない大声で怒鳴ると、目元を覆う、誰にも話した事の無かった本心。

 存在するかも怪しい相手だからなのか、その本音は何故か口を突いて出てゆく。

 「怖いんだ……俺が必要とされない人間だって認めるのが……俺には悩みの相談も無く何処かに行く事が。

 誰からも必要とされない方が怖いんだ。

 俺が香夜子を守れなかった、助ける事が出来なかったと認める方が怖い……香夜子が俺に助けを求める気が無い方が怖い。

 だったらいっそ……誰かを憎む方が……」

 必要とされない不安。

 まるで映画のワンシーンに一瞬だけ映るエキストラのような、居ても居なくても変わらない。

 自分抜きでひとりでに回る日常、その片隅から行き交う人間を眺めるだけの毎日。

 誰からも必要とされない孤独。

 何をやっても、誰も振り向かない焦燥感。

 胸元に『通行人B』と名札を付けてるような恐怖。

 そんな感情に押しつぶされそうになった時、そっと手を差し伸べてくれた相手。

 薄汚れた野良犬が首輪で繋がれ、孤独と引き換えに束縛と役目を手に入れた日々。

 それが全部出鱈目だったと信じたくなかった。

 それならばせめて、『悲劇の男』脇役だろうが、憎まれ役だろうが、そんな役目を背負った方がずっとましだった。

 だからこそ、根拠の無い証拠。

 現場で男を見た、そんな薄っぺらい口実に縋る事しかできないでいたのだ。






 激しいエンジン音を響かせる一台のバイクは、時折何かこすれる音を立てながらロクに先も見えないカーブを駆け抜けていた。

 「おっと……」

 カーブを走りきる直前、再び開かれるアクセルに合わせてタコメーターの針は跳ね上がり、レッドゾーン付近で激しく震える。

 そしてすぐにアクセルを緩め、ブレーキも使ってスピードを落とすとカーブで車体を倒す。

 その度に膝のガードはアスファルトに僅かに接触し、エンジン音とは別に地面に削られるガードの悲鳴を響かせていく。

 「いい加減やめんかぁぁぁ!!!」

 「えー?」

 そんなバイクを乗り回す凛は、本日通算20回目を記録した犬夫の抗議の声に、不満げな声を上げる。

 カーブを抜け、ミラー越しに自分の肩を見ると、薄くなり始めた髪の毛を無残に乱した犬夫の顔が写りこむ。

 「ねぇちゃん!! 死んじまうわ!!」

 「死なない死なない、ちょこっと転ぶだけだって」

 「だから転ぶのがまずいちゅうねん!!」

 「じゃあちゃんと集中させてよ」

 「その前にスピード落とせっちゅうねん!!」

 常識を唱える犬夫の声と、気だるげに紡がれる凛の非常識。

 その二つの異種格闘技が繰り広げられるバイクの上で、これまでとは違う悲鳴を犬夫が上げる。

 「だーかーら、死んじまうちゅうねん! ……て、ちょっとねぇちゃん!! 前見ぃ!!」

 「……ん?」

 ふとミラーから視線を戻した時、目の前にはこちらへと向かう大型のトラックが居た。

 その距離は約50メートル。

 普通に考えたら対して問題でも無いのだが、お互いの速度が問題だ。

 トラックの速度が60キロだとして、凛の現在の速度は時速200キロ。

 つまり時速260キロで二台の距離は縮まっており、秒速で換算すると約72メートル、つまりは一秒も満たない時間でこの二台は正面衝突することになる。

 「ちょ!! ……」

 凛は力任せに車体を左に押し倒し、自分の車線を左側に移し、ぎりぎりのところで回避する。

 「今のはちょっと怖かった」

 右ひじを僅かにトラックの車体に擦った凛は、初めて常識的な事を呟くと、少しだけアクセルを緩め、ミラー越しに後ろを確認する。

 「ねぇちゃん!! 今のはほんまに危なかったで!!」

 「うーん、犬夫がぺちゃくちゃ煩いからだよ!!」

 「速度落とせばいいちゅうねん!!」

 ミラーには、けたたましいクラックションの音をたて、走り去るトラックの後ろ姿が写るが、それ以外には何もない。

 「やっと白バイも諦めてくれたかな……」

 「あん? お前さんやっぱ逃げとったんか」

 「だって免停だよ、それだけはちょっとねぇ、忙しくて免許取り行く暇なんて無いし……」

 「ん? あ……やってもうた……そっ! そんな事よりお前さん忙しい以前にニートやないけ!!」

 「まーねぇー」

 背負ったリュック越しに伝わる謎の湿り気の元を気に掛けながらも、気の抜けた返事をする。

 「お前さんほんま死んじまうで!! 命なんぼ持っとっても足りんわ!」

 「分かった分かった」

 凛は謎の水気に不安を感じたのか、今度は素直にスピードを落とす。

 一気に視界は広がり、穏やかに抜ける風を感じて犬夫がほっとため息をついたその時。

 ふと凛の右側を何か黒い塊が走り抜けてゆく。

 「ん? ってあれ!!」

 走り抜けていった物を見て凛が驚愕する。

 それは、これまで追いかけてきていた白バイではなく、一台の黒いバイクだった。

 まず、そのやたらと大きな燃料タンクをエンジンを抱えたそれは、冗談のように一切のエンジン音もたてず、高速で凛との距離を突き離して行く。

 「いい腕してんじゃん……ってあれ!?」

 凛が再び驚きの声を発する。

 バイクがエンジン音を立てていない事が最初に気になったが、それ以上に目にとまった異常。

 それは、乗り手の姿だった。

 デザイン性以外に利用価値のなさそうなビス、それが大量についた黒の革ジャン、そしてジーンズ。

 手は厚手の革手袋を付けており、足には革製のブーツ。

 一見すれば本格的なライダーの恰好、しかし、ヘルメットをかぶっておらず、そしてその下にあるはずの首すら、その男は身につけて居なかった。






「全て……あの人のせいなの……」

 彼女の声は荒れ狂う波の音に半ばかき消されながらでも、自分の耳に届いた。

 「自分でもわかってる……こんな事をしてどうなるか……そしてこんなことをしたって、自分以外誰も得をしない事位……だけど……」

 彼女が立つ場所、それは切り立った崖だった、数歩足を踏み出せば、その先に広がる鋭い岩と荒れ狂う波が口を開けて待っている。

 落ちてしまえば命は無い、そんな場所に立っていながら、彼女の懺悔は虚しく響いた。

 「だけど……私は我慢することができなかった、目の前に好物を置かれれば食べたくなる、誰かに奪われないように必死に手を伸ばす、それが私の手を付けてはいけない物だとしても……だってそうでしょ? そう、貴方だってそうするわ!」

 彼女の声は僅かに震えていた、その事だけは数メートル離れた男の耳でも容易に判断できた。

 今まですることの無かった懺悔。

 嘘に塗り固められた真意、そんな彼女の本音を映し出したかのように、眼下に広がる光景は殺伐としていた。

 神経は摩耗し少しずつすり減る、すり減っていびつな形になってもまた、別の何かを埋めて無理やり誤魔化す。

 嘘とはそういう物だ。

 すり減り誤魔化し、それを繰り返してどんどん大きくなり。

 誰にも相談すらできなくなり、そして荒れ狂う波のように自分の心までも摩耗させて行くのだ。

 「分かるでしょ? 冷蔵庫の中に……おいしそうなプリンがあったらつい手を伸ばしてしまう! しっかりと冷やしてから食べよう! そう思っていたとしても、目の前においしそうなプリンがあったらどれだけ我慢していても手を伸ばしてしまう!!」

 ただ、いくら心を摩耗させる嘘が数多いと言えど、ほんとに重たい嘘を持っている人間は数が限られている。

 「あの……とりあえずそこ危ないんで戻ってください」

 別に隠す程も無い嘘、そもそも犯人が容易に分かってしまう薄っぺらい嘘を、同じように薄っぺらいサスペンスドラマの要領で聞かされた淘太は、半ばというか9割以上呆れた表情で押しのける。

 「……大丈夫大丈夫! これくらいで足踏み外さない」

 淘太の警告を聞いた香夜子は、頭の横で手を広げてみせ、そしてゆっくりと淘太の元へと歩み寄り、肩の高さまであった柵をよじ登り始める。

 「それわざわざここまで来て暴露するほどの出来事ですか?」

 「断崖絶壁ってなんかドラマだと定番でしょ? だから同じ要領でほんとの事言えばあんたも許してくれるかと思ってね」

 「いや……ほんとのことを言う前に、冷蔵庫で冷やしてたプリンを食べた犯人は貴女しか浮かびません、二人しか住んでない家なんですし」

 淘太は再び呆れかえり、香夜子が柵を下りてくる姿を見てため息をつく。

 「そもそも一体なんですかこれは」

 「サスペンスドラマごっこ」

 「意味が分りません」

 淘太は、彼女が突然柵を昇り始めた理由が案の定くだらないものだとあきれつつも、やっと変な小芝居終えた相手が戻って来たためを手伝おうと手を伸ばす。

 しかし……

 「ほらあるでしょ、ドラマのラスト、犯人が刑事に追い詰められて、全ての真実を語る重要なシーン……ってあれ?」

 淘太は顔面を彼女の靴裏で押さえつけられたまま、地面に倒れていた。

 「『あれ?』じゃなくて早くどいてください」

 「一体どうやったらそんな器用な事になるのよ」

 香夜子は半笑いを浮かべながら足を退かし、淘太に手を伸ばす。

 伸ばされた細い腕、今までも何度も差し出された救いの腕、その手を淘太は掴み、半ば引っ張られるようにして身を起こす。

 困った時。

 迷った時。

 悲しんだ時、どんな時でもこの手は差し伸べられ、瞬く間にその物事を解決してくれる、見た目とは裏腹な頼れる存在、そんな彼女は淘太にとってかけがえの無い存在となっており、その関係は友人や知人では無く、傍から見たら犬と飼い主のような滑稽な物にも見えていたかも知れない。

 もちろんその事に淘太自身気が付いていたが、それでも良いと、むしろその事を望んでもいた。

 そもそもなぜ彼らがこんな場所にやってきているのか。

 そしてなぜ日も暮れて人も寝静まったこんな夜中に家を抜け出しているのか、その理由が淘太の握っているバスケットだった。

 通勤ラッシュ時の電車内のように、所狭しと鎮座して出番を待つマグカップと水筒、そしてここに来る道中にコンビニで買ったクッキーにスティックシュガー。

 水筒の中身は家を出る前に淹れたコーヒー。

 「ここで飲もう」

 香夜子は昼間の観光客向けに設置された簡素なベンチに腰掛けると、持っていたオイルライターをトーチ代わりに灯してベンチの片隅に置く。

 これと言って面白くも無いトーク番組を眺めながら、コーヒーを飲んで少し体を休めよう、そう思っていたのだが、彼女に誘われ、半ば強引に家を出てみたら真っ暗な海沿いの公園。

 淘太は一人持った懐中電灯で足元を照らしながら香夜子の横に腰かけると、バスケットの中から紙コップを取り出し、コーヒーを注いで差し出す。

 「ありがと」

 それを受け取り、一口だけ飲むと香夜子は小さく背筋を伸ばしてから星々が広がる空を見上げる。

 まるで子供のような仕草、しかしどこか詩人を思わせるような不思議な雰囲気、飾りっ毛の無い色の薄いくせ毛。

 風に揺れる炎に照らされた彼女の表情は満足気で、どこか成し遂げた表情をしているところを見ると、今回の一連の奇行も何か理由があったらしい。

 「突然海に行く事なるとは思いませんでしたよ、何かあったんですか?」

 「何にも、まぁしいて言えばなんとなく海で飲んだらおいしそうだと思ったからね」

 帰ってきた答えに淘太は相変わらずの曖昧な表情で答えながら、自分の分のコーヒーを用意する。

 「なんか、わけわからないって表情ね」

 「そりゃ、あなたの行動はいつも予想できませんよ」

 「なんとなく外の空気吸いたいなー、なんとなく出かけたいなー、そんな時ってあるでしょ? だから出かけたの、ここ行ったこと無かったしね」

 香夜子の行動はいつも分らない事ばかりであり、こうして帰ってきた答えは相変わらずの『なんとなく』、彼女が幾度となく口にしてきたこの言葉はいつも通り淘太の耳に届いてきた。

 「なんとなくってのはわからなくはないですけど、仕事から帰ってきて早々外出って……」

 「何か不満?」

 「そうではないですけど……」

 淘太の曖昧な答え、疑問が解決されないことによって生まれたわずかな不満に彼女は直ぐに答えた。

 「私ね、後悔はしないように生きたいなって思ってるの」

 「後悔ですか? まるで余命宣告されたかのような物言いですね」

 「余命宣告はされてないけど……私、いずれ死んじゃうから」

 その時、淘太のカップを傾ける動きが固まる、何気なく耳にした真実、大切な人間がいずれ自分の目の前から消えてしまう恐怖、そして焦りと憤り。

 淘太はカップを取り落としそうになりながらも、震える口を開いた。

 「……どういう事ですか?」

 彼女が軽い気持ちで言った、『死』という単語、その言葉に思わず息を飲む淘太だったが、その様子を見て、香夜子はけらけらと子犬のように笑って言葉を繋げる。

 「私の命は持ってあと60年位……避けては通れない運命なの」

 「いや、それは寿命って言います、あとそれだけ生きたら大抵の人間は死んじゃいますよ……心配して損しました」

 安堵を浮かべる淘太の心境を読み取ってか、香夜子はひと際明るく笑ってから一旦折れた話の腰を戻した。

 「まぁ誰しもいつかは死んじゃうでしょ? 寝ている間にぽっくり、病床で家族に見守られながら、はたまた望まぬ事故によって。

 いつ終わるかはわからないけど、人生ってのは有限が付きものだからさ、私は後悔しないように生きたい、その時やりたいことを思う存分やって、どんな最後だったとしても『私の人生は素晴らしい物だった』って思いながら最期を迎えたいってね。

 だから私はその時やりたいことをやって、他人から変な目で見られようと好き放題過ごそうと考えてるの、もちろん誰かに迷惑をかけるような事だけはやらないようにしないとだけどね」

 香夜子の口にした本音。

 いつも『なんとなく』というテンプレートを使い、あまり見える事の無い本心の謎が解けた。

 そして彼女の口にする『なんとなく』という単語が、今までの自分に欠けていた物だとふと気が付く。

 誰からも必要とされず、好きになる物事も無ければやりたいこともやらずに、日々を過ごしていたつまらない毎日。

 事務的に町の喧騒を眺め、そしてその海に身をひそめて働き蜂のようにつまらない毎日を過ごしていた自分の人生、そこに差し出された救いの腕が、やはり『なんとなく』と言う至極単純な物ではあったものの、その『なんとなく』に隠された意味が彼女自身が今やりたい事であった事。

 つまりは自分の存在が彼女のアイデンティティーを少しだけ満たした事を知り、淘太は胸のどこかがまた満たされるのを感じていた。

 「淘太もやってみな、なんとなくやりたい事をさ、他人の視線なんて無視して、本当にやってみたい事を」

 「俺は……」

 彼女が自由の羽などと呼んでいた安っぽいオイルライター、その炎に照らされる香夜子の表情は柔らかく、そしてあたたかな表情である事を再度確認して淘太は思わず息を飲む。

 自分がやりたい事、一番求めていた事は分かっている。

 しかし、その言葉は喉でつっかえて出てこなかった。

 「そういう上手く本音を言えないダメなところがあんたらしい、ま、嫌いじゃないけどね」

 香夜子は何かを思い出したかのように席を立ちあがると、淘太の膝に置かれていた懐中電灯を手に取った。

 「あの、どこか行くんですか?」

 「ちょっと灰皿を取りにね」

 「自分が行きますよそれくらい」

 「いいのいいの、そこで荷物見てて」

 そう言い残すと、彼女はライトのか細い明かりを頼りに暗い地面を歩き始めた。

 「あんまり煙草ばっかり吸ってると、持って60年の余命、縮みますよ」

 「さっきも言ったでしょ、私はやりたい事をやって生きるの」

 淘太は、冗談に明るく答える背中を見送ると、先ほどから湧いていた複雑な気持ちを押し流すように、コーヒーを一口飲む。

 いつも通りの予想できない日常、その毎日は相変わらず心地よく、今日も彼女の思いつきに付き合って良かったと考え、満足げにため息をするのだった。

 ただ、この時彼女の背中を追いかけていれば、自分が灰皿を取りに行けば良かった、その後悔だけは、数年経った今でもずっと淘太の胸に残っていた。






 「やっぱりあいつ腕いいよ」

 犬夫の悲鳴をよそに、ヘルメットの中で凛は小さく呟いた。

 「そげな事はよかから、どげんして奴を止める気か話しい!」

 「どうやって止めようか?」

 凛はギアを一段下げると、コーナーに向けて重心をわずかに動かす。

 「しらんがな!!」

 「いやさぁ、休憩とかするのかなって思ってたんだけど、全然止まる気配無いし、そもそも無理矢理止めるにも相手もバイクだからねぇ、転んじゃ痛そうだよね」

 「痛いどころの話じゃすまんやろ」

 「あ! 犬夫ちょっとつかまっててね」

 「どこにや!」

 犬夫の罵声を余所に、凛は重心を一気に落としてコーナーに突入する、膝に付けられたチタン製のプロテクターの起こす赤い火花で尾を引きながら、凛は斜めに傾いた視野の中で先を行く首なしライダーの背中を捉える。

 「ぶつけて止めるにも、正直付いて行くのが精いっぱい、あいつやっぱかなり余裕持って走ってるよ」

 「知らんがな!! お前さんもこげな命がけな走りするのやめい!!」

 カーブを抜け、倒れていた車体をエンジンの力を借りて引き起こすと、凛は思考を巡らせる。

 「逃げる気なら直ぐに私を振り切れるだけの技量を持ってるように見えるんだけど……まって、もしかしてあいつ私たちを振り切ろうとしていないのかな……」

 「どういうことや」

 「そこは決まってるでしょ、走りたいから」

 その凛の声にため息をつく犬夫。

 「ライダーってのは走りたいから走るの、目的地なんて口実にすぎないからね。

 あの首なしライダーが私たちを振り切らないのは二つの理由が考えられるよね、一つは私に後を追わせて一緒に走ろうとしている、もしくはあいつは自分のペースでのんびり走っていて、私たちには全然関心を示していない」

 「よう分らんけどそう言う事やな、つうかねぇちゃん、あんたはそげな通ぶった事一取るけど、普段は乗らんのやろ?」

 「まぁねぇ、正直そこまでバイク好きじゃないから」

 「はぁ!?」

 凛の口から出た予想外な言葉、マニアしか好まないような、ほぼ競技用のリッターバイク乗りまわしておきながら彼女が口にした言葉は対して好きじゃない。

 正直訳が分らなかった。

 「私ね、正直趣味って呼べる物が無いの、趣味に限らず夢中になれる物がなかったから色々な事をやってみたの、こいつもその一環、たまたま自分に向いていただけで、私自身はこれと言って好きなわけじゃないの」

 「ちょろっとやって出来る事や無いと思うんやけどな」

 プロ顔負けな技術を披露する凛の背中を見て、犬夫は喉を鳴らす。

 彼女の装備を見るとそのどれもが高価なプロ仕様の物だと素人目にも分かる。

 その時、ふと疑問が犬夫の脳裏をよぎる。

 「ちゅうか、仕事しとらんお前さんがなんでそげな高価な物もっとんねん」

 「ん? まぁねぇ、人には色々あるって言うか……」

 「なんか悪さやったんとちゃうやろな」

 「それはねぇ……まぁいいっか、なんでこういう事を私がやってるのか、そして私がなぜ見た目によらずプチ金持ちなのか、そしてシェアハウスして過ごしてるのか全部説明してあげる……」

 「理由なぁ……言われてみたら気になるわ」

 犬夫が曖昧に返事したのを確認すると、凛は少しだけバイクのスピードを落として口を開き始めた。

 「私の親ってね、ちょっとした会社の社長だったの、とは言っても中途半端な規模のところなんだけどね、そういう会社に限って家族経営とかそういう変なこだわり強い物でさ、私の家も、父の後は子供が店を継ぐ、そんな風の考えが強くてね」

 「なんや? お前さん社長令嬢っちゅうことか?」

 「まぁ元々はね、とはいっても私は知っての通り女、店を継ぐのは男である必要があるなんてこだわりが強くてね、とはいっても私自身は頼まれても店を継ごうとは思わなかったけど……

 それで店の後継ぎは私の弟の手柄、私は勝手にお嫁さんコース、教養付けて何処に出しても恥ずかしくない女にするなんて思ってたのかな」

 凛はヘルメットの下、過去の思いを巡らせ小さく息を吐く。

 「まぁそんなわけで私の幼少時代はお塾に習い事に大忙しでさ、好きな事を見つける暇すら無くて、操り人形みたいに家族の監修の元私は教養にあふれた人間に育た訳だけど、溢れるほどの教養が溜まった分、自分のやりたい事ってのは全部溢れてさ、それを補いたいと思って私は親元を離れたいと言ったの。

 結果は残念、大反対にあって散々貶されて。

 それで嫌気がさした私はある日家を飛び出した訳、とはいっても、ロクな準備も無しに外の町に出てきて、寝泊まりする場所も無いし働き口も無い。

 そうなったらやることは決まってるでしょ?」

 凛が気軽に口に出した謎、その答えが出ずに犬夫は眉根を寄せる。

 「なんや? どっか泊りがけの仕事でもやっとったんか?」

 犬夫の問いに答えたのは、信じられない答えだった。

 「良く考えてみて、どこの馬の骨か分らない人間がまともなところで働けるわけないでしょ、そうなった時、役に立つのが女の武器。

 要は出会い系サイトなんかで神様を探すの」

 「神様? なんやそれ」

 「早いところ言えば援助交際、お金と一晩泊めてくれる場所を用意してくれるなら、私は体売りますよってね、簡単な仕事でしょ?

 手っとり早く資金は調達できるし、宿も確保できる、商売道具はマンガ喫茶のパソコン一台」

 犬夫は凛の答えに言葉を詰まらせる。

 まるでショッピングモールに行けば服も食料も娯楽も満たされる、そう言ってるようなごくごく気軽な口調、しかし言葉が意味しているのは彼女が歩んできたであろう辛い半生、他人の事ではなく自身の経験、思い出すだけで吐き気がするような内容を、彼女はバイクを運転しながらまるで他人事のように語っていた。

 「まぁ正直病気とかそういうのは怖かったけど、どんな仕事だって体を壊したりするでしょ? そう言う物だって考えて私はそんなお仕事に励んで生活してたわけ。

 なんていうかな、たまにブラック企業みたいなやつもあってさ、事が済んでもお金をくれなかったり、暴力をする人もいたり。

 そして時々いるのがお金を払ってくれなかったり、やたらと低い賃金で働かされたり。

 中には、部屋に転がっていた宝くじ押しつけられたりさ、笑っちゃうでしょ?」

 「お前さん……そこまでせんでも、ちったぁましな方法もあったんや無いのか?」

 「あの時の私にはこんな方法しか浮かばなくてね、今思うとほんとに馬鹿馬鹿しくて悲惨な毎日送っていたんだけど。

 ある時そんな残念な女にも奇跡が起きました、それがさっき話した宝くじ。

 当たるわけ無いのになぜか大当たりしちゃってさ、なんと3000万円! すごいでしょ?」

 事実として彼女に起きた出来事は奇跡以外考えられない事実であり、彼女はその事を自慢しているようだったが、犬夫には彼女のその言葉を明るく受け取る事が出来なかった。

 「それでそれだけのお金があるから神様探しも休業して、好き放題過ごしていたんだよね。

 『自分は何が好きなんだろう』そういう疑問を解決するために目に留まった色々な趣味を漁って、そして今まで飲んだ事の無かったお酒やたばこ、時には変な薬とかも嗜んだりして、それはまぁ豪遊してたの。

 あ、その時に買ったのがこのバイクね。

 そしてなんだけど、淘太たちと出会った、もちろんネットの中で。

 そこから私たちは意気投合して、あるとき一人がシェアハウスで家賃を安くしたい、って言いだしてね。

 その時は私もこのバイクとか色々買ったり、無駄な浪費をしていてお金もだいぶ少なくなってたから、どうせ知らない人と一つ屋根の下で暮らすなら、少しでも面識のある私たちと一緒に暮らしてみないって提案したの。」

 「それが淘太か?」

 「あいつは後から乗っかった人だね、彼の場合お金にも困ってる様子は無かったんだけど、なーんか家を出たいとか妙にネガティブな事を言ってたから混ぜてあげたわけ。

 最初びっくりしたよ、10+なんて名前でネットに書き込みしてた奴が、テレビでちょくちょく見かける芸能人だったんだから」

 凛が初めて淘太の顔を見たのは、あの一軒家の前にやってきた時だった。

 自分のように鞄一つにまとまるだけの荷物を抱えてくるかと思ったら、なぜか家の前には大型のトラックが一台鎮座しており、大事そうに調理器具一式を担いで引っ越し業者と何か話をしていたのを覚えている。

 「そげな無茶苦茶な理由だったんか、通りで妙な組み合わせやと思ったわ」

 「それから私たちは3LDKの家の中、お互いの素性もまともに知らない癖に同じ釜の飯を食べて、仲良く過ごしましたとさ。

 これが私の現状、どう? 結構ドラマチックでしょ?」

 「怖くなかったんか? 知らない男と暮らすんやで」

 「まぁ怖かったけど、なんか大丈夫な気がしたんだよね、もちろん彼らが皆どんな過去を歩いてきたのかも知らないし、わざわざ知ろうとも思わないけど……だからさ、犬夫、自分が何者であるかとか、昔の事ってのは知らない方がいいのかも知れないよ?」

 突然の凛の言葉、犬夫の興味を突然と貫いた一言。

 「都市伝説がどうして生まれたのか、そう言う過去の事は知らずにさ、あの前を走っている首なしライダーみたいにその時を楽しむのが一番幸せなの、後ろを振り返ったところでロクな事は無いからね。

 まぁこの言葉は淘太自身にも言ってやりたいけど」

 最後に付き足された短い言葉、おそらくは淘太が時折見せる妙な仕草の事を言っているのだろう。

 犬夫自身も気になった淘太の持つ感情、それが後悔である事は知っていたがその後悔を取り除くには過去と向きあう必要がある。

 だからこそ、犬夫はあの時淘太に質問を投げかける事が出来なかったのだ。

 それはめんどくさいとかそういうものではなく、怖かったのだ、淘太が過去の思いに負け、再び悲しむ姿を目の当たりにする事が。

 治りかけの傷ほどぶり返すと酷い痛みを伴う。

 体の中に刺さった異物は、いずれ表面が覆われ外からは見えなくなり幾分痛みも和らぐ、しかし中に異物が入っている限り痛みは完全に消えることは無く、少しずつ体の中からその組織を腐らしていく。

 その箇所をちゃんと治療するには、再び傷を抉る必要がある事を、自我が芽生えて間も無い犬夫にも良く分かっていた。

 「という事で暗いお話はおしまい、私も今を楽しみたいから犬夫、ちょっと掴まっててね、またスピード出すから」

 「せやから、何処に掴まるちゅうねん、とゆうか何を始める気やねん」

 すると凛はヘルメットの下、また意地悪気に頬を吊り上げ、奇妙な笑みを浮かべる。

 「決まってるでしょ? あのライダーとお話がしたいからどうにかしてあいつを止めるの!」

 その言葉に合わせたかのように、凛が跨ったバイク、GTX1100はひと際大きく咆哮し、その車体を一気に加速させ夜道へと身を進めるのだった。






 「ねぇ! おじさんはどうして淘太たちと一緒に暮らしているの?」

 「おじさんじゃない!! お兄さんだ、まだそこまで年じゃないだろ」

 自分のの周りをくるくると楽しげに回るニューに対して一孝は訂正を加える。

 自分の家に向かう途中、なぜか出会い、なぜか自分の同居人の事を知る妙な人物と一緒に彼は歩みを進めていた。

 色々とニューには聞きたい事があるが、ここはニューを問い詰めるよりも淘太達を問い詰めた方が話が早いと、彼は帰路を急いでいた。

 「オオバカさんはどうして一緒に暮らしているの?」

 「大馬鹿じゃない! 大庭一孝だ! 兎に角だな、俺は見ての通り貧乏だ、だから金がない! 節約したい、でも住む場所が必要! そうなったらシェアハウスが手っ取り早いだろ」

 「ふーん、働けばいいのに」

 「働いている! って言ってもバイトだけど……なんにしても俺は忙しいんだ、自由にできる時間を作るには、バイトのシフトを開けるしかないんだよ」

 「どうして?」

 ニューの声に思わず口をつぐむ一孝、確かにバイトでもちゃんとやれば普通に生活するだけの資金は調達出来るわけだが、そうする訳にはいかない理由があった。

 「もしかしてこれ?」

 ニューがいつの間にか手に取っていた物を一孝の前に差し出す。

 紙に書かれたデフォルメの利いた絵と文字の羅列、俗に言われるマンガの原稿と呼ばれる物だった。

 「あ! お前何時の間に」

 一孝はニューの手から原稿を奪い取ると、鞄の中に隠すように仕舞う。

 「もしかしてオオバカは漫画家さんだったの?」

 「大馬鹿じゃなくて大庭一孝、そして漫画家じゃなくて漫画家志望だ、ほとんど売れないからバイトで生計たててるんだよ」

 「ふーん、売れないの?」

 「ああ売れない、何度も言わすな」

 ニューは無垢な視線を和孝に向け、首をかしげるが一孝は答える気がまともに無いのか苛立たし気に視線を逸らす。

 「どうして?」

 「つまらないんだろうな、もしくは他にもたくさん同業者がいるせいかな、なんにしても俺は諦めたくないからこういう生活をしながら本を書いている訳だ」

 「そうなんだ、有名になれたらいいね」

 「ほんとにな、そうなれると信じている」

 一孝は小さく呟くが、その声には力が込められていない。

 薄々は気が付いている、絵には自信があるが、面白いストーリーが浮かばない、だから売れないのだ。

 売れないなりに努力して、活動を続けているがもうすぐ30歳になる、こんな生活を続けていいものかという不安はあるが、それでも負けじと食い下がっている自分がみすぼらしい。

 分ってはいるがそう上手く諦める事が出来ない。

 「希望なんて残酷だよな、半端に可能性があるせいで何時までも執着して諦める事が出来ずに泥沼にはまっていく、そんなんならいっそ完全に諦める事の出来る絶望の方が俺は好きだ……」

 「……ん?」

 突然一孝が吐いた言葉にニューが首をかしげるのを見て、一孝は溜め息をついて歩みを速める。

 「まぁお前には分らない難しい話だよ……」

 更に頭に『?』マークを浮かべるニューを余所に、一孝は自身の家に足を進めるのだった。






 「……遅いなぁ」

 香夜子がその場を離れてもうだいぶ時間が経つ、彼女が一口だけ口にしたコーヒーはとっくに冷め、立ち上っていた湯気はもうどこにもない。

 気になった淘太は電話をしてみたが、生憎相手のケータイは飲みかけのコーヒーと一緒にベンチで留守番をしている事を伝えただけで何の成果もあげる事が出来なかった。

 また妙な思いつきで道草を食ってるのだろうか、そう思った淘太は席を立ち、彼女を探すことに決めた。

 暗い夜道、懐中電灯は今は手元には無く、薄暗い光を放つオイルライターは歩きながら使うには危ないと判断し、彼は熱くなったライターをポケットにしまいこみ月明かりを頼りに夜道を歩く。

 瀬谷香夜子という存在はある意味兎のような存在だ、足は速いのだが何度も道草を食ってしまうせいで予定通り着く事は無い。

 勝ち負けの概念が無いのは事実だが、それ以上に問題なのは気まぐれすぎるために相手を何時も待たしてしまうところがある。

 それと比べて淘太は亀のようにのんびりと道を歩く分、予定は崩さずしっかりと前だけを向いて行動する。

 今回も待っていれば彼女が戻ってくると思い、のんびりとベンチに座って暇な時間を過ごしていたのだが、あまりにも時間が経ち過ぎている。

 こういった場所となれば、確かに彼女の好奇心を刺激する物は幾らでもあるのだろうが、何せ時間が時間であり、自分は面白い存在だとアピールする物の大半は夜の闇にまぎれ、静かに寝息を立てているはずである。

 念の為に自身が乗ってきた車の元に寄ってみたが、白いSUVは月明かりの下、まだ僅かに熱を帯びたエンジンを夜風で覚ましているだけだった。

 もちろん車の中を覗いてみたが、肝心のドリンクホルダー用の灰皿は一つ車の中で主人の帰りを待っているだけだった。

 「星でも見てんのかな……」

 その中で夜だからこそ彼女の好奇心を刺激する物と言えば、星空である。

 普段は明るい太陽にかき消された小さな星の輝きも、夜となれば自身の存在を我先にとアピールする、ましてやこんな人通りの無く街灯の無い場所なら、そんな星々の主張はより正確に誰かの瞳に止まるはずだ。

 どこかで空を見上げて子供のような無垢な瞳で空を見上げる彼女の姿、それを探そうと暗い中月明かりを頼りに目を凝らしていた淘太の目に、予想していなかった物が映りこんだ。

 それは一人の男だった。

 黒いスーツ姿だったため夜の闇にほとんど紛れていたが、その男は息を切らせながらどこかへと走り去っていく。

 「何をそんなに焦ってんだか……」

 夜にこんな場所にスーツ姿のサラリーマンがいる事自体おかしな事ではあったが、それ以上にある点が淘太の目に留まった。

 それは、男の表情だった。

 まるで何か恐ろしい怪物を見たかのように彼は目を見開き、青白く血の気の失せた肌には玉のような油汗を浮かべ、何度も自分が来た道を振り返りながら走り去っていく。

 淘太が声をかけようとしたものの、男は淘太の姿に気が付いていなかったらしく、直ぐに闇の中に消えてゆく。

 「……?」

 男が走ってきた方向、その先は、先ほど香夜子が『サスペンスドラマごっこ』と称して三文芝居を行った場所があった。

 「あれは……」

 先ほど見てきたフェンスの先に広がる切り立った崖、景色としてはそれなりにいいが、これと言って面白いわけでも、見ただけで恐怖を感じてその場から逃げだすほど恐ろしい場所でも無い。

 ただ、ひとつ気になった点としては、その視線の先の景色は少しだけ先ほどと違っていた事だ。

 「俺のライトがどうして……」

 フェンスの先には、ここに来るときに使い、香夜子が持っていった懐中電灯があった。

 近所のホームセンターで買った小さなLEDライト、その特有の青白い光は今は見えない水平線のを照らし、一人さみしく岩の上に身をひそめていた。


 なぜかは分らない、ただ胸騒ぎがした。


 フェンスの奥に落とされた懐中電灯、その力強い光が示す先を見てはいけない気がした。

 暗闇を照らし、その先を確認するための光、だが、淘太はその先にある物を見てはいけない気がしたのだ。

 しかし、不自然な場所に放置されたライト、それを回収しないわけにはいかず、淘太は幾度となく香夜子に引かれてきた手足を使い、フェンスを乗り越えるとライトの元へ歩み寄り拾い上げる。

 「一体どうして……」

 淘太はライトを使ってあたりを照らすが、広がるのは草木と岩と、そして物言わぬフェンスだけだ。

 「下に降りてるのかな?」

 淘太の足元に広がる崖、暗くて下がどうなってるのかは分らないが、その気になれば下まで降りる事が出来そうである。

 もちろんわざわざフェンスを乗り越え、水しぶきが舞う場所へわざわざ降りたいとは思わないが、道草を食って一面を砂漠にしかねない香夜子の事だ、この下へ降り、『やっぱ濡れた』などと言いかねないと思った。

 淘太はまずは足場を探そうと崖の下に光を落とす。

 その先に広がっていたのは、岸壁にあたり水しぶきを上げる海水と、それに打たれ少しづつ姿を変える岸壁。

 そして会いたかった相手の姿。

 「香夜子さん、そんなところで寝てると風邪ひきますよ……」

 淘太の口から出てきたのはなぜかそんな気の抜けた言葉だった。

 ほぼ反射的な反応。

 口をついて出た不自然な質問。

 ただ、このときに悲鳴や嗚咽を上げなければ、彼女の体を染める真っ赤な血が無かった事に出来る。

 そんな気がしていたのだ……






 「……んなあほな……」

 犬夫には訳が分らなかった、なぜ自分が宙を舞っているのか。

 なぜ自分が時速200キロで首なしライダーの背中へ向け飛んでいるのか。

 なぜ凛に突如首根っこを掴まれ、ハンドボールの要領で投げ飛ばされたのか。

 つまりは走るバイクの上から凛に投げ飛ばされたのだ。

 『首なしライダーを止めて』、そんな凛の気の抜けた提案。

 それを具現化した方法が、自身をミサイルのように投げ飛ばし、無理矢理首なしライダーを止める方法。

 正直訳が分らなすぎる。

 一歩間違えたら高速で自身の視線を横切るアスファルトに全身を打ち付け、酷い痛みにのたうちまわる事になる、むしろ都市伝説に適用されるか謎な事故死というルールが適用される可能性だってあった。

 しかし、凛のコントロールは案外正確で、犬夫は僅かに弧を描きながらも首なしライダーの背中にぶつかり、犬夫はその背中にしがみついて大声で怒鳴る事が出来た。

 「お! 犬夫いいよ!!」

 凛は犬夫の罵声に合わせ、首なしライダーの黒いバイクが直ぐにスピードを落としたのを確認して歓声を上げる。

 「なんちゅう事しとんねん!!」

 犬夫の罵声が聞こえたのを確認し、凛は首なしライダーに合わせてスピードを落とすが、刹那、ハンドルから伝わる激しい衝撃を受けてバランスを崩す。

 視線を落とした先に一瞬だけ見えたのは、タイヤに潰され大きく変形した空き缶、普段なら道を見ていたが、犬夫を投げる事に集中していたために身落としていたらしい。

 そう気が付いた時には、凛は宙を舞っていた。

 360度回転する視界、月が上から下へと流れ、また目線の隅からその姿を見せる。

 そして目前に迫った硬く冷たいアスファルト。

 幾らプロテクターが付いているとはいえ、これだけの速度で叩きつけられて無傷でいられるはずがない。

 「……っ!!」

 凛はとっさに全身を丸め、衝撃に備える。

 すこし間があって襲いかかる衝撃、全身を大きく揺さぶられ、凛は小さく悲鳴を上げながらアスファルトの上を転がる。

 そのまま地面を滑るバイクと一緒に凛は地を滑り、道を外れた雑木の中に飛び込んで止まる。

 「痛っ……」

 生きているだけで奇跡と言えるような事故、全身が酷く痛むが、幸い酷い怪我もしていないらしい。

 凛はガードを解いてゆっくりと手を開くが、幸い骨も折れていないらしく十分に手が開く。

 いや、何かおかしい。

 あれだけの事をしたのに、大怪我をしていない。

 その疑問の答えは、凛の目の前にあった。

 「……あ……」

 凛の目の前にいたのは、黒いライダースジャケットに身を包んだ男。

 その首から上は冗談のように途切れており、グロテクスな断面を晒していながら凛を押しのけると、直ぐに立ち上がる。

 首なしライダーである。

 どうやら彼が宙を舞う凛を受け止め、抱きかかえるようにして衝撃を和らげてくれたらしい。

 「ありがと……」

 凛がとりあえず礼を言ってみると、首なしライダーは懐からメモ帳を取り出すと、何かを書いて凛に指し示す。

 『事故 危険 幸運だった』

 おそらく首が無いため声を発する事が出来ないのだろう、代わりに文字数を極限まで減らした文字列が彼の感情を伝える。

 「ごめん、ちょっとあんたと話してみたくて、一体どうしてバイクで走ってるのかなって……」

 『守秘義務』

 凛の問いに答えた文字、どうやら『話す義理は無い』と言いたいらしい、首なしライダーは地面にあれだけ体を打ち付けたのにもかかわらず、痛がる素振りも見せずに立ち上がると地面に転がるバイクに跨る。

 「あ……ちょっとねぇ!」

 凛の聞こえてか聞こえてなくてか、首なしライダーは地面に座り込んだままの凛に親指を立てると、音も立てずに闇夜に消えてゆく。

 「どういうこと……」

 凛はずきずきと痛む四肢に鞭を打って体を起こすと、バイクの元へと駆け寄りながら、思考を巡らせる。

 首なしライダーが自分に敵対心をもっている気配はなかったが、すこしだけ今までの年伝説と違う。

 そんな雰囲気をかもしだしている、それだけはこのときの凛にも直ぐにわかった。

 ただ、この時はそんな事よりも、先に投げだされた首なしライダーのバイクと共に地面を滑って行った犬夫の心配をしていれば、彼の罵声は少しは軽い物になっていたわけだが、このときの凛の脳裏にはそういう答えは出てこなかった。






 「まて……どういう事だ……」

 「だから今話した通りだ、俺が見た時はもう死んでいた、崖から落ちて頭かち割れた彼女が、ただ寝ているだけだと思ってずっと『起きてください』なんて馬鹿げた事を言ってたんだよ。

 正直良く覚えていないけど、後から来た救助隊に押さえつけられるまで自分は彼女を必死に立たそうとした、死んでない事認めてなければ生きている事になる……そんな風に勘違いしてたのかな……笑えるだろ?」

 淘太は紫の鏡に向け、皮肉を吐く。

 しかしその皮肉は自分自身へ向けた物でもある。

 観測者が生きていると思えば、それは生きている。

 哲学にあるシュレティンガーの猫、それと同じ考えをあの時の淘太はしていた。

 そして今も、まだ香夜子がほんとは死んでいないと思っている自分がいた。

 そんなの出鱈目である。

 死んでいないと思えば生きている、そう思えるのは机上の空論であり、現実は救助隊員の気の毒な視線と形だけの『病院へ搬送されたが死亡が確認された』という報道だけだ。

 瀬谷香夜子は突然命を落とした。

 この事実は変えられない、彼女が好んでいた煙草の煙を身にまとっても、彼女が使っていたライターを大事に手入れしていても、また昔のように彼女の突拍子の無い発言を聞く事は出来ず。

 『私はやりたい事をやって生きる』と言った言葉の続きは聞く事が出来ない、そんな事わかっていたのだが、今でも淘太は出鱈目な勘違いを今でも無理矢理している。

 「あんた前に俺の事『捨て犬』って例えたよな、ほんとにそうだよ、俺は捨て犬だ。

 いや、むしろほんとに捨てられていたんだったらよかったんだけどな、彼女が生きてさえいれば、それが確認できれば捨て犬でもなんでも良かった。

 尻尾を振る相手がまだどこかにいると分れば、一人でも大丈夫だ」

 「お前は……」

 紫の鏡は、薄っぺらい平面の中、淘太の言葉に口をつぐむ、返す言葉が浮かばない。

 好奇心だけで掘り下げたため相手の過去を知らずにここまで話を進めてしまった事、それをただ後悔するしか出来なかった。

 「中途半端な別れ方したせいで俺は何時まで経ってもこんな生活を続けている、いっそ野垂れ死んでしまった方が楽なのも分る。

 それなのに俺は、ほんとにみすぼらしい捨て犬みたいに、香夜子の残り香に縋っているんだよ、彼女が好きだった煙草無理矢理吸って、その煙の匂いの先に彼女がいるはずだ、そんな事思って、彼女が使っていたライターを何時までも大事そうに抱えて感情を誤魔化して。

 彼女が好きだった料理を同居人に食べさせて、中途半端に満足して。

 笑えるだろ? 俺は捨て犬だよ、何時までも飼い主がいない事に気が付かず、一人醜く尻尾振ってる馬鹿な犬だよ、これで分ったか?

 俺はそういう人間だ、都市伝説? そんなの信じていたら俺の妄想だって現実になる、そんな風に自己満足してる馬鹿だよ俺は!」

 嗚咽交じりに部屋に響く淘太の言葉。

 普段は見せない露骨な皮肉と自害心の羅列。

 肌を刺すような鋭さと、骨まで響く鈍さを秘めた自嘲。

 一瞬紫の鏡は口を噤み。

 そして再び口を開いた。

 「あんたがどんな風に考えてやった行動かは別として……周りの人間や年伝説はどう思ってるんだろうな……」

 紫の鏡の言葉、それを聞いて淘太は思いを巡らせる。

 料理をせがむ凛の表情、そして食べ終えた後の満足げな笑み。

 一孝のあきれたような笑い、そして食卓を去る申し訳なさそうな表情。

 犬夫の心配そうな視線。

 ニューの笑顔に、さくらの安堵の表情。

 そして鏡の先に映るもう一つの自分の顔をした紫の鏡の、何か芯を捉えたような澄んだ視線。

 「あんたがどう考えてるかは別としてな、俺達はあんたに感謝してるし、この家の同居人だってあんたに感謝している。

 それは話を聞くだけでも分かる、あんたは尻尾を振る事が得意だなんて言ってたけどな。

 尻尾を振られる事もほんとは得意なんだよ。

 ただあんた自身その事に気が付いていないだけでな」

 その声に合わせてか、突然玄関の開かれる音が下から響き、男の罵声が響く。

 「淘太ぁぁぁ!! 何処に居やがる!! この状況を説明しろ!! 何で都市伝説とかいう変な奴らがいるんだぁ!!」

 どうやらしばらく家を出ていた一孝が帰ってきたらしい。

 そしてさらにバイクのエンジン音が響き、凛の声も響く。

 「尻尾振るのも楽しいが、たまには尻尾振られてみるのも悪くないだろ。

 今さらウジウジしてても女が生き返るわけじゃない、だったら楽しく過ごそうぜ」

 紫の鏡の言葉、それを聞くと淘太は口を開いた。

 「紫の鏡……その話はもういい」

 「いいか! 俺はあんたを心配して言ってるんだ……」

 食い下がるように声を上げた紫の鏡の声、それに淘太は背中で答え、ゆっくりと腰を上げた。

 「もうその話はいい」

 ただ、その口調は鋭利さが無く、鏡を振り返る表情は少しだけ柔らかく。

 どこか荷を下ろしたような、少しだけ軽い表情だった。

 「ありがとな……」

 淘太は明るく言葉を繋ぐと、ドアを開いて部屋を出て行く。

 一瞬しか見せなかった淘太の表情、だが、紫の鏡の言葉を飲み込んでか、その表情は明るく、演技ではなく本心が出ている気がした。

 同居人からの声、それに返事する彼の声は明るく、そして頼り甲斐がある気がした…… 






 首なしライダーは静かにその扉を開いた。

 自分の後を追って無理をした謎の女の庇ったせいで全身が痛いが、それ以上に伝えないといけない事がある。

 薄い合板で出来た良くある扉、それを開くと目の前に大量の機械が広がる。

 「おかえりなさい」

 ケーブルをムカデの足のように生やした機械が鎮座する中、半ば埋もれるように設置された椅子の中から女の声が響く。

 「どう? 町は変わりない?」

 『町変化 皆無 ただ、妙な点が』

 椅子が僅かに動くと、細く白い足が伸び、その上にいた人物の姿を露わにする。

 ぼさぼさに伸ばした黒髪、地味な顔立ちに黒ぶちの眼鏡をかけ、服装と言えば下着姿からTシャツ一枚と言った酷く手抜きな物。

 普通ならこんな姿で男の前に姿を現す女などいない筈だが、都市伝説に対しては例外なのか彼女はぺたりぺたりと足音を響かせながら首なしライダーに歩み寄る。

 羞恥心を見せない彼女の表情は楽しげだが、視線は恐ろし澄んでおり、まるでどこか別の次元を見透かしているような、そんな雰囲気すら漂わせている。

 「妙な点? それはどういう事かしら?」

 『女一人 追ってきた』

 「まぁそれは素敵……あなたみたいな存在にも構ってくれる人が居たってことねぇ」

 女は蛇のような仕草で首なしライダーの後ろに回ると、細い四肢を伸ばして首なしライダーの体に絡める。

 官能的と捉えれば簡単だが、どこか雰囲気が違う。

 形容しがたい狡猾な仕草、そんな彼女は指を首なしライダーの喉元に這わせると、首の切断面すれすれのところでぎゅっと掴む。

 『如何します?』

 「何にもしない……今はね、どうせすぐにあなたの存在は忘れてしまう、直ぐにあなたは透明になっちゃうの、分ってるでしょ?

 自分が誰かの心の中に居ない限り、直ぐに常識に飲み込まれて消えてしまう存在だって。

 だから私の物、あなたたちは全て……」

 女は耐性が無ければ吐き気を伴うような、首なしライダーの切断された首、その先に広がる断面を舌を伸ばして舐めると、小さく笑い言葉を繋げる。

 「教えたわよね? これは試験にすぎないって……」

 女の声は機械が響かせる鈍い駆動音の中、小さく響き渡っていった。

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