第30話 帰るべき場所へ
「――遅くなってごめんなさい」
全てを包み込むような柔らかな声。頬をくすぐる若草色の髪。
「……エコナ?」
はっとして意識が現実に戻ってくる。エコナが後ろから僕を抱き止めていた。
「急に二人と連絡が取れなくなって、そしたら肉体を失ったヒノアの意識が教えてくれたの。『ソウを助けて』って」
「ヒノアさんが……?」
「ヒノアの器が消滅していたことにも驚いたけど、それだけ危険な状況だって分った。急いで居場所を探ってみたけれど、中々上手くいかなくて。ソウ本来の魂の波動を感じなかったから」
「それは……」
後ろめたさで言い淀んだが、エコナは全て分かっている様子だった。
「目覚めてしまったんだね」
「ごめん。僕は、もう……」
言い終わらない内に、エコナは僕の肩を引き寄せて正面から抱きしめた。
「エコナ……っ」
「いいの。見たら分かるから。あなたが必死に抗っていたこと、最後まで私たちを見捨てようとしなかったこと……っ!」
エコナは泣いていた。流れた涙が僕の首筋を濡らし、細い肩が小刻みに震えていた。こんなにも感情を露わにするエコナを見たのは初めてだった。
「――辛かったね……」
「っ……」
その一言が、何よりの報いだった。
煮えくり返っていた狂気が浄化され、抑え込んでいた悲しみがあふれ出し、安堵と歓喜に作用して涙となった。涙は残った左目から頬を伝って血を薄めていく。
それからエコナは体を離すと、腰に提げたポーチから包帯を取り出して僕の右目部分に巻き付けた。
「一緒に帰ろう、ソウ」
儚くどこまでも綺麗な微笑みを投げ、エコナはシルたちと向かい合った。
「ニンフ……!」
九藤の表情がはっきりとした憎悪に染まる。神血の瞳を抉り出してしまった僕にだってそんな表情は向けなかった。一体彼の中の何がそうさせているのだろうか。
「聞きなさい、人間、そしてソピアーの分身」
エコナは打って変わって凛とした声音で、言葉を続けた。
「私はニンフのエコナ。そして、――かつて水の神と崇められし古き精霊、
「……っ!」
「なにっ」
「えっ?」
シル、九藤、そして僕もまたそれぞれに驚きを示した。エコナが古き精霊? 水の神ってどういうことだ? エコナはニンフで、百十七年という歳月は精霊たちにとってさしたる長さでもないと思うのだが。マルシィさんなどはもっと長寿なのだ。
「警告する。妖精の領域への侵略を止め、対話の道を拓きなさい。さすれば精霊界の住人は応える。私たち古き精霊においても、灰化の病を止める用意がある」
その言葉に、辺りは静まり返った。誰もがエコナの発言の意味を必死に反芻し、理解しようとしていた。
「神血の瞳、そして
それはほとんど人質を取った脅迫だった。この神器に、僕に、そしてニンフの集落に手を出すなという。もちろん僕自身は人質に取られるだなんて思わないが、トウノ呪機商会の面々に与えた衝撃と拘束力は言うまでもないだろう。
だが、
「ふざけないで頂きたい」
それでもなお、真っ向から拒否を示す者がいた。九藤だ。
「私はニンフという存在を決して認めない。貴様が旧時代を滅ぼした古き精霊だと言うのなら尚更だ! 貴様の言葉を信用し、やすやすと神器を手渡すと思ったかっ」
青い炎を両手に灯し、その火力を高めていく九藤。交渉の余地はなさそうだった。
「シル様、お下がりください」
シルは膝を突き、うつむいたまま何かを諦めるように目を閉じた。
「やれやれね。この私が何かに惑わされるなど。やはりこの世界は面白いわ……」
そう言い残し、シルの姿は紅い炎と共に消えてしまった。
「……」
炎と
「まて九藤! 慎重に考えるんだ。ここは一度彼女の話を――」
トウノ呪機商会の傭兵の一人が九藤を呼び止めた。
「それこそ奴らの思う壺です。ここで神血の瞳を取り戻せばいいのでしょう!」
そう遮って、九藤はアニマの炎をエコナに向けた。
しかし、
気が付くとそこにエコナの姿はなかった。
「……ふっ」
そしてエコナはいつの間にか九藤の目の前に肉薄し、手の平に溜めた火球を九藤に向けているところだった。
「馬鹿なっ」
一切の防御は間に合わず、至近距離で放射された炎の斥力に九藤の体は吹き飛ばされた。
「くっ」
空中でとっさに
九藤は炎の盾を全方位に展開。そして放たれた五本の矢は全て刺々しく燃える炎の盾に掻き消されてしまったが、九藤が防御を解いた瞬間、背後からエコナの手がその肩に置かれた。
「なっ!」
そして次の瞬間には足元から螺旋状に立ち上った緑の炎に九藤の体が包まれ、まるでツタが絡まるように九藤を拘束してしまった。
「人間相手は楽でいい。
そう言い終えない内に、足元から水が上がってくる。まるで遊園地廃墟の一帯に潮が満ちるように水面が上昇していき、あっという間に辺りは水に没してしまった。
仄かな光のもとで、観覧車もジェットコースターもコーヒーカップも全てが水底に沈んだ。それは廃墟の極致とも言える青の退廃的景観。そこにいた全員が水に飲まれ、吐き出す息が泡となって音を奏で、反響する。
ただ息をすることはできた。そういうものとしてエコナが幻術を構築したからか。しかしこれが幻覚と分かっていても、冷たい水の感触と水圧で身動きが取れなくなる感覚は消えない。
しかし、九藤一人だけは息を止められているようだった。
「がぼぼっ!」
手足を縛られもがくこともできず、固く目を瞑って何かを必死に唱えている。恐らく対幻術用の呪文か何かだろう。しかし、そんな付け焼刃でどうにかなるほどエコナの幻術はちゃちではない。
「恨むなら恨みなさい。私たちには私たちの理由があるの」
彼の正面に回り、エコナは告げる。
「ぐ……っ……」
そして九藤は鬼の形相でエコナを睨んだの最後に、意識を失った。
「さあ、帰ろ?」
水の抵抗を全く感じさせない足取りで、エコナは歩み寄って手を差し伸べる。
「本当に、いいの?」
「大丈夫。私が責任をもって皆を説得するし、ソピアーの分身を抑えておく方法もある。それに、下手にどこかへ行かれてしまうよりは目の届く所にいてくれた方が安心だから」
そして、「と言うのは建前で」と首を振り、
「やっぱり、私がソウと一緒にいたいから。だから他の誰が何て言おうと関係ない。例え世界が拒んでも――私は何度でもあなたをさらうよ」
そう言って悪戯に笑う様は、どこまでも自由で、可憐で、魅力的だった。
「ありがとう。エコナ」
僕もまた、今この時だけは全てから許された心地で、その手を取った。
そして僕らが逃げ去った後、幻術から解放された人々は、ある者は意識を失った九藤に駆け寄り、ある者はすがるように仲間たちと視線を交わして言葉を探し、またある者は呆然として暮れゆく空を見上げるのだった。
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