第29話 絶望と狂気の果てに
シルが僕を抱擁する。深紅の炎が霧雨のように舞って煌いていた。
ああ、そうだな。辛いこと全て忘れられたら、気が付いた時には全てが良くなっていたなら、どんなに幸せで、救われることだろう。
エコナ。僕は頑張ったよ。でも僕は
世界はあるべき姿に戻り、精霊や妖精は地上から消える。精霊の支配から解き放たれた世界で、人間たちは業を繰り返しながらも栄えていくだろう。
君を失うのは怖い。でも僕は結局、ただ救われたかっただけなのかも知れない。エコナはそんな僕にとって都合のいい存在だったに過ぎないのかも知れない。
僕を許してくれ。いや、許さなくていい。せめて君だけは僕のことを覚えていてくれ。何なら全てが終わった後で、精霊界で何度転生した後でもいいから僕を殺しに来てくれ。何もかも忘れてしまった僕は訳も分からず怯えるだろうが、どうかためらわないでくれ。それが僕の罰なのだから。
ああ、今までの人生も、僕が忘れてしまった何かに対しての罰だったのかな。だとしたら、次に生まれ変わっても僕はまた罰を受けるだろうな。
せめて、正しいことをさせられるのだと信じたい。そうだ、人間にとってはこれが正しいことなんだ。僕は人々を滅びから救い出そうとしているのだから。正しい。僕は正しい。罰なんて受けない。僕は救われる!
『――あんた人間のことが嫌いなの?』
ふと、いつかの酒場でミネットと二人で話をしたことが脳裏に蘇った。
『嫌い、か……そうかも知れない』
『今の生活はけっこう気に入っているんだ。同時に人間のやっていることも、この世界の在り方そのものも……ますます気に入らなくなった。だから、僕の手でそれを変えたい。エコナや集落の皆のためなら、僕は命だって懸けられるよ』
それに対して、ミネットはこう答えた。
『ソウはさ……自分の命があんまり大事じゃないんだね』
『やっぱりあんたって、理想のために死のうとしている感じがある』
『仲良くなれたのにさ、あんたがすぐいなくなっちゃったら気分悪いじゃん……』
場面は変わって、エコナと川でじゃれ合った時のことを思い出す。
『誤解のないように言っておくけれど、僕にとってエコナは大切なひとだ。でも、僕はずっと自分の気持ちに向き合おうとしなかった。どうやら「生きようとする勇気に欠けている」らしいんだ。だから命が惜しくなるようなものを作らないようにしていたのかも知れない』
『今ようやく理解したんだ。やっぱり僕はエコナと結ばれたいし、この集落でエコナたちと幸せに暮らしたい。だから……まだ死にたくない』
僕はあの時、確かにそう言った。一切の迷いなく、覚悟と希望をもって。
『よかった……あなたの口からそんな言葉が聞けて』
『大好きだよ』
……ああ、なんだ。僕はちゃんと救われていたじゃないか。
「っ!」
足元で青い炎が吹き上がり、大きく跳躍してシルの抱擁から脱する。
「ソウ、どうして?」
「ただ、彼女たちと平穏に暮らせればそれでよかったんだ」
ゆらりと立ち上がり、虚ろの中に悲壮を湛えた目でシルと九藤らを睨む。
「それなのに……全部、ぜーんぶ台無しだ。あーあ、何でいっつも僕ばっかりこんな貧乏くじを引かなきゃならないのさあぁ!」
心が狂気に飲まれていく音がした。どろりとした、粘着質な水音だ。それでも自分の意志だけは見失わないように、感情を吐き出し続ける。
「あんたらのせいでヒノアさんは死んだ。僕のせいでヒノアさんは死んだんだよ! かと思えば僕が神器を、神の血を宿しているだなんて……もうどこへも行けないよ……!」
「ソウ、だからこそ私が……」
「黙れよ! 大嫌いだ。この世界も、人間も、世界をこんな風に創った神も全部! 消えちゃえばいいよ、皆みんな! あはははははっ!」
大袈裟に肩を揺らして、虚しく高笑いをする。
「ちっ、狂っている。シル様、お早く!」
九藤が促すが、何を思ったのかシルはその場から動けずにいた。
「ねえシル、今の僕は君の目にどう映っている? 醜い? それとも美しい? 君は人の苦悩が大好きだもんねえ! すごいでしょ、僕、ぼく、こんなに……こんなに……見たこともない、世界を……ひははっ!」
「ソウ……」
「バッカみたい! 何その憐れむような聖人面は。神は僕らを愛してなんかいないんでしょ? 君も僕も身勝手な悪魔だよ!」
そして僕は自分の右目に手をかけた。最初はどうしてそうしたのか自分でも分からなかった。だが、すぐにその意味に気付く。
「何をする気?」
「君は智神ソピアーの意識が分裂した分身らしいけど、僕の手助けがなければ封印を解くことができない辺り、シル自身の力はこの神血の瞳に依存しているんじゃない?」
その言葉に、シルだけでなく九藤も息を飲む。
「まさか、よせっ!」
その叫びを無視して、僕は自分の右目を抉り出した。
熱い。興奮のせいか痛みは分からない。いや、ものすごく痛いはずなのだが、それに拘泥するほどの正気を既に失っているのだ。熱い血液が、眼窩の奥からどくどくと溢れてくる。右手に握られた眼球の感触が嫌に生々しい。引き千切れた視神経が手首に張り付く。
「ぐっ、ああああああぁ……! はぁ……あ……ああぁ……」
掠れるような声で叫んだが、それが自分の声なのかも分からない。
「ぐう……っ!」
そしてシルもまた、神器に負ったダメージを受けたのだろう、うめき声と共に膝を突いた。
そのまま右目を握り潰してしまおうとしたが、眼球に深紅のアニマの炎が灯ってそれを阻んだ。ならば左目をと思ったが、こちらも同じように抵抗をしていた。
「やめて、やめてソウ!」
シルが叫ぶ。
「消えたくないっ! その目を失ったら、私は本当に光を失ってしまうの!」
「ああ、僕もやめてって言ったよ? 君は助けてくれたか?」
「取り押さえろっ!」
九藤の怒号のもと、傭兵たちが炎を構える。しかし僕が手に持った眼球を一振りすると、深紅の炎が壁となって彼らの行く手を阻んだ。周囲の錆びた遊具たちが軋み泣いて崩れ落ちる。
「僕は君たちが羨ましい。普通に生きて、普通に居場所を得て、普通に人類の希望とか未来とかを語れるあなたたちが。人間にとって最も耐えられないものって何だと思う? 世界の荒廃? 死の病? 違う。周囲と比べて自分一人だけが虚無である、孤独であると感じることだっ」
左目に指を食い込ませ、右目から血の涙を流しながら、僕は言った。
「何で、なんでボクは、どうしてこんなことになった……? 頑張った。たくさんがんばった。痛いのも、怖いのも我慢した。人間の世界に帰れないことも割り切って、彼女たちと幸せに生きていくために頑張った……。なのになんで奪うの、なんで分かり合えないの、ねえ、どうして……」
まるで狂気の波が引くように――いや、狂気自体は依然としてどす黒く逆巻いているのだが――一瞬訪れた静寂の狂気に、僕は呆然としてたたずんだ。
そのとき炎の壁の向こうから九藤が現れた。覚醒を発動した刺々しい炎で紅い炎を打ち消し、静かな怒りをその目に湛えて。
「もういい。休みなさい」
――と、刹那、
天から降り注いだ一条の
それは僕のすぐ背後に舞い落ち、翡翠色の揺らめきの中から白い手が伸びて僕の両腕を優しく掴んだ。
「――遅くなってごめんなさい」
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