第19話 何でもない、大切なひと時
それから、上弦の月が満ちてまた半分に欠けるほどの時が経った。
僕はエコナに稽古をつけてもらいながら森での採集や狩猟も経験し、時折リクトさんの酒場を手伝いもした。
機械兵器といった外敵から集落を防衛し、戦利品を漁るハンターとしての戦闘は、集落と西の平原を分断するダム湖下流周辺の森に出没したトビバチの討伐が一回あっただけだった。そのときは僕とエコナ、そしてミネットの三人がかりで危なげなく勝利を収めることができたのだった。
そしていよいよニンフの集落での生活にも慣れてくると、ずっと胸の底で引っかかっていた一つの問いが首をもたげ始めた。
僕は実際のところ、エコナのことをどう思っているのか。
以前ミネットと話したときに結論は出たはずだ。しかしあれ以来、どうにも自身がエコナときちんと向き合うことから逃げているような気がしてならなかった。婚姻について真剣に考えるにはまだ時間が必要なのは分かるが、少なからずエコナへの好意を認めている以上、やはり受け取るだけじゃ駄目だと思う。
人間の尺度で言うならば交際。そういう関係を自ら作っていく必要があるのではないか。自分だって本当はそれを望んでいるのではないか。
種族が違うとはいえ、ものすごく年が離れているとはいえ、あのような心優しい美少女に想いを寄せられて何も思わないはずがない。
だが、具体的にどうすれば……。
そんなことをぐるぐると思い悩みながら、僕は西の平原に面した物見やぐらの手すりに寄りかかっていた。梅雨の合間の湿った風を肌に感じつつ軽食の干し肉をかじる。
エコナの家のそばにあるこの物見やぐらからは山間の小さな平原を一望できる。要はただの盆地なのだが、その適度な閉塞感がトウノ呪機商会にとってまさしく隠れ基地と言うべき雰囲気を醸している。
トウノの基地を取り囲むフェンスや壁は見当たらず、周囲の小さな廃墟遺跡がその代替を果たしている。まったく、こんなせいぜいニ、三キロしか離れていないところにこんな物騒なものがあるのかと思うとぞっとする。
と、次の瞬間目の前が真っ暗になる。
「なっ?」
驚いて身をすくめるが、すぐに目蓋に伝わる人肌の温もりを感じた。そこで誰かが僕の目を塞いでいるのだということを理解した。
「さ、誰でしょう?」
「……エコナ?」
「正解」
僕が言い当てるとエコナは手をどけて、嬉しそうにこちらをのぞき込んできた。僕はどきりとして息を飲む。
「見張りお疲れ様」
「あ、ああ」
エコナは僕の気持ちを尊重してか、これまで自分の愛情を示す以上のことをしようとはしてこなかった。それは今この瞬間のように、とても心地のよい関係だった。互いに心を許していながらも、その先へ踏み込もうとはしない。
「……エコナ、この後時間ある?」
ただ、エコナのことが大事だと、思っているだけでは伝わらないし、彼女を不安にもさせてしまうだろう。
「たまには、ぶらぶら散策するのもいいかなって」
そう告げると、エコナの眠たげな緑の瞳がくりっと大きくなった。
「……珍しいね。ソウの口からデートのお誘いなんて」
「デ、デートって、そういうんじゃ……」
「違うの……?」
落胆するように瞳の色を濁らせるエコナ。そんな悲しそうな目で見ないでくれ。
「……そうだよ、デートだよ。それで、いいかな?」
「妖精たるもの、楽しいことを置いて他に優先すべきものなどない」
そう言い切って得意げに鼻を鳴らす。快楽主義者め。
「で、どこへ行くの?」
その問いに対する答えは既に用意していた。
「前から気になっていたのがあるんだ。集落の北の丘、その手前に線路があるでしょ?」
「うん」
かつて人間が使っていた、今はもう打ち捨てられた廃線路。それを西へ辿っていくと旧
「あれを東に辿って行ってみたいんだ」
「そっか、ソウはまだあっちには行ったことがなかったね。いいよ、行こ」
そう言ってエコナは待ち切れないとばかりに僕の手を取った。僕はむずかゆいものを感じながらも、エコナとの関係を縮めるために勇気を使ったことに小さな達成感を覚えた。
そして僕らは雑草が無秩序に生い茂る赤錆色の廃線路を東に向かった。
徒歩ではない。エコナは
脚に青いアニマの炎をまとわせ、両足で一気に跳躍。炎の斥力が推進力を生み、さらに着地の際も体への衝撃を和らげてスムーズに次の跳躍に繋げてくれる。
これも訓練の成果だった。そのスピードは自動車と同じくらいで、おかげで飛行するエコナたちニンフのスピードにもある程度はついていけるようになった。
「気持ちいいね、ソウっ」
線路上の枕木を踏みつけながら跳ねる僕の隣を飛んでいたエコナがくるりと錐もみ回転をしてみせた。
「そうだねっ」
僕も飛び上がるときの息で返事をする。線路は森の中を延々と続いていて、両脇に生い茂る緑の壁の圧迫感が線路の一本道を強調する。まるでどこか別の世界へと誘われているかのようだ。頬を撫でる風に感じる森の香りが心地よい。
やがて右手の視界が開けて川が見えてきた。そこは山の斜面に挟まれた谷だった。
「わあ……」
思わず速度を緩め、川をまたぐ小さな鉄橋の上で立ち止まる。
「きれいな所だね」
「そう? 私には見慣れちゃって何とも思わないけど」
エコナも空中で止まってから僕の隣に着地した。
「コンクリートジャングルで生きてきた僕にとっては、目に映る全てが新鮮で目を惹くよ」
小さな川があって、申し訳程度の平地があって、木々の生い茂る山肌に挟まれたこの閉塞感が反って落ち着く。稜線に切り取られた空、野鳥のさえずる声、川の澄んだ水が流れる音。これだけでも心が洗われるようだ。
ふと、川のそばの小さな野原に石を積んで出来た塔を見つけた。高さは三階建てといったところか、シンプルだが装飾の少なさ故物々しさを覚える。人間のものとは思えない建築物があるということは、ここはまだ集落の土地か。
「エコナ、あれは?」
僕が石塔を指差すと、エコナは「あれは牢獄塔っていって、危ない者とか悪さをした者を捕らえておく場所」と答えた。
「なにそれ怖い」
「大丈夫。今は誰も入ってない。それよりも川の方へ行ってみよう?」
「ああ、そうだね」
僕らは鉄橋からひと飛びで河原に降り立った。
裸足のエコナはそのまま川に入っていく。水深は浅く、エコナの脚のくるぶし上までが水に浸る。丈の長いチュニックのスカートを持ち上げると、彼女の白い太ももが露わになった。
「ん?」
僕の視線に気付いてエコナが首を傾げる。
「あ、いや……僕も川に入ろうかなー」
慌てて革靴を脱ぎ捨て、川に足を入れる。が、初夏の清流は水浴びをするにはいささか冷たかった。まあ泳ぐには早いものの、朱雀脚を使って熱と疲労の溜まった足にはこのくらいが気持ちよい。
すると、
「それっ」
エコナが片手で水をかけてきた。見事に顔に命中し、虚を突かれた僕は大袈裟なリアクションと共に頭を振る。
「ぶっ、いきなり何するのさ!」
「あはははっ」
エコナが珍しく顔を
「今日は機嫌がいいね、エコナ」
「ふふ。そうかもね」
エコナは柔和な笑みを浮かべながら、スカートが濡れるのも厭わずに両手で川の水をすくってまた僕の方へかけてきた。僕は両腕で顔を覆ってそれを防ぎ、
「このっ」
お返しとばかりに水をかけ返す。
そうしてしばらく、僕らは馬鹿みたいに水かけ合戦という名のじゃれ合いを繰り広げていたが、エコナのちょっと反則染みた攻撃により決着は着いた。
「――水の精よ」
言下に水面が青く輝き、空の色を透かした大波が一気にこちらへ押し寄せた。
「うわあっ!」
僕の体は為す術なく波に飲み込まれ、バランスを崩し川に転落した。川の深い所へ押し流されたために石で頭を打つようなことはなかったが、そのまま川に流されそうになる。だが、青く輝く川の水は尚も僕の体にまとわりつき、反対の川岸まで運んでくれた。
「ぷはっ……!」
全身びしょ濡れで、未だお尻を水面に浸しながら体を起こす。呪術を使ったのか? あんなの反則だろう。何でもありなら僕だってアニマの炎を使ったさ。いや、水鉄砲だ。誰か水鉄砲を持ってこい。それも両手持ちの強力なやつだ。
「はい、私の勝ち」
油断しきったエコナの腕を掴み、そのままこちらに思い切り引っ張り寄せる。
「きゃっ!」
エコナはあっさりと体勢を崩して倒れ込む。僕はそのまま彼女を浅い水面へと押し倒し、跨り、両肩に手をかけた。仰向けになったエコナは怒るでも困惑するでもなく、ただ翡翠のような両の目を円らに見開いていた。
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