第三章 覚悟と幸福の日々

第13話 爽やかな朝のお供に、世界の話をしよう

 翌朝。木の匂いが心地よい寝室にて、ベッドから体を起こしてゆっくりと深呼吸する。

 僕にとってのこの日最大の後悔は、何の考えもなしに洗面所に向かったことだ。


「あ……」

「あ……」


 僕の足音に気付いてそうしたのか、いつものロングチュニックで体を隠しているエコナ。あまり凝視してはいけないが、きっとあの麻布一枚の向こうは生まれたままの姿だ。白く細い腕や隠しきれない体の線が心臓を揺さぶってくる。

 エコナは昨晩、僕に洗面所の順番を譲ったばかりにそのまま寝落ちしてしまった。だから朝に体を清めようとするのは道理。そのことを想定しておくべきだった。


「お、おはよう……」

 エコナは平静を装ってあいさつしながらも、その顔は昨日の酔いがまるで醒めていないかのように赤らんでいた。


「ごめんなさいっ!」

 それからしばらく、僕はエコナの顔をまともに見られなかった。




 エコナが呪術式焜炉コンロで熱した石プレートの上で目玉焼きを焼き、僕が皿と水を用意する。出来上がった目玉焼きのそばに千切った干し肉を添え、更にバスケットの中にはリンゴが二つ。

 一通りの身支度と朝食の用意を済ませた僕らはダイニングテーブルについた。


「……私、怒ってないよ?」

 実際怒っているようには見えない無表情のエコナ。


「許してもらおうとは思っていません」

「そう言われても、もう許しちゃった」

「ごめん、今後気を付けるから、ほんと」

「ううん。私ね、あなたに見られるだけなら、大丈夫だから」


 そう言ってエコナは目玉焼きを木のフォークで切り分けて口に運ぶ。味付けはシンプルに岩塩だ。

 やはり機嫌を損ねているようには見えない。まあ昨夜も一緒に体を拭こうとしていたくらいだし、ちゃんと隠すべき所は隠されていたし、このくらいなら本当に大丈夫なのか?

 取りあえず、話題を変えようと思った。


「そう言えば、この集落に来てから金属を使った物を見てないな」


 扉の多くが竹を組んだ引き戸(つまり蝶番ちょうつがいやドアノブがない)で、食器も調理道具も全て木か焼き物か研磨された石だ。ナイフが黒光りする半透明のガラスのようなもので出来ていたのを見たときは流石に驚いた。


「あ、気付いた?」

「現代的な雰囲気がないって言うか、異世界に迷い込んだような感覚だよ。妖精は金属が苦手だっていうのは本当だったんだ」

「うん。金属は、特に精製された鉄とかはダメ。体内の精気アニマの流れが狂う」

「ふうん、そういうものなんだ……」


 人間とニンフの文化にこうも違いが見られるのは、単に種が異なるということ以外にもこういう理由があるのか。


「それと……もう一つ気付かない?」

 エコナが上目遣いで挑むような視線を送る。


「え……? もう一つ……」


 はて、と辺りを見回す。正直日本の文化と何もかもが違っていて、金属の不使用以外にこれだ、と挙げるべき相違が思い浮かばない。

 木組みと白壁の家屋、レンガを積んで出来たかまど焜炉コンロ、火の消えた燭台とアニマの炎を灯す球籠たまかご、食事には当然醤油や味噌を使った料理などなく、米やパンの類でさえ見ていない……ん?


「そう言えばパンとか食べないの?」


 パンや米は世が世なら食事とイコールで語られるほどの代表的かつ普遍的な食物だ。どの地域でも穀物は多かれ少なかれ神聖視されてきた。それをここに来て一度も目にしていないというのは、どういうことか。

 エコナはご満悦と言わんばかりに頬を緩めた。


「正解。私たちは穀物を食べない。作物も基本作らない」

「へえ……でも、どうして?」

「だって、汚らわしいもの」


 衝撃的な言葉だった。僕ら人間が神聖視していた穀物を、汚らわしいと言うか。


「妖精たちの間では、穀物は『神の頭垢フケ』って呼ばれてる」

「ふ、フケ……?」

「そう」


 エコナは水を一口飲み下してから続けた。


「まず大前提として、私たちは神を嫌っている。そして穀物と農耕は神が人間に授けた最大の恩恵の一つだよね?」

「そうだね。だから神が授けた穀物も忌避している、と」

「そういうこと」


 なるほどこれは一番ビッグなカルチャーショックだ。普通の人なら自分たちの文化を否定されて不快に思ったり怒りを覚えたりするところだろうが、僕はかえって興味を持った。


「エコナたちはどうして神を嫌うの? いや、そもそも神って本当にいるの?」

 僕は食事も忘れて身を乗り出した。


「神は、いるよ。でもきっとソウが思うような都合のいい存在じゃない」

「いや、僕も神が都合のいい存在だとは思ってないけど」


 するとエコナは「あなたらしいね」と小さく吹き出した。


「ソウはどうして大災厄が起きたと思っている?」

 どうしてそこで百年前の終末世界改変の話が出てくるのだ? 何か関係があると言うのか。


「異次元に住んでいた精霊たちが攻めて来て引き起こしたって聞いているけれど。あ、でも僕は神が主導した救済行為だっていう説も好きだなあ」

「正確にはどちらも間違い。でも、その二つの説を合わせたような感じかな」

「と、言うと?」


「『地上の人間を憐れんだ古き精霊たちが、彼らを救済するために引き起こした世界浄化』。それが私たちニンフや妖精たちの間に伝えられる大災厄の真実」


「へえ……」

 話としては、別に破綻していない。精霊が必ずしも人間に敵対している訳ではなく、むしろ好意的なものも多いというのは有名な話だ(その好意が人間にとってありがたいかどうかは別として)。そして世界の浄化とか、苦悩に満ちた世界からの救済とか、そういう面を提唱している研究者や団体がいくつも存在することも知っていて、僕も少なからず共感できる点があるというのも正直なところだ。


「それで、それと神にどういう関係が?」

「うん、詰まる所ね……信じるかどうかはソウに任せるけれど、この世界――現世、物質界、宇宙とも呼ぶけれど、この世はね、一人の神が創造した不完全な世界なの」

「……キリスト的な?」

「それはちょっと違うかな。この現世に神は一人、、、、、、、なんだけれど、人間は願いや文化に応じてあらゆる神を生み出しているから。アブラハムの諸派もその一つだと思う。あくまで別物と考えるべき」


「じゃあ不完全な世界って言うのは?」

「まあそのままの意味かな。この辺の話は長くなるから詳しいことは置いとくとして、神は精霊界の下に宇宙を創造し、精霊界にあった魂とかを『肉の殻』に閉じ込めて放ち、進化させ、一つの『箱庭』を創って観測し続けている。あるいはフラスコの中、もしくは成長する図書館……とでも言えばいいのかな、この世界は」


 そう言ってエコナはバスケットに手を伸ばし、リンゴを一口かじった。


「ともかく、神は自らのエゴのためにあえて世界に悲劇と闘争、そして偽りを撒いた。故に不完全な世界なの。……ここまでは分かる?」

「まあ……全く初めて聞くような話でもないかな」


 要はこの世界は苦しみを前提とした歪な世界で、一人の神が目的あってそれを僕ら人間に強いていると。そしてそれを見かねた古き精霊たちが世界浄化を実行した結果が大災厄なのだと。


「だから本来精霊界の住人である私たち妖精は、神という『愚挙の王』を忌み嫌う。だってあなた達も元は精霊界の住人だった、、、、、、、、、、、、、、、、のに、それすら忘れて、肉の殻に閉じ込められて、わざわざ苦しい思いをしているの。馬鹿馬鹿しいと思わない?」

「え、ああ……」


 あくまで眠そうな表情を崩さずに淡々と話すエコナに、僕はあいまいな相槌を打つ。僕個人には非常に馴染む話ではあるのだけれど、手放しで受け入れられないでいるのは人としてのさがなのだろうか。


「まあその大災厄――もとい次元上昇アセンションも、神の干渉によって不完全に終わったけれど」

「……もし完璧に成功していたら?」

「百年前に全ての人間が灰化し、、、、、、、、、、精霊界に召されて幸せに暮らしていた」


 その言葉に僕は思わず息を飲み、やがて独り言のように言った。


「……それじゃあ、この百年間に病で灰になった人たちは、救われていたのかな……」

「え?」


 エコナが聞き返したが、僕は「いや、何でも」と首を振った。


 精霊たちから見れば、あるいは精霊界に召された後の人々から見れば、それは「良いこと」なのかも知れない。だが……肉の殻に縛られたこの頭では処理しきれそうにない。

 やはり僕は精霊――特に妖精が人間に愛情を持っているという説を支持することができる。だが、妖精の愛し方は人間の愛し方とは違うし、神の愛し方とも違うらしい。


 何が正しくて、何が間違っているとか、そういうことを議論すべきではない。きっと。

 だがそうした愛し方の違いが百年前の大災厄を、旧文明の終焉を、精霊や呪術が存在する世界への改変をもたらしたのは間違いないのだろう。

 そしてきっと、今このエナの地で起きている人間とニンフの対立もその延長線上にある。


 果たして僕は、一体なにを思えばいいのだろう。

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