第5話 覚悟が定まっていない時に限って、現実は待ってくれない
ほどなくして僕らは二車線の大きな橋の上にたどり着いた。
ちょうどダム湖の上をまたいで架かっていて、湖が大きいだけに橋の長さもかなりのものである。
橋の上から見下ろすダム湖の景色は、今まで感じたことのない種類の解放感をもたらしてくれたのだ。背の低い山々に囲まれた湖は、それらの木々の色をひと所に飲み込んだように深い青緑色で、さらに空の青を吸収して複雑な輝きを放っていた。それが眼下に、前にも後ろにも広がっている。
風が気持ちいい。僕は橋の欄干にはあまり近寄らないようにしながらも、きょろきょろと辺りをしきりに見渡しながら進んだ。
「すごい! 人間の世界で生活していたらまず見られない光景だよ」
「よかった」
隣を歩いているエコナも、僕のリアクションに満足げだった。
「あっち、堤防みたいなのが見えるよ。それに……あれは公園?」
僕は太陽を背に、湖の北の方向を指差して言った。
「あそこがこの湖をせき止めているダム。近くに人間の使っていた公園や管理所がある」
「でも……廃墟の遺跡にしては綺麗じゃない?」
そう。遠目から見た限りではあるが、石を積み上げてコンクリートで固めたダムの本体も、ダム湖沿いに付随する公園などの施設も、遺跡と呼ばれる割には手入れが行き届いている印象があった。さっきのトビバチといい、ここはもう既に人間の開拓が及んでいるのだろうか。
「ダムには、妖精が住みついているから」
「へえ! どんな?」
「どんな……そうね、鍛冶や工作が好きで、人工物の修理なんかも……」
その時だった。
一瞬だが、エコナの動きがふと止まった。
それを不審がった僕が声をかけない内に、目の前で青と緑の閃光が閃いて、僕の身体は爆音と共に吹き飛ばされた。
「うわあぁっ!」
地面を擦るように叩きつけられ、三度転がる。だが思ったほどの痛みはなかった。理由はすぐに分かった。僕の身体には緑色に燃えるアニマの炎がまとわり付いていたからだ。
「敵かっ?」
すぐさま吹き飛んできた方向を見遣る。
砂ぼこりと緑の炎に包まれて膝を突いているエコナの姿が、そこにあった。
「エコナ!」
彼女の名を叫び、彼女のもとへ走る。
だが、
「だめっ!」
鋭い声が僕を制した。
「逃げてっ」
そう言いながらエコナは何かをにらんでいる。僕もその視線を追って空を見上げた。
そこには、鬼がいた。
機械兵器に共通する黒い金属製のボディは人型。体長は五メートルを優に超えているものの痩身で、パーツごとに金色の縁取りがしてある。右腕は細長い三本指のアーム、左腕はそのままキャノン砲になっていて、両腕ともに分厚い籠手で覆われている。そして、背中に付いた六本の円筒型ユニットから青い燐光を噴射して浮遊していた。
そして、のっぺりとして表情のない無地の
全身の血の気が引く。自分でも顔が青ざめていくのが分かった。
「あれは、クロオニ……! そんな、軍隊くらいにしか配備されない特殊戦闘機じゃないか!」
「……さっきのトビバチが呼んだのね。くっ……油断、した」
エコナはふらふらと立ち上がり、蜻蛉燐羽を展開させた。
「逃げよう! あれは危険すぎる」
そう呼びかけたが、エコナは敵を見据えたまま首を横に振った。
「ソウは逃げて。私はあれを倒す」
「駄目だ! 君だってもう……」
そう、エコナは僕をさらうために使った術や先程の戦闘によってかなり霊力を消耗しているのだ。それに見たところ、今の爆発でかなりのダメージを負っている。
あの瞬間、エコナはきっと一足先にクロオニの奇襲に気付いたのだ。だが自分の身を護ることよりも、僕を炎で吹き飛ばしてかばうことを優先した。その結果十分な防御が間に合わなかったに違いない。
僕のせいだ。
そう口にするのは簡単だ。だがそんな言葉は自己防衛に過ぎない。自分を責めることでそれ以上の責任を放棄するだけの言い訳だ。
だが今の僕に何ができる? アニマの炎を用いた護身術なら習っていた。だが僕は決して優秀ではなかったし、本物の戦場でそんなものがどれだけ通用するというのか。
思案している間にも、エコナは両手にアニマの炎を灯して臨戦態勢に入る。
「エコナ!」
「……ふふ、ちゃんとエコナって呼んでくれた」
何だよそれ。この状況で何を呑気なこと言っているんだよ!
「どうしてっ、そこまでして……」
「だって、私の未来の旦那様を死なせる訳にはいかない」
馬鹿なことを言うな。誰がいつ結婚してくれと頼んだ。そんな自己満足で命を懸けられるこっちの身にもなってくれ!
どうして、どうして……、
「どうして、そんなにも迷いがないんだよ……」
エコナは何も言わずに飛び立った――。
斜め上空へと飛行しながら高速で炎の矢を放つ。それはクロオニの右肩に命中して小爆発を起こしたが、あれの堅牢な装甲の前には大したダメージにならない。
クロオニもすかさず左腕の砲身から青い炎弾を撃ち出す。エコナはそれを上手くかわし、外れた炎弾は湖に落ちて盛大な水飛沫を上げた。
そのまま戦闘は湖上での空中戦となった。
クロオニは軽量で装甲の薄いトビバチとは異なり、一か所に留まって絶えず攻撃を行い、相手の反撃にもひるまない戦車のような戦い方をする。頑丈かつ無人機だからこそできる、強引な捨て身の戦闘スタイルだ。
霊力の消費が小さく弾速に優れた炎弾と、高威力の熱線を使い分けてエコナを追い詰めていくクロオニ。炎弾を避けきれず盾で防いだ隙を狙って、高密度の炎を束ねた熱線が放たれた。
「ぐっ……!」
エコナは寸の所で熱線の衝撃をいなしたが、空中で大きく姿勢が崩れた。
素人目にも分かった。エコナの限界が近い。
このまま黙って見ている訳には、いかない。
「くそっ!」
僕はすくみそうになる脚を叱りつけて橋の欄干へと走り、右手に青い炎を灯した。
やらせない。やらせてたまるものか!
今にもエコナに追撃をかけようとしているクロオニに向けて炎弾を撃ち出す。
四発の内、二発はどうにか命中した。かなり距離は離れていたが、意外と当たるものだ。
「ソウ!」
エコナが悲壮な声で叫ぶ。
「いま君に死なれたら困るんだ! 僕も戦う!」
しかしクロオニはひるむことなく僕に砲身を向ける。そして邪魔な羽虫を払うように炎弾を放ってきた。
背筋にぞくりとしたものが走り、僕はとっさに炎の盾を展開する。至近距離で爆音が轟き、青い閃光が目を焼く。そして最初の一撃を防いだことに安堵する暇もなく二発、三発と炎弾が撃ち込まれた。
「ひいっ!」
周囲のアスファルトが割れて黒い砂煙を上げる。崖に掴まった手から力が抜けていくように、炎の盾が剥されていく。
押し寄せる本物の死の恐怖に、内臓という内臓が縮み上がった。
そして四発目を受け止めたのと同時に炎の盾は壊され、僕の身体は橋の反対側まで吹き飛ばされた。今度は衝撃から身を護ってくれるものなど何もない。背中から硬い道路に叩きつけられ、肺の中が空になった。
「かはっ……!」
「ソウっ! この……!」
エコナがありったけの炎を込めて炎の矢を撃ち込む。狙いは正確にクロオニの胸部を捉え、あばら骨の浮いた悪趣味な造形をしたそこへ突き刺さり、爆裂した。
クロオニの機体が大きく揺れ、背中のユニットから吹き出す青い燐光が弱まる。今のは呪術回路に効いたはずだ。
だがエコナの両手からもアニマの炎が消えてしまった。もう霊力はほとんど残っていないのだろう。対してクロオニはエコナの方へ向き直り、まだ戦えるとばかりに砲身を向けた。
「はぁ……はぁ……」
顔を苦痛に歪め、肩で息をするエコナ。どちらが優勢かは火を見るより明らかだった。
戦わなければ。
あと一撃、大きいのをかませば落とせるはずだ。
僕がやらなければ。僕が、僕が、僕が……!
――だが、体が動かない。
全身に走る痛みのせいだけではない。今しがたの攻撃によって刻みつけられた恐怖によって、脳が動くことを拒絶していたのだ。
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