第6話 そして青年は選択し、世界に弓引く
体を起こして前に進もうとするが、一歩進むたびに死のイメージが脳裏をよぎる。全身の骨が粉々にされる激痛を想像してしまう。手にアニマの炎を灯すと、この青い炎がひとりでに爆ぜて僕の頭を吹き飛ばすのではないかという妄想に囚われる。
怖い。怖い怖い怖い怖い!
冷や汗が吹き出す。心臓が破裂しそうなほど脈打って吐き気を催す。口の中はからからに乾いていた。
無理もない話だ。戦い慣れていない一般人がいきなり命のやり取りに放り込まれたら、誰だって恐怖する。加えて僕はかなりの小心者だという自覚がある。
……そもそもだ。僕が命を懸けてまでエコナを護るだけの理由が本当にあるのか?
さっきトビバチの襲撃から助けてもらった義理か? 女の子を見殺しにするのは気分が悪いからか? どうせ今からではもう逃げ切れないからか?
それもあるだろう。だが、それらは核心を突いているようには思えなかった。
僕はいま、何のために恐怖と戦っている?
『――私はあなたを見ていた。あなたの心を見ていた。ガラスみたいに透き通って綺麗なのに、鋭くて脆くて、今にも壊れてしまいそう。そんなあなただから……さらいたくなったの――』
思い出したのは、森の中での一幕。甘い言葉と共に、エコナは僕を抱きしめてくれた。
そのとき僕は、確かに夢見たのだ。エコナが僕に与えてくれるものを。十八年間の人生で、ついぞ埋まることのなかったものを。見渡せばすぐそこにあったはずなのに、なぜか現実味がなくて信じられなかったものを。
……ああ、見てみたいな。エコナと共に行く先にある世界を。だからエコナには死んで欲しくないし、僕もまだ死ねないな。
そのとき一つの信念が、僕の胸の奥にすとんと落ちてきて芽生えた。
――戦うことが怖くとも、たとえ同胞たる人間に弓引くことになろうとも、僕に居場所を与えようとしてくれるエコナを……守りたい。
「っ……!」
電流が走るような感覚と共に、全身の力がふっと抜けていくのを感じた。それは憑き物が落ちたと言うのかも知れない。
それから僕の思考はクリアに研ぎ澄まされた。足の震えはいつの間にか止まり、淀みない挙動で立ち上がる。そして夢中で走り出した。
動いた。体は動いてくれた。
いけ、このまま突っ込め。
橋の欄干に足をかける。間違っても下は見ない。覚悟は決まった。僕の脚は青い炎をまとった。
――
手ではなく脚からアニマの炎を放出し、その斥力を利用して宙に跳び上がるという応用技術だ。妖精とは違って自由に空を飛ぶことのできない人間が編み出した空中機動法であり、達人ともなれば空気を踏みつけるようにして延々と飛び続けることも可能だとか。
生憎、素人に毛が生えた程度の技術しかない僕にそんな芸当はできない。だが、ひとっ飛びでクロオニに肉薄することくらいはできる。
そして目一杯に力を溜めて、体内の
高く、高く、クロオニに目がけて跳躍する。
両手を突き出し、アニマの炎を圧縮。
今まで自分が引き出したことのないような出力の炎が沸き起こるのを感じる。車のアクセルを全力で踏み抜くのに似ている。だがそれによる恐怖感さえ、今だけはむしろ爽快でさえあった。
後のことはどうなってもいい。ここでコイツを倒すことさえできれば。
クロオニがこちらを振り向いた。だが反応は遅れている。そうだ、こっちだ。こっちを見ろ。そしてそのまま、
「堕ちろ!」
歯を食いしばり、空中で狙いを定める。距離にして約五メートル。これで外れる方がおかしいくらいに接近し、機械仕掛けの巨人を眼下に捉えた。
火球を構える。
大上段から撃ち下ろす形で、蒼い炎を一気に解き放った。
特大の熱線が一瞬でクロオニの機体を飲み込み、打ち砕き、ひん曲げ、押し流す。
暴走して自分まで吹き飛ばされそうになるのを必死で制御し、炎の奔流を目の前の敵に集中する。
目の奥が熱い。ちりちりと焼けるように痛かった。脳みそが溶けて
そして世界から音が消えた。両手から吹き出すアニマの炎がスローになって、淡い蒼に煌く炎の燐光は僕がこれまで生きてきた世界をひと思いに壊していった――。
完膚なきまでに破壊されたクロオニの残骸は水面に叩きつけられて高く水柱をあげ、降り注ぐ炎が起こした水煙と共に消えていった。
「やった……!」
倒した。この手で倒して見せたのだ。まるでこの世の理不尽を具現化したかのような鋼鉄の鬼を。初めて心から守りたいと思ったひとに降りかかる窮地を、僕が覆したのだ。
思わず安堵の表情を浮かべて脱力する。
が、いま自分が足場のない空中にいることを、僕は完全に失念していた。ついでに言えば、僕は朱雀脚による空中での多段ジャンプといった高等テクニックは習得していない。さらに言えば、今の一撃で僕も力を使い果たしてしまったため、アニマの炎を灯す余裕すらなかった。
「あっ……」
当然の結果として、僕の身体は湖に向かって真っ逆さまに落下していった。
この高さから落ちたら、いくら水面だとしても死ぬな。
僕は恐ろしいくらい冷静に、そんなことを考えた。エコナと一緒に新しい世界を見てみたいと願った矢先なのに、何も思い残すことがないようにさえ感じられた。まるでこの信念を果たせたことがすなわち本懐だと言わんばかりに。
自由落下しながら、逆さまになった世界を見た。視界はまだスローなままで、不自然なくらいに晴れ渡った空と波打つ湖面がどこまでも遠くへ広がっているようだった。足元の太陽がまぶしくて、僕は少し目を細めた。
やがて聴覚が戻ってくると、風を切る音がばたばたとうるさかった。この世の何もかもから解き放たれたような気がした。
今この瞬間を心に刻み込むように、そっとまぶたを閉じる。
そのときだ。
にわかに僕の左手が引っ張られ、落下するスピードが緩んでいく。逆さになった身体は左肩を支点にぐるりと正位置に反転した。
誰が僕の手を取ったのかは考えるまでもなかった。この手を引いて救い出してくれるのは、滅びと改変の先に取り残されたこの歪な世界において、一人しかいない。
「……エコナ」
空中で留まり、僕は彼女の方を見上げて僅かに微笑んだ。
「ソウ」
エコナもまた、心の底からの安堵と喜びをにじませて微笑み返してくれた。
この瞬間、心に抱いた信念は決して間違ってはいなかったと確信した。
ずっと、この世界に違和感を抱いていた。ただ生きることに満たされなかった。人間という生き物が尊いものに思えなかった。この手には何もないように感じていた。
もしかしたら、僕はずっと前からこうなることを予感していて、この日を待っていたのかも知れない。まるで恋をするかのように。紛れもなく、それは宿命だった。
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