第3話 願っても無いことが起きると、初めは抵抗を覚える
「っ……」
めちゃくちゃ直球で来たよこの妖精。契りを結ぶだなんて、確かに、妖精が人間をさらうということは、つまりそういうことなのかも知れない。だが何の迷いもなければオブラートの欠片もない! いくら何でも身も蓋もなさ過ぎやしないか。僕にだって心の準備というものがあるんだ。いや、心の準備が出来ていたらどうとか言う話ではなく。
「人間さん?」
「……ちょっと待って」
僕はエコナのことを直視できず、顔を赤くしながら視線を逸らした。右手の平を前に出して「待て」とサインする。
「いきなり、そんなことを言われても……」
「あ、説明してなかった、よね?」
エコナは僕のリアクションから何を察したのか、両手を胸の前でポンと叩いて合点する。
「私たちニンフはね、女しか存在しないの」
「うん、知ってる」
「それでね、人間、特に若い男の人というものにとても興味があるの」
「うん」
「だから私と婚姻の契りを」
どうしてそれが説明になると思ったのだ。
「待って! ホント、待って」
「うん」
「いきなりさらっておいて、そんなこと言われてもさあ、『はいそうですか』って納得すると思ってるの?」
「……ダメ?」
僕が叫ぶと、エコナは初めて目を伏せて、悲しそうにつぶやいた。かなりグッと来るが、ここは心を鬼にして冷静に相手を説得しなければ。
「話が急過ぎるんだよ。さらってくるところまではまあ色々目を瞑るとしてだよ、見ず知らずの妖精からいきなり婚姻とか言われても、困るよ」
「それは、そうかも知れないけれど……」
「あと僕の持ち物を知らない? とにもかくにもいきなり失踪とか洒落にならないし、一旦帰らせてよ」
そう言うと、エコナは何やら気まずそうな表情で視線を泳がせた。……ちょっと待ってそれだけは勘弁して。え、嘘だよね?
「ごめんなさい。あなたを帰すことはできない。そういう決まりだから。……あなたの持ち物も、全部壊しちゃった」
「……は?」
エコナが横を指差す。僕は口元を引きつらせながらそっちを見遣った。そこには無惨に破壊された僕のスマートフォンと、今もプスプスと煙を上げて焼け焦げている合成革の財布が。
「あ……あ……」
言葉にならない叫びが喉の奥から絞り出される。口を開けすぎてあごが外れそうだった。このままだと僕は本当に失踪者扱いだ。
「一度さらった人間に仲間との連絡を取らせると、私たちの情報が割れて報復される恐れがある。だからこればかりは……申し訳ないのだけれど……」
「そんな……」
「どうしても帰りたいって言うならできなくもないけれど、その代わりにあなたの記憶は全て消さなきゃならない」
これは、詰んだかも知れん。
こういうことがあるのは知っていた。若い男が突如としてニンフにさらわれ、そのまま行方医不明になってしまう。例え帰って来たとしても記憶喪失になっている。まるで
ただ、まさか自分の身に起きるだなんて。
「……ぷっ」
その時だった。僕は無意識に吹き出したのだ。
「……?」
気まずそうに目を伏せていたエコナが視線を上げる。
「ぷふっ、ふふ、フハハハハッ」
笑った。ひとしきり笑った。自分でもおかしい話だが、こみ上げる笑いを抑えられなかった。馬鹿馬鹿しくなって笑ったのではない。僕は愉快で仕方がなかったのだ。
「……どうしたの?」
「分かんない、ただおかしくって! 何かもう、吹っ切れたっていうか、どうでもよくなったていうか。ああ……でも、そうだな。よりにもよって僕なんかをさらうなんて。きっと後悔するよ」
そう言いながら僕の笑い声は次第に苦笑いになり、やがてニヒルにため息を吐くのだった。何もかもが投げやりで、どこか清々しい気分だった。ああ、空気が美味しいなあ。
「誰でもよかった訳じゃない……」
エコナはまっすぐに僕の目を見てそう言った。その真剣な眼差しに思わずたじろぐ。
「私たちニンフは、『精霊界』を経由して自分が契りを交わすべき人間を選ぶの。……それこそ何年もかけて」
そう言ってエコナは手に持った杖で目の前の水鏡の縁をコンコンと叩いた。
「まず大前提として、身寄りのない孤独な人間」
「……」
確かに、その条件は僕にも当てはまっていた。ニンフがさらうのは若い人間の男の中でも身寄りがなく、さらっていったところで報復の恐れがない者に限られると、どこかで聞いた覚えはあった。身も蓋もない言い方をすれば、居なくなっても誰も困らないような人間だ。
「それから、心優しく感受性豊かな人であること」
感受性が豊かどうかは分からないが、一応は人に優しく生きてきたつもりだ。
「それでね、一番重要な条件。――それはニンフ自身が恋に落ちた相手であること」
「なっ……」
エコナは僅かに頬を染め、若草色の瞳を潤ませながらそう告げた。後頭部から思いっきり殴られたような衝撃が走った。
「いや、いやいやいや」
ふるふると小刻みに首を振る。
「だって僕はそんな出来た人間じゃないし、大した能力もない、顔だってなよなよしていて男らしくないし、赤目だし……」
そう言いながら自分の瞳を指差す。黒髪の中性的な僕の顔には、血のように紅い瞳が二つ嵌まっていた。
「紅い目は、私たちニンフにとっては珍しくない……」
確かにエコナの若草色の髪や瞳といい、鮮やかな色彩の髪と瞳はニンフの大きな特徴だ。それを理解しながらも、僕は「でも……」と半歩退く。
だが次の瞬間、僕の動きは封じられる。
初めは何が起きたのか分からなかった。自分の背中に回された細い腕。頬をくすぐる乙女の
エコナが僕のことを抱きしめていた。
「えっ、ちょっと……」
抵抗しようとしても体が言うことを聞かなかった。
「……人間は打算とか理屈とかで人を好きになろうとする。つまらない」
耳元でささやくエコナの口調は、言葉とは裏腹に悪戯な色を帯びていた。
「私はあなたを見ていた。あなたの心を見ていた。ガラスみたいに透き通って綺麗なのに、鋭くて脆くて、今にも壊れてしまいそう。そんなあなただから……さらいたくなったの」
「っ……!」
その言葉はまるで
「――それに……あなたも別に、どうしても帰りたい訳じゃないよね?」
「っ!」
僕の頭がさらに強く揺さぶられる。
何とか理性を総動員してエコナの肩を掴み、逃れるように引き剥した。その拍子に尻もちをついてしまった。
「やめてくれ……!」
僕は動揺で声を震わせながらエコナのことを見上げた。
拒絶された彼女は寂しそうな顔をしていた。
「そんな風に……僕のことを見透かしたようなこと言うのは、やめてくれ。そうやって人の弱みに付け込むのなら、僕は……」
「ちがっ……それは……ごめんなさい」
エコナは微かに声を震わせてうつむいてしまった。
こうして見ると、彼女はちゃんと倫理的なことに考えは及んでいるようだった。初めの傍若無人な振る舞いは、ひょっとして単に接し方が分からなかっただけなのか?
ああ、何だろうな、こんなの。だとしたら、それは僕も同じだ。
まったく卑怯だ。そんなんじゃ感情に任せて突っぱねられなくなるじゃないか。
「……ああもう、そうだよ。僕はね、別にどうしても帰りたい訳じゃない」
吹っ切れたように吐き捨てながら立ち上がった。
「君は既に知っているだろうけれど、僕に家族はいない」
この妖精に対して下手に黙っていても仕方がない。お互いに認識を共有して、少しでも理解し合えればと思って続けた。
「父さんは小さい頃に自殺した。理由は知らない。母さんは一人っ子だった僕を捨てて他の男の所へ行った。十二歳のときだった」
そう言って、目蓋の上から自分の眼を撫でる。
「この目、紅い目は人間の世界では不気味がられるんだ。百年前の大災厄以降現れるようになったものだし、日本ではこの色は特に目立つ。それに……いや、まあいいや。とにかく、僕が身寄りのない人間だというのは事実だよ」
それを聞いたエコナは静かに頷いた。真剣に話を聞いてくれるものだから、僕ももう少し話したくなってしまった。
「……それに、正直この状況に喜んでいる自分がいるんだ。ずっと思っていた。どこか遠くへ行ってしまいたいって。いっそ、ニンフにでも何でもさらわれて、人でない何かになってしまいたいって……! 人間の世界は、あの街は……何か気持ち悪いんだ。自分でも異常だって分かっている」
口を突いて出る言葉は止まらず、僕は胸の内の全てをさらけ出した。
すると、エコナはまっずぐに僕の目を見つめて言った。
「私は……この世界が異常だから、正しすぎるあなたが苦しんでいるのだと、思う」
その言葉は素直に僕の心を打った。
「……またそうやって僕のことを知ったような……いや、でも……っ……少し嬉しい、かな……」
僕は片手で顔を覆い隠しながら、大きく息を吐いた。
「私なら、あなたを愛してあげられる。居場所も食べる物も与えられる。こっちに来た方がきっと幸せに暮らせるよ。ねえ、私と一緒に来て……?」
エコナは改めて僕に想いを告げ、その手を差し出してきた。
正直、僕の心は迷っていた。
本当にこれまでの人生で積み上げてきたものを全て捨てて、ニンフであるエコナと共に暮らすのも悪くないとは思う。そのくらいには僕は人の世を悲観している。だがやはり元の暮らしに欠片も未練がない言えば嘘になる。何がとは言わずとも、やりたいことはいくつかあった。
それに相手は妖精だ。にわかには信用できない。当然だ。……それに、僕が誰かと結ばれるなんて、とても考えられなかったのだ。どうしてかは分からないが、僕は誰とも深く繋がり合うことができない。そんな呪いみたいな思考回路が、僕の心を迷わせていた。
でも正直、彼女に抵抗するだけの気力も残ってはいなかった。
そしてトドメとなったのは、さっきエコナに抱きしめられた時に感じたあの温もり、あの安らぎ、そしてあの言い知れぬ胸の高鳴り。僕に本当の居場所を与えてくれるのは彼女なのかも知れない、少しでもそう思ってしまった時点で、それは宿命だった。
「……降参だ。どのみち帰る術も、選択権も僕にはないんだ。どこへでも連れて行くがいいさ」
「じゃあ……」
エコナが僅かに目を見開く。
「だ・け・ど、契りとかそういう話はひとまず後にしてくれないかな? まずは教えて欲しい、君自身のことを。そして僕はこれからどうなるのかを」
「うん」
エコナは素直に頷いてくれた。
「それと、まだ自己紹介をしていなかった。まあ改めて、って意味合いで聞いて欲しい」
僕は腹を括り、彼女の手を握り返した。
「
するとエコナは満面の笑みを浮かべ、
「エコナです。よろしく、ソウ」
……そんな顔で笑うんだ。
なかなかどうして掴み所のない子だと、僕は内心穏やかではいられなかった。
「じゃあ、行こっか」
エコナが手を引く。
「行くってどこへ?」
僕が尋ねると、エコナは小さく微笑んだ。
「もちろん、私たちの帰る場所だよ」
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