『日比月リリィの淫靡なる奇行』(5)夢の世界へ


 私はその日の夜、パルムと一緒に飛んでヤスの家へと向かっていた。

 時刻はすでに深夜を過ぎ、眼下の街は静まり返っている。


「もうあいつ、寝てるかな……」


 あと少しでヤスの家に着くというところで、隣を飛ぶパルムがぽつりとつぶやいた。

 顔には緊張の色。夜に最大の力を発揮できるサキュバスが、この時間にこんな表情をしているのも珍しい。


「や、やっぱりもうちょっと後にしねえか……念には念を入れた方がいいと思うし」


「今日ヤスが見てる深夜アニメはないはずだから、この時間はもうぐっすりよ。それに起きてたら眠らせればいいだけでしょ?」


「そ、それはそうだけど……」


「怖いの、パルム?」


「ば、ばっか! なんでアタシが人間風情を怖がらないといけねえんだ! あいつらなんて、サキュバスにとってはたんなる餌にすぎねえ!」


 強がるパルムも可愛い。私は思わず頬を緩めてしまう。


「大丈夫よ、今日は私も一緒に夢の中まで行ってあげるから。ちゃんとフォローするわ」


 そう――いまから私たちはヤスの夢に出る気でいる。

 これはもちろん、リアルで会う前に、一度練習の場を設けた方がいいと思ったため。

 意中の相手を前にしたパルムが、ちょっととちってしまっても、現実感が曖昧になっている夢の中ならいくらでも誤魔化せる。

 彼女にはきちんと、自分はヤスと接することができる、という自信を身につけてもらわなければならない。

 それが私の目的。

 パルム自身には、「夢に出て、ヤスの潜在意識にあんたを刷り込むため」とも言っているけれども、並みの人間相手ならともかく、あの二次元崇拝者に対してはあまり効果が見込めないだろうと思う。

 三次元の女の子を「肉塊」と呼ぶあいつの前では、どんなに頑張ってもパルムの恋は成就されないに違いない。

 ……しかしそれこそが、私の描いたシナリオでもある。


「……さあ、行きましょ、パルム。あんたは破滅の道を進むの……その先に、すばらしい花園が開かれているんだから……」


「ん? 何か言った?」


「何でもないのよ」


 危ない危ない。知らず知らずのうちに、脳内の妄想が言語化されてしまっていた。

 私はパルムを安心させるように、にこりと微笑んだ。

 

 ※


 私たちは、それから五分ほどで目的地に到着した。

 サキュバスの力を使ってするりと窓を通り抜け、ヤスの部屋に降り立つ。

 大丈夫、電気は点いていない。

 暗い部屋を見回すと、案の定、ヤスはベッドの上ですやすやと寝息を立てている。

 そのとき、パルムが隣でなにやらごそごそやりだすのがわかった。


「……どうしたの?」


「し、写真を……その、一応……」


 パルムはもごもごと言い淀みながらスマホを取りだし、カシャリとヤスの寝顔を盗撮した。そしてむずむずと口角を上げ、嬉しそうに八重歯をのぞかせる。

 思えば、パルムの笑顔を見たのは久しぶりかもしれない。私にバレないよう必死に抑えようとしている笑顔だけれど、これはこれで可愛いらしい。


「心の準備ができたら言ってね。夢の中で、ヤスが待ってるんだから」


「……うん、ちょっと待って……よし、大丈夫……ああ、やっぱりもうちょっと……」


 パルムはしばらく深呼吸を繰り返してから、おずおずと私の顔を覗き込んできた。


「どうしたの?」


「ち、ちゃんとついて来いよ……?」


 そう言って右手を伸ばし、ぎゅっと私の手を握ってくる。

 ――おお、マイ色欲ゴッド! なんてことなの!

 まさかこんなところで、私の理性を削りにくるなんて!


「……ぐ、ぐふ……だ、大丈夫、私はパルムの味方よ」


「先に行って……アタシは後から行くから……」


「ついて来いっていま言ったばかりじゃない」


「アタシが先に行ったら、お前来ないかもしれないもん」


 私はいじらしいパルムとこれ以上話しているとまた鼻血を出しそうだったので、彼女の言うことに従うことにした。

 ベッドの脇に腰を下ろし、ヤスの寝顔を覗き込む。

 そして、ゆっくりと目を瞑った……。


 次の瞬間、私は本屋の中にいた。

 どこの本屋かはわからない。構造は駅前のそれに近いような気もしたけれど、細部が明らかに異なっている。

 ここは、ヤスの夢。あいつの無意識が作り出した世界だ。

 私は近くに陳列されている本を手に取って開いてみた。

 それはイラスト本のようだった。

 中では二次元の女の子が、いやーんなことになっている。


「――おい、貴様!」


 背後から聞き覚えのある声がして、私はうんざりしながら振り向いた。

 もちろん、そこにいたのはヤス。エプロン姿のヤスの胸元には、「館長 津雲康史」のネームプレートがあった。


「……何? ヤス」


「誰の許可を得て、この『津雲康史イラスト館』に入った! ここは俺だけの楽園! 俺が生涯をかけて集めてきたイラスト本を、永遠に保管しておく場所だぞ!」


「あんたね……夢の中って、ある程度好きなことができる場所なのよ? 二次キャラが好きなら、普通に二次キャラを召喚すればいいじゃないの。なんでイラスト媒体のまま置いてるのよ」


「お前、何言ってる。寝ぼけてんのか?」


 寝ぼけてるのはあんたでしょ! こんなとち狂った夢を見てるくらいなんだから!

 夢の中のヤスは、狂った感覚のまま合理的な思考をしていた。


「ほら、汚い手でその本に触るな。それ、一冊しかないんだから」


「ああ、ごめん……って誰の手が汚いのよ! 失礼ね!」


「物質ってのは、どうあがいても劣化するもんなんだよ。三次元に生れ落ちた時点で、お前は汚れ、廃れ、崩れる定めにあったってことだ」


 言いながら、ヤスは白い手袋を手渡してくる。


「どうしても読みたければ、この手袋をつけろ。レンタル料は五百円」


「え、お金取るわけ……?」


「当たり前だろ。お前は幸福をタダで享受できると思ってるのか」


 不平面のヤスを前にして、私はきょろきょろと辺りを見回す。

 まだパルムは来ていない。踏ん切りがつかずに、ぐずぐずしているのだろう。

 しかし、それはそれで幸運だった。いきなりこんな意味不明な二次元至上主義者に遭遇してしまったら、せっかくのパルムの熱が冷めてしまう恐れがあったから。

 あの子には、きちんと夜美とヤスのための当て馬をやり切ってもらわなければならない。

 私はヤスを陳列された本棚の死角へと連れて行って、口を開いた。


「……ちょっとあんたに、前もって教えときたいことがあるんだけど」


「はあ?」


「いまからこのイラスト館に、サバトたそが来るから」


 その瞬間、ヤスの目の色が変わる。


「な、何だと!?」


「失礼のないようにするのよ? いまからでもいいから、あんたの中にある数少ない常識をかき集めて、心の準備をしておきなさい」


「けど二次元世界に住むサバトたそが、どうやってここにくるの」


「技術革新があったのよ」


 ヤスはなるほど、と頷く。こういうのが夢のいいところ。ある程度めちゃくちゃしても不自然さが認識されない。

 私は思い切って、夜美の描く二次キャラの一人に変身してみた。

 名をスケアクロウちゃん。モデルはクロウリア・ローリング――通称「クロ先輩」という上級サキュバスである。

 夜美は少し前まで、パルムをモデルにした「サバトたそ」と、クロ先輩をモデルにした「スケアクロウちゃん」を看板娘にしたSNSアカウントで、搾欲に励んでいた。


「ほら、わたしがこうやってきているのです。サバトだってむずかしくないのです」


 ロリロリっとしたスケアクロウちゃんの姿を見て、ヤスの目が驚愕に見開かれる。


「ス、スケアクロウちゃん! スケアクロウちゃんじゃないか!」


「きょうはとくべつサービスなのです。イラストのなかからぬけだしてきてあげたのです」


「すごいぞ、技術革新!」


 ヤスはウオオオ、と雄たけびを上げる。

 正直、キモいと思った。

 私はそれから、機を見定めながら、徐々に自分の姿を「立体化」していった。

 二次元から三次元へ。

 ヤスととりとめもない会話をしながら、少しずつ……。

 最終的に出来上がったのは、キャラのモデルになったクロ先輩の愛くるしい容姿。

 話し相手が三次元存在のクロ先輩に変わっても、ヤスはそれを二次元のスケアクロウちゃんだと思い込んでいるようだった。

 狙い通りだ。夢の持つ不合理さパワーをもってすれば、これくらいのことはたやすい。

 これでヤスは三次元存在のパルムを見ても、それをサバトたそ二次キャラと思い込むだろう。そして、好意的に接するに違いない。

 それはそのまま、パルムの自信に繋がる。

 私は内心でほくそ笑みながら、パルムの到着を待った。

 しばらくして、本棚の向こうで時空の歪みを検知する。

 ひょっこりと顔を出して見てみると、そこには不安そうに周りを見回すパルムの姿があった。

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