2-7 私はいまヤスにご奉仕している最中なんです

 俺は頭を必死にクールダウンした。

 そうだ、別に俺と夜美は何かやましいことをしていたわけじゃあない。

 夜美は三次元の肉塊であり、俺がどうこうできる存在ではない。

 ただ、彼女がいまエロエロなイラストを描いてくれていたので、ちょっとそういう気分になってしまっていただけだ。そう、それ以外にない。

 余裕を取り戻すと、俺は改めてリリィに向き直った。

 上が白いブラウスで、下はぴっちりとしたジーンズ姿。

 今日の擬似デートの最中、夜美が言っていた慈悲深さ溢れる話のせいか、彼女はとても崇高な存在に見えた。

 結局のところ三次元の肉塊に過ぎないけれども……それはともかくとして、リリィはすばらしい少女だ。


「もう帰ってたのね? デートは楽しかった?」


 リリィがにっこり笑って言うと、夜美は声を裏返らせて答えた。


「そ、そそそれはもう! すでにヤスは、私に骨抜きにされていますからね!」


「へえ、そうなんだ? ヤスもお疲れさま。ご飯食べていくんでしょ?」


 リリィはスリッパをパタパタいわせて、俺たちの方に近づいてくる。


 彼女は夜美のしている格好を見て、すっと目を細めた。


「……あら、夜美。そのメイド服、今日のデートで買ったの? 可愛いわね……」


「……これですか? そうですよ。ああ、ちょっと待ってください。私はいまヤスにご奉仕している最中なんです」


「ご奉仕?」


「え、えっちなイラストを描いてるんです。リリィも、リビングでちょっと待っててください」


 そう言うと、夜美は俺たちを部屋から追い出し、恩返しの鶴もかくやとばかりの勢いで扉を閉じ切ってしまう。

 仕方なく、俺はリリィと一緒に広いリビングに向かった。


「……そういや、ここって最近引っ越してきたんだろ? それにしては、えらく片づいた家だよなあ」


 ソファに座り、改めてきょろきょろと周りを見回しながら、リリィにそう話しかける。

 すると彼女は、またにっこり笑ってこう返してきた。


「下僕がいるからね」


「下僕? ああ、夜美のことか?」


「違うわ。下僕は下僕よ。可愛い快楽の奴隷たち」


 リリィは何でもないと言わんばかりの態度だったけれども、その発言には大きな問題がある気がした。


「え……奴隷……?」


「私はサキュバスよ? それくらい、いても不思議じゃないでしょ?」


 彼女は隣接するキッチンで、冷蔵庫から出した飲み物をコップに注いでいる。


「安心して。夜美の恋人役を籠絡するつもりはないから」


「はあ」


「夜美には言っちゃダメよ? 奴隷の話なんて、あの子には刺激が強すぎるもの」


 リリィはリビングに戻ってくると、テーブルに飲み物を三つ置いた。


「お茶よ。どうぞ飲んで? 今日一日歩いて、喉乾いたでしょ?」


「……何か変なもの入ってるわけじゃないよな?」


 俺は途端に警戒していた。夜美がいなくなってから、リリィの雰囲気がガラッと変わったような気がしたからだ。

 そう言えば、こいつは淫魔と呼ばれる悪魔なのだ。しかも夜美のようなできそこないとは違った、業界のエリート……。


「そんなに警戒しないで。私、男に興味はないの」


 青い目を細めてそう言うリリィの言葉が、俺にはしばらく理解できなかった。


「……え?」


「正確には、いまは、ね? 私、本来はどっちもいける方だから」


「……どっちもって?」


「もちろん、男も女もってことよ」


 それを聞いて、ぶわっと総毛立つ。


「……バイってこと?」


「うーん、そういう言い方もできるかしら」


 リリィは俺の隣に腰を下ろし、自分の唇を指でトントンと叩く。


「本当は、女の欲望を吸うのはインキュバスの領分なのよ。でも、私は一人でどっちの欲望も『搾欲』できる。私がこの業界で一目を置かれているって言う話、夜美から聞いたでしょう?」


 なぜそれを知っているのだと思いながらも、俺はただ黙って頷いた。


「私は両刀だから、色欲さまにも気に入られてるってわけ。一人で二人分の働きができるから」


 俺が困惑して何を話せばいいかわからずにいると、リリィはジーンズのポケットからスマホを取り出した。


「ほら、ヤス。これ見て。よく撮れてるでしょ?」


 彼女が操作するスマホには、手を繋いで歩く俺と夜美の後ろ姿が映っていた。


「こ、これ、俺たちじゃねえか……」


「あんたには、私からもお礼を言わないといけないと思っていたのよ。今日は、とっても興奮したわ……ありがとう」


「……はい?」


「私、夜美が好きなの」


 リリィは細い指で俺の腕をそっと撫でながら、そう言った。


「……は? え、好き?」


「そうよ。もちろん友だちとしてとかそういう意味じゃないわ。純粋に、性的に好きなの」


 言いながら、頬を染めるリリィ。


「昔からずっとよ? あの子、変なのよね。男が苦手とかいうわりに、別に女が好きってわけでもないでしょ? 情愛をつかさどるサキュバスのくせに不思議よね」


「……やっぱりあいつ、サキュバスの目から見ても変なんだ」


「変よ。人の欲望を刺激するのは楽しいわ。なのに、それをしないサキュバスは何を楽しみに生きてるんだろうってなるじゃない? 私はずっと夜美のことを不思議に思っていて……いつしかあの子のことしか考えられなくなっていたの」


「……そ、そうすか……」


「きっと私が女の子もいけるようになったのは、夜美のせいなのよ。その責任を取らせて、いまだって夜美をめちゃくちゃにしたくてたまらない。でも、私は『優しいリリィ』だから手を出せない……もどかしくって、いつもつい奴隷たちにあたっちゃうの。今日も、『あの子』にはお仕置きしないとね」


「あの子?」


「ゴスロリショップにいたでしょ? あの子、別にあそこの店員じゃないわ。私がお願いしたの。夜美とあなたの仲を取り持ってあげてってね」


 それで俺はショップで俺たちの対応をした女性を思い出した。名札をしていたから、てっきりあの店の店員だと思ったんだけど……。


「……そういやあの人、俺に首輪とか勧めてきたぞ」


「知ってるわ。悪い子よね? 自分の趣味を押しつけるなんて」


 そう言って笑うと、リリィは俺の腕に柔らかい胸を押しつけてくる。


「……ああ、あんた、本当に私に欲情しないのね?」


「残念だけど、俺を欲情させたきゃ二次元イラストを持ってこいよ」


 妖艶な態度で、クスクスと笑うリリィ。


「素敵。それでこそだわ」


「……お前、夜美のこと好きなんだろ?」


「そうよ?」


「じゃあ、なんで俺が夜美と一緒にいるのを許すんだ。しかも今日、俺たちを監視までしてたんだろ? 俺たちがしてた話を知ってるし……それに、そのスマホの写真を見る限りさ……」


「今日だけじゃないわ。あんたたちが一緒にいるときは、ずっと見てたのよ?」


 リリィは飄々とした態度で、またスマホを操作した。

 画面に俺がラブラブストロー刑に処されている写真が現れ、ぞくりと寒気を覚える。あのとき、周りには誰もいないと思っていたのに……。しかもこれ、傍から見るとめっちゃ恥ずかしいことしてるやん……。


「夜美はどうしようもないほど無垢だわ。そんな純粋な子が頑張って、羞恥心に顔を真っ赤にしているのよ。可愛くって、たまらないわ。ああ、こうやって人は寝取られ属性に目覚めていくのかしら……?」


 うっとりと頬を染めるリリィを見て、ドン引きしてしまう。

 不出来な友人を見守るしっかり者というイメージは彼方へと消え去り、いま目の前にいるのは、夜美などよりもよほど頭のおかしい淫奔の使徒だった。


「お、俺に任せていたら、夜美をめちゃくちゃにするかもしれないぞ……。俺は男だし、あいつは女だ……」


「別にいいわよ? 無垢で綺麗なものが汚れる瞬間って、とってもぞくぞくするじゃない?」


「お前はやっぱり、頭がおかしい!」


「普通よ。私は情愛の悪魔。あんたたちの倫理や価値観とは違う考え方の生物なんだから」


「……なんで俺にこんな話をした?」


 俺は、すり寄ってくるリリィがいよいよ煩わしくなってきて、強引に彼女の身体を振り払って訊ねた。


「あんたの背中を押してあげたかったからよ。やり方が生ぬるいわ。もっと夜美に情熱的に迫ってくれないと、私が興奮できないじゃない?」

「自分のためってわけか?」

「そうよ。夜美のせいで、私はこんな性癖になってしまったんだから。全部、あの子が悪いのよ。あの子が可愛いのが悪いの……許せない……」


 そう言うリリィの表情は、苦悶と情欲の間で揺れていた。

 こいつ、本当にねじ曲がった性格してやがるな。

 と、俺が眉を寄せたそのとき……。


「――じゃーん、どうですか!? 題して、『新キャラメイドの一番搾り』です!」


 空気をまったく読まず、馬鹿がリビングに現れる。手には、プリントアウトされたA4サイズのエロイラストが握られていた。縛り上げられたメイドが謎の白い液体にまみれている。


「ああ、夜美、可愛いわ!」


 リリィは弾かれたように立ち上がり、顔に無害そうな笑みを作って夜美に近づいた。それから不必要なほど、べたべたと彼女の身体を触る。


「ふっふっふ……そうでしょう。可愛いでしょう……って何か近くないですか? いま見るべきはこっちのイラストですけど」


「ほ、本物のメイドさんみたい。はあ、はあ……ひょっとして、私にご奉仕してくれるのかしら……?」


「何ですか、息が荒いですよ? 本物のメイドみたいって、このキャラは本当にメイドなんです。そりゃあ、私をモデルにはしましたけど……」


 と、言いながら夜美は、ハッと口を押さえて俺の方をちら見すると、また顔を赤らめる。

 その隙をついて、リリィはおもむろに夜美の死角へと回り込んだ。

 背後から即席メイドの身体にそっと腕を回すと、彼女の首筋にぐいと顔を近づける。


「ひゃあ、くすぐったい! いきなり何するんです!」


「……ちょっと、めくれてるとこがあるわ。直してあげるから……じっとしてて……」


 リリィは夜美の耳元で囁きながら、彼女の身体をしばらくわさわさとまさぐっていた。


 俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。


 こいつは重症だ……紛うことなき変態がそこにいる!


「どうです、直りました? きちんとしてくださいね。この格好で、ヤスにご飯を作ってあげるんです。ヤスを一日だけ、私のご主人さまにしてあげるんですから……」


「そうなの……? 素敵よ、夜美……」


 背後から目を細めてじっと獲物を見つめるリリィの姿は、俺を戦慄させた。

 俺はそのとき、こいつらが転校してきた日、リリィが夜美に向ける目に何となく違和感を覚えたことを思い出した。

 そうか、あれは慈愛の眼差しではなかった。愛は愛でも――性愛の眼光だったのだ。

 いま夜美をうっとりと見つめるリリィの青い目には、まさにその感情が満ちている。


「夜美……お前も苦労してるんだな……今日はところどころ、きつくあたって悪かった……」


「え?」


 俺は、思わず両手で顔を覆った。もう見ていられない!

 こいつは立場が上の者にたかり、上手いこと生活していたわけではない!

 ――ただ金持ちに、性欲の対象として飼われていただけだ!


「俺は何の助けにもなってやれないけど、強く生きてくれ! お前は強いサキュバスだ!」


「――そう、私は強いサキュバス!」


 なぜか夜美はドヤ顔になり、スーパーの袋を持ってキッチンに向かって行く。


「……ああ、可愛い。絶対に許せない……わ、私が手を出せないと知って、そんなにふりふりの可愛い格好で挑発しているんでしょ……?」


 夜美を眺めてぶつぶつ呟くリリィを見ているうちに、俺は全てを投げ捨ててでもこの場から逃げ出したい衝動にかられた。

 それから夜美が作った料理は、恐怖でほとんど味がしなかった。



 ――続きは本編でお楽しみください!

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