第一章 女嫌いの二次崇拝者と、男性恐怖症のサキュバス
1-1 ――なぜ、欲情しないのです?
俺はその日、都内で開かれたとある同人誌頒布会に顔を出していた。
勘違いされるのが嫌なので、最初に言わせてもらうけどね?
二次元はセーフ。
過去のトラウマによってリアルの女どもに興味をなくしたとはいえ、二次元に住まう崇高な美少女たちまで否定する気にはなれない。
別にこれは、俺の意志が弱いということにはならないと思う。
そもそもルールというのは人の幸福のために制定されるのであって、そのルール自体を守ることを重視し始めると本末転倒なわけで。
裏切られて苦しいから、女の子に興味を持たない――しかし、それが裏切らない女の子なら話は別。
よって二次元はセーフ。というよりも、率先して二次元を愛していく。
俺が今日の同人誌頒布会にやってきたのには、大きな理由があった。
大人気絵師『ヨミ』さんが主催する同人サークル《夜月花堂》が、今回の頒布会にサークル参加するという話を聞きつけたから。
主にそこにアップされるイラスト見たさに、ヨミさんのSNSを欠かさずチェックしていた俺は、このイベントに参加するという呟きを見つけてからこの一週間というもの、興奮で寝つきが悪くなってしまうほどだった。
ヨミさんの描く女の子は官能的で扇情的。
こういう賢しらぶった言い方をするのはよくないのでぶっちゃけると、すごくエロい。
何がそんなに絵にエロさを与えているのかはわからないけど、とにかくエロい。
多分、俺の趣味にドストライクなのだと思う。
運命の赤い糸で結ばれた人という言葉があるように、俺にとってはヨミさんの描く二次元美少女こそがそういう存在なのだった。
そのエロいイラストは、俺の失った煩悩を揺り動かしてくる。
リアルの女には、決して向けられなくなった煩悩を……。
さて、俺が知る限りでは、ヨミさんがこういうイベントに参加するのは初めてだった。
それが、コミケほど大きなイベントでないのもよい。
コミケには何度か行ったことがあるが、大人気サークルは人が殺到していて、とてもサークル主本人と話す時間がない。できて一言二言の会話と、差し入れを渡すくらい。
でも今日の頒布会の規模なら、ヨミさんにきちんと日頃おかずを提供してもらっているお礼を伝えられるかもしれない……。
興奮しながらきょろきょろと辺りを見渡して探すと、ヨミさんのサークル《夜月花堂》は、その空間に自然な様子で溶け込んでいた。
サークルスペース内部に、二人の少女がいる。
一人は露出の多いアニメキャラのコスプレ姿で売り子をしていて、その周りに数人の男が群がっていた。
「リリィちゃん、そのアニメ好きなの?」
「そのキャラ可愛いよねえ」
無駄に大きい脂肪の塊を胸にぶら下げた彼女は、ウィッグとカラーコンタクトをつけているのか、日本人とは思えない容姿をしていた。
金髪碧眼。そして、きゅっと引き締まったウエストに、すらりとした長い脚。
そんな以前なら煩悩を抱いていたであろう少女を前にしても、俺は冷静だった。
むしろこんな肉塊に夢中になっている男どもを見て、嘲笑する余裕すらあった。
目の前に二次イラスト本という桃源郷があるというのに、この人たちは何をしているってんだ? 見るべきもの、語るべきものは他にあるだろ?
スペースには、そのコスプレの他にもう一人――マスクで顔を隠した少女がいた。
彼女は、同人誌の積み上がった机の奥で、もくもくと何か作業をしている。
「……あの、新刊三冊ください」
俺がスペースにやおらにじり寄ってそう言うと、男に囲まれていたコスプレ売り子の方が、にっこり笑って元気な声を出した。
「ありがとうございます! 千五百円です!」
二千円を彼女に渡し、おつりを貰うそのわずかな間――
それだけあれば、俺がそのイラストに気づくのには十分だった。
もはや俺の意識は目の前に立ちふさがるコスプレ女ではなく、奥で座って作業をする少女の方に全て持って行かれていた。
彼女はスケッチブックに絵を描いている。
真っ白なキャンパス。そこに鉛筆で描かれる絵の造形こそ――!!
「よ、ヨミさんですか!?」
気づいたとき、俺は大声を出していた。
するとびくりと身体を震わせたスケブ少女が、いかにも恐る恐るといった様子でこちらに目を向ける。
「な……え……?」
「スケブオッケーなんですか!? ○イッターではやらないって呟いてたじゃないですかあ!」
「ちょっと、君……」
怪気炎を上げる俺を、そばにいるコスプレ女が制止する。
「オッケーなら俺だって持ってきたのにい! あんまりだあああ! ああ、そ、そうだいまからスケブ買いに行ってくるんで、締め切らないでくださいよ!」
「待って、落ち着いて。あれ、他サークルさん限定でやってるだけだから。一般の人のは、ちょっとお断りしてるんで」
「……え、そうなの?」
コスプレ女になだめられ、俺はようやく正気を取り戻した。
そして、今日このイベントにサークル参加していない自分の境遇を呪った。
……くそっ、こんなことがあるなら、絵を勉強して神絵師にでもなっておくんだった!
とはいえヨミさんのサークル参加を知ったのが一週間ほど前なので、イベントに申し込むも糞もなかったわけだけど。
「ヨミさん、大ファンなんです! せめてサインいただけませんか!」
めげずに声をかけると、またスケブ少女はびくりと身体を大きく震わせた。
それからコスプレ女を手招きし、何やら奥でごにょごにょとやり出す。
しばらくして帰ってきたコスプレ女は、俺をじろりと睨んでから、
「……サインしてあげるって。ペンはあるから、色紙出して」
「あ、それじゃ色紙と新刊と、あとはこのシャツにしてもらえる?」
俺はヨミさんのイラストを印刷したキャラクターTシャツを着ていた。ジャケットの前を開くと、プリントされた萌え絵が露わになり、それを見たコスプレ女が眉をひそめる。
「……うちのサークル、そんなグッズ作ったことないんだけど?」
「売り子風情がほざくんじゃない。ここはヨミさんのサークルだろ?」
「私もサークルの一員よ! 失礼なやつね!」
コスプレ女が、眉をきゅっと吊り上げる。
「そいつは悪かった。このTシャツは個人利用しているだけで、もちろん転売等はしていない。そんなことをしていては、ファン失格だからな」
「……あんたひょっとして頭がおかしい人?」
「初対面の人間に対し、何という言い草なんだ……?」
「あんたに言われたくないわよ!」
顔を真っ赤にして、怒りを露わにするコスプレ女。
「……ちょっと」
そのとき、いつの間にかヨミさんが座ったまま俺たちの近くまで移動しており、コスプレ女の履くスカートの裾を引っ張っているのがわかった。
「……あれ、どうしたの、夜美?」
「……この人、リリィを見ても何も感じないみたい……」
「え? あ、そう言えば……」
ひそひそと何かを相談していた二人の目が、一斉に俺へと向けられる。
「どうかしましたか、ヨミさん? あ、これ色紙です」
色紙を押しつけるように渡すと、彼女はまたじっと俺を見つめた。
マスクをつけているので、表情から感情を読み取ることはできなかったものの、その目はいかにも真剣だった。
俺は途端に緊張した。よくよく考えれば、この人がずっと憧れていたヨミさんなのだ。先ほどのスケブの絵を見れば、そんなことくらい嫌でもわかる。
「……この女を見て、あなたは何も感じないのですか?」
ヨミさんはコスプレ女を指差し、マスクごしにぼそりとそう言った。
「感じる? どういう意味ですか?」
「エロいでしょう。こう、ぐっと魂に込み上げてくるものがあるでしょう」
「ないです」
「では、あなたはひょっとして同性愛者とか、そういう類の人ですか?」
「ま、待ってください! 俺はヨミさんのエロエロな絵が好きなんですよ! 安易な18禁を描かず、ギリギリのラインでエロさを追求しようとするその姿勢に、尊敬の念を覚えているんです! 俺が同性愛者だったら、ここまで女の子のイラストにビンビンに反応しませんよ!」
「では、なぜ」
そう言って、ヨミさんは目元を赤くした。マスクをしていても顔の赤さがわかるくらいなので、きっとその言葉を言うのに相当の抵抗があるのだろう。
「――なぜ、リリィに欲情しないのです?」
「だって、これは三次元の肉塊じゃないですか!」
「……なんか、さらりととんでもない侮辱発言をされた気がするんだけど……」
どうもリリィというらしいそのコスプレ女は、俺をジト目で睨みながら、ぼそりと呟いた。
「俺は二次元の女の子が好きなんですよ! たまに同じようなことを言うやつがいるので、信じてもらえないかもしれないですが、本当なんです! 俺が好きなのはあなたの絵なんです!」
言いながら、もう一度ジャケットの前を開く。
「そ、それは私のアカウントの看板娘キャラ、サバトたそ……」
一枚シャツをめくる。
「こ、今度は同じく看板娘キャラ、スケアクロウちゃん……」
「あんた、なんで二枚も同じような萌えTシャツ着てんのよ……?」
「そんなみすぼらしいコスプレで、痴態を晒しているお前よりマシだ」
俺は悠然と笑ってコスプレ女をあしらうと、またヨミさんに向き直った。
「――ガチなんです」
「――でしょうね」
「信じてもらえましたか?」
しかしヨミさんは、まだ胡乱げな目で俺を見ていた。
「俺は今日、あなたに会いたいがためにこのイベントにきたんです。日頃のお礼を言いたくて」
「お礼?」
「いつも、無料で絵をアップしてくれるじゃないですか。ヨミさんの画力なら、もうどこかの企業のお抱えイラストレーターになっていたって不思議じゃあない! でもどこにも属さず、フリーとしても仕事をほとんど受けず、淡々と無料でイラストを投稿してる。これは俗にいう、振り込めない詐欺というやつですよ!」
「いや、まあ生活のためにやってはいるんですけどね」
「そうなんですか? でも、あれだけのクオリティの絵を毎日何枚もアップするなんて、普通は考えられませんよ。俺と同じような気持ちのファンはたくさんいると思います!」
「そうだ、少年! 君はいまいいことを言ったぞ!」
すると、ずっとコスプレ女の取り巻きを演じていた男たちが、ここぞとばかりに俺の意見に賛同の声を上げた。
「俺だってヨミさんの絵に惚れこんでここまで来たんだ! ヨミさんが風邪気味というから、こっちの売り子さんとつい話し込んでいたが――本当はお礼を言いに来たんだよ!」
「俺だってそうだ! ヨミさんのエロい絵は、普通のエロい絵とは違う! なんか、魂を削られてる感ある!」
「夢にまで出てくるレベル!」
「聞こえますか、ヨミさん? これがあなたのファンの声なんですよ!」
俺は堂々と胸を張った。
「……何か無理やりいい話風にしようとしてない?」
コスプレ女が何か言ったものの、俺たちの一体感はもう誰にも止められなかった。
突如として沸き上がったヨミコールが会場に響き渡り、他の参加者たちが《夜月花堂》の方に目を向けてくる。
「うおおおおおおお! 二次元サイコオオオオオオ!」
「ヨミ! ヨミ!! ヨミ!!!」
「はい、そこ静かにしてください! 他の参加者さんの迷惑になりますから!」
関係者らしき人がやってきて、俺たちを羽交い絞めにした。
「うわ! なんだやめろ、これが言論の弾圧というやつか!?」
「表現を規制するな! この恥知らず! 黒塗りモザイクの権化め!」
「運営の犬ども! 俺たちをどうにかしても自由は死なんぞ!」
「誰もそういう話をしてるわけじゃありませんから! はい、ちょっと、こっち来て!」
「ま、待って! まだヨミさんのサインもらってない! う、うわあああああぁぁぁ!」
俺は悲痛を叫んだものの、もはやすべてが遅きに失していた。
会場を追い出されてしまってから、俺はどうすることもできず、失意に沈んで帰りの電車に乗った。そこで新刊を開く。
これだけが、今日何とか手に入れることのできた唯一の成果だった。
いつもはネットで見ているだけだったからか、実際に紙にプリントアウトされたヨミさんのイラストは一層すばらしいものに感じられて――だからこそ込み上げてきた無念の感情もないまぜになり――俺は一人で涙をこぼした。
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