047 探偵は思案にふける
事務所に着いた時には17時を回っていたが、夏の長い日差しはまだ陰りを見せず、せっかく買ってきたアイスが溶けてしまったのではと不安になるほどだ。
「ふざけんなバカヤロー!」
聞き覚えのあるフレーズとともに男が階段を駆け下りてきて、事務所の前のスタンド看板を思い切り蹴り倒して去って行く。以前とは違う男だ。
やれやれ、と俺は看板を立て直し、階段を昇る。
扉には、『LWBWすとこわい』と味のある手書きで書かれた紙が貼られていた。
なんのこっちゃ?
『新聞はお断りですよ』
「うわっ! びっくりした!」
急に頭上から声がして見ると、扉の上にカメラとスピーカーが取り付けられており、今の声はスピーカーから流れたもののようだった。こんなのあったっけ?
「つばめちゃん? 俺だよ俺」
『タカシかい? じゃないです。オレさんなんて知り合いはいませんので』
「柊だよ。柊翼斗。……あれ? まさか」
忘れられてる……?
『……ああー、ハイ。ヒイラギヨクトさん。ええ、もちろん覚えてるですよ。鍵は開いてるので、勝手に入るがいいです』
何そのぎこちなさ……?
これで対面して首でも傾げられたら俺は慟哭するだろう。
扉を開けると、相変わらずの冷たい空気がひやりと肌を撫でる。電気は消されていて、ブラインドから差し込むわずかな光のみが室内を微かに照らしていた。
つばめちゃんはハンモックで丸くなっていた。
「お久しぶりですね、柊さん」
「あ、ああ久しぶり。覚えててもらえて良かったよ。でも俺が来たってよくわかったね。カメラで見てたとか?」
「何やらいい匂いが漂ってきたもので。すき焼きの匂いが」
「確かに材料を買っては来たけども!?」
まだ食材の状態で完成品の匂いが!? なんで!? ハッカーだから!?
「嘘です。パピコが教えてくれたですよ。ね、パピコ」と、肩に乗っているパピコに目をやる。
「そうだよぉ。ご主人にお客さんが来たって教えるのは僕の役目なんだよぉ」
「誰だお前!?」
口調が変わるのはもう別にいいけど、限度ってもんがあるだろ。もっと節操あれ。
「最近は新聞の勧誘がしつこいので、わざわざ出なくてもいいようにしたです」
「そ、そうなんだ。さっき出て行った男も新聞の勧誘?」
「あれはいつもの逆恨みです」
「だろうね」
つばめちゃんは俺が提げているスーパーの袋をじっと見つめている。目の隈は相変わらず、いや、さらに濃くなったかもしれない。
「つばめちゃん、お腹空いてる?」
「そういえば昨日から何も食べてないです」
さすがに説教しようかとも思ったが、何か理由がありそうな気もしたのでやめておく。まあ、そんなこともあろうかと食材を買い込んできたわけだし。
メニューは色々考えたが、前回と同じすき焼きにした。つばめちゃんは割と偏食そうな(勝手な)イメージがあるので安全にいこうという魂胆だ。今日こそ野菜を食わせてやる。
俺が下拵えをしている間も、つばめちゃんは心ここにあらず、パピコを撫でながらハンモックに揺られていた。
炬燵の上に土鍋と食材を並べる。カセットコンロに火を入れて湯気が立ち始めると、香気につられたつばめちゃんがハンモックから降り、のそのそと炬燵に寄ってきた。
「柊さん、草は全部食べていいですよ」
「親切を装って巧みに苦手なものを押し付けてるよね。あと野菜を草って言わない」
「草は草です。人が育てた野草です。温室育ちのもやしっ草です」
「語呂悪いし、そうじゃなくて野菜も食べないと栄養が偏るって話」
「私は腸が短くて植物の繊維を消化できないのです」
「マジで肉食獣の組成じゃねえか。いいから食え草を」
鍋は自然と会話が生まれるので、こういう時にちょうどいい。
本当にずいぶんお腹を空かせていたようで、しばらく二人で鍋をつついているうち、あっという間に鍋は空になった。白菜と春菊はほとんど俺が食べた。
「柊さん、お金はどうしたですか?」
デザートのアイスを食べながらつばめちゃんが訊いてくる。
「五千万円は戻ってきたよ。あの翌日に俺の口座に振り込まれてた」
「それは重畳です」
親父は最初からそのつもりだったのだろう。ハニービーを使って俺の口座を空にしたのは、そもそも俺をつばめちゃんに会わせるためだったのだから。
ただ、戻ってきたところで手を付けるつもりはなかった。
今のところ大学に進学するつもりはないし、自力で食べていくことくらいは出来る。まあ、そのうち何か使い途が思いつくかもしれない。
アイスを平らげたつばめちゃんは、俺の存在を忘れたようにまた遠い目をしていた。
「つばめちゃん、大丈夫?」
「ふぁい?」
質問の意図がわからないようで、目をぱちくりする。
今回の事件が俺の人生にどのくらい大きなインパクトをもたらしたのかについては、説明の必要もないだろう。しかし彼女の来し方を知った今になって考えると、もしかすると、俺以上に影響を受けているかもしれないのが彼女なのだ。
つばめちゃんの中では、まだ事件は終わっていないのかもしれない。
「皆も心配してたよ。連絡もつかないって」
そう言うと、ようやく意図を理解したようで「すみません」と頭を下げてきた。
そして改まった様子で切り出した。
「柊さん、今日はいいタイミングでした。私もちょうとお話したいことがあったので」
「話したいこと?」
「Lurkers」
いきなり出てきたその単語に、心がさざ波立つ。
「これだけの事件を起こしながら、いまだにまんまと逃げおおせている。奴ら、相当高度に組織化された手練れの集団です。それに、Lurkersはブラックリストとも何かしらの形で繋がっている」
「何かしらって、Lurkersがブラックリストに派遣を要請したんじゃないの?」
つばめちゃんの古巣でもあるブラックリストは、ブラックハットハッカーを育成して派遣する組織だったはずだ。
「Lurkers自体がクラッカーの集まりなのですから、わざわざ派遣など求めないはずですよ。そこが不可解なのです」
確かに……クラッカーの世界には詳しくないし評論家になろうとも思わないが、言われてみればそうかもしれない。
「一つだけ言えることは、奴らの手にAWBの資料が渡らなくて本当に良かったということです。今回の事件、確かにサイバーテロとしては史上最大規模だったですが、拓海さんと刹那さんにその気が無かったから“この程度で済んだ”とも言える。AWBが本気で世界を引っくり返そうとしたら、それは核兵器よりも実際的な脅威になるですよ」
「核兵器よりって……」
「事実です。拓海さんにはそれがわかっていた。ある発明が、発明者の意図に反して悪用され多くの命を奪ったという例は枚挙に暇がないです。ライト兄弟然り、ノーベル然り。そうなる前に拓海さんは、自らの手でAWBを消し去ろうとしたのです。その脅威を世界中に知らしめた上で」
つばめちゃんは滔々と語る。
確かに親父はそう言っていた。だが……
「それ、こうは考えられないのかな。脅威を見せつけたことで確かに反対意見は増えるだろう。けど作ろうとする人間は必ず出てくる。いくら開発データごと消したからって、何も親父一人の専売特許ってわけじゃないんだし、そのうち誰か別の人間、別の国が完成させてしまうんじゃないのかって」
親父の考えがどうあれ、俺にはどうしてもそう思えてしまうのだ。
ノーベルがダイナマイトを発明しなくても、ライト兄弟が空を飛ばなくても、いずれ誰かが同じ道を辿っていたはずだ。
「そうですね。柊さんの言う通りです。意外と早くその時は訪れるかも」
「え?」
少し引っかかる言い方だったが、次の質問にそんな疑問は吹き飛んだ。
「柊さん。今でもあのAWBを、刹那さんだと思えますか?」
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