011
雛野つばめは自分のパソコンを持ってブリーフィングルームを出ると、ソファの上に胡坐をかいた。その姿勢がもっとも落ち着いて、集中しやすいのだ。
画面にはマルウェアのバイナリコードが表示され、0と1だけで構成された文字列が不規則に並んでいる。
キーボードに指を置く。目を閉じて深呼吸。
大丈夫、私なら。
見えるはず。届くはず。
このコードの向こう側にいる悪意の尻尾を、掴めるはずだ。
——ハクスタジア。
瞬間、雛野の視界からコード以外のすべてが消えた。
脳と指先だけに感覚を集中する……
と、ふいに瞳が焦点を失う。
意識が溶け出してコードの中に吸い込まれ、膨大な情報の海に投げ出される。
集中していないと押しつぶされそうなほどの質量を持つ大海原だ。
やがて周囲の風景が変わり始める。
無機質だった空気の塊が、徐々に具体的なイメージとして形を帯びていく。
現れたのは、巨大な霧の怪物だった。
雛野の十倍はあろうかという巨躯。周囲に黒い霧がまとわりついており、実体が見えない。
(姿を見せるですよ、化け物!)
雛野が手に握っている杖を振りかざすと、突風が起こり怪物に襲いかかった。霧が散らされて本体の姿が見え隠れする。
かざした杖を思い切り振り下ろす。
風が逆巻き、怪物の身体の上を踊り狂う。すり潰すように霧を払っていく。
怪物の正体は、巨大なハチの巣だった。見惚れてしまうほどに幾何学的なハニカム構造。
穴の一つから、大きなミツハチが顔を覗かせる。
目が合う——雛野の存在に気付いた。
次の瞬間、巣全体からおびただしい数のミツバチが湧いて出た。
あまりの物量に気圧される。生理的嫌悪感を催す光景に腰が引ける。
ミツバチたちはすぐさま雛野に針を向け、一斉に射出した。
雛野の身長ほどもありそうな鋭くとがった針。当たったらひとたまりもない。
(……大丈夫、私なら)
杖をかざして陣を描く。
すると目の前の空間が光り、透明のバリアが張られた。
飛来した針はバリアに当たり、次々に弾き落とされていく。
異変を察知したミツバチたちは巣へと撤退し、一匹残らず姿を消した。
(チャンスですね)
雛野は杖から剣に持ち替えて中段に構えた。
ミツバチの巣は非常に防御力が高く、下手に手を出すとさらに攻撃が通じなくなってしまう。一撃で粉砕するためには、弱点を見つけなければならない。
注意深く巣の全体を観察する。
どこかにあるはずだ。無数の穴で偽装された中に、弱点が。
(見つけた!)
かすかな痕跡。内壁に蜜がこびりついている穴を発見した。
狙いを定め、突進——渾身の力を込めて剣を振り上げる。
放たれた衝撃波がミツバチの巣を直撃し、粉々に吹き飛ばした。
大量のミツバチが慌てふためいて宙を飛び交う。
その中に、ついに捉えた。
敵の本体である女王蜂の姿を。
警戒心もなく佇んでいる……周囲の子分たちが自分を守ってくれると信じ切っているのだ。
(甘いですね。甘々の甘太郎ですよ)
剣を捨て、弓を構える。
ようやく自身が狙われていることに気付いたのか、女王蜂が周りのハチに指示を送ると、すべてのミツバチが一斉に飛び掛かってきた。
だが遅い。
限界まで弦を引きしぼっていた指を離す。
放たれた矢は光の弧を描き、向かってくるハチをすべて切り裂いて、女王蜂の腹に命中した。
絶叫が轟き——女王蜂は霧散した。
後に残ったミツバチたちは仕える相手を失い、困惑した様子で辺りを飛び回っている。手をかざすと、ミツバチたちはすがるように雛野に注目した。
雛野は不敵に笑う。
(今からは私が女王です。あなた方には今までの倍は働いてもらうですから、覚悟するですよ)
***
「よし、これなら気付かれずにいけそうだ! もう少しで下村拓海のマシンを乗っ取れるよ! ……ってあれ、つばめちゃんは?」
満太がパソコンの画面から目を上げると、ブリーフィングルームには籠目と倉井しかいなかった。倉井はゾーンに入っているようで、白目を剥いて涎を垂らしている。
籠目が部屋の外を指さす。
入り口から顔を出して探すと、ソファの上で背中を丸めている雛野の姿が目に入った。
「やっぱつばめちゃんってさ」
「ん?」
「キレイだよね」
「ああ、カワイイね」
そんな悠長なことを言ってる場合ではないと二人ともわかっていた。
しかし雛野の横顔を見ていると、何とかなるような気持ちがしてくるのだった。
後ろでガタッと椅子の音がして、振り向くと、倉井が立ち上がって両腕を天に突き上げていた。
「できた、できたできた!!」
「おお、さすが倉井くんだ。じゃあすぐにコーディングに……」
「やっぱり僕は天才だ!! ヒョゥッ!! ザマァみろクソったれ!! 〇〇〇! ××××!!」
大声でわめき散らし、よだれも拭かずに机の下に潜り込むと、パソコンにかじりついてレーザーキーボードを叩き始めた。
「こいつ、生活安全部に突き出した方がいいんじゃない?」
「残念ながらうちは人員不足だ。ずっとこの地下室に幽閉しておこう」
——そして十分後。
それぞれの仕事を終え、赤間を除くメンバー全員がブリーフィングルームに集合していた。
スクリーンには、籠目が可視化した東京のサイバー攻撃状況マップがリアルタイムに表示されている。
「『ハンツマン』、起動!」
雛野がエンターキーを叩く。
「頼むですよ……」
全員が固唾を呑んで見守っていると、しばらくして、それまでずっと上向きだった攻撃数の増減ベクトルが初めて下を向いた——つまり“減少”に転じた。
「よっしゃあ、大成功!」
「すごいですねこれは。倍速どころじゃない。どうやったんです?」
倉井に訊かれ、雛野はなんでもなさそうに答えた。
「ちょろっとチューニングしただけです。基本的に上書きなので、要らない処理が多かったのですよ。それより安心するのはまだ早いです」
最悪からは脱せたものの、まだやらなければならないことは山ほどある。早くAWBを取り戻しに行かなければならないのに、時間が足りない。自分の脳も、指も、まったく足りない。
「感染漏れがないように、アナウンスと監視が必要ですし、ちゃんとしたパッチも当てなければ。それから……」
「行きなよつばめちゃん」
満太が遮るように言った。
「え?」
「後は俺たちに任せてさ。いいよね皆?」
「ええ、ここから先は僕たちの本分です。それに、リーダーを待たせると面倒ですしね」
「満太の言う通りだよ。友人を取り戻してくるんだ、つばめちゃん。サイバー探偵の見せ場はここからだろ?」
皆の言葉を受け、雛野は目を閉じた。
焦燥が薄らいでいく。
苛立ちが、ほんの少しの自己嫌悪と面映ゆさに変わっていく。
思わず口元が緩んでしまい、目を開ける。
「後は任せたです! 皆さん!」
走り出した雛野に満太が呼びかける。
「つばめちゃん、開発資料の件、ホントごめんよ!」
雛野は振り返って親指を立てた。
「グッジョブでしたよ、ケビン!」
***
警視庁の玄関を出ると、赤いランボルギーニが停まっていた。
「……顔に似合わずド派手な車に乗ってるですね。赤間さんは資産家の息子さんか何かであらせられまするですか?」
「ほっとけ、唯一の趣味だ。とっとと乗れ」
助手席に乗り込みドアを閉めた瞬間、猛獣のようなエンジン音とともに、大きな車体がミニカーのオモチャのように急発進した。
「私も運転できるですよ。代わってくれてもいいですが」
「馬鹿か。逮捕するぞ」
減速せずに交差点に突っ込み、無駄のない軌道を描いて右折する。信号待ちしている運転手が目を丸くしているのが見えた。
「なかなかやるじゃないですか」
「ふん。道具には正しい使い方というものがあるんだ。車をラジコンだと思ってる輩には負けんさ。そんなことより雛野、お前がただのお荷物でないなら、ぼけっとしてないで最速のルートを探せ」
ナビを見ると、首都高や多くの幹線道路のラインが赤く塗りつぶされ、『通行止め』のマークが表示されていた。
「アイサーですよ。そこの交差点を左です」
「急すぎるんだよ!」
雛野のナビゲーションで車を飛ばしていると、籠目から通信が入った。
「つばめです。状況は?」
『下村拓海のパソコンへのクラッキングなら、あと一歩というところだよ。それより驚くべき事態だ。たった今こちらに通信が入った』
「通信? 誰からです」
『AWB。下村拓海からだ』
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