010

 AWBの奪還と、マルウェア感染拡大の阻止。

 時間的な余裕は一切ない。どちらを優先するか、実現可能な方法を含めて早急に決める必要があった。

「AWBの方は初動が遅れたのが痛いな。検問は手遅れだろう。監視カメラ映像を当たってもらっているが望み薄だ」

「これだけの騒ぎになってるんだから、下村拓海の顔写真付きで手配書を拡散するってのはどう?」

「どうやって拡散するんです? 東京中のスマホやパソコンが使用不能になってるのに」

「あ、そっか」

「柊くんはスマホを持って行ったみたいだけれど、電源が切られているね。まあ敵が見逃すとも思えないが」

 それまで皆のやり取りを聞いていた雛野の頭に、ある考えが浮かんだ。

「待つです! もしかしたら……」

 雛野が披露した仮説はその場でただちに確認され、立証された。

「そいつに賭けるしかなさそうだな。敵に気付かれていなければいいが」

「となると、あとはどうやってそのことを伝えるかだね」

「それも考えがあるですよ。やられたことをそのままやり返してやればいいのです」

 雛野がプランを説明すると、満太が目を輝かせた。

「すっげえ! やっぱつばめちゃんは最高のハッカーだ!」

「サイバー探偵とお呼びください」

 盛り上がる二人に「待て」と赤間が割り込む。

「言うが易しというやつだ。現状、“それ”は下村拓海のコントロール下にあるんだろう。奴の手から奪い返す方法は考えているのか?」

 途端に雛野は目を伏せる。

「そこはあの、なんとかしてトラップに引っ掛けてやるですよ」

「そこらのチンケな犯罪者と一緒にするな。向こうにはLurkersがついているんだぞ」

「あっ!」

 満太が突然、何かに気付いたように声を上げた。皆に注目されて「しまった」とばかりに両手で口を塞ぐ。

「……怒らないから言ってみろ、ケビン」

「ぜったいおこるからやだ」

「いいから早く言え、時間が惜しい」

 満太は観念したように白状を始めた。

「こないだ、つばめちゃんと勝負した後にさ、次は絶対負けたくないと思って……仕込んどいたんだよね。その、トロイの木馬を」

「トロイ? 仕込んだって、どこにだ」

「…………えへ」

「ケビン」

「AWBの開発資料のフォルダにこっそり混ぜといた」

 場の空気が凍り付く。

 赤間の身体がふらりと揺れ、崩れ落ちるように膝をついた。

「おおお、怒らないって言ったよね!? ね!?」

「……怒らないぞ。怒る必要がどこにある。服務規程に従って適正に処分するだけだ。まあ背任行為で控えめに見てクビだな、今までご苦労だったな戸隠満太」

 泣いてすがりつこうとする満太とそれを指一本で押さえている赤間の間に籠目が割り込み、「まあまあ」ととりなす。

「ともかく、満太が仕込んだトロイが、AWB経由で下村拓海のマシンに取り込まれてる可能性があるってことだね。ちなみにどういうタイプだい?」

「……RATだよ。開発資料の一部に偽装してあって、圧縮ファイルを開こうとすると感染する。まだ定義ファイルにも載ってないから検知はされないはず。つばめちゃんが引っ掛かったらからかってやろうって、ちょっとした悪戯のつもりだったんだ」

 鼻水をすすりながら答える満太に、雛野は冷ややかな視線を浴びせる。

「それならいけるね。どれ、満太が進退をかけて仕掛けた渾身のハニーポットに敵さんが引っ掛かってくれたかどうか、確認してみようじゃないか」

 しょぼくれ顔の満太がパソコンをたたくと、マシンの情報が表示された。

「うん、一台感染してる。下村拓海のパソコンじゃないかな」

「いいぞ。場所はどこだい?」

「ええと、現在地は川崎エリア。そう遠くじゃないから、もう動いてないのかもしれない」

 よし、と赤間が上着を羽織る。

「俺は先行して向かう。お前らは雛野が言ったやり方で位置を特定して俺に連絡しろ、いいな」

「赤間さん、待つです!」

 ブリーフィングルームを早足で出て行こうとする赤間を、雛野が制止した。

「なんだ探偵」

「私も連れて行ってください」

 赤間は顔をしかめ、「なら早く来い」と顎を振った。

「いえ、まだです。感染を止めなければ」

「何言ってる、AWBの奪還が先だ」

「ダメです。東京の命運が握られている。先に向こうのカードを無力化しない限り、追い詰めたところで手出しができない」

 しばし睨み合う二人。

 赤間はふんと鼻を鳴らして踵を返した。

「癪だがお前が正しい。だがどうする。既に数百万規模の機器が感染している。時間をかけてダメでしたじゃ済まされんぞ」

「それですが……あの、皆さん」

 雛野がメンバーを見渡し、そして言った。

「皆さん。私に命を預けないですか」

 言葉の意味が読み取れず、一同はぽかんとする。

「雛野。そこは『くれませんか』だ」

「私に命を預けてくれませんか!?」

 真っ赤になって言い直す雛野を見て、メンバーは互いの顔を見合わせ、破顔した。

「もちろん、喜んで預けるさ!」

「預けますが、ちゃんと返してくださいね」

「ふふ。私は命より大事なものを預けよう」

 籠目の言葉に雛野が首を傾げると、籠目は満面の笑みで言った。

「リーダーのクビだよ」

「おい」

 一同は再び顔を見合わせる。

「……え? 籠目さん、それって……」

 静寂。

「ええと、しかし何をどうするんです? 赤間さんの言うように、とにかく時間がない」

 空気を読んだ倉井が慌てて質問をすると、こちらも気を取り直した雛野がはっきりと答えた。

「“感染の上書き”です。敵のワームの感染ロジックをリバースエンジニアリングして、同じように、いえ倍速で空気感染するワクチンを作る。自動感染を停止、制御を奪い返して、その隙に脆弱性の応急手当をする。これで敵のボットは無力化できるはずです」

 一同は再び言葉を失った。

 雛野が発案したのは、日本トップレベルのスキルを持つハッカーですら呆れてしまうほどの、常識はずれで突拍子もないアイディアだったからだ。

 しかし否定する者はいなかった。

「ふん。またとんでもないことを言い出したな」

「いいじゃん、ぶっ飛んでて。それにつばめちゃんが言うんだから間違いないさ」

「それくらい無茶しないと現状の打開は難しいでしょうしね」

「よし、やってやろうじゃないか。早いとこオーダーを決めよう」

 賛同を得られ、雛野は緊張から解放されたように深く息を吐く。

 そして大きく息を吸った。

「私が感染プログラムを書くです! 籠目さんと倉井さんはパッチプログラムの作成を。簡単なものでいい、テストも不要です。満太は引き続き拓海さんのパソコンへのクラックの準備を!」

「アイサー!」「了解!」「オッケー!」

「赤間さんは……」

「アセンブリも読めん俺がここにいてもできることはあるまい」

 赤間はいつもの仏頂面で部屋を出て行こうとする。そして去り際にこう言い残して出て行った。

「本部に話をつけておく。先に車を温めておくから三十分で来い。いいな」

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