034 物語は急転する

 混じり気のない漆黒。果てのない虚無が広がっている。

 これは——人工視覚の故障か?

 何が起こっている?

 状況が掴めない。確かなことは、車に乗せられていることと、両腕を縛られていることだけ。

 突然、世界が闇に包まれたのだ。そして次の瞬間、強い力で腕を引っ張られ、バランスを崩した俺は抵抗もできないままに車の中へ押し込まれた。

 ……AWB。そうだ。AWBはどこだ? 

「刹那?」

 呼びかけるが、返事はない。

 阿修羅面の赤間さんが俺たちを連れ戻しに来た——わけではない。この状況がそんなに生易しいものではないことくらいはわかる。

 だとしたら、こんな真似をするのは。考えられるのは一人しかいない。

「親父なのか?」

 運転席の誰かに問いかけるが、また答えは返ってない。

 何も見えず身動きも取れず、その上喋る相手すらいないのでは八方塞がってしまう。

 しかしそんな懸念はすぐに払拭された。

 車が急停止し、運転席のドアが開く音。運転手が助手席へと移る衣擦れ音。誰かが運転席に乗り込んでくる気配。

「どうだハニービー。順調か」

 運転席の、たった今乗り込んできた人物が喋った。

「当然だろ。アタシの『ハニーコーム』に欠陥はねえ。にしても壮観だな、これだけのスピードで感染が広がってくのはよ」

 今度は助手席から、乱暴な口調だが女の声。

 男の声には覚えがあった。もう何年も聴いていない、懐かしい声だ。

 その声がこちらに向かって呼びかけてきた。

「よう。元気だったか翼斗」

「親父! なんでこんな」

「お前さ、車が苦手なんだな。やっぱりあの事故か?」

 俺の言葉を遮って軽い調子で訊いてくる。何故そんなことを知ってるんだ。

「当たり前だろ。車なんて大嫌いだよ。目も見えない状態で乗せられるなんて特に最悪だ」

 タイミング的に考えて、俺の目が見えなくなったことと親父の登場が無関係とは思えない。どうやったのかはわからないが、人工視覚装置を狂わせたのだろう。

「ああ、そうだったな。悪い悪い、真っ暗だろ。いま直してやる」

 え、直してくれるのか?

 次の瞬間、視界が切り替わった。

 目の前には親父の顔、ではなく、愛らしい子猫がすやすやと眠りについていた。

 ……は?

「なんだよこれ!」

「かわいいだろ? 父さんがネットで収集した激萌え小動物写真集だ。それでしばらく癒されていてくれ」

 目の前の猫は動かない。顔を左右に向けても視点が変わらない。

 俺の人工視覚に画像を映しているのか? 親父が?

 ちょっと待て。

 まさか俺の人工視覚は狂わされたのではなく——

「ハッキングしたのか!? 俺の視覚を!」

 人工視覚から外部システムへの通信を乗っ取られたのだとしたら。

 俺の視界は、これまで親父に筒抜けだったと言うことになる。

「心配するな、ずっと見てたわけじゃない。特に夜中はな。変なもん見たくないし」

「そういう話じゃねえよ! バカ親父!」

「ああ、でもスマホでいかがわしいサイトを見るのはやめた方がいいな。ああいうのはマルウェア仕込まれてることもあるから」

「そっ……バカ親父!」

 待て、そういうことじゃない。

 視界を盗み見られていたってことは。

「親父、俺の視界で何を見ていたんだ。今、どこから乗ってきたんだよ?」

 俺が車に乗せられてから親父が乗り込んでくるまで、それほどの距離は走っていない。あの付近で親父がわざわざ訪れる場所というと——

「ご明察。ACT本部、特捜課のオフィスだよ」

 激しい自己嫌悪が心を充たしていく。

 俺の目には、親父が知りたい情報のすべてが映っていた。

 ACT特捜課の所在。地下オフィスへの行き方。あの鉄壁のセキュリティを突破するためのマニュアルを、親父は俺の目を利用して手に入れたのだ。

 そしてAWBの所在を突き止めた。

「さすがのACT特捜課もお前の目は盲点だったろう。カードキーくらいは他の職員から簡単に手に入れられるが、そこから先は普通の方法じゃ無理だからな。エレベータの番号も、背後からの映像が複数パターンもあれば解析できる。お前のおかげだよ、助かった」

 俺は。

 俺はどこまで愚かなのか。

 俺の爪を煎じて飲んだら、コペルニクスは太陽を眩しい月くらいにしか思わなかったろう。コロンブスは地の果てにある崖を恐れて航海には出なかっただろう。

 考えればわかったはずだ。俺だけはその目論見に気付けたはずだ。考える時間はあった。考えることを放棄していただけだ。

 思考停止の大馬鹿野郎だ。

 役に立たないどころか、みすみす情報を渡してしまっていた。その上、自分からAWBを外に連れ出してさらわれるなんて。

 最大の脆弱性は、この俺だった。

 特捜課の皆の顔が浮かぶ——俺は、彼らを裏切ったも同然だ。

「彼らに、何をしたんだ」

「ん? ああ、特捜課か? どうせ追ってくるだろうからしばらく行動不能になってもらおうと思ってな、ちょっと顔を出してきたんだ。お前のおかげでAWBを取り戻すために急襲をかける必要は無くなったからな、別に怪我をさせたわけじゃない。心配するな」

「しっかし、まさかてめえから連れ出してくるとは予想外だったぜ。傑作だ」

 助手席の女が嘲笑うように言ってきた。

「親父、誰なんだよそいつは」

「そいつって、そんな言い方はないだろう。義理の母親に向かって」

「……は、はあっ!? はは、はは母!?」

「おいおい爆笑かよ」

「笑ってねえ!」

 嘘だろ!?

「くだらねえ嘘つくなよオッサン。ガキに同情するぜ」

 嘘かよ!!

「はは、冗談だよ。ハニービーはただの仕事仲間だ」

「自分の子供に言っていいタイプの冗談じゃねえよ!」

「久しぶりに息子の顔見るとからかいたくなるもんなんだよ。この二年はそれどころじゃなかったからな。お前はどうしてたよ、この二年間」

「どうもこうも……いきなり天涯孤独になって、今じゃ立派な社会不適合者だよ。親父と一緒だ」

「はは、社会不適合者ときたか。まあ父と息子はどうしたって似てくるもんだ。望むと望まざるとにかかわらずな」

 まるで世間話でもしているような親父の口調に、俺はまだ自分の態度を決めあぐねていた。

 なんなんだ、この緊張感の無さは。空気を読まないのも相変わらずか、むしろひどくなっている。こっちはそれなりに心の準備をして、会ったら何を言ってやろうとか色々考えていたのが馬鹿みたいだ。

 落ち着け。流されるな。

 愚かで馬鹿な俺に今できる唯一のことは、現状を正しく把握することだ。

 親父は本当に日本に戻ってきていた。仲間だというこの女と、フィンチと和田への復讐をしていたのだ。そして今、俺の視界を奪い、俺とAWBを車に乗せ、どこかへ走り去ろうとしている。

 いくつかの謎の断片がパズルのピースのように繋がり、形を成していく。

「おい」

 助手席の、親父がハニービーと呼ぶ女に呼び掛ける。

「あんた、ハミングバードだな」

 ハミングバード……ハチドリ。ハチのように舞う鳥。

 ゲームのフレンドを装って俺のスマホにキーロガーを仕込み、波多野をそそのかしてフィッシングメールを送らせた女。

「ああ、そうだよ。その節はどうも。お前のヘタクソなプレイに付き合わされるのと、童貞好みのキモ女の演技をしなきゃならねえのとで大層な精神的ダメージを負っちまったよ。慰謝料分を報酬に上乗せするよう親父に言っといてくれるか」

 憎まれ口をぺらぺらと。

「俺の金を奪った、Lurkersのクラッカーもあんたか」

「おっと恨むなよ。ガキから金巻き上げる趣味はねえ。お前の親父に言われて仕方なくさ。それにハニービー様の八面六臂の大活躍はそれだけじゃねえぜ。不思議に思わねえか? ACT特捜課のオフィスに参殿つかまつるには、エレベータの顔認証を突破しなきゃならねえ。つまり本人の顔じゃなければ入れない、だろ?」

 顔認証……言われてみればそうだ。

 写真程度ではあのセンサーは騙せない。捜査官の誰かの顔が必要なはずだ。

「さて、お前には見えてないだろうが、ここに座っているアタシの顔。いったいどんな顔をしているでしょうか?」

 その問いの意味するところを想像した瞬間、俺は途轍もない恐怖に襲われた。

 まさか。

 まさか。

 顔認証を突破できる顔——特捜課メンバーの顔。

 いつも落ち着いていて頼りがいのある、俺の話を聞いてくれた特捜課の紅一点——

「籠目さん?」

「そう。アタシは籠目だ」

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