029 少年は夜に連れ出す

 カップを手分けして持ち、籠目さんと部屋に戻る。

「あの、これ淹れたのって……?」

 机に置かれたカップを見て不安そうに訊いてきた倉井さんに「僕です」と答えると、安心した様子で「ありがとう」とお礼を言われた。きっと籠目ドリップを飲まされた経験があるのだろう。

「ぶふぉっ!」

 肝臓に会心のボディブローがめり込んだボクサーのような声がして、見ると満太がコーヒーを盛大に噴いていた。

「ああごめん、それ私のだったよ。間違えちゃった」と籠目さん。

 さすがハッカーというべきか、かろうじてパソコンへの噴射だけは避けたらしい満太が涙目で机を拭いているのを不憫に思いながら眺めていると、AWBがコロコロと近づいてきた。

「兄ちゃん気が利くじゃん。ありがとー」

 そう言って刹那の映像が手を差し出してくる。

「これはお前のじゃねーよ。つばめちゃんの分」

「えー、あたしのは?」

「どうツッコんでほしいんだよ。難しい絡み方をするな」

「へんだ。いいもんねー、コーヒーなんて不味いし要らなーい」

 AWBはそう言うと何故かケラケラと笑い、また転がっていった。

 なんじゃそりゃ。

 さて、しかしそのコーヒーを差し出す相手はというと、パソコンの中にある彼女だけの世界に潜ってしまっていた。

 間違って腕が当たったりしないよう、少し離れた場所にカップを置く。今のつばめちゃんは自分が火傷したことにすら気付かなそうだ。

 いよいよやることが無くなった俺は、ただ皆の様子を眺めるだけのオブジェと化した。

 その後の会議にも参加したが、会話についていけず、ついに一度も発言することなく終わった。専門用語が飛び交う議場を傍観しながら、俺は、最初にここに来た時に感じた息苦しさの理由をようやく悟ったのだった。

 自分の無力さ。

 過去を振り切ることも未来を見据えることも、救うことも救われることもできず、成り行き任せに盤上の駒を演じ続けている。

 当たり前だ。俺は失ったものを取り返そうなんて、今まで一度たりとも考えたことはなかったのだから。

「兄ちゃん」

「わっ!」

 突然耳元で呼びかけられてびっくりする。

「なにボーっとしてんのさ。会議とっくに終わったよ」

 いつの間にかAWBがすぐ後ろに来ていた。

「ああ、別に」

 席を立ち部屋から出ようとすると、「待って」と止められた。

「あのさ、今夜こっそり私の部屋に来てよ」

 俺の耳元に口を近づけてひそひそと言う。AWBの声は球体から出ているから、その仕草に意味はないような気がするのだが。

 というか、男の妄想の中にしか出てこなさそうな台詞を……。

「こっそりって、皆に言わずにか?」

「そう、ナイショで」

「なんで?」

「それもナイショ」

 ……嫌な予感しかしない。

「できるわけないだろ。無断で入るわけにいかないし、そもそもカードキーも持ってないんだから。それに俺がこうしてお前と会ってること自体が特例中の特例なんだから、これ以上勝手なことをするわけにはいかないって」

 赤間さんにこれ以上呪われたくないし。

 こうして俺は正しすぎるくらいの正論を振りかざし、堂々とAWBの要請を突っぱねた。当たり前だ。


 そしてその日の夜——

 俺はAWBを部屋から連れ出し、あまつさえ外に散歩に行くという暴挙に出るのであった。


***


 静かな夜だった。

 警視庁の庁舎から歩いてすぐの日比谷公園は人気が無く、お忍びの散歩コースとして最適だったが、怪しげな球体と未成年が会話している光景を警官にでも見られたら確実にゲームオーバーだということで、念のためなるべく照明の当たらない暗い道を選んで歩くことにした。

 そもそも都心の公園なのに照明の数が少ないので、AWBはほとんど闇に溶けて見失いそうになる。

「うわあ、この身体で外に出るの初めてだよ!」

 歩道を転がりながら、緊張感もなくはしゃいだ声を出す。

 立体映像はない。さすがに目立ち過ぎるので、安全な場所を見つけるまでは引っ込んでもらうことにしたのだ。

「カメラは球の方にあるんだよな? てことは、映像の目線と本当の視点はズレてるのか?」

「そうなんだよね。でも立体映像の方は調整してあって、ちゃんとカメラが見てる対象に映像の目線もいくようになってる。すごいよねえ、技術の進歩って」

 最先端テクノロジーの粋を集めたAWBが言うとシュールでしかない台詞だ。

 刹那の人格なのに人工知能として接するというのは、目線だけでなく会話のピントも合わせづらくて、妙にむずがゆい。

「こうやって動き回れるのに、なかなか試験運用が終わらないからずっとあの部屋だもん。さすがに飽きちゃうよ」

 やはり、退屈を感じたりはするのか。

「食事とか睡眠はどうなんだ? そういう肉体由来の欲求はさすがにないのか?」

「ハンバーグ食べたいなぁとか、ゆっくりお風呂浸かりたいなぁとかは思ったりするよ。生命維持に必要な根源的欲求ってわけじゃないけど、脳だけで感じられることは普通に感じるし、空想とかもするし。まあ、思ったところで絶対に出来ないんだけどね。兄ちゃんが『空を自由に飛びたいな』って思ってるのと一緒だよ」

「いや思ってねえよ。夢見がちすぎるだろ」

 しかし個人が空を飛ぶくらいなら将来的に実現できそうではある。AWBに脳以外の各器官、つまり肉体を作れば……いやいや、それこそヤバい発想だ。

「うちは夢見がちな家系だからね、しょうがないよ」と刹那は笑う。

「お前さ。その、会いたいとは思わないのか? 親父とか、自分に」

 真実を知る者としては残酷な質問だ。

 それでも、俺と再会したというのに、親父についてひと言も触れないのが気にかかっていた。

「そりゃもちろん会いたいよ。けど、そうもいかないってことくらいわかってる。あたしはAWBなんだし、色々と問題があるんでしょ? ……パパと私は元気?」

「ああ、元気だよ。二人とも相変わらずだ」

「相変わらずって?」

「お前みたいにギャーギャーうるさいってことだよ」

 くだらないやり取りをしているうち、自然と口元が緩んでいることに気付く。

 まさかこんな日が来るなんて思ってもみなかった。喜ぶべきことなのかどうかはわからないが、口元は正直だ。

「来てくれて嬉しかったよ、兄ちゃん」

 見ると、いつの間にか投影された立体映像の刹那が、こちらを向いていた。

「おい、まずいって」

「大丈夫だよ、もう人もいないし」

 ミツバチのダンスのようにその場をコロコロと転がりまわるAWB。

 まったく。そういえばこの奔放ぶりにもよく振り回さていたのだった。親父も刹那も似た者同士で……。

「なあ……あのさ」

「なに兄ちゃん」

「お前自身は、どう思ってるんだ?」

 この話をするなら今しかない。

「どうって?」

「自分の状況とか、この先のことだよ」

 この類の会話は禁止されていると、籠目さんは言っていた。

 でもこれは、どのみち避けて通れる話じゃない。

 じゃなきゃ俺が来た意味もない。

 そうだろう。

「不安じゃないのか。お前はずっとお前のまま変わらないかもしれないけど、周りは違う。親父も俺も歳を取るし、いずれは寿命を迎える。でもお前は」

 永遠に生き続ける。たった一人で。

 不安がないわけないだろう。

「そうだね」

 それだけ言って、AWBは口をつぐんだ。

 考えているのだろうか。人智を超えた演算能力を持つAWBにも、すぐに答えが出せない問いなのか。

「あっ!」

「なんだよ急に?」

 突然AWBが大きな声を出したので慌てる。追っ手でも来たのか?

「ごめんごめん、そういえば兄ちゃんに伝えておくことがあったんだった」

「は? いや、まだ話の続き——」

「パパからの伝言。大事なことだから忘れるなよって」

「親父から!?」

 心臓が飛び跳ねる。

「それ、誰にも言ってないのか?」

「うん。他の誰にも言うなってパパが」

 落ち着け。このAWBが持っている記憶はあの事故の前までだ。

 今回の事件とは関係ない。

 しかしどうしてわざわざAWB経由で俺に?

「で、なんだよ伝言って」

「23.2935498B.024D5F」

「待て待て待て待て」

 覚えられるかそんなの。

 ニーサンピリオド……俺が終わるみたいじゃないか。

「なんの暗号だよ。どういう意味だ?」

「えっと、多分だけど、」

 その時だった。

「ああ、見つけたぁ!!」

 叫び声が遠くから聞こえた。満太の声だ。

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