015 探偵は誘う

「車は下の一般道の縁に衝突して、そのまま運河に落ちたらしい」

 らしい、というのは、落ちた瞬間の記憶がないからだ。衝撃で気を失っていたのか、あるいは脳がその瞬間の記憶を封印したのかもしれない。

「俺は両目を失うだけで済んだけど、妹は死んだ。事故の原因は、車の制御系システムの異常ってことで片づけられた」

 つばめちゃんはじっと黙って俺の話に耳を傾けていた。

「それが俺の覚えてる全部だよ。事故の瞬間からまる一週間くらい記憶がないんだ。人工視覚の手術も俺が寝てる間に終わってた。親父が、知り合いのツテを頼って手配したらしい」

「ではあなたが目を覚ました時、すでに拓海さんは行方不明になっていたと……」

「ああ。その間に起こったことは、警察とか親戚から聞いたりニュースで見たりしたけど、直接は知らない。あの親父が世界中を敵に回すような真似をするなんて今でも信じられない。それで、息子の俺も狙われる危険があるってことで名前と身分を変えることになって、その日から一人で生きて来た。迷惑をかけるから親戚も頼れない。親父が今どこでどうしてるのかは知らないし、もしかしてもう死んでるかもしれないけど、知ろうとも思わない」

 親父が何を考えて姿を消したのか、思いを馳せてみたところで答えは永遠に得られないのだ。それにもう、あの事故のことを思い出したくなかった。

 車が壁にぶつかる瞬間、俺は確かに強く手を握っていたのに。

 俺だけが生き残ってしまった。

「ひとつ伺ってもいいですか」

 つばめちゃんが遠慮がちに尋ねてきた。

「AWBについて、あなたはどの程度知っているですか?」

「全然。結局セレモニーは無くなったし、あの事件の後すぐに廃棄されたって話だからね。とんでもない性能の人工知能だってことぐらいかな。あとは妹が設計に関わってたみたいだけど」

 実際、ほとんど何も知らない。

 知ろうとしなかったから。

「拓海さんは説明していなかったのですね。発表の場であなたを驚かせるつもりだったのか……」

「驚かせる?」

 どういう意味だろう。

 俺は人工知能なんて完全に門外漢だから、性能がどうとか、革新的なアーキテクチャが云々とかを聞いても理解できない。それこそ、トカゲの形でもしていたら驚くかもしれないが。

「廃棄されたというのは正しくありません。あの事件の後、AWBはその存在を秘匿され、密かに運用され続けているのです。あなたがそれを知っても、近づくことは許されなかったでしょうが」

 そうだったのか。

 しかし秘匿されてきたというなら、つばめちゃんはどうしてそのことを知っているのだろう。

「AWBとはArtificial Whole Brain、和訳すると“人工全脳”です。確かに人工知能ではあるですが、今までの人工知能とはまったく異なるアプローチで開発された別物の、いわゆる汎用人工知能というやつです。実現にはあと百年かかると言われていたのを拓海さんが覆した、まさに世紀の大発明です」

「へえ……」

 なんだかわからないが、とにかく凄いんだろう。彼女がべた褒めするほどに。

「補足するわ」

 それまで大人しかったパピコが話に加わってくる。

「それまでもずっと、汎用人工知能に関する研究はされていたわ。それまでの人工知能は特化型人工知能といって、特定の活動領域で、人間が想定した振る舞いしかできなかった。もしも人工知能が、あらゆる情報を元に、自ら問題提起して、人間のように発想し、あらゆる問題に対して総合的に価値判断ができたら、それって革命的なことなのよ。人間があらゆる知識とコンピュータの演算能力を手に入れるようなものね」

「それって、全知全能の神みたいに聞こえるけど」

「全脳は全能でなくとも全知たりうる。そういう風に考える人も多いわ。大抵は否定的な意見だけどね。シンギュラリティによってカタストロフィが起こる、つまり人間が人工知能の奴隷に成り下がるとか、あとは犯罪組織に悪用されたり、一国が独占した場合のリスクとかね。ま、“心配性”のひと言で済ませられないくらいに説得力のある話だと私は思うわね」

「思うのかよ、お前だって人工知能なのに」

 パピコのアルゴリズムだってよっぽど謎だ。

 しかし人間が人間より優れた存在を生み出すだなんて、論理的に矛盾していないか……? まあ、その“論理”だって人間が勝手に発明したルールに過ぎないのかもしれないが。

 すると、今度はつばめちゃんが俺の発言に応えた。

「神ではないですよ。むしろ、人間に限りなく近い存在です」

「人間? それこそ人間と人工知能は全然違う気がするけど」

「何故です?」

 何故と改めて訊かれると困る……でもやっぱり違う。

「人工知能には感情がないだろ。それらしく振舞えたとしても、それはそう動くように設計されたってだけの話で、」

「あるですよ」

 つばめちゃんが俺を遮って言った。

「AWBには感情があるですよ。人間の脳をリバースエンジニアリングしたものですから」

「リバース……?」

 言っている意味がわからない。

「これは一般に知られていない事実です。人工全脳の“全脳”とは、つまり人間の脳のことです。脳を各機能モジュールに分け、フレームワークにより統合し、専用言語により一千億以上ものニューロンの動きを再現した。その結果何が起こったか。人格が宿ったのです。モデルとなった人間の人格が」

 つばめちゃんはさっきから何を言っているんだろう。

 人工知能に感情とか人格とか、そんな馬鹿な話があるものか。

 悪い冗談だ。

 しかしつばめちゃんは真面目な顔で続ける。

「拓海さんが開発したAWBは、モデルとなったあなたの妹、刹那さんの脳そのものです。彼女は今も彼女のまま、密かに生き続けている。柊さん」

 炬燵の向こうから顔を近づけて、彼女は言った。

「会いに行きましょう。刹那さんに」

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